春の花なら 山椿
秋の花なら 笹りんどう
生まれ故郷に 別れをつげる
君のこころの さみしさを
泣くか山彦 泣くか山彦 オーイ
涙ぐもりの 杉の木峠
人の別れを 西東
しるす古びた 道しるべ
土地が変われば 暮しも変る
身体大事に するんだと
風に叫んだ 風に叫んだ オーイ
声がちぎれる 杉の木峠
町の駅まで 七曲り
別れ峠は 村境い
旅の苦労に 疲れたときは
意地を張らずに 帰んなよ
思い案じて 思い案じて オーイ
俺が待ってる 杉の木峠
この歌、春日八郎さんの「別れの一本杉」を思い出せますね。舟木さんの高音の透明感のある響きがとても素晴らしく、心が洗われるような爽やかさ。演歌調なのに、「抒情歌」の香りがするのは舟木さん独特の魅力です。春日八郎さんの晩年の歌声の「別れの一本杉」も聴いてみてください。
どちらも、しみじみ胸に沁みる「ふるさと演歌」です。
「我が道」11日目のタイトルと関連資料などご紹介します。
僕は「舟木一夫」になるかもしれなかったんです!(2016.07.23の記事).
デイリースポーツ連載(2016年7月10日~12月24日)の「橋幸夫コラム」
から上記回の記事・写真を転載させていただきました。
レコード会社の専属制度により、遠藤実先生から旅立ち、吉田正先生の元で勉強しながらデビューが決まりました。1960年です。 ですが、そこで決めなければならない、大事なことがありました。名前。芸名です。
実はこの時、僕が御三家の一人「舟木一夫」の名前になる可能性があったのです。
デビューに際しては、遠藤先生が自分の元を離れる僕に「芸名はオレが考えるよ」と言ってくれました。それで「こういうのはどうか?」と持ってきてくれたのが「舟木一夫」という名前でした。
遠藤先生は「字画もいいし、縦に読んでもまっすぐに割れるだろう」などと思いを説明してくれました。でもその時は、すでに吉田先生の元に修業に通ってまして。そのため吉田先生の元へ行き「遠藤先生が僕の芸名を考えてくれました」と「舟木一夫」と書かれた紙を提出しました。
「“舟木一夫”か。なるほど。悪くないな」と吉田先生。
このまま決まるのか!でも直後に「だけど本名の橋幸男もなかなかいいのではないか」と、新たな提案をしていただきました。「君もいずれ結婚したら夫になるわけだから。“幸男”の“男”だけ“夫”に替えよう。橋幸夫がいいな」とも。
その時は吉田先生の元からデビューすることになっていたので、吉田先生の意見で決まるのは、当然の流れです。こうして、橋幸夫の芸名が決まり「舟木一夫」は幻になりました。
遠藤先生にも、この経緯は報告しました。「この名前はオレが握りつぶすよ」と言ってくれました。でも育てた弟子の曲も書けず名付け親にもなれず、さみしそうでしたね。
でも、それから3年後の1963年。驚きました。
たまたまラジオで「高校三年生」を聴き、「ただいまの歌は、コロムビアから新人歌手としてデビューしました舟木一夫さんでした」のアナウンス。
「聞いたことある名前だな。ひょっとしてオレにつけようとした名前じゃないか」
実は舟木君も僕の後に遠藤先生のレッスンを受け、デビューしました。デビューに際し、先生が「温めている名前があるよ」と、勧めたこの名前でデビューしたのでした。