船村先生がお亡くなりになって早くも1週間が過ぎてしまいました。深い悲しみに包まれたこの一週間でしたが、初七日も終わり、気持ちをきりかえて、これからも先生の遺された数々の作品を聴いて、先生の偉業を偲んでいきたいです。
そして、明るいニュースも…。皆さん、もうご存知かと思いますが、村木弾さんの新曲が4月にリリースされます。
作曲はもちろん船村先生、そして第一弾と同じく、作詩は舟木さんです。
この曲が、先生の最後の作品となったそうです。村木さんへの先生からの最高のプレゼントであり、これからの歌い手としての厳しい道のりへの激励の作品となることでしょうね。
日本コロムビア HP リリース情報 より
http://columbia.jp/murakidan/info.html
http://columbia.jp/murakidan/info.html
Newシングル「都会のカラス」2017/4/19発売
作曲家・船村徹が生涯最後に遺した曲、それは自身の最後の内弟子に遺した曲でした。
2017年2月16日に永眠した、戦後を代表する作曲家・船村徹。 彼の最後の内弟子・村木弾のデビュー第2弾シングルは、偶然にも船村徹がこの世を去った翌日にレコーディングが行われました。
スタジオには作詩の舟木一夫、船村の長男で編曲家の蔦将包が立ち会い、船村徹が最後の魂を込めた楽曲「都会のカラス」が完成しました。
2017年2月16日に永眠した、戦後を代表する作曲家・船村徹。 彼の最後の内弟子・村木弾のデビュー第2弾シングルは、偶然にも船村徹がこの世を去った翌日にレコーディングが行われました。
スタジオには作詩の舟木一夫、船村の長男で編曲家の蔦将包が立ち会い、船村徹が最後の魂を込めた楽曲「都会のカラス」が完成しました。
2017/4/19発売
「都会のカラス」
作詩:舟木一夫 / 作曲:船村徹 / 編曲:蔦将包
CD:COCA-17291 / MT:COSA-2334 ¥1,204+税
「都会のカラス」
作詩:舟木一夫 / 作曲:船村徹 / 編曲:蔦将包
CD:COCA-17291 / MT:COSA-2334 ¥1,204+税
いつも心で泣いていた 戦後歌謡史を彩った作曲家・船村徹さんを悼む
その訃報に、まだぼうぜんとしている。戦後歌謡史を彩った作曲家の船村徹さんが逝った。享年84。<酒は友 音楽は母>の思いを貫き、いつも心の中で泣いていた人であった。【鈴木琢磨】
津波に耐えた「ひばり像」に涙 北島三郎さんが紅白「卒業」を相談 演歌づくり「難しくなった」
2015年の師走のことである。大みそかのNHK紅白歌合戦に山内恵介さん、三山ひろしさんのフレッシュ演歌歌手2人が初出場するとあって、久しぶりに演歌界に光が差していた。ここは大御所の思いを聞いてみたい、と船村さんを故郷の栃木に訪ねたのだった。宇都宮市内のホテルの一室でお会いした。少し痩せておられたが、お元気そうで、インタビュー中、葉巻から紫煙が上っていた。
「日本人の心に響く演歌は時代が変わっても不滅だと思いますよ。ただ危惧はしている。北原白秋にしても、私が晩年に一緒に仕事をした西条八十(やそ)にしても、日本の古典をよく勉強し、ずば抜けた国語力がありました。近ごろの日本の歌にはその力が欠けている。それにリズム重視で、メロディーもおろそかで」。そしてため息をつき、どうしようもない悲しみを語った。「美空ひばりもいない、(作詞家の)星野哲郎もいない。すし屋なら、さしずめマグロがないような……。寂しいんだ。彼女らが亡くなってからまだ100年も過ぎていないのに、すごく遠く感じるんです」
「あの岬で、ひばりが歌っているよ」と耳にし、私が福島県いわき市に足を運んだのは11年の東日本大震災の直後だった。大津波にのみこまれた海岸沿いの集落は見渡すかぎりのがれき、潮騒と重機のうなり声が響くだけ。でも、耳を澄ませば、美空ひばりさんの歌声が聞こえてくる。塩屋埼灯台のそばに建つ「みだれ髪」の歌が流れる歌碑とひばりさんの像は、大津波にさらわれずに残ったのだ。
♪春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋……。歌の舞台が塩屋の岬であり、船村・星野コンビの名曲である。前年に星野さんは他界していた。私は奇跡のひばり像のことを知らせたく、船村さんに電話した。
「いわき、そう口にするだけで、泣けてくるんです。海も山も、すべてが僕にとっては演歌でした。アリーナにヨットとクルーザーを預けていたんですが、すべて流されました。あれだけの津波でひばり像が残ったのはうそのようです。戦後、そしてこれからの震災後、ひばりさんの歌はずっと、ずっと日本人の力になる。きっとなる。そのための奇跡が起きたと信じています」。受話器の向こうで本当に泣いていた。はなをすする音がはっきりと聞こえた。
波音にかき消されることなく、いつしか岬のひばりは2曲目を歌っていた。「みだれ髪」のB面「塩屋崎(みさき)」。同じく船村・星野コンビの作品である。
♪つよくなろうと つぶやいた そんな自分が 可愛くて
♪負けちゃだめよと ささやいた ひとり自分に うなずいた……。岬からの帰途、船村さんなじみの小料理屋に寄った。ご主人は熱烈な船村演歌ファン。船村さんはのれんをくぐっては、常磐沖のメヒカリやアナゴで一杯やり、色紙を残していた。<酒は友 音楽は母>であったり、<背戸山に泣く木枯らしの声もわたしにとっては演歌であった>であったり。背戸山はいわきの北部にある。作曲家なのにしたためる言葉はまるで詩人のそれである。
さて、再び宇都宮でのインタビュー。尊敬すべき飲んべえの大先輩はニヤリとしてこう言った。夕方6時である。「もういいだろ、続きはゆっくり……」。誘われたのはホテル内にある中華料理店。元歌手で妻の福田佳子さんも一緒だった。紹興酒をやりながら、特製エビチリをつまんだが、演歌界とっておきの裏話が私には何よりのごちそうである。「北島三郎君が紅白を卒業したでしょ。若い子ばかりになり、ついていけないって気持ちになったんだろうな。私に相談があって『これからは自分らしく、納得いく歌手生活を送れよ』と言ったら、踏ん切りがついたようだったね」
関西弁で通す「なんちゃって東京人」を自称する私を大層面白がってくれた。「それでいいんだ。地方創生なんて言っていますが、古里のなまりが消えていっている。私は栃木弁で通していますが、青森駅で東京の標準語を聞くような案配ですから。私にとって日本の原風景は、手ぬぐいをかぶり、かごをしょって歩く母の姿。夕暮れ、家から煙が上り、ご飯の匂いが漂ってくる。戦後70年、そんな風景は遠のきましたが、心の中にずっと残っています」
ほろ酔いのせいなのか、船村さんが涙ぐんでいる。「来年(16年)で亡くなって60年になるんだよ……」。作詞家、高野公男さん(享年26)のことだった。音楽学校で巡り合った2歳上の盟友で、このコンビで生まれた春日八郎さんの「別れの一本杉」が最初の大ヒットになる。「おれは茨城弁で詞を書く。おまえは栃木弁で作曲しろ」。高野さんの言葉を胸に刻み、日本人の情感をくすぐる「船村メロディー」ができていく。その男の友情は終生続き、毎年、自身の誕生日に日の目を見なかった歌に感謝するとともに、高野さんをしのぶ「歌供養」を開いてきた。
歌は世につれ、世は歌につれ--。演歌が再びブームの兆しを見せているとはいえ、大御所には我慢ならない昨今の演歌界でもあった。チクッと批判を忘れなかった。「歌手もビジュアルばかり追えば、3カ月で消えますよ。ティッシュみたいな使い捨てでね。歌にもっともっと奥行きを出さないといけないんだ」。そして、少し間をおき、こう続けるのだった。「演歌づくりはね、昔の百倍、千倍難しくなったよ」。80歳を過ぎてなお現役、5500曲を超える作品を生みだしてきた作曲家にしてもだえ苦しんでいた。
テーブルの端っこに礼儀正しい男がいた。聞けば、船村さん最後の内弟子で、秋田生まれの元とび職。歌手への思い断ちがたく、12年半もの間、運転手をはじめ身の回りの世話をしているらしい。「もうすぐデビューするんだ。芸名は村木弾(だん)。私と舟木一夫君の名前から1字ずつ取ってね」。息子の旅立ちを見送る親のように目を細めた。村木さんは、たった一言。「よろしくお願いいたします」。誰もがすぐアイドルになれる時代、歯をくいしばって、はるか遠いスポットライトを目指す、そうした生き方そのものが歌声ににじみ、それこそが演歌の隠し味になる。
その村木さん歌う「都会のカラス」(作詞・舟木一夫)が船村さんの遺作になった。亡くなる3日前、自宅で仕上げのレッスンをし、村木さんに言った。「あとはおまえ次第だからな」
「歌にもっともっと奥行きを出さないといけない」と語る船村徹さん=2015年12月