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舟木一夫さんをキイワードに無限大に広がるかも知れないブログです

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    ~「西條八十と舟木一夫」~の完結篇です。資料は、「西條八十」(中公文庫)筒井清忠著から引用、参考とさせていただいています。
    筒井氏の著作「西條八十」は全十三章で綴られていますが、その十二章「復興と高度成長の時代に」とテーマづけられた章に、舟木さん歌唱の『花咲く乙女たち』『絶唱』『夕笛』について記されています。
    この著作の中でさしてボリュームとしては多くはないものの、八十の原点、原風景ともいえる喪失感の悲哀美をうたった歌手としての舟木さんが八十の晩年を美しく彩ったことが明確にうかがえる文面であると感じました。
     
    筒井忠清著「西條八十」 十二章 復興から高度成長の時代に  (中公文庫より抜粋)
     
    ~今一つは、舟木一夫のヒット曲を書いたことである。この昭和30日年代から40年代半ばまでは『愛と死をみつめて』の大ヒットに象徴されるように日本の青年文化における純愛ものの最後の大高揚の時代であった。そうした時代の歌手の中でも八十の弟子丘灯至夫作詞の『高校三年生』でデビューした舟木一夫は抒情的・純愛ムードの濃い歌を歌って若い女性たちの間に高い人気を獲得していた。
     
    舟木は最後の純愛・抒情派青春歌謡歌手といえるかもしれない。その舟木の歌の作詞を八十は行い、三つのヒット曲を生んだのである。日本における抒情派歌謡曲の創始者の八十がその最期も看取ることとなるのである。まず第一が『花咲く乙女たち』である。
     
    金子修介は「明るい歌も暗かった舟木一夫」と規定し、この歌も「不特定多数の女性を賛美するというコンセプトだから明るいはず」なのに「よく聴いてみると」「根に暗いものを感じる」といっているが、鋭い指摘といわねばならない。
     
    八十が得意とした女性を花に例える発想で全体が書かれているが「みんなみんなどこへゆく」「みんなみんな今はない」「やがては嫁いでゆくひとかみんなみんな咲いて散る」と青年期以来の女性の若さの喪失感の悲哀美がうたわれているのである。八十は言う「花も乙女もいつまでもそのままでないから余計に美しいんだよ」ついに八十は生涯にこの喪失感の悲哀美をうたい続けた詩人だったといえよう。
     
     
    イメージ 3四十一年(昭和)には『絶唱』がヒットした。
    大江賢次の著名な原作の映画主題歌だった。大地主の息子と山番の娘の身分違いの悲恋をうたいあげたものである。この主題からしても舟木が純愛ものの最後の後継者であったことがうかがえよう。八十はこうして舟木を通してついには「純愛」の「死に水」をとりつつあった。
    写真は左から西河克己、大江賢次、西條八十、各氏。
    (京都大学時計台前にて)
     
     
     
     
    イメージ 1
     
     
     
    絶唱 作曲:市川昭介
     
    愛おしい 山鳩は  山こえて どこの空
    名さえはかない 淡雪の娘よ 
    なぜ死んだ ああ 小雪
     
    結ばれて 引き裂かれ 七年を 西東
    いのち短く 待つ日は永く
    泣きぬれた ああ 小雪
     
    山番の 山小舎に 春が来る 花が咲く
    着せて空しい 花嫁衣装
    とこしえの ああ 小雪
     
     
    イメージ 5
    イメージ 6
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    イメージ 4四十二年の『夕笛』は八十の書いた最後のヒット曲であった。こうして、初恋の傷心をうたう地点にもどったところが八十の最後のヒット曲となった地点であった。それを最後の抒情派歌手舟木一夫が歌ったわけである。~
     
     
    夕笛  作曲:船村徹
     
    ふるさとの 蒼い月夜に
    ながれくる 笛の音きいて
    きみ泣けば わたしも泣いた
    初恋の ゆめのふるさと
     
     
     
     
     
    イメージ 8おさげ髪 きみは十三
    春くれば 乙女椿を
    きみ摘んで うかべた小川
    おもいでは 花のよこがお
     
    ふるさとへ いつの日かえる
    屋敷町 ふるいあの町
    月の夜を ながれる笛に
    きみ泣くや 妻となりても
    あゝ花も恋も かえらず
    ながれゆく きみの夕笛
     
     
     
     
     
    以下は、このテーマで掲載し始めた時には全く思いもしていなかったことが起こってしまいましたので、補足なのですが、これって単なる補足ということではすまされない気がしていますので、掲載しておきます。
     
    舟木さんを探すさんぽ径~奈良篇↓ 萩原中学校校歌 作曲者が森一也氏です。
    でも、まだこの時には「森一也」というお名前を見てもカンペキにスルーしてました。

    ところが、筒井清忠著「西條八十」の文中にしばしば、登場する人物がいますが、それがその森一也氏だったのです。一度目に読んだときには、気づかなかったのですが、今回再読していて「森一也」???あれれ、どこかで聞いたような・・・思い出しました。よかったぁ~ッ!
    舟木さんの母校である萩原中学校の校歌を先のブログで御紹介していますが(上記参照)、これまた不思議なことにその作曲者がその森一也氏だったのです。
    森氏を間にして、舟木さんと西條八十とが見事に繋がりました。舟木さんと八十の深い縁(えにし)を感ぜずにはいられません。

    そして、この森一也氏は、コロムビアで仕事をされていたのですから勿論舟木さんはよくそのことを御存じだとは思いますが、私にとっては大発見!でした。下の写真右が森氏、左が八十、中央が島倉千代子さん。

    イメージ 2
     
    森一也(ウイキペディアより抜粋)
    1915年(大正4)4月8日 - 1998年(平成10)2月1日)は、コロムビア専属の作曲家・音楽評論家。一般には懐メロ解説の第一人者として知られる。愛知県出身。
    幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。戦後、雑誌社などを経て、コロムビア専属の作曲家となる。仕事を通じて西條八十と知り合い厚誼を賜り、その良い関係は八十が亡くなるまで続いたという。
    西條八十は小説風な回想記「女妖記」の中で、森のことを「名古屋に森一也君という、作曲をやったり、NHKの音楽解説をやったりする才人がいる。おまけにこの人はぼくの書いた物なら、詩であれ、歌であれ、 散文であれ、なんでも辞引のように知っている」と紹介している。
     

    そして、こんなものも見つけました。一宮市立萩原小学校サイト(【1月】 2009-01-20 09:40 up!)
     
    ~今年は萩原小学校の校歌が制定されて50周年にあたります。「豊旗雲をあおぎつつ・・・」で始まる校歌は、作詞は佐藤一英氏、作曲は森一也氏でともに萩原出身です。このお二人は周辺の学校の校歌も作られています。特に佐藤一英氏は、数々の詩や童謡などを残され、「大和し美し」はご存知の方も多いと思います。
    校歌の2番の最後は「かしこさよ」で終わります。「かしこい」は「かしの森」をたたえた言葉で「かしの木のような人間になってほしい」という願いが込められている言葉です。かしの木はドングリがなる木で食料にもなり、くわ、うす、荷車など私たちの暮らしを支えた大切な道具になった木です。かしの木は日本の文化の原点の大もとになった木です。~

    一宮市立萩原小学校校歌   佐藤一英 作詞  森一也 作曲
     
    イメージ 7豊旗雲をあおぎつつ
    萩原をゆくたのしさよ
    この空と地を父母も
    むかしの人もしていた
    ああ咲く花の美しさ
    たなびく雲のかんばしさ

    尾張平野のまんなかの
    萩原の子のしあわせよ
    子のしあわせを父母も
    昔の人も知っていた
    ああ学ぶ子のすこやかさ
    伸びゆく子らのかしこさよ
     
    風光水ことごとく
    萩原の子にめぐみあり
    陽のもとの子のよろこびを
    ふるさとびとは知っている
    ああ変わらない安らかさ
    清さすがしさかがやかさ

    なんと、萩原中学校のみではなく萩原小学校の校歌も、萩原中学の校歌と同じく佐藤一英氏と森一也氏のコンビで作られているのです。そして、これまた何のご縁か、「佐藤一英、森一也、舟木一夫・・・」と皆さんお名前に「一」がついてるのに気づいてさらに、ビックリしました(笑)

    しかも、萩原小学校の校歌から佐藤一英氏関連のサイトに飛んだら、観音寺に舟木一夫さんが寄贈した仏像の画像が・・・・これって仏さまのお導きだったのでしょうか。本当に舟木さんの周囲には「縁(えにし)」をかんぜずにはいられない「不思議現象」がいっぱいです(笑)
     
    西條八十と舟木さんの深いご縁は、ただの巡り合わせだたのでしょうか?なにか、人の力の及ばない大きな力を感じる私です。さらに八十は野口雨情とも深く関わり、詩壇に登場した頃には、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで名を上げていた北原白秋がその才能に脅威を感じていたということも思い合わせれば、西條八十の詩人としての評価は、まだまだ十分になされれているとは思えません。「西條八十」の著者である筒井清忠氏も、八十の業績の再考と新たな評価を世に問うてこの著作を上梓されたものと思われます。
    今、舟木さんがコンサートのステージで、おっしゃっている「日本の名曲」を歌い継いでいくことの大切さを、この「西條八十」を読むことに依って、身を持って痛感させられた想いがしています。
     
    「西條八十と舟木一夫」という生意気なテーマで、掲載を始めたのですが、実に思いがけないところにたどりついてしまったような気がしています。舟木さんは、やはりテレパシーが並外れていらっしゃるという私の妄想は、さらに大きくなるばかりです(笑)
     
    (「西條八十と舟木一夫」完結)

     
     

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    八月二十二日は藤村忌 ~島崎藤村 1943年(昭和18年)8月22日死去~
    今年は藤村が亡くなってちょうど70年にあたります。
     
    1994年4月17日 放映 「知ってるつもり?!」 島崎藤村   ナレーション舟木一夫
     
    1989年10月8日から2002年3月24日まで日本テレビ系列局で毎週日曜日 21:00 - 21:54 (JST) に放送されていた人物系教養番組「知ってるつもり?!」の「島崎藤村」を取り上げた回で舟木さんがナレーションを担当なさいました。その時の内容をもとに、私なりにまとめてみました。この時期はデビュー30周年を機に、舟木さんが「復活」への快進撃をスタートなさった頃と言えます。私は、この頃もほとんどテレビを見ていなかったので番組名は憶えていますが、あまり観たことはなくてこの「島崎藤村」の回も観ていません。舟友さんから、私が「初恋」を大好きであることから、音源のみですが聴く機会を得る幸運に恵まれました。舟木さんの素敵なお声でのナレーションをもとにして、島崎藤村の生涯と「初恋」の周辺についての記事をまとめてみました。
     
    ~以下はウィキペディアより抜粋~
    イメージ 1島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年)8月22日)
    本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。
    父は正樹、母は縫。四男だった。生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる地方名家で、祖は三浦半島の津久井の出。父の正樹は十七代当主で国学者だった。
    1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通った。さらに三田英学校、共立学校など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)入学。キリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁った。明治学院普通部本科の第一期卒業生で、校歌も作詞してい
    る。この間、1886年(明治19年)に父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵の
    モデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。
    卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子(さとうすけこ)を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺。翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職。この頃のことは後に『春』で描かれる。
    1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場した。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
    1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。
    1908年(明治41年)『春』を発表、1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。翌年から留学という名目で3年間パリで過ごしたのち、帰国するもこま子との関係が再燃してしまう。1917年(大正6年)に慶應義塾大学文学科講師となる。1918年(大正7年)、『新生』を発表し、この関係を清算しようとした。このためこま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。
    なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。1927年(昭和2年)、「嵐」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで『中央公論』にて連載された。
    1943年(昭和18年)、「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。
     
    イメージ 7第二詩集となる「一葉舟」は舟木さんの歌唱曲のタイトルにもなっていますね。
    詩集                        
    若菜集(1897年8月、春陽堂)
    一葉舟(1898年6月、春陽堂)
    夏草(1898年12月、春陽堂)
    落梅集(1901年8月、春陽堂)
    藤村詩集(1904年9月、春陽堂)
     
    小説
    旧主人(1902年11月、『明星』)
    破戒(1906年3月、自費出版)
    春(1908年10月、自費出版)
    家(1911年11月、自費出版)
    桜の実の熟する時(1919年1月、春陽堂)
    新生(1919年1、12月、春陽堂)
    ある女の生涯(1921年7月、『新潮』)イメージ 8
    嵐(1926年9月、『改造』)
    夜明け前(1929年1月、1935年11月、新潮社)
     
    童話
    眼鏡(1913年2月、実業之日本社)
    ふるさと(1920年12月、実業之日本社)
    おさなものがたり(1924年1月、研究社)
    幸福(1924年5月、弘文館)
     


    舟木さんのナレーションでたどる藤村の生涯   その1
     
    冒頭、舟木さんによる椰子の実の一節から始まりました。 以下舟木さんのナレーションを元にした部分はピンク

    イメージ 2椰子の實     作曲:大中寅二
     
    名も知らぬ遠き島より
    流れ寄る椰子の實一つ
    故郷(ふるさと)の岸を離れて
    汝(なれ)はそも波に幾月
     
    舊(もと)の樹は生ひや茂れる
    枝はなほ影をやなせる
    われもまた渚を枕
    孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ
     
    イメージ 3
    實をとりて胸にあつれば
    新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
    海の日の沈むを見れば
    激(たぎ)り落つ異郷の涙
    思ひやる八重の汐々(しほじほ)
    いづれの日にか國に歸らむ
     
    この「椰子の實」の詩は、明治33年6月号の「新小説」に発表され、明治34年8刊行の『落梅集』に収められました。

     
    島崎藤村は日本語の美しい響きでロマン溢れる詩情を詠った詩人であり、『夜明け前』の作家としても広く知られています。明治、大正、昭和の三つの時代を詩人として小説家としてまた歴史小説家として生きた文豪です。
    本名の春樹という名前は生家の庭にあった椿の花から父の正樹が名づけたものです。幕府公認の宿屋を営む旧家 父は学問好きでした。国の将来を憂うあまり、明治7年10月17日 天皇の行列に扇を投げ込むなど政府の批判をした情熱の持ち主でした。
    明治14年9才で上京し泰明小学校に入学。飛び級で一年落第していた兄と同じクラスに。明治19年 父の病状が進み、村の寺に放火。幽閉状態となる。その後、父は55才で死去。
    昭和41年に島崎藤村の姪の長男、日本における精神病理学の草分け的存在である西丸四方が「島崎藤村の秘密」を発表しています。藤村は父の姿と自分を重ね合わせ発病の恐怖に苛まれていました。このことは藤村に「孤独感」と「非社交的」な性癖となって影響を及ぼしたようです。
    明治学院入学後、藤村は、その自由な校風により、積極的に行動するようになります。この頃、北村透谷との出会いがあり、文学の道へと目覚めていきます。
    明治24年9月に卒業。二十歳で同校の教師となりますが、受け持ったのは一歳年上のクラスでした。そして、教え子で既に当時いいなずけのあった身の佐藤輔子(一歳年長)に恋をするのです。
    イメージ 5藤村は、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職して関西へ向かいます。この時のことを 「文学界」創刊号で「恋に浮かれて嘲笑い」と書いています。東京に戻った藤村を待っていたのは透谷の死の知らせでした。藤村の衝撃は大きく「孤独の影」は再び深まっていくのです。
    さらに追い討ちをかけるかのように初恋の人・佐藤輔子が嫁いだ後に病死したという悲報が藤村に届きます。
    東北に向かい、東北学院教師となった藤村。この職は1年で辞したのですが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場したのです。
     
    この『若菜集』 の中の「初恋の人を偲ぶ」詩歌 『初恋』は後にメロディーがつけられ、舟木さんが歌唱。
    舟木さんの曲の中で、『絶唱』と並ぶ私の大好きな曲でもあります。(四番は音源では歌唱されていません)
     
    イメージ 4
     
     
    初恋  作曲:若松甲
     
    まだあげ初めし前髪の
    林檎のもとに見えしとき
    前にさしたる花櫛の
    花ある君と思ひけり

    やさしく白き手をのべて
    林檎をわれにあたへしは
    薄紅の秋の実に
    人こひ初めしはじめなり

    わがこゝろなきためいきの
    その髪の毛にかゝるとき
    たのしき恋の盃を
    君が情に酌みしかな
     
    林檎畑の樹の下に
    おのづからなる細道は
    誰が踏みそめしかたみぞと
    問ひたまふこそこひしけれ
     
    一般的には、「まだあげそめし前髪の・・」という詩から、そのモデルは「幼なじみ」である「おゆふ(う)さん」という馬籠宿・大黒屋の娘だった。という説があるようです。彼女は14歳で妻籠宿(つまごじゅく)の脇本陣奥谷(わきほんじんおくや)の[屋号]林家に嫁いだとあります。
    「初恋」を収めた『若菜集』は藤村の処女詩集として明治30年(1897)8月に刊行されました。
    私は、藤村の「初恋」の詩を、味わえば味わうほど、14歳で嫁いでしまった「おゆふさん」であるのはちょっと若すぎてムリがあるのでは?と思っていました。それは、あまりにも、この少女がなまめかしすぎると感じていたからです。そして、この舟木さんのナレーションを聴いてから、私は、このひっかかりの糸口が見えてきたように感じたのです。それは、藤村が明治女学校の教師時代に「愛するようになってしまった」という佐藤輔子の存在でした。
    この『初恋』という詩と、モデルになった女性は?ということについては、その2で、もう少し述べてみようと思っています。
     
     
    以前のブログでも掲載していますが『若菜集』の中にある「君が心は」という詩歌も、舟木さん歌唱の音源となっています。↓ 舟友さんがアップして下さっています。
     

    イメージ 6君が心は  作曲:竹岡信幸
     
    君がこゝろは蟋蟀(こおろぎ)の 
    風にさそはれ鳴くごとく
    朝影清き花草に
    惜しき涙をそゝぐらむ
     
    それかきならす玉琴の
    一つの糸のさはりさへ
    君がこゝろにかぎりなき
    しらべとこそは
    きこゆめれ
     
    あゝなどかくは触れやすき
    君が優しき心もて
    かくばかりなる吾こひに
    触れたまはぬぞ
    恨みなる
     
     
     
    三連目の詩「あゝなどかくは触れやすき 君が優しき心もて かくばかりなる吾こひに 触れたまはぬぞ恨みなる」 ・・・これは片想いの切なさを詠ったものだと思われます。この「君」は『初恋』で詠われている同じ女性をイメージしているのでしょうか?舟木さんが歌っていらっしゃるからこそ余計に気になってしまいます(笑)
     
    (その2につづきます)

    0 0

    舟木さんのナレーションでたどる藤村の生涯 その2 
    ~舟木さんのナレーション部分ともとにしている部分はピンクの文字です。~
     
    イメージ 1明治32年(1899)、藤村は、仙台を離れ、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任しました、(以後6年が小諸時代)。小諸時代には『落梅集』で「椰子の實」を発表、また写生文「千曲川のスケッチ」などを書きました。秦冬子と結婚し、翌年には長女が生れ、次々に恵まれた三人の娘との静かな暮らしが送っていましたが、ある事件をきっかけにその生活は一変します。それは妻の冬子が昔好きだった男にあてた恋文を見てしまったからです。藤村は妻に昔好きな男がいたことが許せなかったのです。なぜ藤村がそこまでこだわったのか・・その理由は「父母の問題」が影を落としていました。父の正樹は旧家の弊で、イメージ 2異母妹と近親相姦を犯し、そのことに衝撃を受けた母もまた不倫をして父の子ではない、藤村のすぐ上の兄である友弥を産んでいたのです。そのことが、藤村の女性恐怖に繋がり、女性コンプレックスとなっていました。また女性への復讐という感情を生んだのです。 そして母の過ちで生まれた兄の友弥は放蕩の限りを尽くし、後に藤村を苦しめることになります。藤村にとっては母の不貞と先に掲げた父の精神の病などがその作品にも大きな影響を与えました。
    左の画像は小諸市の「懐古園」
     
     
    イメージ 3藤村一家は、明治38年(1905)に小諸を離れ、上京しますが暮らしは貧しく三人の娘を次々に栄養失調で失くします。「人生へのわだかまり」が藤村を衝き動かして小説家への道を歩み出しました。『破戒』の主人公である青年教師丑松を自分自身とダブらせたその小説は夏目漱石はじめ当時の文壇から賞賛されます。
    明治39年、三人の娘を亡くした藤村は浅草へ転居し、ここで二人の男の子を得ます。そして、明治41年、藤村は夏目漱石、二葉亭四迷に続き、朝日新聞の新聞小説として北村透谷、佐藤輔子を主人公とした『春』を執筆。その後、三男も生まれますが、妻の冬子は四女を出産後に亡くなります。
     
    明治44年 子ども四人(長男、次男、三男 四女)を抱えた藤村。再婚を拒む藤村の元へ兄が自分の娘ふたりをよこしました。藤村と姪ふたりと四人の子どもたちと暮らす藤村。しばらく後に、年上の姪は嫁いでいき、下の姪こま子が残りました。そして、しばらくたったある日、突然藤村はひとりでフランスへ旅立ちました。
    その後、姪のこま子は藤村の兄の家でひっそりと藤村の子である男の子を産みます。
    藤村は自分と父の正樹をダブらせ、二度と日本には帰らぬ決意でパリで暮らし始めるのですが、第一次世界大戦勃発により大正5年帰国。東京では姪のこま子が待っていました。帰国した藤村はこま子との関係を復活させてしまうのです。そして、醜い自分に父の狂気を感じるのでした。
    藤村は、この時、初めて自分の中の地獄を正面から見つめ、こま子の承諾を得て、新聞小説に「新生」というタイトルで小説を連載。文壇は騒然となりました。大正8年、藤村は飯倉片町に居を移し、里子に出していた二人の子どもたちも呼び寄せ、家族5人(藤村と4人の子ども)とでひっそりと暮らし始め、自分の魂の救いを求めたのです。
     
    下の画像は写真は藤村の童話集です。「幼きものに」「ふるさと」「おさなものがたり」「力餅」の全4巻
    そして、なんと、挿絵は竹久夢二です。ここでも夢二と繋がりました。舟木さん繋がりでとっても嬉しい! 
     
    イメージ 4
     
     
    妻の死、姪との秘め事、フランス滞在という出来事は、藤村の子どたちに大きな犠牲を強いることのになりました。フランスから帰国した藤村は、自分自身のためにも安らげる家庭をとり戻そうとしたようです。そして、その「家庭再建」の過程で書いた童話集が藤村の作品群の中に遺されました。この中の『ふるさと』 の序文には、以下のように書かれています。
    *太郎、次郎・・というのは実名ではなく童話の中の仮名ですが、実の子どもたちに向けて書かれた言葉です。
     
    ~早いものですね。あの本を作った時から、三年の月日がたちます。太郎は十六歳、次郎は十四歳にもなります。父さんの家には、今、太郎に、次郎に、末子の三人がいます。末子は母さんが亡くなると間もなく常陸(ひたち)のほうの乳母(うば)の家に預けられて、七年もその乳母のところにいましたが、今では父さんの家のほうに帰ってきています。三郎はもう長いこと信州木曾(きそ)のおじさんの家に養われていまして、兄の太郎や次郎のところへ時々お手紙なぞをよこすようになりました。三郎はことし十三歳、末子がもう十一歳にもなりますよ。(中略)人はいくつになっても子供の時分に食べた物の味を忘れないように、自分の生まれた土地のことを忘れないものです。たとえその土地が、どんな山の中でありましても。そこでこんど、父さんは自分のちいさい時分のことや、その子供の時分に遊び回った山や林のお話を一冊の小さな本に作ろうと思いたちました。・・・・~

    藤村の父親としての想いが、晩年にこうして文学に生涯を捧げた藤村らしい形で、遺されていることに安堵の想いがします。子どもたちへの情愛の証としてもさることながら、誰より藤村自身が、苦しみ続けた両親への複雑な相克から解放されて、自身の血脈を肯定し、子どもたちへの深い想いを書き遺すことができたのですね。このことは藤村が文学とは離れてひとりの人間として幸せを得たことを示しているのだと感じます。そして、その解放感によってこそ藤村は真の意味で生涯を全うできたのだと思います。
     
    イメージ 9しかし、この頃、藤村は脳溢血欠で倒れ。これを機に藤村は父のことを書こうと決意する。自分の心の中の闇への挑戦であった。「木曽路はすべて、山の中である・・」という、名作『夜明け前』を書き始めたのである。
    それは人間として生きた父を肯定しようとする作業であった。この『夜明け前』の中で藤村は「一切は、神の心であろうでござる」と書いた。書きあげた時は、藤村は初めて声高らかに笑ったという。
    昭和12年 その頃、終の棲家となる大磯に住まいをしていた藤村は『東方の門』を書き始めたが、これは49枚目で終わった。昭和18年8月22日 藤村は71歳の生涯を閉じた。藤村は生涯、ひとりの作家として心の中の自分を見つめ、いのち果てるまで書き続けた。藤村は晩年に書いた童話の中で、自分のことをこのように書いている

    「私としたところで、最初からこんなにひとすじにつながるものではなかった。ずいぶん手放しで彷徨ったものだ。しかし、私はまだ ゆけるところまでゆこうとしている。毎日のように歩いている。毎日のように進んでいる」
      ~舟木さんの歌声で『初恋』が流れ、エンディングとなります~
     
    この最後の結びの言葉を聴いて、私はまるで舟木さんが御自身のことをおっしゃっているかのような錯覚を覚えました。この放映は今から20年近く前なのですが、今も舟木さんはステージでこのような言葉をおっしゃっていますから・・・
     
    藤村の『初恋』のモデルになった女性について・・・
     
    「島崎藤村は佐藤輔子の名字の佐藤から「藤」という字をとったといわれています。」
    ナレーションの中で舟木さんは明確にこう云われていました。

    イメージ 6イメージ 5藤村は、輔子への秘めた愛も打ち明けることがなく成就しなかった恋であることを思えば、『初恋』のモデルはこの佐藤輔子であったことも十分に考えられると私は思いました。藤村は、女学校を退職し、洗礼を受けた教会からも退籍しています。そして、このあと2年間、北村透谷が自殺、また同じ年兄が事業の失敗から屋敷を売却、藤村は島崎家の負担を一身にひきうけることになった藤村。さらに、翌28年8月、初恋の人輔子が札幌で病死。郷里の大火で、藤村の屋敷は焼失という凶事が続きます。
    翌29年仙台の東北学院へ赴任したちょうどこの時期に編まれた『若菜集』。ここで発表された『初恋』です。
    以下、このような研究があるとのことを知って、私としては「初恋」のモデルがいよいよ佐藤輔子ではないだろうか・・という印象が深まりました。その研究の内容を下記に引用させていただきます。
     
    イメージ 7~これまで研究者は、この詩の背後には旧約聖書のアダムとイヴの物語があると見てきた。その理由は、藤村がクリスチャンだった時期を持っていたからである。当時の日本では、若い男女が恋に陥ることはまだタブー視されていました。そういう時代、恋は人目を忍ぶ、秘密めかした行為であって、おのずから罪の意識が伴ってしまう。「やさしく白き手をのべて/林檎をわれにあたへ」るという表現は、「禁断の恋の象徴」と言える。それは藤村たち『文学界』のロマンティシズムに通じる見方であり、藤村がクリイメージ 8スチャンだった事実と結びつき、先のような解釈が生まれた。~
     
     
     
     
     
    考えてみれば「林檎を手渡す」行為に象徴的な意味を見出したとういうことは、藤村が「やさしく白き手をのべて 林檎をわれに与へしは」と詠ったのは、単に即物的な行為を詠ったものではないと、想像されます。「逢瀬を重ねて、おのずから恋の通い路が出来てしまった」という発想も、また、実際にそのような「人目をはばかる逢瀬」を重ねていたという思い出を詠ったものというより、藤村の叶わぬ恋を詩歌の世界で夢想として実現させたものであったとも考えられます。現実では、打ち破れなかったキリスト教的な禁欲からの解放を、憧れと若き日の成就し得なかった恋への悔恨の想いで藤村が切なく詠ったものであるように私には思えてきます。そうなると、「初恋」のモデルは、佐藤輔子なのではないかという想いが、さらに強くなってくるのです。
     
    (舟木さんのナレーションでたどる藤村の生涯 完結)
    【藤村忌】~大磯町ホームページより~
    毎年藤村の命日である8月22日、墓参・献花を行います。 藤村が眠るのは大磯駅より徒歩5分のところ
    にある地福寺。藤村は生前、静寂で趣があり海も街道の彼方にちらりと見えて、潮風も吹き通ってくるような地福寺の境内を好みよく散歩の時に立ち寄られて、自身の墓地も此処に選びたいと言われていたらしいです。
    日  時: 平成25年8月22日(木曜日) 10時00分 ~ 11時00分
    場  所: 地福寺
    内  容: 地福寺住職による回向後、参列者による献花・献香
    参加方法: 当日地福寺に直接お越しください。

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    取り急ぎ
    セットリストです

    今回はポップスばかりで一部構成です

    14時半開演
    18時開演


    オープニング
    ~季節かさねて

    青空ひとりきり
    リバーサイドホテル
    ひとり寝の子守唄
    酒と泪と男と女

    サボテンの花

    五番街のマリーへ

    また逢う日まで
    わかって下さい

    夢一夜
    桃色吐息

    夢の途中
    涙をふいて

    心もよう
    シクラメンのかほり
    秋止符

    アンコール
    ~青春時代

    チャコールグレーのスリーピース
    ホワイトに黒のストライプのシャツ
    黄色のバラ
    ペンダントは白く光る丸いストーンのように見えました

    ますます若々しくて声の張りと伸びやかさに今回も嬉しい驚きでした。

    詳細れぽはのちほど

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    私は、後援会主催のコンサートには今回が初参加でした。6月の演舞場でのサンクスコンサートと同様に、開幕前にステージ衣装ではないラフなスタイルで舟木さんが舞台上に登場なさってプレゼントを受け取るプレゼントタイムから拝見しました。舟木さんはゆったりした真っ白な半そでシャツにジーンズです。『高校三年生』の頃の爽やかで清々しいイメージがそのまんまの白いシャツがまぶしい最近ちょっとスリムになられたので、さらに若々しくてカッコイイんですよね。本当に50年前と少しも変わらない清潔感には目を見張るばかりです。
    そういえば私の高校時代の初恋の人も二年前の同窓会で真っ白なシャツで若々しくステキだったなぁ、テヘッ
     
    舟木さんご自身もおっしゃってましたが「歌い手が開幕前に私服で出てきてひたすらプレゼントを受け取るという光景」は、ちょっと他では見られない珍しい眺めです。プレゼントについては受け取る側の舟木さんの肉体的な負担を心配されるファンの方もいらっしゃるそうですがこれも舟木さんが「no thank you 」の意志表示をなさるまでは、コミュニケーションの場として大切なのかもしれないなぁと個人的には思いました。
    舟木さんはアメ玉を口の中で転がしながらずっとお喋りされてました。連日の猛暑で舟木さんのご健康を心配していましたが、今回に関しては全くの老婆心((笑))に終わって何よりと思うほど開幕前からお元気で終始笑いをとっていらっしゃいました。舟木さんの会場の雰囲気をなごやかになさるお気遣いにもマイッちゃいました。
     
    イメージ 4
     
    以下舟木さんのひとりごとのようなお喋りです・・・ピンク文字部分は舟木さんの言葉
    「今日はこのシャツでやりたいなぁ・・」~暑いことだし、ステキなシャツ姿だし私としては大歓迎なんですが(笑))
    「小さいけど重い!中に砂がいっぱい入ってるかも知れないけど・・」
    「暑くないですか、マフラーして・・・」~首にショールを巻いたファンの方に・・・
    「ズルイよ、自分だけ、うちわ持って・・」~手にうちわを持ってプレゼントを渡したファンの方に・・
    その後、ポツリと、「大変個人的な会話を、今・・・・」笑)
    この日は舟木さん、ファンの方にとってもお気遣いされていらしたように感じました。コンサートのトークでも、「舟木さんは冷たい」と言われますが、そうじゃない。テレてるだけなんです。とかお客様との距離感とかについて、またトークの内容に制約をするのは苦手などおっしゃっていました。色んな声が聞こえていくのでしょうから、舟木さんも色々とタイヘンなんでしょうね。人気者はツライ・・・でも私はあるがままの自然体の舟木さんが好きです。
     
    プレゼントの順番待ちの若い男性スタッフが、たくさんの女性にたじたじしてる感じなのをチラッと御覧になっておそらくそれとなく助け舟を出すつもりなのか「親父さんいくつ?」・・・余裕のない彼は「二十・・・」と自分の年を言ってしまって「君の年訊いてるんじゃないよ、親父さんの年」その答えが「五十・・才」と聞いて舟木さん「もうイイよ!」と・・・大爆笑でした。スタッフのお父様が舟木さんより20才近く若いんですもんね。プレゼントを受け取り続けて、さらにその若いスタッフのことを話題に・・「そこで見てると不思議なんだろうなぁ・・こんなジイさんが・・(たくさんプレゼントをもらってる光景)」とってもリラックスしてファンとの時間を楽しんでいらっしゃる舟木さんでした。
     
     
              ラブリーコンサートNo.25 後援会発足50周年
             ~KAZUOのわがまま選曲~POPS WORLD
     
    2013年8月23日イメージ 1
    大阪メルパルクホール
     
    14時半開演
    18時開演
     
    私は昼夜とも拝見させていただきました。昼の部をメインに御報告します。ピンク文字が舟木さんのトーク
     
    チャコールグレーのスリーピース
    ホワイトに黒のストライプのシャツ
    胸に黄色のバラ
    ペンダントは白く光る丸いストーンのように見えました
    右上の写真は舟友さんが作成されたものをプレゼントしていただきました。良い記念になります。
    ありがとうございま~す

    オープニング
    ~季節かさねて
    先ずは後援会のファンの方のために作られた曲からでした。
    舟木さんによれば、4月に同じ会場で「コロムビア歌の大行進」が開催された時には、あまり集客が芳しくなく6割くらいしか席が埋まっていなかったとのこと、この日の舟木さんのコンサートにはたくさんのお客さんが来て下さっていることを「ぼくは幸せな歌い手ですよ!としみじみおっしゃる舟木さんに大きな拍手が起こりました。
     
    最近は僕のトークが壊れてきているというウワサがロビーのあちこちでささやかれているそうですが・・
    舟木さんが、曲の合間のトークのちょっとした言葉や話題について、人は様々ですから聞いたお客様から色んな声があるのでしょうね。ちょっとそんなことを頭に置いていらっしゃる感じのする導入でした(笑)舟木さんもタイヘンだ!
    今日は「ポップスパターン」ということでよいのですね!?・・とバンドを振り返って舟木さん。
    青空ひとりきり
     
    「青空ひとりきり」は右手で腰を叩いてリズムをとる舟木さん。これがとってもキュート
     
    リバーサイドホテル
     
    歌詞が悲しくてもリズムが明るい歌をどう歌ったらいいか若い頃は考え込んでいた・・・今は・・(そうでもなく自然に歌ってる?)
     
    ひとり寝の子守唄
    酒と泪と男と女
     
    歌い終わって、バンドの方を振り向いて、みんな半そでだ!(バンドの皆さんはお揃いの黒のTシャツ)御自分の衣装を見て、これちょっと暑かったかな?薄いんですけどね。東京の時はもっとラフっぽい色にしてみようかな。ま、どっちでもいいや・・
    厳密には「芸人」という云い方は寄席関係の方に限るのかも知れませんが・・・と立川談志さんの言葉を引用して・・私とおんなじことを考えてたんだな・・「所詮、人生は生まれて死ぬまでのヒマつぶしじゃないの」と・・僕はそれが歌の道だった。自分の好む道がうまい具合に手に入ったので、「皆さんから見てる舟木一夫」を観に来てもらってとりあえずお客さんにヒマつぶししてもらう、そして私もヒマつぶししている・・
    なんだか含蓄のある言葉・・私も同感!どうせなら思いっきり楽しいヒマつぶしができれば幸せ!


    サボテンの花
     
    のタイプによらず景色が出てくる歌は広がりがあっていいですね。「シャボンの泡 洗いたての洗濯物」・・この部屋は二階建てになってる気がするんですね。二階の一番隅の部屋で、秋になるとイチョウの並木が見えて・・『夕笛』や『たそがれの人』もどんどん広がりをつくっていく、今僕がステージで育ててる歌は『哀愁の夜』・・なかなか簡単にはいかないです。二年ぐらいはかかるんでしょうね。
    舟木さんのおっしゃるこの感覚は落語の噺家さんにも通じるもので、ひとつの噺を何十回、何百回と高座にかけて育てていく。歌も噺もその演者にとっては我が子のようなものなんですね。
    声が続く限り歌っていきます。どこまで続くんですかね。最近ものにつまづきやすい。パチンコの帰りなんか・・とつまづくジャスチャー(笑)夜中に起きた時におでこをぶつける。「押す」ドアを「引いて」た(笑)
     
    男の子にしたら全員が持ってる想い・・・と右手をポケットに入れて『五番街のマリーへ』

    五番街のマリーへ
     

    イメージ 2これも青春ソングに間違いないという気がします。

    また逢う日まで
    わかって下さい


    例によって女唄というか繊細な歌を・・
     
    夢一夜
    桃色吐息
     
    『桃色吐息』を歌い終わって「きれいと言われる時は短すぎて・・花の命は短くて・・」と林芙美子の短詩を続けてフフフといたずらっぽく笑う舟木さん。何が言いたいの(笑)
     
     
    こういう歌い手のお喋り・・どこからどう出てきたのかわからない制約が気持ちワルイ・・僕は丁寧なあらまった言葉で喋れない。やろうとしてみたけど、自分がウソつきに思えてくるんです。私の場合はお客様が良かったんでしょう。この先、僕はどんどん乱暴になるような気がする・・思い切り云いたいことを・・(笑)
    あっ云い忘れてました。今日はようこそおいで下さいました。後援会50周年おめでとうございます。
    ふたついきましょう!と『夢の途中』『涙をふいて』
     
    「後援会」は「後援会員」のものなので、御自分の後援会の結成記念でも「おめでとうございます」なのか・・なるほどフムフム。なんでも感じたことを感じたままにおっしゃるのが舟木さんの魅力であり、信頼感に繋がっていると私は思っています。コンサートの最初にちょっとふれていらした「お喋り」のことを再度おっしゃったということは舟木さんのある種の宣言かな?
     
     

    夢の途中
    涙をふいて 
     
    さっき12月のはなしをしましたが、お邪魔している最中に「九」(69歳)となります。一歩一歩70(歳)に近くなっていく。んーン最近はね思うこともあるんですよ。次(のステージ)まで一週間あるとして、疲れが抜けるのに3、4日かかる。残った二日間で多少整えていく。二日後にちゃんと声が出るのかな・・という不安がある。いや、本人、そんなうなだれて話しているワケではない・・・最後は舟木さんらしいフォローでしたが、誰だって60代半ばから古希間近くなれば肉体的な不安だらけ、まして声が命の歌い手であり、さらに歌がすべての舟木さんですから当然その不安は私たちには計り知れないものがあると思うのです。そういう不安もひっくるめて私たちの前で歌い続けて下さっている舟木さんを丸ごと受け止めるのが聴く側の姿勢なんじゃないかな?という想いが今回のコンサートの舟木さんのトークをお聞きしてより強く深くなりました。舟木さんが無用な気遣いをなさらずひたすら心身ともに最高のコンディションで舟木さんらしくステージに立っていただけるような「お客様」でありたいと痛感しました。
     
    ある日突然ラジオから流れてくる曲に胸が熱くなる・・それが「歌」のステキなところでしょう。ラストコーナー


    心もよう
    シクラメンのかほり
    秋止符

    アンコール
    ~青春時代(スタンディングオベーション)


    イメージ 3
     
     
    舟木さんがプレゼントタイムの時に、ジーンズのウエストにゲンコツ一個分くらい身体が細くなってきた。体質なんでしょうね。
    独り言のような感じでプレゼントを受け取りながら何気なくおっしゃいましたが、もともと細~い体型なのを「逆ダイエット」されて体重を増やされたのですから、年令を重ねれば舟木さんのおっしゃる通り元の体質がやせ型という体質でいらっしゃるからまた細くなられるんだろうなぁと思います。今はちょうどいい加減でカッコイイなぁと思うんですが、御本人から細くなってきたとお聞きするとちょっと心配になります。今は夏だし、この猛暑のさなかにハードスケジュールをこなされているのでなおのこと細くなっていらっしゃるんだと思います。
     
    今回のセレクトは「ポップス系」とくくってありましたが、ニューミュージック系とひとむかし前のポップス歌謡系が混在している感じでした。70年代の学生運動世代の遅刻組である私的には、やっぱり『ひとり寝の子守唄』が一番沁みました。『リバーサイドホテル』の舟木さんはもう色っぽいのなんの、反則でしょう!っていうステキさでした。『夢一夜』はちょっと夢二の世界っぽく切な~い・・・『五番街のマリー』の歌詩「それだけが気がかり・・・♪」を聴いての私の唯一の「気がかり」はちょっとお痩せになってきた舟木さんのご健康です。
     
    27日は東京メルパルクのラヴリーコンサート、二日おいて29日は再び関西、滋賀県びわ湖ホールでの通常コンサート。かなりハードスケジュールです。どうかこの夏をお元気で乗り切って下さいますよう心から念じています。

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    猛暑に悩まされましたが、東海から関西地域でも、やっとひと雨降って、いくらか秋の気配が感じられます。
    東京では本日27日に「ラヴリーコンサート」が開催されますね。関東より北の舟木さんファンの方や南や西からも遠征される皆さんがいらっしゃるのでしょうね。舟木さんのステキな歌声を聴いて初秋の風に吹かれるような心持になって楽しまれることだと思います。お元気な舟木さんの御様子またきっとどなたかが報告して下さることを期待して心待ちにしています。
     
    ちょっと珍しいレコードがオークションに出品されていたのを手に入れることができましたのでご紹介します。
     

         舟木一夫のセンチメンタル・ボーイ 主題歌と挿入歌 ~東京映画『君に幸福を』より~
     
          センチメンタル・ボーイ/お菓子の好きな少女/星にそっと/恋の残り火
                      四曲とも   作詩:河端茂 作曲:山屋清
     
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    『その人は昔』に続く、東京映画『君に幸福を~センチメンタル・ボーイ』の主題歌は映画のサブタイトルと同名の『センチメンタル・ボーイ』です。この曲はコンサートでも時々、歌っていらっしゃるのですが、挿入歌はほとんど聴くことはありません。私もyou tubeでしか聴いたことがなかったのですが、LP(33回転)17cm盤で4曲入りというレコードが発売されていたんですね。挿入歌としてはほかにも『ジングルベル』『聖夜(きよしこの夜』があるようです
     
    君に幸福を センチメンタル・ボーイ(東京映画) 
    1967年12月16日公開 脚本:松山善三 監督:丸山誠治
    1967年7月公開の『その人は昔』に続く東京映画制作の映画。同じく松山善三氏の脚本で共演もやはり
    内藤洋子さん。
    ~ストーリー~
    能登から上京して、洋菓子店に勤める史郎は、日本一のケーキ作りの名人になることが望みだった。
    ある日、同僚の木村はそんな史郎にガールハント術を伝授した。木村は遊園地でハントした仙子をそば屋に住み込ませ、恋愛中だった。ガールフレンドのいない史郎は木村の言う通り、日曜日の遊園地に出かけたが、ラウンドアップから落ちて来たハンドバッグを頭に受け気絶してしまった。次の日曜日も浅草観音の社殿で同じことが起り、史郎はガールハントを諦めてしまった。まもなく分った犯人は同郷の女子大生の十紀で、これが縁で二人はすっかり親しくなった。史郎は十紀の前では菓子職人とは言えず大学でインド哲学を専攻し、菓子屋でアルバイトしていると嘘をついた。十紀はそんな史郎に家庭教師のアルバイトを探してくれたが、史郎は次第に自分の嘘が苦しくなりある日本当のことを打ち明け、逃げるように十紀と別れた。二人はすでにお互いに愛しあっていることを知っていたが、史郎は十紀に会おうとはしなかった。一方、十紀は史郎に会えない淋しさから、正月休みを両親と過ごすべく、史郎あての手紙を残して能登に帰った。間もなく史郎も故郷に帰った。温泉芸者の母まつは史郎を暖かく迎えたが、史郎は芸者から足を洗えないでいる母を軽蔑していた。和倉太鼓の名手でもある史郎は、和倉一の大きなホテルでその腕前を披露したが、その時に十紀がホテルの持主の一人娘と知って驚いた。史郎は身分違いの恋と、十紀を諦めようと思った。二人の仲は十紀の両親に知られ、そのため十紀はホテル経営の勉強という名目で、米国留学させられることになった。再び東京に戻った史郎は、十紀がアメリカに発つ日、大きなケーキを作って港に駆けつけた。だが、十紀を乗せた船はすでに港を離れたあとだった。
     
     
    もちろん私は、この映画をリアルタイムでも観てません。昨年の11月~12月くらいにかけて大阪シネ・ヌーヴォで「スクリーンで観る舟木一夫と時代を彩ったスターたち」という特別上映企画がありましたが、その時にこの映画もリストアップされていたのですが、上映日と私のスケジュールが合わなくて見る機会を逃してしまい残念な想いをしました。作品の内容自体は、『その人は昔』ほど格調高いというものではないように思いますが、いかにも青春映画という甘さと当時の舟木さんや内藤洋子さんの初々しい姿を観るだけで、昔に還ったように心がときめくような感じがするのでしょうね。このVHSをお持ちの方はそれほど多くはないように思いますから今となってはとても貴重な映像なのだと思います。
     
     
    キネマ写真館 日本映画写真データベース サイト↓ こちらで映画のいくつかのカットが見られます。
     

    http://www.youtube.com/watch?v=Z6ovPQMc8f0 (you tube)   画像ボケてます
    センチメンタル・ボーイ 主題歌
    イメージ 4
    夢をあげよう 夢をあげよう
    ぼくの夢をみんなあげよう
    きみが倖せになれるなら
    ぼくには夢がなくなってもいい
    えくぼ押さえてる きみの小指に
    投げキスをして
    ああ ぼくはセンチメンタル・ボーイ
     
    虹をあげよう 虹をあげよう
    ぼくの虹をみんなあげよう
    きみを美しくできるなら
    ぼくには虹がなくなってもいい
    涙うかべてる きみの瞳に
    ほほえみながら
    ああ ぼくはセンチメンタル・ボーイ
     
    歌をあげよう 歌をあげよう
    ぼくの歌をみんなあげよう
    きみに微笑みがもどるなら
    ぼくには歌がなくなってもいい
    遠く消えてゆくきみの背中に
    手をふりながら
    ああ ぼくはセンチメンタル・ボーイ
     
     
     
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    お菓子の好きな少女 挿入歌
     
    あの娘に贈ろう このケーキ
    夢で逢うとき ほほえむ娘
    お菓子を いつも手に
    虹の橋を渡る
    ぼくの 大事な こいびと
    夜明けと一緒に 消える人
    ヤイヤイ ヤイヤイ
    あの娘と いつの日語るだろう
    ホッホッ ホッホッ
    マロンの香りが ただよう娘
    ひとりのはかない 夢だけど
    明日を生き抜く 希望なのさ
    ぼくの 大事な こいびと
    あの娘に贈ろう このケーキ
     
     
    あの娘にあげたい このケーキ
    虹を呼ぶよに ほほえむ娘
    夜ごとに 夢で逢う
    可愛いあの娘だけと
    歳も 名前も しらない
    お菓子が好きだと わかるだけ
    ヤイヤイ ヤイヤイ
    あの娘に いつの日逢えるだろ
    ホッホッ ホッホッ
    チェリーによく似た 可愛い娘
    ひとりのはかない 夢だけど
    明日を生き抜く 希望なのさ
    歳も 名前も しらない
    あの娘にあげたい このケーキ
     
     
     
     
     
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    (you tube)
    星にそっと 挿入歌  
     
    心にきめた別れなのに
    ひとりの夜は泣けてくるさ
    ふたりだけの思い出が
    ひとりぼっちのぼくを苦しめる
    心にきめた別れなのに
    なぜか涙が
    なぜか涙が
    こぼれ落ちる
     
    未練はないと笑ってみても
    ひとりの夜は泣けてくるさ
    人眼さけて星にそっと
    恋の日記のページを開いてみせた
    未練はないと笑ってみたが
    なぜか涙が
    なぜか涙が
    こぼれ落ちる
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    恋の残り火  挿入歌
                 
    この道は恋を棄てる道
    待ちかねたあの娘が
    駆け寄ってきても
    でも でも
    笑ってはいけない
    さよならをいうだけ
    この道はこの道は
    恋を棄てる道
     
    この川は恋を流す川イメージ 5
    爪かんであの娘が
    好きよといっても
    でも でも
    振り向いてはいけない
    さよならをいうだけ
    この川はこの川は
    恋を流す川
     
    この恋はひとりで消す恋
    指からめあの娘が
    泣いてすがっても
    でも でも
    負けてはいけない
    さよならをいうだけ
    この恋はこの恋は
    ひとりで消す恋
     
    オマケ、ちょっと早目のクリスマス?
    http://www.youtube.com/watch?v=X4pgyYZ9sR0 舟木さんの『ジングルベル』  ジャケット↑

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    竹久夢二のことを調べていたら「夢二忌」という言葉に出逢いました。その字の通り「夢二忌」とは夢二が亡くなった日のことなのですが、これは俳句では「初秋の季語」とされていることを初めて知りました。
    そして夢二の亡くなった9月1日が間もなくやってきます。つまり「9月1日」が「夢二忌」なのですね。
     
    夢二が、晩年、何度も足を運んだのが伊香保温泉。榛名湖畔にアトリエも構えました。伊香保では、その夢二を俳句に託して偲ぼうと約20年ほど前から「夢二忌俳句大会」が毎年開かれているそうです。
    夢二忌を数日後に控えた今、夢二の生涯と作品に想うことを私も恥ずかしながら俳句に託してみました。またまた素人の駄句を二句・・・
     
    やるせなさ 花影匂う 風の初秋(あき)
     
    少年の 夢抱きゆく 旅の果て
     
    イメージ 1舟木さんは、最近のコンサートで「日本の名曲」をステージでも歌っていきたいとよくおっしゃっています。具体的に揚げられるいくつかの歌がありますが、その中に「宵待草」があります。
     
    宵待草  作曲:多忠亮
     
    待てど くらせど 来ぬ人を
    宵待草の やるせなさ
    今宵は月も
    出ぬそうな
        
    この原詩が、1912年(明治45年)6月1日付の雑誌「少女」(時事新報社)に発表され、翌13年(大正2年)11月、今の3行詩の形で絵入り小唄集「どんたく」(夢二の処女出版詩集:実業之日本社発行)に掲載された。これにバイオリン奏者・多 忠亮(おおの ただすけ)が曲をつけ、1917年(大正6年)5月12日、第2回「芸術座音楽会」(牛込藝術倶楽部)で初公演された
     
            アルバム「宵待草~竹久夢二の郷愁」 1973年6月発売
                音楽:山路進一    歌とナレーション:舟木一夫
    (you tube)
     
    イメージ 10宵待草(多忠亮:作曲)
     
    待てど くらせど 来ぬ人を
    宵待草の やるせなさ
    今宵は月も
    出ぬそうなイメージ 11
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    やくそく(妹尾幸陽:作曲)
     
    やくそくもなく 日が暮れて
    イメージ 2やくそくもなく 鐘がなる
    やくそくもせぬ 寂しさは
    誰に云いやる すべもなし
     
    ~ナレーション(コロムビア・ローズ)~
     
    愛するものは かなし
    愛するものは かなし
    されど愛し得ざるものは
    さらに かなし
     
     
    最愛の女性彦乃と夢二↓
     
     
    イメージ 12
    ~ナレーション(舟木一夫)~
     
    かなしきときは
    悲しむこそよけれ
    うれしきときは
    喜ぶこそよけれ
    わかき日のために
     
    なつかしき
     
    なつかしき 娘とばかり 思いしを
    いつか悲しき 恋人となる

    ~ナレーション(舟木一夫)~
     
    Aとわたしがいえば
    Aとあなたがいう
    Bといえば Bといった
    わたしがCといえば
    あなたもCという
     
     
    わたしにとおい
     
    イメージ 13わたしにとおい あの人は
    カンバス台の うしろから
    だいじなときに 笑いかけ
    わたしの仕事の じゃまをする
    わたしに近い あの人は
    靴下をあみ お茶をいれ
    わたしの世話を やきながら
    わたしの仕事の じゃまをする
     
    ~ナレーション(舟木一夫)~
     
    ある時は 歓びなりき
    ある時は 悲しみなりき

    うしろより
     
    うしろより わが眼ふたぐは 誰が手で
    おかしさ忍ぶ 十六の君
    細腰に赤き帯しめ
    若草を 素足にふみて
    君来たまいぬ
    イメージ 14
     
    ゆく春
     
    くれゆく春の かなしさは
    薊(あざみ)の花を つみとりて
    とんとたたけば 馬がでる
    そっとはらえば 牛がでる
    でてはぴょんぴょん にげてゆく

    山路とおれば
     
    山路とおれば 茨(いばら)がとめる
    茨はなしゃれ 日がくれる 日がくれる
     
     
     
     
     
    ~ナレーション(コロムビア・ローズ)~
     
    イメージ 15
    あたしね 赤ちゃんがほしいわ
    この人が 好きで 好きで たまらないんです
    この人は ちっとも 悪かありません
    もし悪ければ あたしです

    たそがれ(土尾平三郎:作曲)
     
    たそがれなりき かなしさを
    そでにおさえて たちよれば
    カリンの花は ほろほろと
    髪にこぼれて 匂いけれ

     
    妻のたまきと子どもたちと夢二
     
    イメージ 16~ナレーション(舟木一夫)~
     
    悩ましい 春の日が過ぎ
    とりおとした 夢のかずかず
    人は一度 この小径をゆけば
    もやは再び 帰らないだろう
    たった一度しか 恋を知らぬ娘が ない如くに
    たった一度しか 罪を犯さない 女はないのだ
    女よ お前のために この私が
    「何でなかったか」を 訊くなら
    簡単に云わしてくれ
    「世間にありふれた 悪い男でなかったかわりに 
    善い男でも なかった」とね
     
    イメージ 17
    雨々ふるな
     
    あめあめふるな あめふらば
    五重の塔に 巣をかけた
    かわいい小鳥が ぬれようもの
    松の梢を風がふく
    かぜかぜ吹くな 風吹かば
    今日巣立ちした 小雀が
    路をわすれて なこうもの
    あのなつかしい 唄の節
    けさずにあれば 今もある
     
    ~ナレーション(コロムビア・ローズ)~
     
    あたしの最初の男が 誰だったかって
    お訊きなさるの つまらない!
    どうせ あなたが 最初の男でなかったように
    最後の男でもないわよ
    イメージ 18~ナレーション(舟木一夫)~
    イメージ 19
     
    それは 忘れてよいもの
    これは 忘れてならぬもの
    それとこれとを 二つの箱に
    分けておいたに
    一つは焼けて 
    一つは残った
    焼けたのは 
    それは忘れてはならぬもの
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    イメージ 3
     
     
    その日から
     
    その日から とまったまゝで
    うごかない
    時計の針と 悲しみと
    その日から とまったまゝで
    うごかない
    時計の針と 悲しみと

     
     
     
     
    イメージ 4しあわせが・・・
     
    しあわせが きたのを知らぬ
    ばかでした
    しあわせが いったも知らぬ
    ばかでした
     
    その日から
     
    その日から とまったまゝで
    うごかない
    時計の針と 悲しみと
     
    イメージ 5ひとびとの
     
    人々の 眠れるなかに ひとりさめ
    おもえることは みなきみがこと

    旅から旅へ
     
    旅から旅へ その日暮らしの 日のくれに
    ふっと侘しい 永遠(とこしえ)を見る

    やくそく
     
    やくそくもなく 日が暮れて
    やくそくもなく 鐘がなる
    やくそくもせぬ 寂しさは
    誰に云いやる すべもなし
     
     
     
    イメージ 7イメージ 6宵待草
     
    待てど くらせど 来ぬ人を
    宵待草の やるせなさ
    今宵は月も 出ぬそうな
     
    ~ナレーション(舟木一夫)~
     
    愛するものは かなし
    愛するものは かなし
    されど愛し得ざるものは
    さらに かなし
     
     
     
     
     

     
     
     
     
     
     
     
     
    ~以下は細野正信氏(美術評論家)による「竹久夢二」参照~
    夢二はこういったという。「芸術家はもう沢山だ。ほんとうに人間として人間の悲しみを知る画かきがでてもいいと思う。」彼の詩と絵の魅力は一体どこにひそんでいるのであろうか。おそらくその秘密は普遍的で永遠の愛の形、それも庶民のやるせない吐息とともにある。純粋でいつわりのない愛の原型を明快に表現している点にある。それは常に男心に住みついている情感であり、また女心そのものであった。愛とは期待とあきらめの間にかけられた虹の橋ではなかったか?とすれば、いつかは、はかなく消えるこの愛の橋のゆききに、彼は万人の夢をふりまいたのである。いわば、彼は、心中を自由に吐露した抒情詩人であり、作為のない情感の画家であった。
     
    ~以下ウィキペディアより~
    『宵待草』の歌には「第2番」があったともいわれる。夢二が亡くなって4年後の1938年に、その爆発的人気にあやかり『宵待草』という映画が企画された。その際、映画の主題歌にはこの3行の歌詞は短すぎるとして、夢二と親しかった西條八十によって新たに第2番の歌詞が加えられた。ところがその歌詞の中に、宵待草の花が「散る」という表現があり、後日「月見草は萎むもので直ぐには散らない」という指摘を受けて歌詞は訂正されたものの、第2番が歌われることはほとんどなかった。
     
    暮れて河原に星一つ 宵待草の花のつゆ 更けては風も泣くさうな
     
    舟木さんは、2001年南座 5dayコンサートで「宵待草~夢幻-MUGEN」バージョンの構成をなさっていらっしゃいます。そしてこの時に『宵待草』の2番も歌唱されています。私が初めて「WHITE」収録の『夢幻-MUGEN』を聴いた時に文芸作品の官能美的世界に陥ったような感覚になったことと繋がったのです。こういった構成でこの二つの曲を組曲にされたことを知って、思わず膝を打ちたくなりました。男と女は近づけば近づくほど、求め合えば求め合うほど互いに限りなく深い孤独感が波のように押し寄せてくる・・・『夢幻-MUGEN』は大人テイストの深遠な恋愛の世界を舟木さんらしい香りで歌いあげた名曲だと私は思っています。夢二がもしこの組曲を聞いたらどう思うのでしょうか?
     
    「宵待草~夢幻-MUGEN」
     
    待てど くらせど 来ぬ人をイメージ 8
    宵待草の やるせなさ
    今宵は月も 出ぬそうな
     
    暮れて河原に星一つ 
    宵待草の花のつゆ 
    更けては風も泣くさうな
     
    うるむ乳房 そっとふくんで
    転がせば肩もそぼ濡れ
    男と女 女と男
    そして炎 夢幻
    まさぐれば 薫る若草
    切なげに
    ゆれるまつげ 光るうなじ
     
    忍ぶ吐息 のどを走り
    うねりくる 肌もあわだち
    男と女 女と男
    そして嵐 夢幻(MUGEN)
    狂おしく 身体ぶつけて
    溶けあえば
    静寂(しじま)あつく 夜霧深く
     
    黒髪(かみ)のみどり 朱く燃えおち
    爪のあと 遠くなみうちイメージ 9
    男は男 女は女
    そしてはるか 夢幻
    けだるさに ほてる指先
    からめれば
    いたみひとつ 想いふたつ
     
    ルルル・・・
    いたみひとつ 想いふたつ
     
     
    待てど くらせど 来ぬ人を
    宵待草の やるせなさ
    今宵は月も 出ぬそうな
     

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    6月の新橋演舞場の一ヶ月公演のあと、この夏は名古屋でのシアターコンサートバージョン、大阪と奈良での通常コンサート、大阪と東京での「ラヴリーコンサート」、そして今回の滋賀県での通常コンサートと猛暑の7月と8月もお元気にスケジュールをこなされ、とっても頼もしい舟木さんです。
    私はというと、この7月と8月のスケジュールは、東京での「ラブリーコンサート」以外は、幸せなことにずっと舟木さんのステージを楽しませていただくことができました。
    本日は、この夏のラストスケジュールとなった「びわ湖ホール大ホール」のコンサートの模様を報告します。
     
           2013年8月29日 滋賀県 びわ湖ホール大ホール
     
    イメージ 1
     
    開演時間  昼 14:30   夜 18:00 
    セットリストは2013年通常コンサートのバージョンです。
    昼の部の舟木さんのトークをメインにして再現してみます。ピンクの文字は舟木さんのトークです。
     
    オープニング
    ~さよならの朝に
    一年ぶりちょっとで おじゃましました。大阪と比べるとこっちはさわやかですね。大阪の方もいらっしゃると思いますが・・今日はどうもありがとうございました。
    やっぱり通常コンサートだと、ちょっとあらたまって忘れずにご挨拶なさるんですね(笑)
     
                                           円形の屋根のびわ湖ホール(湖側から)

    イメージ 2東京は恋する
    北国の街
    くちなしのバラード
    花咲く乙女たち

    マイクを持って歌いながらプレゼントを受け取るテクニックと、こういう時に「テープを使っていない」ということが証明されるというお話を・・テープに合わせて歌う歌い手のストレスの方がすごいと思うんですが・・・僕はダメですね。二十歳の時は二十歳の声、もうすぐ七十(歳)は七十(歳)の声、その時々の歌い手の歌を聴いていただく、それでいいんじゃないでしょうか。
    MCで次の曲へのつなぎトークをされ始めたら、ギターで何やら合図の音が・・・
    舟木さんが自作の曲の話を始めたんですが、実は構成上でいけば「抒情歌」につなげないといけない
    。「今、2曲飛ばしそうになりました。久しぶりのバージョンなんで・・・」と舟木さん。では、ここで「抒情歌」をふたつ・・・無事に軌道修正できました。
     
    びわ湖ホールの敷地内のおみなえし
     
    イメージ 4
    夕笛
    絶唱
     
    日本というのは四季(しき)がはっきりしていていいなぁ・・しきと言っても「結婚式からお葬式まで...余計なこと言うなよ!」とダジャレの後、ひとりツッコミを・・・(笑)歌い手は十年から十五年という時が一番危ない・・自分と持ってこられる歌との寸法が合わなくなってくる、そこで自作のものを三十代に書き始めた。今から歌う曲も、自分の気持ちを正直に書きました。

     
    みんな旅人

    イメージ 5潮どき 作詩・作曲:上田成幸
     
    人の噂にAh・・・・ 聞き耳たててAh・・・・
    息を殺して こんなに痩せた
    人の気に入るAh・・・・ 自分を作りAh・・・・
    情けないほど やさしくなった
    男らしさとAh・・・・ 無難な日々をAh・・・・
    知らず知らずに 秤にかける
    浅い眠りにAh・・・・ 子供の頃のAh・・・・
    鳥のさえずり かすかにとどく・・・
     
    片道だけの 短い旅路
    身体ぶつけて ただ進むだけ Ah・Ah・Ah
    そろそろ潮どき 今が潮どき
    思いどおりに 生きる潮どき
     
    あれもこれもとAh・・・・ 買うだけ買ってAh・・・・
    影もかたちも 見えなくなった
    五年たってもAh・・・・ 変わらぬものをAh・・・・
    探し続けて まだ ーー夢の中

    生きて走って 転んで泣いて
    散れば散ったで また進むだけ Ah・Ah・Ah 
    そろそろ潮どき 今が潮どき
    思い通りに 生きる潮どき
     
    イメージ 6愚にもつかないAh・・・・ 戦さの日々がAh・・・・
    あけて日ぐれて・・・ 夜更けのながさ
    堕ちて行くときAh・・・・ 抱きたいものはAh・・・・
    しのぎ削った 男の背中
    死んで行くときAh・・・・ 抱きたいものはAh・・・・
    その日愛した 女のなみだーー
    女のなみだ・・・ 女のな・み・だ
     
    流行歌というのは色々なタイプの歌があるんですが・・フォーク、ニューミュージックも流行歌のひとつ・・演歌も僕らの世代の演歌とはずいぶん変わりましたから・・カラオケ向きの演歌に偏って流行歌のジャンルが弱ってきた。
    昔は「出世払い」という言葉があって、僕も「野菜炒め」(の代金)をデビューしてから「出世払い」をしました。昔は、なにかにつけて「いい時代だったなぁ・・」
    というニュアンスのお喋り。

    銭形平次
    ~スタンディング
     
    滋賀県の地元のお客さんが多かったのか、特別に「舟木さんファン」という方の割合が、いくらか少なかったんでしょう。ちょうど私が昨年初めて舟木さんのコンサートでびっくりしたように「スタンディング」そのものにとまどっていらっしゃる方が客席の真ん中の列から後ろ半分ほどの方が、立たない感じでした。でも、舟木さんがラケットとボールを持っていらっしゃると、ほぼ8割くらいは立たれました。でも、ボーイメージ 7ル打ちが終わると即、着席(笑)
    でも、お客さんの反応はとっても楽しそうで、舟木さんも新鮮な客席の空気感を楽しまれたと思います。
    「今ボールを手に持っていらっしゃる方・・あまり足で持ってる方はいないと思いますが・・」とまたしてもおふざけ(笑)
    スタンディングが終わると・・「あっちィ~(暑い!) 続けて「こっちィ~」さらに、先ほど冒頭(ぼーとー)で申し上げたように・・ボートでもヨットでもいいんですが・・・これこれ、またもやダジャレ炸裂!・・(笑)「来年70(歳)ですよ・・多分(笑)先輩方の消息を知りたいので「懐メロ」は見るようにしてます。この間も「思い出のメロディー」を録画しておいて見ました。青木光一さん、あの方は83、4(歳)ですよ。♪柿の木坂は駅まで三里・・♪とモノマネでワンフレーズお歌いになりました。もちろん大拍手。さらに青木先輩は独特な抑揚があって・・「思い出すなぁ・・」
    と歌詩の一部をモノマネで歌って・・。ホント青木光一さんの特長をとってもよくとらえていてソックリ・・客席からも「巧い!」の声が・・「ちょっとはモノマネもできるんですよ」と楽しそうな舟木さんでした。80(歳)を越えた先輩がああして歌ってるんですから・・あと五年続くと、あたしは73(歳)になる。その頃は、ステージ20分、休憩が一時間半とか(笑)
     
    イメージ 8ジャケットを白に着替えて・・
     
    明日咲くつぼみに
     
    あゝ青春の胸の血は
    修学旅行
    仲間たち
    君たちがいて僕がいた
    高校三年生
    学園広場 
     
    決して後ろ向きの話じゃなくて、1時間45分のコンサートをあと何年できるか・・何だかもう少しやれるような気がしてくる・・とりあえず55年目までと設定したわけですけど、50年と一口に言いますが、よくもまあこんないい加減な歌い手を見捨てもせずに、付き合って下さって・・という言い方の中でもとても入りきれないのですが・・・と舟木さんらしい誠実な云い方での感謝の気持ちの表現をなさってあらためて、胸が熱くなりました。これからは歌う方も聴く方も、若いうちにはボールが届かないような「日本の名曲」・・「ゴンドラの唄」「荒城の月」など入れ込みながらのコンサートを・・と今後の方向を示されて『船頭小唄』を。続けて『浮世まかせ』へと

     
    船頭小唄 作詩:野口雨情 作曲:中山晋平
     
    イメージ 9おれは河原の 枯れすすき
    同じお前も 枯れすすき
    どうせ ふたりは この世では
    花の咲かない 枯れすすき

    死ぬも生きるも ねえお前
    水の流れに なに変わろ
    俺もお前も 利根川の
    船の船頭で 暮らそうよ
     
    なぜに冷たい 吹く風が
    枯れたすすきの ふたりゆえ
    熱い涙の出た時は
    汲んでおくれよ お月さん
     
    おれは河原の 枯れすすき
    同じお前も 枯れすすき
    どうせ ふたりは この世では
    花の咲かない 枯れすすき
    花の咲かない 枯れすすき
     
    舟友さんの豪華絢爛たる花束です。ライトに映える白い花たち
     
    イメージ 3浮世まかせ
     
    聴けば聴くほど味わいと奥行きを感じさせる、この二曲です。こういう曲を聴くとどうしても『高校三年生』でデビューされた時の歌声を重ね合わせてしまいます。当時の初々しい舟木さんと今のスケールの大きな舟木さんと、その両方の魅力が重層化して、つくづく歌い手として理想的なスタートを切り、紆余曲折はあったものの、50年を経てもなお魅力的なステージを楽しませて下さっている舟木さんの旅路の長さと重さを思ってしまう私です。
     
    若い頃の後悔は当たり前のこと・・過ぎ去ったことはみんなOK!OKだから今こうしてここにいられるわけなんですから・・とりあえず、そういうことにしましょう!もう今はイヤな場所には行かない、イヤな人には会わない・・それでいいでしょう。
    ラストブロックは若い頃の後悔は時間がたつとぬくもりに変わってくる・・あった方がよかった痛み。初恋の人の顔など思い出してみてください・・・
    たそがれの人
     
    哀愁の夜  作詩:古野哲哉 作曲:戸塚三博

    なんて素敵な 夜だろう
    星はきらめく 瞳はうるむ
    ああきみと行く 夜風の舗道は
    いつかふたりの胸に 
    恋を育てた あの日の舗道よ
                                 琵琶湖の夜景
    イメージ 10
     
    夢を見るから ゆれるのか
    長い黒髪 波うつように
    ああ街の灯は やさしくもえて
    何かちかいの言葉
    交わしたいよな ふたりの夜よ
     
    たとえ別れは 辛くとも
    想うこころは 変わりはしない
    ああ面影が 消えないように
    きみと歩いた路に
    ひとりたたずむ 哀愁の夜
     
    高原のお嬢さん
     
    End Love
     
    アンコール
    ~グッド・バイ・ソング
     
    今回のコンサートは、歌はもちろんなのですが、舟木さんの笑顔のあたたかさと、舟木さんの目の表情が届けてくれるいろんな心のニュアンスを受け止めるような想いでそのひとときを過ごしました。
     
    琵琶湖の遊覧船ミシガン
     
    イメージ 11舟木さんが歌っていらっしゃる時の目は~可愛らしい~純な~夢みる~懐かしい~温かな~凛々しい~潔い~・・・こういった私たちが忘れてはいけない、大切なものたちをあらためて思い出せてくれるような様々な力を湛えていると感じました。
     
    1時間半ほどのコンサートで、何冊もの感動的な本を読んだかのような、心持にさせて下さるんですから、いつまでもみずみずしい感性を保っていくためには、どうしても舟木さんから離れられません。
    私にとっては、ビタミン・ミネラル~etc.・・どんなサプリメントよりも身体と心に活力を与えていただける媚薬なんですよね(笑)舟木さんの歌声のシャワーを浴びていれば「薬入らず、医者いらず」と言っても過言ではないかも。
     
    この日も、たくさんのファンが出待ちに並んでました。私は、大津のホテルで一泊したので、帰りは急ぐ必要もなく出待ちの列に加わりましたが、あとで聞いた情報によれば、この日は舟木さんは終演後即、JR大津まで向かわれて、なんと京都までJRの電車で立って行かれたとのことです。新幹線まで追っ掛けられたファンの方もいらしたとか・・・舟木さんも追っ掛けられたファンの皆さんもお疲れさまでした(笑)
    でも、あの一日二回公演のコンサートの後、JRに立ったまま揺られていかれるのですから舟木さんの体力は想像以上なんじゃないでしょうか。頼もしい限りですね。

    明日から9月・・本格的な秋に向けて、舟木さんが、ますます、お元気で素敵なステージを楽しませて下さることを祈って・・・報告を終わります。

    0 0

         「琵琶湖周航の歌」~「花の生涯~ひとひらの夢 長野主膳」 ~「夕笛」
     
    六月の新橋演舞場公演の「花の生涯~ひとひらの夢 長野主膳」を観てから、彦根へはぜひ行ってみたいと思っていたところ、舟木さんのコンサートがびわ湖ホールでも開催されることになって、これは、グッドタイミングだと楽しみにしていました。大津から彦根までは、新快速で1時間弱です。そして彦根から名古屋までも2回の乗り換えはありますがJRの在来線で1時間半ほど。半日あれば行ってみたいスポットは回れるから30日の夕方までには帰宅可能なので、コンサートの日は大津に一泊することにして事前にスケジュールをたてました。
     
    そして大津にも、スポットはあることに後で気づきました。舟木さんも歌っていらっしゃる「琵琶湖周航の歌」です。29日のびわ湖ホールでのコンサートの始まる前に近江八景で有名な三井寺(園城寺)の近くに、「琵琶湖周航の歌」の歌碑があるそうなので、まず、ここで「舟木さんに会える!」と三保ヶ崎にあるという歌碑を探そうと歩きまわったのですが、みつかりません。多分、大津港の工事かなにかで通行止めになっていて行けない道があったのですが、どうやら地図で見るとそのあたりがちょうど歌碑のある場所のようです。気候のいい時ならもう少しねばってみたと思いますが、なんせ暑過ぎて、これ以上歩きまわると熱中症になりそうなので残念ながら今回は撮影はギブアップしました。・・というわけで、「琵琶湖周航の歌」についてのサイトから画像をお借りしました。
     
    琵琶湖周航の歌 一番の歌詩
     
    イメージ 1作詩:小口太郎、作曲:吉田千秋
     
    われは湖(うみ)の子 さすらいの
    旅にしあれば しみじみと
    のぼる狭霧(さぎり)や さざなみの
    志賀の都よ いざさらば
     
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    舟木さんが歌う「琵琶湖周航の歌」は、1964年の映画「あゝ青春の胸の血は」の挿入歌にもなっているのですね。この映画の主演は山内賢さん、相手役は和泉雅子さん。舟木さんは山内賢さんの友人という設定で出演されていますが、舟木さん御自身もおっしゃってるように、この作品では舟木さんはまだ「人寄せパンダ」的にキャスティングされているようでしたね。
    琵琶湖周航の歌
    琵琶湖を中心とした滋賀県の風景が歌われている。
    第三高等学校(現在の京都大学)に入学した小口は1917年(大正6年)の琵琶湖一周の漕艇中にこの歌詞を思いついたとされる。周航2日目の6月28日夜、今津(現滋賀県高島市今津)の宿で部員の中安治郎が「小口がこんな歌を作った」と紹介したのが初出である。吉田が作曲した『ひつじ草』のメロディに当てて歌われたのが定着し三高の寮歌、学生歌として広まっていった。

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    天寧寺へ
     
    イメージ 12コンサートのあった29日は大津のホテルに一泊して翌日の30日は、彦根へ向かいました。JR彦根下車、大きなバッグはコインロッカーに入れてJR彦根駅を挟んで彦根城とは反対側の彦根市の西南側に位置する天寧寺に・・・
    途中にファミレスがあったのでゆっくり朝食を済ませてから一路天寧寺へ。この方面は彦根市街地と反対側になるので、民家ばかりですが、天寧寺は小高い丘の上にあるのでしばらく歩いていくと道路からそれらしき屋根が見えてきました。
     
     
     
     
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    急な坂道を登っていくと、常夜燈があって、なかなか良い風情が漂ってきました。
    さらに登っていくと、右手に(おそらく天寧寺さんの)幼稚園があって、平日の朝の時間帯なので元気な子どもたちの声がしてきました。左手にはお地蔵さんが祀ってあります。
    すぐに天寧寺の受付がありました。拝観料は400円也。天寧寺は、五百羅漢が有名で、527体の中には必ず自分の探し求める人の顔があるといわれているそうです。http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=561
     
     
    長野主膳の奥津城(お墓)     ~資料は「滋賀文化の魅力再発見」サイトなど参考~
     
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    長野主膳は直弼が死んだあと、藩内でも疎まれる存在となり失脚して、文久2年(1862年)に斬首・打ち捨ての刑となった。主膳の遺体はそのまま刑場に放置され、10年後の明治5年(1872年)に白骨化した遺体を直弼の供養塔の横に埋葬することができた。しかし明治の世でも、打ち首にされた者を正式に弔うことはできず、「歌碑」という形で境内に碑が置くにとどめられた。主膳の百回忌にあたる昭和37年(1962年)にようやく、「長野主膳の墓」があらためて建てられた。
     
     
     
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    奥津城の横の歌碑(奥津城とは、神道式のお墓のこと)
     君かこの今日の出てまし待得てそ
              萩の錦もはえまさりける
     
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    この歌は、かつてこの寺に直弼と共に詣でた折、直弼が池に映る萩の盛んなる様を見て詠んだ歌~ 影うつる池の錦のその上に なほ咲かかる 糸萩の花 ~に答えたものである。天寧寺は直弼が不遇な青年時代に足しげくに通い、充実したひと時を過ごしていた場所であり、たか女との密会の場所でもあった。直弼と主膳、二人を影から助けたといわれる村山たか女の碑は、直弼供養塔と長野主膳の墓の間に昭和48年(1973年)につつましやかに建てられた。
    直弼と主膳とたか女、三人のゆかりの寺である天寧寺を萩の咲き初める頃に訪れることができたのも何かのご縁なのでしょうか。
     
     
    天寧寺の境内には、主膳(左)、たか女(中央奥)、直弼(右)という配置で、三人の墓(供養塔)が並んでいます。その背景側には彦根の城下街をはさんで彦根城が位置しています。
     
     
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    高台にある天寧寺境内の三人の供養塔の裏手から彦根城下を臨むことができます。そして城下町の真っ直ぐ向こう正面に彦根城の天守閣が見えるというロケーション。右の写真の左の高いビルと赤いロゴ「ケーズデンキ」の間の豆粒くらいなのが天守閣。
     
    上の写真、左から主膳の奥津城(墓)、中央たか女の碑、右直弼供養塔
     
     
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    主膳、屋敷跡~斬首の牢屋前へ
     
    イメージ 24天寧寺をあとにして、JR彦根駅に戻り、彦根市の中心地を経て、彦根城に向けて歩きました。立花町の主膳の屋敷跡の碑があるというところまで・・・ところがこれまた所番地周辺をぐるぐる回ってみても、屋敷跡の石碑が見つからず、歩いている地元の方4、5人に尋ねましたが、どなたも長野主膳の名前すら御存じない・・・石碑が残っていることも知らない御様子でした。トホホ・・・仕方がないので、こちらは彦根の歴史関連のサイトの画像からお借りします。
     
     
    牢屋跡 主膳斬首之処 義言地蔵
     
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     義言地蔵から彦根城を臨む↓ 
     
     
     
    イメージ 26屋敷跡の碑は、見つけることができませんでしたが、義言地蔵は、バッチリ見つけられました。
    彦根城の中堀のすぐ外側にあります。
     
    主膳の辞世
     飛鳥川 きのふの淵は 
      けふの瀬と 
       かはるならひを 我身にそ見る
     
    文久二年八月二十七日(1862年9月20日)長野主膳(義言)は、彦根藩の藩命により四十九町(現・イメージ 27城町一丁目)の牢屋前で斬首されました。亡骸は牢屋の前庭に埋められたそうです。主膳の門人であった中村長平がその上に石の地蔵尊を祀ったのが「義言地蔵」です。
    義言地蔵のある付近は、藩政時代には牢屋があり「牢屋町」とも呼ばれていました。地蔵前にある石碑には、宇津木六之丞の名もあります。
     
    主膳は、安政七年(1860年)三月三日、桜田門の外で直弼が水戸藩士の刃に倒れた後も、その遺志を継いで尽力します。しかし安政の大獄で失脚した一橋派を登用するなどして、直弼政権を清算しようとする幕府の「文久の幕政改革」で、彦根藩は歴代の役職であった京都守護職を罷免され、十万石が没収されました。主膳は十四代藩主・直憲により逮捕、投獄され、斬首・打ち捨ての刑に処されました。藩が直弼派の勢力を一掃したことを明確イメージ 4に示すが故の極刑であり、この処刑があったからこそ、彦根藩そのもの対しては比較的軽い処罰で済んだともいわれています。
     
    右の写真は埋木舎(彦根城・中堀)→
     
    牢屋跡から中堀沿いに京橋まで、京橋から表門橋へ。そして彦根城の天守閣への長い急坂の階段をひたすら登ります。彦根城へ来るのは二度目でしたが、もう三十数年前に来たきりなのでほとんど記憶にありません。こんなにキツイ坂道登ったかなぁ?
     
    この急坂を登りながら、あの場面に写っていた石垣はどの石垣なのかなぁ・・・と想像してたら結構登れた!(笑)
     
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    あのステキなキスシーンに使われた木は、今はもう朽ちてしまってないそうなんですが、ついつい、こんな感じの木だったかな?なんて似たような木を探してしまう私でした(笑)
     
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    私のブログは今年の3月に開いたのですが、この頃に映画『絶唱』についての記事を掲載しました。↓
     
            ≪舟木一夫主演映画つれづれ≫
            『絶唱』その1~私にとっての園田順吉(=舟木一夫)は初恋の人かも・・・
     
    イメージ 1当時は、まだ原作を読んでいなかったので、いつか原作も含めて、もう一度、『絶唱』を私なりに掘り下げてみたいと思っていたのです。47年前の9月17日に公開されているので、時期としては、タイミング的に今がいいかな?ということで、原作をもう一度読み直してから映画のDVDを観てみました。
     
     
    絶唱  1966 9月17日公開  98分  
    (『絶唱』レコード発売は1966年8月) 
    西河克己:監督・脚本  大江賢次:原作
    キャスト  園田順吉:舟木一夫  小雪:和泉雅子 
    園田惣兵衛:志村喬 小雪の父:花沢徳衛  小雪の母:初井言栄 他
     
    私が舟木さんを意識するようになったのはいわゆる「高校三年生」をはじめとする学園ソングではなくて「赤穂浪士」で演じた矢頭右衛門七からではなかったかと思います。当時、私は小学校五年生でしたが、憂いを帯びた古風な顔立ちの舟木さんには、病に倒れた父の名代として四十七士のひとりとして加わりその名を歴史に残している悲運の少年という役柄がぴったりだと思ったんでしょうか。
    同じく大河ドラマ「源義経」の時の平敦盛も私の中の舟木さんのイメージそのものでした。いずれの役柄の時も、場面場面そのものの記憶はあまりないのですが、舟木さんの出演場面があるときはなんだかドキドキしながらテレビの前でかしこまっていたことは記憶しています。
    初めて映画館で観た映画は「北国の街」で、これは中二の春休みに当時静岡に住んでいた叔母のところに遊びに行った時に、どこか行きたいところがあれば連れてっていってあげると言われて、大喜びでおねだりして連れていってもらいました。でも、その時は二本立てのもう一本の映画が小百合さん主演映画だったので、そちらがお目当てでした。ところが、その時に「北国の街」の海彦さんにすっかり心を奪われました(笑)
     
    イメージ 3そして、その次に映画館で観たのが「絶唱」です。これは中学三年生でちょうど高校受験前の夏の終わりでした。
    当時、地方の中学生が映画館に行くには保護者同伴が決まりでしたから、親と一緒に好きなスターの映
    画を見るのもテレくさくて、どうしても観たいものしかねだらなかったんだと思います。でも、これだけは、どうしても観たいと思いました。
    考えてみると舟木さんはもちろん気になる人であり、好きなタイプの歌い手ではあったのですが、系譜としては、「憂いと哀しみの漂う清潔なイメージ」に心惹かれたに違いありませんね。まわりを見まわしても、当時の自分の周囲の男の子は、全然子どもで、アホに見えました(笑)優しくて正義感にあふれた若様(順吉さん)が、どれほど素敵に思えたことか・・・どうやら私は、昔は、歌い手・舟木一夫というよりも舟木さんが演じるお兄さんタイプの登場人物に恋していたのかも知れないです。映画「絶唱」は、そういう意味で舟木一夫というより園田順吉という男性が舟木さんにオーバーラップして、私の理想とする人という形で心に残りました。悲恋物語ということもありましたが、中学三年ともなると少しずつ社会に目を向けていく年頃です。身分違いであるが故に小雪がたどった運命、娘を亡くした彼女の両親の悔しさ。逆に大地主の息子に生まれた順吉の純粋さや正義感から生まれる苦悩やその運命から抜け出るための闘い、そんなものを乗り越えて真実の愛を育てていこうとしたふたりの前にたちはだかった戦争」という大きな壁・・・思春期にいた私の心に甘く哀しいドラマとしてだけではすまされない、もっと大きなものを残してくれたのが「絶唱」だと今になってみると気づかされます。
    イメージ 4「絶唱」の公開数年後から70年代安保世代の学生運動が盛んだった時代に入っていきます。私が高校時代は大学のキャンパスはどこも多かれ少なかれ戦場のようになっていました。「反戦・平和」への希求は強くありました。「絶唱」によって小雪の薄倖の生涯を知ったこととは無関係ではなかったと思います。世の中の理不尽への抵抗感も自分の中で絶えずくすぶっていたので、女性という立場から高校生になると「婦人公論」を読み始め、ことに女流文学と社会の矛盾に強い関心を持ち始め、読書ばかりしていたような気がします。当然舟木さんのことも見失ってしまい、結局「絶唱」を最後にそれほど熱心な舟木さんファンではなくなりました。でも、中学時代に観た映画「絶唱」には、今の私の核になっているエッセンスがすべて詰め込まれているような気がしています。
     
     
    イメージ 2~絶唱 大江賢次 講談社文庫より~
    第一章 山鳩の小雪
    第二章 湖畔の記録
    第三章 葬婚歌

    原作では、順吉の加わっていた同人誌「野火」の仲間の大谷が、順吉をたずねて園田の屋敷を訪れる場面から始まっています。そこで、大谷は初めて小雪と出逢います。大谷の目に映った小雪はこのように描写されています・・・

    ~「どなたさんで・・」前にだけ気をとられていると、それが思いがけなく張りのある若い声だったので私は重ねて虚をつかれると慌てて振り向いた。そこには、襷掛けをした矢絣の単衣の娘が、なにか納屋あたりで働いていたものとみえて、私と視線がカチ合うとしぜんに頬が淡紅(とき)いろに染まり、そそくさと襷を外しにかかった。「園田くんいますか?『野火』の大谷です」「あの・・・若様で? ちょっこり、待ってつかあさいな」~中略~その時、さっき玄関で会った娘がお茶をもってきた。小柄で色白な、つぶらな瞳があざやかに澄みきった、それでいてどことなく寂しみのただよう顔が可憐であった。~
     
    山園田の若様である順吉が身分違いの山番の娘小雪をあれほどまで愛して止まなかった、その根拠とは・・・
    映画の中でも舟木さん演じる順吉がこのように語る場面がありますが、原作では・・・

    イメージ 6~僕はこの地方でも富裕な地主の長男として生まれた。お七夜の紅白の祝餅を配るのに、七組の小作人夫婦が四俵も搗いたというから、これだけでみどりごの僕がどんな位置にあって、どんな寵愛の的になっていたかがほぼうなづけるだろう。~中略~いつしか、「坊やんは、よその子たちと生まれも育ちもちがう」と信じ込んでしまった。しかし幼い僕は決して幸福ではなかった。ほかでもない、いくら身が埋まるほどの玩具や菓子があろうとも、ひとりぼっちではちっとも愉しくはないのだ。~中略~世間の目から見れば、あまりにめぐまれた幸福な僕の幼年時代の不孝はそればかりではない。その中で、何にもまして大きな打撃は・・・母の死だった。
    ・・僕は孤独だった。ある意味から云えば孤児同様だった。それゆえ、ひとりぼっちの僕はまず手はじめに、自分の周囲の何でもかまわない、すこし大げさだが森羅万象のすべてを、こころをこめて愛しはじめた。・・・がそれは僕が愛してやるばかりで、僕が愛してもらえるものではないから、やはり意思表示の可能な人間どうしの愛の交流がほしかった。~
     
     
    イメージ 7映画では、順吉が小雪のことで、父惣兵衛と口論をする場面があります。原作でも、中学の寄宿舎から休暇で一時帰宅していた順吉に惣兵衛が町の有力な事業家橋本の娘の美保子との政略結婚を順吉に迫りますが順吉は家や財産を棄てても、そんな結婚はしないと拒否します。仲をとりもとうと必死の乳母と差配人の源助の顔を立てて、氏神様に御詣りしてから父に詫びようと言い繕って、鎮守の森へやってきた順吉はそこで小雪に出逢い、衝撃を受けます。
     
    ~それは、うす暗い拝殿のさいしょの階段にともされた一文蝋燭の前に、ひとりの少女がチョコナンとしゃがんで、身じろぎもしないで合掌をしているさまであった。ほのあかるい灯かげのまたたきに、ジッと目をつむったまま、おさげの髪がつつましくて巫女のようだった。このひたむきな祈りをさまたげまい、と僕はそこに静止した。やがて少女の祈りは終わって、やすらぎにみちた目をあけて・・思わずふり返った。それは山鳩のようなまなざしで「ほうら、うちが祈ったとおり、若様が元気なすがたでもどってきんさった!」といささかのはにかみもなく云うと、もう一度合掌をした。僕も拍手(かしわで)を打つと「・・ほんとうに、僕のために祈っイメージ 8てくれたのかい?」コクンと少女は大きくうなずき返した。~

    映画の場面でまだ子供だった私がリアルタイムで観た時に一番ドキドキしたのが、新生活を始めた経師屋の二階からふたりが折り鶴を投げて遊ぶ場面でした。これは、中学生の私にとってなんとも美しくもテレくさいと表現するしかないラブシーンでした。これに類似した折り鶴を投げる場面が、原作にもありました。原作を生かしながら、この映像では甘く清潔なラブイメージ 9シーンとして心に残る美しい場面になっているのは脚本と演出の力だとあらためて感服しています。原作では
    二人の結婚を祝って、読書会の仲間が集まってる場面で「折り鶴」が登場します。以下原作本文より

    ~「ところで、おい園田君、つまりその・・・結婚式の前後についてリアルに描写して聞かせろよ」と佐野一夫がズバリと言って、盃を差し出した。「うん話そうか、いいか小雪・・?」「ああら けぇ 好かん!」とかの女はあわてて空の銚子をもって降りた。「けぇ 好かん女史が降りた間に・・・僕たちは、その日、あの城の天守閣へのぼった。そして天守閣からふたりで手をつないで『天下のみなさん、園田順吉と木村小雪はただいま結婚しました』ととなえただけ」「ううむ、とってもロマンチックじゃないか、それから?」「小雪は紙の折り鶴をつがいに、湖の方へむけてとばした。すると・・白い僕の折り鶴は天守閣の甍にひっかかって、赤い小雪の折り鶴は風に吹かれて・・山鳩みたいにとび去った。~
    *この天守閣のあるお城というのは松江城でしょうね。
     
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    順吉は園田の家を棄てて小雪との新しい生活を始めます。順吉はあえて材木かつぎや肥汲みなど肉体を酷使する仕事につきます。疲れて小雪の膝枕で眠る順吉。映画では、雪のしんしんと降る夜、小雪が順吉の頭をなでながら歌う子守唄が印象的なのですが、この子守唄は原作では、中学を卒業後、京都大学に進学したものの、神経を病んで中途退学をし、園田の家に戻って療養をしていた頃に召使いとして順吉にかしづいていた小雪が同じように順吉の頭をなでながら歌うという場面があります。
     
    ~小雪は筧の清水をくんできて、タオルをしぼってはなんべんも額へのせた。僕は、わけもなくあついものがこみあげてくるのを覚えた。~中略~僕は目をつむったまま 後から後からわきあがる熱いものを頬へながした。小雪はその涙のみなもとが分かりかねてしきりに気をもんでいたが、かの女らしい窮余の一策なのであろう、やさしく僕の頭髪をなでながら、小声で子守唄をうたいはじめた。
     
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    ねた ねぇたぁ よい子の小うさぎ ねた ねぇたぁ
    お山にゃ ふる雪 ぼたん雪
    ねた ねぇたぁ よい子の小うさぎ ねた ねぇたぁ
     
    その地方色ゆたかな声の抑揚とのびやかな調子は、僕の異常に興奮した神経をしずめるのに願ってもないものだった。「・・お母さん・・・」おもわず呼び、思いがけなく呼んだことの甘やかな幼ごころのまま、いつしか深いねむりに入っていた。~
     
    このように順吉にとって小雪は守るべきものであったと同時に、幼くして亡くした母を求める想いをも抱きとめてくれるおおらかでこよなくやさしい「母なる女性」でもあったのでしょう。順吉が、小雪を愛することで生きて行くことの歓びを実感できたことは、順吉にとっては幸せなことだったと誰もが認めるところだと思うのですが、小雪にとっては順吉に愛されたことで、過酷な運命を生きることにもなったということも事実だと思います。原作の中で順吉は、自分の幸せのために小雪を利用してしまったという、自分自身の身勝手さとの葛藤も描かれています。どこまでも順吉は「良心の人」なのです。

    (つづく)

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    『絶唱』その2・原作より(上)~私にとっての園田順吉(=舟木一夫)は初恋の人かも・・・
    から続きます。
     
    イメージ 1映画の中で、順吉が出征していく前夜の切ない場面なのに小雪が坊主頭になった順吉を見て「あなたの坊主頭、中学生の時みたいに可愛げなわぁ!」と言うところがありますが、原作を読んで、小雪と順吉がまだ少年、少女だった頃の初めての出逢いが、順吉の心に強い衝撃と感動を与えたのだとあらためて知ることができました。母を亡くして、大勢の使用人や小作人にかしずかれながらも「真実の愛」に飢えていた順吉が無垢で無心な想いで自分のことを祈ってくれている少女の存在を知ってどれほど心満たされたことかが、原作を読むことによってしっかりと腑に落ちます。
     
    大地主の跡取りとして、父の後継者となることは順吉にとって生ける屍として生きていくことを余儀なくされます。順吉は意地悪い見方をすれば小雪の力を借りて、その運命から逃れたという意味では小雪を犠牲にして「人として生きる道」を歩むことができたとも云えるのでしょう。「良心の人」であり優しい心の持ち主である順吉は、小雪を道ずれにして自分の運命を切り拓いたという胸の疼きを感じていたのでしょう。
     
    イメージ 2小雪が死の床で云った「うち、ほんとは今まで妻とは思っとらんかったけに・・」という言葉を聴いて順吉は、小雪へのそういったすまさなさを痛切に感じたのではないかと思いました。
    どういう想いで小雪がこう云ったのか・・・純真無垢な小雪の本心だからこそ順吉の心に鋭く突き刺さったのではないかと思います。この言葉を聴いて、順吉は「葬婚式」という、一見、狂気じみたことを小雪のためにも自分のためにもとり行おうと心に決めたのではないでしょうか。
    私自身、映画『絶唱』のラストシーンは、どう考えたらいいのか、無条件に受け入れられるものかどうかという動揺を感じました。たとえどれほど愛している人でも死者と婚礼を挙げることには、眉をひそめる、もっと云えばグロテスクなものだと考える人もいないとは言えません。
     
     
    映画でも、この場面はあるのですが、原作では順吉が、村人(小作人)を集めて、小雪のこと、自分自身の気持ちについて以下のように語りかけています。
     
    イメージ 3~村民の御一同様に、ちょっと御挨拶を申し上げます。~中略~父は私が山番の娘ふぜいと結婚をするのは許さんと、格式ばった地主かたぎで勘当を申しつけました。なぜ山番や小作人と結婚をしてはいけないのか、地主だけがお高くとまって働きもしないでいて、働く山番や小作人たちをいやしむ父と、私は絶対に相容れません。むしろ地主という父の立場こそ働きもしないで働くひとびとからしぼりとって暮らす、いやしい恥ずべきものではありませんか。私は、人間はすべて働く義務があって地主や資本家のような不当所得をむさぼる特権階級のものたちは、この世の害毒にさえなれ決して利益にはならないものだと信じています。そこで私は小雪とふたりで世の荒波の中へ飛び込んで働きました。~中略~もしも私が小雪と愛し合わなかったならば、この労働の尊さ、そして働くひとびとを幸せにする理想社会の実現も知らずにくだらない生涯を朽イメージ 4ち果てたことでしょう。「戦争は、小雪から私を奪いとりました。小雪はただひとりで七年間を働きづめに働いてきました。私がシベリアから引き揚げてきたとき、小雪は再起不能の病の床で迎えてくれました。小雪は死んで生きました。永遠に生きて居ります。私はそれを絶対に信じて疑いません。」そこで私は小雪と晴れてわが家で結婚式を挙げました。これまた酔狂なとお思いの方もありましょうが、私の魂に棲む小雪はどんなによろこびましたことか!小雪が私と一つである以上、私がこんなに嬉しいのですから、皆様もともどもに小雪を祝っていただきたく存じます。私が小雪と結婚をしましたことは、もやは地主ではないこと・・一人の働く人間であることのしるしです。
    ~中略~私の妻の肉体は私からおさらばしますが、妻の精神は不滅のまま私の魂の中に生き永らえます。その小雪が、どんな生き方をするか、それは私の今後の生き方が示すことでしょう。・・・どうぞこの私の微衷をお察しくだすってわずかばかりではありますが酒肴が用意してありますので私ども新郎新婦のめでたい今宵をいっしょに過ごしていただきとうございます。~
     
     
    イメージ 5ラストに近いシーンでこの村人への挨拶のシーンを入れたのは舟木さんの意思によるものだそうです。共演された和泉雅子さんは、映画の中の台詞としてはかなりな長台詞に驚いたそうです。「私は、死体だったから聞いていただけですが・・」とシネパトスでのトークでおっしゃっていたそうです。この『絶唱』という小説を、悲恋もののラブストーリーとして映画化することもできたと思います。当時の舟木さんは人気絶頂でアイドル的存在でもあったわけですから、原作の主義主張を前面に出さずにソフトタッチの「純愛もの」として映像化するという選択肢もあったと思います。でも、そうしなかったところに舟木さんの舟木さんらしい姿勢が感じられます。50年近くたった今も私の心の核となるような作品として印象深く残っているのは、「安易なお涙ちょうだいもの」としてお茶を濁さず、真正面から取り組み『絶唱』という文学作品のバックボーンを一切損なうことなく、映像の世界で再構築したからなのだと思うのです。

    そして、また原作では、映画を観ただけでは知り得なかった、小雪の出生の秘密が、最後に山番の夫婦である小雪の両親から語られます。その秘密は順吉の文学の仲間であり、原作の『絶唱』では順吉と並んで一人称でも登場する大谷に小雪の出生について打ち明けられています。
     
    ~「こみいったことって何です?・・私は誓って秘密を守りますから、どうか及ぶ限りのお力にならせて下さい。では私のほうから質問しますが・・つまりそれは小雪さんのことでしょうか」
    「先生さま、わしらウソをついちょりました。これ以上卑怯だと、大罰があたりますけに」
    何度も何度もいいよどんで、やっと母親のさとから聞き出したのは・・
    「うららも、あの子が生まれた年に三カ月はよう、うららの子を生みましたけに、ところめが、赤児の肥立ちが悪うて、四十日しか生きて居ってごしませなんだ。うらら、息のきれた赤児を抱きづめで、はやもう気が狂わんばっかで・・それをお父がむりにもぎとって葬ってごしましたけに・・」さとの「皮切り」に勇気をとり戻した正造は・・
    イメージ 6「それから、山に雪がはじめて降った日に、山まわりをしたわしは・・」と語りはじめた。
    正造によれば
    「女の身重のお遍路さんを助けた。安産をした、お遍路さんはさとの赤児が死んだのを聞いて同情して、そんなら私の子をと、助けられたお礼として赤児を譲ってくれたのだという。夫婦は「お大師さんのお授け」じゃと語り合って小雪をわが子として大切に育てきたのだという。
    大谷は、「よく云って下さいました。もとよりこの事実を順吉くんに云われてもそれで動揺するようなことはありません。かえってあなた方をより一層敬愛するにちがいありません。」さとは・・「ほえ、小雪があんまりええ気立ての娘だったで、うららも裏表のない気立てでないと・・親として恥ずかしいけになあ・・可愛い小雪、ずうっとうららのこの乳で大けんなっただけになぁ・・」彼女は空間を抱きよせるようにして、なかば笑い、なかば泣きながら目をつむると、大きく確信をこめてうなずいた。~
     
     
    小雪が「お大師様のお授け」の子であったという締めくくりにした作者である大江氏の想いがどのようなものであったのか・・すべてのひとが幸せに生きられる人の世であることを願う順吉の想いを実現させるために人智を越えた大きな力もその後推しをしているのだという意図が含まれているのだということなのでしょうか、その真意はわからないのですが、ただ、順吉が心からの尊敬を込めたまなざしで、小雪に言った「お前は一番正しいことを知っているんだね」という言葉と「お大師様のお授け」ということとは矛盾なく整合するものであることは確かです。
     
     
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    原作と映画とを付き合せながら、私の視点から探ってきた『絶唱』・・・書き終えてみて、やはりこの作品は私の中で大きな位置を占めているんだということがあらためて確認できたような充足感もあるのですが、なんだか、まだ書き尽くせてはいないのでフラストレーションが残っているような心持も一方ではあります。
     
    そんな私の『絶唱』から離れがたい想いをこの作品の中に登場する「歌」に託して、最後に未練がましく、もう少しだけ記してみることにします。
     
    「絶唱」の原作の中に登場する詩人や曲には舟木さんにご縁があるものがこんなに・・・
     
    原作:順吉と小雪の結婚を祝う同人誌「野火」の仲間が集まった宴の席で・・・
     
    ~小雪はさっそく川田マサのエプロンをつけたが、アップリケの(映画では刺繍)山鳩が生きてちょっと動くと飛び立つようで「そのエプロンすがたで、もう一度お酌を・・」と私は活発に盃をさしだした。~中略~文学する心へたゆたい・・すると誰ともなく「荒城の月」をうたいはじめた。~

    イメージ 1荒城の月 作詩:土井晩翠 作曲:滝廉太郎

    春高楼の 花の宴
    めぐる盃 かげさして
    千代の松が枝 わけいでし
    むかしの光 いまいずこ
     
    秋陣営の 霜の色
    鳴き行く雁の 数見せて
    植うるつるぎに 照りそいし
    むかしの光 いまいずこ
     
    今荒城の 夜半の月
    かわらぬ光 たがためぞ
    垣にのこるは ただかつら
    松に歌うは ただ嵐
     
    天上影はかわらねど
    栄枯は移る 世の姿
    写さんとてか 今もなお
    嗚呼荒城の 夜半の月
     
     
    ~佐野一夫は川田マサと二部合唱で「サンタルチア」や「帰れソレントへ」をうたうし、笹本卓治は流行歌や軍歌を胸をはってうたったし森本保太郎はしぶい端唄をやってのけた。私はお手のものの童謡をうたって踊った。順吉は牧水の歌を朗詠したり白秋の詩を吟じたりした。~

    城ヶ島の雨  作詩:北原白秋 作曲:梁田貞
     
    イメージ 2雨はふるふる 城ヶ島の磯に
    利休鼠の 雨がふる
    雨は真珠か 夜明けの霧か
    それともわたしの 忍び泣き
     
    舟はゆくゆく 通り矢のはなを
    濡れて帆上げた ぬしの舟
    ええ 舟は櫓(ろ)でやる
    櫓は唄でやる
    唄は船頭さんの 心意気
     
    雨はふるふる 日はうす曇る
    舟はゆくゆく 帆がかすむ
     
     
     
    ~「さあ今度は小雪さんの番だ。」彼女はすっかり尻ごんで、掌を合わせんばかりにかんにんしてほしいとなんべんも辞退をしたが「だめだめ、園田順吉の妻じゃないか・・」とかなり酔った順吉が激励したので「じゃ・・やります」とほとんど絶望的なまなざしでうなずいた。~
     
    イメージ 3吉野木挽唄
     
    ハアー 吉野吉野と 訪ねてくればよ
    吉野千本 サア 花盛りよ
     
    ハアー何んの因果で 木挽を習いよ
    花の盛りを サア 山奥によ
     
    ↑舟木さんの歌唱 (これはyoutubeより:映画「絶唱」の音源から?)
     
    アルバム『舟木一夫西条八十の世界を歌う~日本の四季』には、「吉野木挽唄~絶唱」(再録音盤)が収録されています。

     
    原作:七年と言う歳月を経て、小雪のもとへ帰ることのできた順吉と小雪との束の間のひとときがあったことが下記のように記されています。
     
    ~順吉は林檎の汁をしぼりながら、凍傷跡のまだらな顔でおだやかにいたわった。しぼった果汁を吸呑みに入れて、咽ないように少しずつのませてやると、「ま、おいしや、私の胸ン中のあなたははなすだけだったけに、やっぱりほんとのあなたはよございますわねぇ・・甘えてもいいかしらん?」「うん、いいとも」「あんら、うれしや。ね、ねお二人でかわりばんこに 南と北の唄を歌ってきかせてほしいけに。」順吉がそばでやさしく髪を梳いてやっている横で、私は「ブンガワンソロ」をうたいはじめた。~中略~つぎは順吉が「バイカル湖のほとり」と「カチューシャの歌」を歌った。~
     
     
    一人ぽっち4集  舟木一夫と世界の歌      カチューシャ  ロシア民謡 訳詩:関鑑子            
    イメージ 4りんごの花ほころび
    川面(かわも)にかすみたち
    君なき里にも
    春はしのびよりぬ
     
    岸辺に立ちてうたう
    カチューシャの歌
    春風やさしく吹き
    夢が湧くみ空よ
     
    カチューシャの歌声
    はるかに丘を越え
    今なお君をたずねて
    やさしその歌声
     
     
    ~第三章 葬婚歌~  
    原作:復刻した「野火」に寄せた、園田順吉の原稿・・・・
      
    挽歌   園田順吉

    ~僕たちはかわるがわる墓前で焼香して黙祷をした。~中略~そこで僕はたまりかねて「おい、小雪をにぎやかになぐさめてやろうじゃないか」と隣の佐野一夫の手をにぎると「小雪さんは天真爛漫だった。天性の詩人だった」と、川田マサの手をにぎると「ここは、あの木挽唄の土地じゃないの」と川田マサは吉原準平の手をにぎった。こうして大谷茂から加藤勉へ、そして僕へと六人は輪になって墓標を囲むと期せずしてグルグルとゆるやかに小雪をめぐりはじめた。小雨のけむる墓地で僕たちは小学生のような心地でいると「小雪さん、子供ン時の唱歌をうたわいや・・」と加藤勉が墓標に問いかけたとみるまに 
     からす なぜなくの からすは山に かわいい七つの子があるからよ
    ・・・彼の童めいた声について、僕たちもいっしょについて合唱をはじめた。~

    七つの子 作詩:野口雨情 作曲:本居長世
     
    イメージ 5烏 なぜ啼くの
    烏は山に
    可愛い七つの
    子があるからよ
     
    可愛 可愛と
    烏は啼くの
    可愛 可愛と
    啼くんだよ
     
    山の古巣へ
    行つて見て御覧
    丸い眼をした
    いい子だよ
     

    イメージ 6~うたい終わった余韻の静かなひととき、思いがけない奇蹟が起ったのである。小雨にけぶる靄のかなたから、僕たちに相呼応して・・山鳩が鳴いたのだ。いや、たしかに小雪が呼んだのだ!
    「小雪! 小雪! おぅい・・・小雪よう!」と僕は呼んだ。
    それからなかばもの狂わしそうに小雪の墓標にしがみついて、頬ずりをしながら脚がずるずるとくずれ折れてひざまずくと、土饅頭のぬれた地面へ顔をおしあてて・・慟哭した。このとき、もろもろの僕にまつわりついて、悩み煩わした瑣末な雑念がケシとんで、虚飾のみじんもない、ただあるがままの園田順吉が、赤裸々にノタうっていた。すでにいま、つねづね醜悪ときめて抑制していたこの慟哭のふるまいもかくしだてのない本然の美点となって光耀とかがやき、まことに単純な愛しいひとを哀悼するこの涙にいっさいが洗い浄められて、もはやメフィストのしのびこむいとまもない・・僕は人間らしい、人間にひたりきっていた。~
    (完)
     
     
    絶唱  作詩:西条八十 作曲:市川昭介
     
    イメージ 7愛おしい山鳩は 山こえて どこの空
    名さえ はかない 淡雪の娘よ 
    なぜ死んだ ああ 小雪
     
    結ばれて 引き裂かれ 七年を西東 
    いのち短く 待つ日は永く 
    泣きぬれた ああ 小雪
     
    山番の山小舎に 春が来る 花が咲く 
    着せて 空しい 花嫁衣装 
    とこしえの ああ小雪
     
    なぜ死んだ ああ 小雪
     
     

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    8月10日付のブログで私も参加表明させていただいたことをお知らせしたのが下記のhttpです。
     
    そして8月31日に完成した動画が舟友さんのブログにアップされました。5月にも舟木さんの50周年をお祝いする舟友さん参加の動画を作成してくださっています。
    (残念ながら今は、50周年記念の動画は諸事情で観ることができませんが・・)
     
    以下が「夏風情動画」です。
    舟友さんへの感謝とともにアップさせていただきます。
    舟木さんへのエールと日本の北から南からこの動画制作に集った舟友さんたちの想いが、舟木さん歌唱の「夏の歌」にのせてごらんいただけます。ゆく夏を惜しんでお楽しみ下さいね。
     
     
     
     
    さて、今年の夏は、太平洋側は猛暑、日本海側や東北は豪雨、関東では竜巻発生・・という異常気象といってもいい過酷な天候でした。
    やっと、ここ数日、朝夕は涼しくなり、私も秋の気配を求めて、朝の散歩を始めています。
    散歩する私のまわりを、とんぼが横切っていくのを見ると、こんな天変地異だらけだった日本にも、ちゃんと秋が訪れてくれてることに「ほっ」とします。木々や花々の様子も少しずつ変わってきて、秋の足音を感じさせますね。
     
    http://blogs.yahoo.co.jp/uesaka679kazuo/11278500.html舟木さん歌唱「赤とんぼ」
     
    http://www.youtube.com/watch?v=PkI_iKZbt-Y     舟木さん歌唱「あざみの歌」
     
     
    舟木さんの抒情歌が聴きたくなる秋・・・わが家の庭の秋の花たちとさんぽ径で見つけた木の実たちです。
     
     
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    舟木さんの初めての明治座特別公演は1967年4月(公演期間:4日から30日まで)にスタートしています。
    この頃は、舟木さんがデビューなさって四年目で、シングルの大ヒット曲の『絶唱』と『夕笛』の二曲に挟まれた時期にあたります。
    私はと言えば、申し訳なくも、あれほど夢中になった『絶唱』の、すぐ後に公開された映画『その人は昔』も『絶唱』の一年後に発売されてヒットした『夕笛』も、ほとんどインパクトを感じることなく新しい高校生活という世界の中で、すっかり舟木さんから遠ざかっていました。まして、東京の舞台公演などは、別世界の話であり、舟木さんが若くしてこのような大きな舞台で一ヶ月公演の座長を勤めていらしたことも全く記憶にありません。新聞に載ってる週刊誌などの見出しなどで観たような気もするのですが、多分、読み流していたというところでしょうね。毎度毎度「ゴメンナサイ、舟木さん」です。
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    舟木さんが舞台で本格的なお芝居と取り組まれたのは、この明治座公演の前年の1966年10月の大阪・新歌舞伎座での初座長公演だと思いますが、その時の演目は「雨月道成寺」「若君風流」。
    内容については現在のところ手元にある資料では、「若君風流~松平長七郎」(原作:村上元三)と書いてあるので1964年のNHK大河ドラマ「赤穂浪士」で舟木さんを抜擢した村上氏の作品で本格的お芝居の初舞台を踏まれたんだなぁ・・とのみ知るばかりです。でも、村上氏の小説「松平長七郎・江戸日記」の主人公の長七郎は、あの徳川忠長~奇しくも後年、これもNHK大河ドラマ「春の坂道」で舟木さんが演じられた徳川忠長~の御落胤という設定の小説だそうですから、まさに舟木さんが演じた数々の主人公の境遇と同種の「由緒ある身分の出自」という役柄だったんですね。舟木さんの高貴な佇まいを生かした魅力的な舞台だったのだろうなぁと想像します。
     
     
     
     
    さて、明治座での七年にわたる座長公演を勤めていた時期は、舟木さんが二十代という芸能に携わる人として最も吸収力のある、感受性も向上心もあふるれるほど豊かだった年令にあたります。
    長い不遇の時期を乗り越えて、奇跡的ともいえる復活を果たした舞台人としての舟木さんの底力は、やはりこの二十代に経験した座長公演で培われたものが大きかったのだろうと思わざるを得ません。
     
    イメージ 2私の手元に、この明治座公演のパンフレットが6冊あるのですが、残念ながら、1967年の初公演のものは欠けています。というわけで二年目の1968年の公演からたどっていくことにします。幸いにも、1971年8月公演のパンフレットは「明治座出演5周年記念」ということで、第一回目からの舞台写真が「思い出の舞台から」というタイトルで掲載されていますので、写真だけアップしておきます。
     
    1967年の初公演(4月4日~30日)舞台写真
    左「春高楼の花の宴」、下「維新の若人」
     
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    明治座 デビュー5周年記念 舟木一夫 七月特別公演 (1968年7月4日~7月31日)
     
    イメージ 3昼の部 11時開演
    1 坊ちゃん 
    夏目漱石:原作 小野田勇:脚本 松浦竹夫:演出
     
    2 舟木一夫ヒットパレード 想い出とあしたの唄
    河端茂:構成 
     
    哀愁の夜/くちなしのバラード/ラブ・ユー東京/銀座の恋の物語/北国の街/ブルートランペット/東京は恋する/太陽にヤァ!/夏子の季節/白鳥の歌/雨降りお月さん/心こめて愛する人へ/たそがれの人/今日かぎりのワルツ/踊ろうぼくと/その人は昔/オレは坊ちゃん/夜霧の果てに/絶唱/夕笛/残雪

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    夜の部 5時開演
    1 喧嘩鳶 ~野狐三次
    村上元三:作・演出
     
     
     
     
    2 舟木一夫ヒットパレード 七彩の歌をあなたに
    河端茂:構成・演出
     
    喧嘩鳶/おみこし野郎/火消し若衆/船頭小唄/波浮の港/花笠踊り/真
    室川音頭/ソーラン節/銭形平次/一心太助江戸っ子祭り/絶唱/夕笛/高校三年生/学園広場/花咲く乙女たち/高原のお嬢さん/友を送る歌/ブルートランペット/哀愁の夜/センチメンタルボーイ/夢の中の恋人/くちなしのバラード/残雪/夜霧の果てに/オレは坊ちゃん
     
     
    ちなみに、ヒットパレードの構成・演出をされた河端氏は、8月27日掲載の私のブログ「ちょっと箸やすめ~ちょっと早いですが、秋らしく「センチメンタル・ボーイ」 ↓
    で、登場していらっしゃいます。前年公開の映画「君に幸福を/センチメンタルボーイ」の主題歌と挿入歌の作詩をされている方です。
     
     
    イメージ 13五年目のひとりごと  舟木一夫
     
    一、二、三、四、五・・・数えるだけなら簡単だな・・
    一日、二日、三日、四日、五日・・
    でも、この間に何かをするのは大変だな・・
    一年、二年、三年、四年、五年 ~~~ 一八二五日
    一八二五日・・でもこの間に何かをするのは簡単かも知れないな・・
    十八才から二十三才までの一八二五日・・・
    大事な青春の時間だな・・
    一八二五日・・たつにはたったが何をしたかな・・思ったほど色んなことはできなかったな
    一八二五日・・長かったかな?・・短かったかな?・・・
    一八二五日・・毎日考えたのは何の事かな?・・歌の事・・それだけだったような気がするな・・
    一八二五日・・毎日逢いたかった人はだれかな
    毎日逢ってくれた人はだれかな
     
     
     
    その人が僕には一番大切な人だったんだけれど・・誰だったかな?・・・
    親父?・・・おふくろ?・・・姉さん?・・・それとも弟妹?・・・
    違うなァ・・誰だったんだろう 親しすぎて無意識だったんだなァ・・一人だったかな 二人だったかな
    ・・それとも・・そうだ!! 今日も舞台に上がって唄ってみよう 唄えば想い出すだろう・・・
    僕の一番大切な人は・・僕が唄っているときいつも一緒に居てくれた人なのだから・・あゝ・・早く今日
    も舞台の幕が上がらないかなァ・・
    早くその人に逢いたいなァ・・
    逢ってお礼が言いたいなァ・・
    一八二五日もわがままな僕の側に居て下さったお礼を・・そしてわがままついでにお願いしよう・・
    これからもずっと僕の側に居て下さい・・と けどうまくお礼が言えるかな・・
    うまく願い事が言えるかな・・
    いいや・・とにかくその人の前に行って
    歌を唄えば安心するだろう・・・
    あゝ早く幕が開かないかなァ・・・
    早くその人に逢いたいなァ・・
    きっとうれしくなれるもの・・
     
     
    楽しみな人 伊志井寛
     
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    舟木君が去年にひきつづいてこの明治座で奮闘公演をやる、相手役は去年と同じ光本幸子であってみれば彼が浮気者でないことがわかる。~中略~芝居の方は去年「新撰組」を書いた村上現三先生が舟木一夫のファンとはどんな人達かと去年じみじみ見きわめた上で書いた「喧嘩鳶」つまり野狐三次のお話。
    昼は漱石の「坊ちゃん」を小野田さんが舟木ならではの面白いものに書いてくれている。~中略~今どきの若いものなどど言ったら、古いぞと来るかもしれないが、全く今どきの若いものである舟木一夫は殊に真面目な人柄であり一見冷静のもののように見えるが、時には奇想天外な思いつきあり、洒落ありギャグあり、人々の度肝を抜く、言えば時に臨んで奇智あふれる才能と愛嬌の持ち主である。いまや高校生の歌から出発し、今日、日本一の歌手になったなんてものではない。しかし、モシこれからも芝居に進む気持あるのなら役づくりの上にも舞台上の約束にも又一段の苦心、修錬が必要であることは言うまでもない。芸を以て世に処する一人であることに間違いない。私は舟木一夫にいよいよ大きな楽しみをもつものである。
     
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    相手役は7年間を通して、ずっと光本幸子さんでした。この清新で美しいおふたりの魅力的なコンビが次代の新派を担って、新派の新しい時代を作っていってくれるのではないかという期待の大きさが当時の新派の重鎮の方々の言葉や豪華なキャスティングからもしのばれます。でも、舟木さんのこのデビュー5周年の挨拶文からは「歌」への熱い想いがひしひしと伝わってくるように思います。やはり、当時から舟木さんは歌い手というベースの上に役者というもうひとつの表現者としての世界を置いていらしたようが気がします。
    「坊っちゃん」については、あらためて御紹介するまでもないので省略しますが、「喧嘩鳶~野狐三次」は元は講談(講釈)で親しまれているものを村上元三氏が舟木さんのために脚色したものだったそうです。以下、村上氏の解説文と舞台俳優としての舟木さんに賭ける期待と激励が込められた文を御紹介します。
     
     
    舟木君と三次 村上元三
     
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    野狐三次というと、私ぐらいの年配の者はやはり若い頃に聴いた故人の神田伯龍の講釈を思い出す。ことに三次が少年のころ、木っ端を売りに歩く時の「木っ端売り三次」などはいまでも耳に残っている。講談では大工の磯五郎と女房が浅草観世音の境内で赤ん坊を拾って育てる。その子が生長してから町奉行筒井伊賀守の実子とわかり、相撲の両国梶之助の助力を得て、養父の磯五郎を殺した敵を討つ、という筋になっている。こんどの芝居は筒井伊賀守の実子というところだけ借りてあとは創作をした。

    江戸の頃、町奉行大岡越前守がはじめて組織した町火消しの中でこの芝居の天保時代には、に組の人足は三百九十人を数える。野狐三次も全くの講談が創り出した人間ではなくちゃんとしたモデルがあった。~中略~今度で私が舟木君に書いた芝居は三本目になるが、いままでとは違った、いわゆる世話物の芝居の演出法を探ってみた。~中略~もうここらで舟木君も、楽しみながら自分で芝居をやる面白さというのがはっきりわかるだろうと思う。デビューからまだわずか五年なのに、ずいぶん舟木君も成長した、と今さら私なども、ひとしお感慨が深い。
     
    1968年(昭和43年)発売 
     
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    イメージ 14オレは坊ちゃん 作詩:西条八十 作曲:船村徹  
    (3曲目です)
     
    オーイおれは坊ちゃん 江戸っ子だい
    好きなばあやの お清に別れ
    初の船旅 四国へ来れば
    キザな赤シャツ まぬけな野幇間(のだいこ)
    暮れりゃ 東京の灯が恋し
     
     
    喧嘩鳶~野狐三次 作詩:村上元三 作曲:船村徹
     
    さっとかつぐは に組の梯子
    神田日本橋 花が咲く
     「そおれ 火事は近けえぞ
      さあ 繰り出せ 繰り出せ」
    腰の鳶口 伊達には差さぬ
    おいら に組の野狐三次
    江戸の名物 喧嘩鳶
     さあ どいた! どいた!!
     

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    私が、舟木さんに再会できたのが、一年前の9月9日でした。大阪の新・歌舞伎座の特別公演「浮浪雲」と「シアターコンサート」の舞台です。ということなので、9月10日の本日から私の舟木さん追っ掛け二年目に突入ということになります。これは、とっても私事ですが、やっぱり「復活記念の日」として日記にアップしておくべきかなぁ・・と思い立ったのが昨晩遅く・・10日に日付けが変わってからです。ちょっとばかり・・ダラダラと、一年前の記念すべき「再会」に至った経緯を記しておきます。
     
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    私は二十代の初めから、四十年近くの間、関西で暮らしていました。大阪~兵庫~大阪~京都・・と関西のあちらこちらで人生のほぼ半分以上を過ごしました。ことに、最後の十年ほどは、生活にも少しゆとりができて、文楽、歌舞伎、能・狂言、落語、もろもろの演劇・・その他様々な舞台芸術を主に、関西を足場にして楽しませてもらいました。
    2012年5月で二十数年勤めた生活協同組合連合会の職を定年退職となり、その後10月までは、契約職員として勤務することになっていました。郷里に戻る10月を前にして、それまでの土日は田舎に引っ込むと機会が減ってしまうナマの舞台を、とにかくみっちりスケジュールを組んで楽しもうと思っていました。
     
    さて、昨年9月9日の日曜日に舟木さんの「特別公演」を観に行ってみようと決めたのは、8月の初めくらいだったと思います。なぜ、そうしたかというと、これまた、積極的な意志ではなく、パソコンを開いてネットの「チケットぴあ」サイトで9月9日の関西での諸々の公演を「アトランダムに検索をかけていたら、ひっかかってきた」という、なんともイージーな動機です。
    「?舟木一夫?」・・・そういえば昔、好きだったなぁ・・・順吉さんだ!・・・なんだかここんところ、また中高年の間で人気が出てきてるって聞いたような気がするな・・・どんなになってるんだろう?、なんたって70歳近いもんねー、でもお芝居も面白そう・・・「絶唱」とか聴いてみたいし、好きだったけど、結局ナマの舟木一夫って今まで、見たことないし・・三重に帰ったら、もう見る機会もなさそうだし・・・え~っとチケットはいくら?三階席なら・・・うん安い安い・・落語会よりも安いくらい(笑)・・・じゃあ、まぁ、行ってみるか・・・という感じでした。
    行ってみるか・・と決めたはいいのですが、今の舟木さんのファンというのはすごい熱烈おばさまたちが多いと聞いてもいたので、会場の雰囲気がどんなものか、歌舞伎や文楽など伝統芸能なら、ひとりで行くのも平気で慣れてるのですが、大衆演劇や人気歌手のコンサートには全く不慣れな私には、予想がつかない世界でしたから会場に入る時も、かなりキンチョーしました。三階席の1列目でしたから、まだ一階席よりはアウエイ感は薄かったかもですが、それでも、ドキドキものでした。今なら舟木さんに会えるのでドキドキなのですが、この時ばかりは、周囲の人たちの中で浮いてしまいそうな、落ち着かない感じがありました。
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    先ずはお芝居・・・「浮浪雲」です。かるーいタッチの人情喜劇で、舟木さんは実に飄々として肩の力が抜けた佇まい・・・「絶唱」の順吉さんとはエライ違い(笑)でも、舟木さんのセリフのひとことひとことが、なんとも人生哲学に満ちていて、いいお芝居だなぁ・・と思いました。それに舟木さんが演じるあの雲さんの派手な着流しと髷が、不思議な事にとってもお似合いなのです。立ち姿も声も色気にあふれていて、しかも温かみのある風情・・・「今でも人気があるのは、わかるなあ」というのがその時の第一印象です。
     
    そして、いよいよシアターコンサート・・・何よりも驚いたのは、例のプレゼントの場面です。舟木さんがデビューされた頃にテレビで観た光景、さすがにテープこそ飛んではきませんが、ステージ上のスターにレイを賭けにいったり、花束やリボンを掛けたプレゼントを渡しにいくファン、歌いながらステージから受け取りにいくスター・・まるで昭和のあの時代にタイムスリップしたような光景を見た時には本当に驚きました。
     
    以下は、このブログをスタートさせた以前に、mixiで伝統芸能についての日記を6年ほど記していたので、2012年9月9日の記録も、mixiで残していましたから、そこから転載したものです。
     
    その時の私の感想がコレ
     
     
    本当に、偶然とも云える「再会」だったのですが、この時に再会した舟木さんは、長かったブランクをものともせずに私の心を鷲掴みにして下さいました。コンサートが終わって、素敵だったなぁ、・・・どうしてこの人は、50年経った今も、こんなに素敵なんだろう?・・私の錯覚だったのかな?・・・よ~し、もう一回、公演中に確かめに来よう!・・・というわけで、千秋楽前日(この時点で千秋楽のチケットは既に完売でした)の21日に再び新歌舞伎座に向かいました。そして、やっぱり舟木さんの素敵さは、ホンモノでした(笑)
    9月9日の「再会」以来、私の中でどんどん舟木さんの存在が大きくなっていったのですね。
     
    この一年間で、なんとか長かったブランクを埋めようとして、とにかく舟木さんの音源を集めるところから始めました。以下は、この一年で、私が舟木さんの旅路をプレイバックしたり、今の舟木さんに少しでも近づきたいとう想いを助けてくれた大切なものたちです。ほかにも映画のDVDや舟友さんの御好意で、いろんな資料にめぐり会うこともできました。全部をご紹介することはできませんが、たくさんの舟友さんのおかげで、舟木さんのこれまでの旅路にちょっとずつ近づけた想いがしています。感謝の気持ちでいっぱいです。これからも、舟友の皆さまと一緒に舟木さんの55年目に向けて旅をしていけたらこんな嬉しいことはありません。人生の秋を迎えた私に、こんな幸せな時間を下さった舟木さんと舟友の皆さまに心からの感謝を込めて・・・ありがとうございます、そして、これからもよろしくお願いします。
     
     
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    明治座  舟木一夫 7月特別公演 (1969年7月4日~7月31日)
     
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    昼の部  11時開演 
     与次郎の青春  2幕8場
    原作:夏目漱石「三四郎」より
    脚本:土井行夫 演出:戌井市郎
    佐々木与次郎:舟木一夫
    小川三四郎:久保明
    広田先生:伊志井寛
    里見美禰子:光本幸子
    ほか
     
    舞台脚本のあらすじ(パンフレットより)
     
    小川三四郎と佐々木与次郎は親友だ。三四郎は九州から上京した田舎の青年。与次郎は都会育ちの要領のよい青年だ。明治四十年の初夏の午前、三四郎は大学の池の畔で美しい女性に逢う。その名は里見美禰子。数日後、与次郎、三四郎の師、広田先生の家の引っ越しだ。与次郎は広田先生の居候だ。そのうち、美禰子が手伝いにきた。美禰子を好きな与次郎も、三四郎も大張りきりだ。一同がひと休みしている所へ飛びこんできたのは牛肉屋のおすぎ、与次郎のことを惚れて追い回している娘だ。与次郎も要領よく合わせているが、今日みたいに
     
    イメージ 2美禰子の前では困る。これで、大分、美禰子の点が落ちた。
    数日後、広田先生を大学の教授にしようとしている与次郎は、同志の集会を開くが反対派のために集会も最後は大喧嘩となる。反対派は新聞で与次郎の書いた広田先生讃美の論文「偉大なる暗闇」をとりあげて批判した。それに悪いことには「偉大なる暗闇」の筆者は与次郎ではなく三四郎になっている。でも、この論文に感心した美禰子に三四郎はえらいモテようとなる。くやしがる与次郎。
    また、幾日かたったある日、広田先生は教え子をつれて団子坂の菊人形を見物した。気分の悪くなった美禰子に連れ立った与次郎は、なんとか広田先生の大学招聘と三四郎の美禰子への愛を成就させようと心に決めていた。雨が降ってきた。三四郎が心配して戻ってきた。美禰子をまかせて与次郎は先に帰った。美禰子と三四郎の間にはなにか流れるものはあるが、激しくはない。通りかかった人力俥に乗った男が美禰子に声をかけた。立派な男である。美禰子は男にすすめられるままその俥に乗った。雨の中に一人立つ三四郎。雨に濡れて熱を出した三四郎を見舞った美禰子の友人よし子の話で、美禰子が婚約したことを知る。そして、広田先生の大学招聘も失敗した。与次郎も三四郎もがっかりである。だが、二人とも若い。希望に満ちている。失敗も失恋もサラリと忘れ、肩をくんで元気に歩み出すのだった。
     
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    明治座座長公演三年目のお芝居は、昼が「与次郎の青春」・・・最初はピンとこなかったのですが、調べてみて漱石の「三四郎」に登場する妙な友人が与次郎であることを思い出しました。なぜ、三四郎でなく、舟木さんがこの一風変人とも思える与次郎を演じることになり「与次郎の青春」というテーマでの上演になったのか?私なりに、もう一度、そこに焦点を当てて「三四郎」を読み直してみました。先ずは以下の資料から、「与次郎の青春」をひも解いてみることにします。
     
    ~ウィキペディア「三四郎」より~ 
    (与次郎のモデルは鈴木三重吉)
    『三四郎』(さんしろう)は、夏目漱石の長編小説である。1908年(明治41年)、「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載。翌年5月に春陽堂から刊行された。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。
    三四郎は、漱石の弟子である小宮豊隆がモデルである。小宮は、福岡県仲津郡(明治29年京都郡に編入)久富村(現在の京都郡みやこ町)に生まれ、旧制の福岡県立豊津中学校(現在の福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)から、東京帝国大学文学部に進む。三四郎が熊本の第五高等学校出身とされている点は、小宮の経歴とは異なる。なお、育徳館高等学校の校庭には、小宮豊隆文学碑を中心とする「三四郎の森」がある。三四郎の故郷を「熊本」と誤解しているものは、いわゆる「知識人」の中にも少なくない。正しくは、本文中(第1章)に「正直に書いた」と記されている通り、福岡県京都郡(旧豊前小倉藩〈豊津藩〉領)のある農村である与次郎も、同じく漱石の弟子の鈴木三重吉がモデルである。美禰子は、漱石の弟子である森田草平と心中未遂事件を起こした、婦人運動家平塚雷鳥がモデルである。彼女は一流のお嬢様の身で、漱石の弟子と謎の心中事件を起こした。そんな彼女の生きざまを知り、女性の神秘さを描いたとされている。野々宮のモデルは、同じく弟子である、物理学者の寺田寅彦である。

    与次郎のモデルといわれる  鈴木三重吉とは ウィキペディアより~
    日本の近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えた「赤い鳥」の創刊者。鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊した。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。表紙絵は清水良雄が描いた。その後菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した。
     
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    二十代後半に夏目漱石にハマって、手当たり次第、読んだはずなのですが、「三四郎」に登場する与次郎のキャラはあまりに破天荒で、その頃の私には全く、心惹かれる人物ではなかったのでしょう。多分、今でも与次郎は男性にはある種の共感を呼ぶタイプの男ではないかと思いますが、女性から見るとただただデリカシーのないちゃらんぽらんな男というキャラクターだと思います。でも、舟木さんが演じたのですから、なんとか与次郎を「再発見」しなくては(笑)・・・とあらためて「三四郎」を読み返してみました。「与次郎再発見」を目的にしたその読後感は・・・とちょっとまとめてみました。
     
    漱石原作の「三四郎」の中での与次郎の役割とは?
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    「三四郎」に登場する人物たちの中で与次郎だけが、本音で生きている印象がある。「困った人だが、羨ましい人」だというニュアンスがあるような気がする。与次郎の言動を通して、漱石は自分自身の本音を表現しているような感じも受ける。こうして、与次郎を底抜けに明るく天真爛漫に性格づけしていることで「三四郎」という小説がある意味で「青春小説」として成り立っているように思った。脚本の土井行夫氏、演出の戌井市郎氏は「三四郎」の中の与次郎をどのような人物として捉えていらっしゃったのか?また、何故舟木さんに与次郎を演じさせようとなさったのか?「三四郎」を再読して、ほんの少しわかったような気がしています。
     
    それでは、小説「三四郎」の中で、与次郎は美禰子をどう思っているのか?そして、美禰子は?
     
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    与次郎に金を貸した三四郎は自分の下宿代が払えなくなって、その金を美禰子に借りることになってしまいます。その時の、三四郎と与次郎のこういう会話が原作にはあります。
    与次郎「それで、美禰子さんが引き受けてくれて用立てしますと言うんだがね」
    三四郎「あの女は自分の金があるのかい?」
    与次郎「そりゃ、どうだか知らない。然し、とにかく大丈夫だよ、引き受けたんだから。ありゃ、妙な女で、年のいかない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質(たち)なんだから、引き受けさえすれば安心だ。心配しないでもいい。宜しく願っておけば構わない。」
    与次郎は美禰子が三四郎のために金を用立てることで三四郎と美禰子の仲が接近するように取り計らっているように書かれている。それからしばらく経過した頃の、三四郎と与次郎の会話、まだ与次郎は三四郎から借りた金を返していないが、明らかに自分に都合のいい言い訳のようなたとえ話をしてこう言う・・・
    「そういうこともあるからなぁ・・」と与次郎が言った。三四郎には可笑しいだけである。高い月を仰いで大きな声を出して笑った。金を返されないでも愉快である。与次郎は「笑っちゃいかん」と注意した。三四郎は猶、可笑しくなった。「笑わないで、よく考えてみろ。己(おれ)が金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることが出来たんだろう」三四郎は笑うのをやめた。「それで?」「それだけで沢山じゃないか。・・・君、あの女を愛しているんだろう」与次郎はよく知っている。三四郎は、ふんと言って、又高い月を見た。月の側に白い雲が出た。
    「君、あの女にはもう返したのか?」「いいや」「いつまでも、借りておいてやれ」
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    与次郎にとっては美禰子は、気になる女性ではあるが、決して特別な女性ではないような気がする。好奇心旺盛な与次郎だから美禰子のような、謎めいた娘への関心や興味はあったとしても、対象物として観ているだけのような存在なのかも知れないと原作からは読み取れる。そして、さらに三四郎という親友の美禰子への恋心も感じ取っていてその想いを彼なりに遂げさせてやりたいという、男気のあるいいヤツであるように描かれている。

    与次郎は、また同じように、広田先生が教授にふさわしいという世論を自分が中心になって巻き起こせば事は成功するとお気楽に信じている。自分の力で広田先生を教授にするという思いつきを実行するために奔走することを単純に楽しんでいる。だから、与次郎の運動が失敗し新聞や雑誌で中傷されても広田先生は与次郎を真剣に叱らない。広田先生にとっては、むしろ教授にされる方が大迷惑なのだから・・出世を拒否している広田先生は、与次郎もまた、出世とはまるで無縁の男であることがわかっていて、与次郎のやりたいようにさせているようだ。
     
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    それでは美禰子の与次郎に対する気持ちはどうか?
    利発な美禰子は、与次郎が自分を特別な女性として観ているのではないことをよく知っている。.美禰子は、自分の周りにいる男は、誰でも自分の影響を受けるという自意識の強い娘だが、与次郎には全く影響力を持てないこともわかっているから、与次郎は無視して、自分に気がありそうな三四郎には気を持たせるような態度をとっているのでは?美禰子には、まだ大人になりきれていない少女のような気まぐれさや残酷さがほの見える。
     
     
    イメージ 92 舟木一夫ヒットパレード 夢を唄おう 
     
    追憶のブルース/二人だけの街角/おやすみ恋人/夏子の季節/月とヨットと遠い人/真珠っ子/太陽にヤァ!/南国の夜/夢淡き東京/東京の椿姫/学園広場/癪な雨だぜ・大学数え唄(守屋浩)/夕映えのふたり/若い夜(自作)/慕情の街/オレは坊ちゃん/永訣の詩/残雪/すてきなあなた/青春の鐘/京の恋唄

    この、昼の部で「ヒットパレード」で歌われている中の「若い夜」と「慕情の街」はアルバム「舟木一夫花のステージ 第10集」収録(1971年3月発売)のオリジナル曲です。
    *「若い夜」は、高峰雄作のペンネームでの自作詩です。このアルバムについては、別途、追って掲載します。
     
     
    「明治座~二十代の舟木さんの舞台公演の足跡をたどる・その2(下)」につづきます
     


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    舟木さんに関する様々な情報の発信ブログ「武蔵野舟木組」よりの提案企画をご案内します。
    (提案者:さすらいさん)
     
         2013年9月19日(木曜日)  午後7時30分~午後8時30分
              あなたの街からお月様を見上げてください。
     
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    さすらい企画の「第七回 みんなで満月を眺めよう」のご案内です。
    以前にもお知らせした企画ですが、開催が一週間後に近づきました。
    今日13日は、綺麗な半月が出来ています。上弦の月です。
     
    十五夜(中秋の名月)にお月見をする習わしがありますが、必ずしもそれが満月の日になるとは限りません。
    十五夜(中秋の名月)は、旧暦の8月15日をさします。
    今年は嬉しい事に、十五夜の日は満月の日です。9月19日は、十五夜で満月の、中秋の名月になるわけですね。
     
    http://blogs.yahoo.co.jp/kanbon1949/45803623.html  ←詳細はこちらから
     
     
     
    私が探してみた舟木さんの「月」が登場する歌あれこれ・・・「月」のでてくるフレーズだけひろってみました。他にもたくさんあるような気がします。思い出された方、教えて下さいね
     
     
    イメージ 2敦盛哀歌
    一の谷吹く 風さむく
    吹けば悲しき 横笛の
    の調べは 流れても
     
    夕笛
    ふるさとの蒼い夜に
    ながれくる 笛の音きいて
     
    夕月の乙女
    面影あわく しのばせて
    ポプラにかかる 夕
     
    真珠っ子
    白い夜に 真珠っ子
    おまえは どこからきたの
    (四曲目です)
     
    貝がらの唄
    青い夜の白砂に
    輝く真珠のこぼれ露
     
    月とヨットと遠い人
    の夜に 独りしのぶ
    つぶらなる あの瞳
     
    噂めぐり
    白く浮かび 今 暮れる京都
    水 影をうつし
    (四曲目) 
     
    一葉舟
    やわらかに 水をたたえる
    名もなき里の 細き流れよ
    ほとりでひとり 夜を待てば
    忘れろが 水面にゆれる
     

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    イメージ 1ひとつ前の日記、「明治座~二十代の舟木さんの舞台公演の足跡をたどる・その2(上) 」では、1969年7月の明治座公演・昼の部からご紹介しましたが、ブログの文字数制限の関係で、尻切れトンボになってしまいました。もう少しだけ、私の感想の続きを記させていただきます。
     
    昼の部の第一部のお芝居は「与次郎の青春」、これは夏目漱石の「三四郎」に登場する三四郎の学友である佐々木与次郎という青年に焦点をあてて、脚色されたものだったようです。原作から読み取れる与次郎は三四郎とは対照的な自由奔放で行動的で、思慮分別に欠けるような青年として描かれています。ですから周囲の人たちは与次郎に少なからず迷惑を被ることが多いのですが、本人には全く悪気がなく、また何故だか憎めないキャラクターなのです。人の気持ちを慮るような、やさしいところもあって、その生き方は周囲の男たちからは「ちょっと羨ましい奴」・・・と思われているフシもあるようなのです。こういったかなりユニークな役を演じるには、それなりの演技力と役者本人が持って生まれた匂い、自然と醸し出す愛嬌というものが求められる役どころでもあります。舟木さんが実際に舞台上で与次郎をどのように演じられたのか、拝見していない私は想像力だけで想い描くしかないのですが、原作「三四郎」の中の与次郎と三四郎との会話部分を読んでいると、舟木さんの声や舟木さんの言い回しが聴こえてくるような気がしてくるから不思議です。なお三四郎役をなさった久保明(今も御健在です)さんは、故山内賢さんのお兄さんです。
    昼の部の「ヒットパレード~夢を唄おう」では、コロムビアの先輩歌手である守屋浩さんがゲスト出演されています。パンフレットを見ると、守屋さんのヒット曲「大学数え唄」をおふたりで一緒に歌っていらっしゃるようです。
     
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    この7年間(1967~1973)続いた明治座公演では、お芝居も昼・夜で演目を変えています。そして、もちろんヒットパレード(歌謡ショー)も昼・夜で構成が全く違っています。歌謡ショーはともかく、役者が本業ではない舟木さんが、座長として主役をはって、昼・夜で2本の芝居の主役を演じ分けていらしたことに先ず驚きました。お芝居の内容としても、脚本家、演出家のお名前を拝見しても決して御座なりではなく、一流の方ばかりです。殊に戌井市郎氏は(2010年没)文学座創立時から演出をされて、新派・歌舞伎の演出も数多く手がけられた演劇界の重鎮です。舟木さんは若い頃から、こんな人たちの中心に居て修錬を積んでこられたんだなぁ・・・と本当に感激しました。
     
    さて、それでは、夜の部に入ります。
     
     
    夜の部  5時開演 
       新納鶴千代   4幕12場
    原作:郡司次郎正「侍ニッポン」(春陽文庫)より 
    脚本・演出:土橋成男
     
    イメージ 4新納鶴千代:舟木一夫
    一条成久:伊志井寛
    菊姫:光本幸子    
    ほか
     
    舞台脚本のあらすじ(パンフレットより)
    日本橋の料理茶屋「山崎楼」の表で酒に酔った無法浪人たちの手から美しい町娘を救った新納鶴千代はなぜか、名も告げず立ち去った娘の面影が胸に残った。娘の本当の名は菊姫、姿こそ町娘だが京の公家一条成久の息女である。父成久は倒幕を志し、娘の菊姫を幕府の高官に近づけさせ、隠密の役をさせようというイメージ 5のだ。そしてその高官は井伊直助だった。目的のために娘に操をも棄てよと言う父が、菊姫に
    は恨めしい。そして、先刻のあの若い浪人者の面ざしが心に浮かんだ。
    あの日本橋で、悪浪人たちを追い払った新納鶴千代の腕前に目を付けた侍がいた。水戸藩士野村常之介だ。野村も尊王の士、倒幕のために井伊大老を倒す同志になってイメージ 6くれと鶴千代を口説く。井伊大老の命と聞いて鶴千代は何故か同志となることを承知した。鶴千代は江戸をはなれ、水戸に行ったが心にあるのはあの女のことばかりだ。一方、菊姫は菊という名で幕府の要職のものがよく来る狐狸庵につとめる。菊の美貌は老中酒井若狭守らの目に付くが菊は井伊大老以外の者にはしたがわない。そんな時、水戸から帰った新納鶴千代と菊姫は再会する。鶴千代は菊になにか仔細があるとさとり、後をつけて一条成久の隠れ家を知り、また、一条成久の野望を知った。成久は鶴千代に井伊大老を殺すように、菊姫にすすめてくれと頼む。なぜか鶴イメージ 7千代はうす笑いをうかべて承知する。その夜、菊姫に逢った鶴千代は直弼暗殺をすすめる。そして、言った、「俺の父は井伊直弼だ」と・・・井伊家にあがった菊姫は直弼の酒器に毒を入れることができない。そして、直弼の口から鶴千代を愛していると聞いた。その頃、一条成久の隠れ家は捕り方にとりまかれた。ことは露見したのだ。成久は乱闘のうちに死んだ。「井伊大老を斬れ!」の言葉を残して・・・あくる三月三日、江戸は大雪だった。桜田門に井伊大老の行列がしずしずとすすむ。
     
    パンフレットでは、ここまでしかあらすじが書かれていないのですが、実際の舞台では、どこまで描かれていたのか・・・ちょっとわかりません。ご覧になった方がいらしたら、教えて下さ~い。
    とりあえず、原作の「侍ニッポン」は5回(1931年初映画化)も映画化さているそうなので、その中の1957年公開のもののあらすじも掲載しておきます。映画では鶴千代は父直弼と運命をともにするという結末になっています。お芝居でもラストシーンは映画のようだったのでしょうか???
     
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    ~侍ニッポン 1957年公開より~  監督:大曾根辰保  脚色:久板栄二郎 
    新納鶴千代:田村高廣   井伊直弼:八代目松本幸四郎   母お鶴:山田五十鈴
    徳川末期、時の大老伊井直弼は開国政策強行のためこれに反対する攘夷派の人々に断罪の命を下し世情は騒然たるものがあった。彦根藩の藩医新納草庵の息子鶴千代は父の死後お鶴とともに江戸に出、沢村道場に学んでいた。だが菊乃との縁談を断られ自分の出生に疑いを持つようになってから、いつしか道場の親友、竹之介にすすめられるまま茶屋酒に溺れるようになった。実は、鶴千代は直弼がまだ部屋住みの頃、当時舞妓だったお鶴との間に出来た子であった。~中略~浪士達が桜田門外に直弼を襲う時が来た。折りしも降りしきる雪を蹴立てて駈け出した鶴千代の心中に、直弼はすでに大老ではなく一人の懐かしい父親だった。かすかに自分の名を呼ぶ我が子の声を聞いた直弼が思わず駕篭から乗り出した時、その胸を浪士の白刃が貫いた。駈けつけた鶴千代もまた竹之介の刃に倒れた。雪はなおも父子二人の死骸を真白く染めて降り続いていた・・・
     
    イメージ 92 舟木一夫ヒットパレード 夏姿花のステージ
     
    ああ桜田門/新吾十番勝負/敦盛哀歌/浜の若い衆/磯浜育ち/ひぐれ山唄/浅太郎月夜/おしどり道中(光本幸子)/銚子大漁節(光本幸子)/いい湯だな/阿波踊りGOGO音頭/東京百年/一心太助江戸っ子
    祭り/いなせじゃないか若旦那/喧嘩鳶/銭形平次/恋のお江戸の歌げんか(光本幸子)/祭獅子
     
    *「銚子大漁節」にちなんだ、プレイベントの写真(左)もパンフレットに掲載されています。
     
    *「恋のお江戸の歌げんか」は皆さんよくご存知のように光本さんとのデュエットでレコード吹き込みもされています。レコーディング風景。↓
    舟友さんによる動画です。若々しいお二人のデュエットをお楽しみ下さい。
     

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    ああ !! 桜田門 (1969年7月発売)
    作詩:西沢爽 作曲・編曲:船村徹

    剣じゃ斬れない 天下の流れ
    知っていながら おれは行く
    新納鶴千代 唇かめば
    赤い雪ふる 桜田門
     
    敵がありゃこそ 今日まで生きた
    夢がむなしい 江戸の春
    野暮はよせよせ 勤皇佐幕
    可愛い女が 泣くだけよ
     
    一夜あければ 時代が変る
    いつかおれなど 忘られる
    せめて刻むか 桜田門の
    雪にはかない 武士の名を
     
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    ちなみに、これもよく舟木さんがステージのトークで話されてますが「新納」は「しんのう」ではなく「にいろ」と読みますが、この曲を吹き込んだ徳山という歌手が、間違えて「しんのう」と歌ったので、そのまま歌い継がれているようですが、舟木さんは「あぁ!!桜田門」では「にいろつるちよ」とされています。
    侍ニッポン (1931年)は、西条八十の作詩で大ヒットしました。
    これはなぜか子どもの頃から私もよく歌ってました。もちろん、意味もわからず・・・(笑)
     
    作詩:西条八十 作曲:松平信博
     
    人を斬るのが 侍ならば
    恋の未練が なぜ斬れぬ
    伸びた月代(さかやき) 寂しく撫でて
    新納鶴千代 にが笑い
    *左の写真は、宣伝用の扮装写真を屋外で撮影した時のものだそうです。外国人の子どもたちに取り囲まれて刀を見せている舟木さんの写真も掲載されていました。皇居のお堀が見えてるので、桜田門のあたりでしょうね。
     
     
    6月の演舞場でも「花の生涯~ひとひらの夢 長野主膳」で井伊直弼にまつわるお芝居をされた舟木さん、44年前に、直弼の御落胤、新納鶴千代を演じていらしたこととのご縁が、ここでも繋がっているのも、とても感慨深く思えます。

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    舟木さんの後援会発足当時から、後援会の活動を支えてこられた藤谷和子さんが、9月10日にお亡くなりになりました。
     
    心よりの感謝と哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。  
     
    合掌
     
    詳細については、舟木さんに関する諸々の情報の発信ブログを管理されている「武蔵野舟木組」(さすらいさん)のブログから転載させていただきました。↓
     
     
     
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    明治座  舟木一夫 8月特別公演 (1970年8月1日~8月28日)
     
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    昼の部  11時開演 
      新吾十番勝負  2部 12場
    原作:川口松太郎「新吾十番勝負」(朝日新聞・新聞小説より)
    脚本・演出:土橋成男
     
    美女丸(後に葵新吾):舟木一夫
    お縫・お咲:光本幸子
    松平頼安:伊志井寛
    梅井多門:河原崎権十郎
    真崎庄三郎:花柳喜章
    徳川吉宗:岩井半四郎
    お鯉の方:長谷川季子 
    ほか
     
    舞台脚本のあらすじ(パンフレットより)
     
    享保七年の秋、秩父山中大台ケ原にある自源流、真崎道場近くの山道である。真崎備前守の道場には、日本中から集まった剣士で賑わっているのだ。その数、三千人を越えるといわれている。夕暮れの道を秩父神社の宮司の娘のお縫がやってきた。その時、ほろ酔い機嫌の黒田藩の四人の武士が出てくる。真崎道場へ剣術の修行に来ている武士である。彼らは出合わせたお縫に酔いにまかせて狼藉をはたらきだしたのだ。そこへ一人の若者が現れる。若者は狼藉者を軽くあしらってお縫を救った。そイメージ 2の若者こそ、真崎道場の師範代梅井多門の秘蔵弟子、美女丸と呼ばれる美剣士である。美女丸とお縫は道場でも仲の良い間柄であった。ところが、またも先ほどの藩士たちが勢い込んで出てくる。先ほどお縫に狼藉をはたらいた際、美女丸から受けた傷を根に持って意趣ばらしにきたのだ。藩士たちは、美女丸の言を振りきって激しく斬り込んでくる。無意識に刀を抜いた美女丸の剣はたちどころに数人の藩士を斬り倒してしまった。その激闘の中に真崎庄三郎が割って入ってきたが、既に美女丸の剣は取り返しのつかない一大事を引き起こしていたのである。呆然と立つ美女丸である。
    その日から、数日後、美女丸の一件は大問題に発展していた。黒田藩の使者が道場に談判にきている。道場主真崎備前守に対して、二人の使者は早速にも美女丸を引き渡すようにとせまるのだ。使者をひとまず帰したあと、備前守、庄三郎、そして梅井多門の三人は最後の決断を話し合った。誰もが美女丸を助けようとする気持ちに変わりはない。しかし、相手が相手だけに真崎道場も慎重にならざるをえない。居合わせた鹿島の佐吉や高弟たちのはやる気持ちをおさえ、梅井多門は美女丸を黒田藩に引き渡すと決意するのだ。多門は美女丸を呼び出し、自源流真崎道場の方針を伝える。その言を素直に聞き入れる美女丸である。そんな美女丸を案じてお縫があらわれる。そのお縫も梅井のすすめで江戸城大奥へ上がるというのだ。二人の間には、もう大台ケ原での楽しかったすべてが思い出になろうとしている。互いに背負った宿命を持ちながら、秩父山中を降りて行くのだった。
    それから一ヶ月後、黒田藩の居城に到着した美女丸の一行は松平綱政の御膳に額突く、綱政は美女丸切腹を申しつけた。その綱政の命令に対して付き添った多門は、美女丸出生の秘密を告白しこの美女丸の命だけはと懇願する。美女丸の父はイメージ 3当代将軍徳川吉宗公であり、母は吉宗の側室お鯉の方であるという。将軍家のご落胤という美女丸の身分を打ち明けた多門の言葉に、綱政ら一同は驚きの表情で、目前に座す若い美剣士をあらためて見なおすのだった。美女丸は、はじめて己の出生の秘密を知ったのだった。一方、江戸城奥ノ院では、美女丸出現が大変な噂となって広まっていた。その噂は、すでにお鯉の方の耳にも入っていたのだ。お鯉の方はいまでは、奥女中になっているお縫を呼び寄せ、赤子の時、別れたままになっていた美女丸のことを聞き出すのだった。涙を湛えて美女丸を案じるお鯉であった。そこへ将軍吉宗が入ってくる。お鯉は二人の間に生まれた美女丸を、一刻も早く江戸城内へ迎えてほしいと申しでる。だがすでに、美女丸出現の噂は二人にはどうすることもできない難題をはらんでいたのである。城中のみにくい争いが何も知らない美女丸を間に起きようとしていた。そうした、城内の動きの中へ梅井多門と美女丸は登城した。いまだ相見えぬ父と母に初めて会える期待を胸に秘めてきた美女丸であった。だが対面は許されず、温かい将軍吉宗の言葉を伝えられるのみだった。松平頼安から示された書状には、父から授かった美女丸の新しい名前があった。「葵新吾」・・・今日からは葵新吾と名乗るようにとの言葉に、新吾は一切を忘れて心から喜びの言葉を告げる。久方ぶりに会うお縫も、新吾の新しい門出を喜んでくれた。江戸城外の濠端の道を二人は歩いた。過ぎ去った昔を思い出しながら・・・突然、二人の前に黒覆面の刺客が現れる。美女丸をねらった魚住源左衛門である。だが、葵新吾と名を変えた美女丸は、襲いかかる刺客たちを自源流の道場で学んだ剣さばきで鮮やかに斬り倒してしまった。剣の修業に諸国を歩もうとする葵新吾の真剣勝負が見事な勝利で始まったのである。
    イメージ 4それから三年の歳月が流れた。ここは、常陸の鹿島神社近くである。日本一の春の大祭が近付いた鹿島の里は近在の人々が集まり大変な賑やかさである。その日は、江戸城内からも代参が訪れそのための縄張り争いが起きている。そうしたところへ逞しく成長した葵新吾が庄三郎を供にやってきた。世間の様々な事を知りたいという新吾である。この日も、秩父大台ケ原で知り合った佐吉の苦渋を知り。新吾は手助けを申し出るのだった。その佐吉にも娘お咲との間に暗い過去があった。お咲は酌婦であった。江戸城内にいるお縫とあまりにもよく似た顔かたちに新吾はあらためてお咲の身性を憐れむのだった。鹿島神社の祭礼が間近に迫った。将軍様の代参はお鯉の方が出られるとの噂である。騒然とする鹿島の里、そうした中を新吾は佐吉の一件で働いていた。人間同士の信頼を大切にしたいという新吾の気持ちは強かった。遠く漁火が見える大船津の料理屋。お咲のすべてを知ろうとする新吾。女の心を学びとろうとする新吾である。
    そんな時、新吾との対面を心待ちにしているお鯉の方の気持ちを新吾に直々に伝えようと、お縫がひとあし早く鹿島神社にやってきた。新吾とお鯉の方が鹿島神社で対面するという噂は既に祭り見物の人々の間に広まっている。新吾は母との対面にどんな気持ちで待っているのか、多門も頼安もその心を案じかねていた。新吾は二人に自分の気持ちを言った。・・・幼な子は母に抱かれ、母を呼ぶことから言葉を覚えてまいります。だが、私にはその時期がありませんでした。母という言葉をしらず、父という言葉も知らずに育った、そんな私に、何んと呼べとおっしゃるのです。・・」と考え込む新吾に、頼安、多門は返す言葉もない。
    鹿島神社の参道には悪代官の下島甚右衛門ら道中警固の面々が新吾の命をねらって待ちかまえている。お鯉の方代参の行列を目前にしてあたりはどことなく落ち着かない。そんなところへ、新吾がやって来た。一瞬の間だった。新吾は佐吉を助けて下島一味を斬ってしまう。佐吉とお咲の父娘の和解を遂げた新吾は梅井多門、真崎庄三郎と共にお鯉の方を迎えた。二十一年の年月の後、母と子は喜びの対面をした。一同の見守る中を、新吾は声を限りに呼んだ。「母上!・・・母上!・・」
     
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    2 舟木一夫ヒットパレード ~歌の花!心の虹!!~
     
    新吾十番勝負/葵の剣/京の恋唄/夕映えのふたり/荒城の月(淀かほる)/高校三年生/学園広場/冴子よおまえは/再会/北国の街/雨の中に消えて/ブルートランペット/高原のお嬢さん/星の広場へ集まれ!/心配だからきてみたけど/北国にひとり/アロハ・オエ(淀かほる)

    *冴子よおまえは 舟木さんの自作詩の曲(組曲より)となっています。作詩:高峰雄作 作曲:山屋清
    ・・どなたか詩をご存知なら教えてくださ~い!
     
    イメージ 5新吾十番勝負 作詩:植田梯子 作曲:安藤実現
     
    さびしかろうと 涙は見せぬ
    耐えて育った 山と河
    抜いた刀に 抜いた刀に
    涙かくして
    新吾強いぞ 一人旅
     
    水に捨てよか 儚い恋は
    いずれ一夜の 忘れ草
    若いいのちを 若いいのちを
    勝負にかけて
    葵の剣は きょうも舞う
     
    誰が吹くのか 横笛遠く
    風に流れて 消えてゆく
    今宵新吾の 今宵新吾の
    十番勝負
    なぜかさびしい 月明り

    http://www.youtube.com/watch?v=2RGqJpua72Q
    大川橋蔵さんの美剣士ぶりの映像と舟木さんの歌唱でお楽しみください↑
                              
                               平成11年(1999)中日劇場公演での新吾です。貫録!↓
     
    イメージ 7葵の剣 作詩:土橋成男 作曲:山路進一
     
    色もゆかしき 葵の紋に
    母の面影 求めつつ
    剣を命の 十番勝負
    ああ 葵新吾の行くところ
    白刃(はくじん)冴えて 雲を呼ぶ
     
    香り胸打つ 葵の紋に
    父の呼ぶ声 ふり捨てて
    剣を命の十番勝負
    ああ 葵新吾の行くところ
    白刃冴えて 夢を斬る
     
    明日は花咲く 葵の紋に
    映えてまぶしき 日の光
    剣を命の十番勝負
    ああ 葵新吾の行くところ
    白刃冴えて 虹をかく
     
    文字数制限の都合上、その3(下)にもう少し続きを書きます)

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