昨日のメルパルク東京のふれこんを楽しまれた皆さん。猛暑の中お疲れ様でした。
舟木さんは、お元気で絶好調のステージだったようで嬉しいかぎりです。
7月は、このあと20日が通常コンサート(茨城県立県民文化センター)、26日、27日が浅草公会堂のスペシャルバージョンコンサートの開催が待ってますね。関東地方の皆さんはじめ、遠方からお出かけになられる皆さん一番暑い時期なのでくれぐれも健康に気をつけてその日に備えてくださいね。
舟木さんが語る長谷川一夫「百年にひとりの人」 その3
前回は、6月29日にアップしてますので、かなり間があいてしまいましたが、連載のつづきを…
「その2」では、舟木さんと稀世さんとの対談の中で、「東宝歌舞伎」について触れていらっしゃいます。このあたりは、私が個人的にとても興味深く、関心がある話題でもあるので、ちょうど手元にあった資料(「演劇界」という雑誌)も併せてご紹介させていただきます。
写真に撮ったものですので、読みづらい部分もあると思いますし、あまり関心のない方は、ざっと読み流していただくカンジで…ご了承ください。
演劇界 1996年7月号 特集記事 長谷川一夫と東宝歌舞伎の時代
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昭和54年(1979)の公演のチラシ
お読みくださった方、ありがとうございます。お疲れ様でした
これを読むと、あらためて長谷川一夫という人が、映像のみでなく演劇(ここでは、あえて「商業演劇」と呼ぶことにします)の昭和史の中で刻んでこられた業績の大きさを痛感させられます。そして、この対談の中でも語られているように幅広い層の観客を集め、人気を博した興行であったにもかかわらず、その筋の評論家からは正当な評価を得られなかったことは、舟木さんがおっしゃっている通りのある種のつまらない偏見によるものであることは明らかだと私も共感しました。
昭和のある時期、歌舞伎界の大看板たちが、映像の世界(映画、テレビ)にフィールドを広げていき大衆に広く受け入れられました。そして、そこからまた舞台への集客を得るというメリットがありました。でも、その逆の映像の世界のスターが舞台(板)へ乗り込んでいくとなるとワケもなく叩かれるという空気はなんとなくわかります。今は、舞台から映像へ、映像から舞台へ…というフットワークの軽い風通しのいい時代になっていますが、それでも香川照之さんが歌舞伎の世界に入られる時には、少なからずこういった見方をする「評論家」もいらしたと思います。
東宝歌舞伎(とうほうかぶき)は1955年(昭和30年)から1983年(昭和58年)まで長谷川一夫を中心に東宝が歌舞伎に進出した公演、劇団名。邦楽以外に洋楽も入り、女優とも共演し、商業演劇に近い
このあたりは、舟木さんならではの長谷川一夫さんへのまなざしとご自身の体験とを重ねた視点からの論評だなぁ…と印象深く思いましたので、対談の中の舟木さんの話されている部分のみを下の方に、抜き書きしてみましたので、読みづらい方は、抜き書きの部分だけでもお読みになってください。
多分、長谷川先生は自信満々だったと思うよ。プロとしての自信ね。――おれが出て行く。それで、洋楽でこうなる。おれの映画を観てくれたお客さまの何十パーセントが同意してくれて、とか、そういう計算を全部ちゃんとしているわけ。もうできている。最後のピラミッドの頂点の石をどのタイミングでどういうふうに置くか。最後の最後、長谷川先生はそこを考えていただけなんだ。
そんなものは、ある種のやっかみですよ。
あのころのマスコミは、映画評論、舞台評論と、各分野の線引きがけっこう厳しかったでしょう。どうしても、自分の食卓、テリトリーを守ろうとする。板の世界を専門に評論してきた方などは、あの時代の映画スターを、板の上の役者さんに対して「あいつらは土の上の役者だろ」みたいな言い方で、ひとつ見下したニュアンスを出すようなわけのわからないことをしていたんです。
ところが、関西歌舞伎の出身とはいえ、いったん映画の世界に出た長谷川一夫というスターが舞台の世界に戻っていきなり席巻する。それに対して、どうやったら長谷川一夫に対抗できるか、あるいは勝てるかっていうことを、見えないところで山ほどの人間が考えたと思う。それで結局、出た結論が長谷川一夫というスターだけは無視――「ない」こととして先へ進むという話だと思うんです。そうでなかったら、立つ瀬がないんだもの。対抗手段がないわけだから。
要するに、それだけ長谷川先生は特殊だったわけです。なんたってモスラだから。
ところが、関西歌舞伎の出身とはいえ、いったん映画の世界に出た長谷川一夫というスターが舞台の世界に戻っていきなり席巻する。それに対して、どうやったら長谷川一夫に対抗できるか、あるいは勝てるかっていうことを、見えないところで山ほどの人間が考えたと思う。それで結局、出た結論が長谷川一夫というスターだけは無視――「ない」こととして先へ進むという話だと思うんです。そうでなかったら、立つ瀬がないんだもの。対抗手段がないわけだから。
要するに、それだけ長谷川先生は特殊だったわけです。なんたってモスラだから。
そう、モスラの鱗粉。それをありがたい影響、お手本として受けてきたぼくみたいなやつもいるんです。長谷川先生の後継者たらんとした大川橋蔵先輩のような人もいれば、それが目に入っちゃって何も見えなくなっちゃう人、その薫りが強烈で失神しちゃう人もいるわけです。
ぼくは持ち上げているのでもなんでもない。現実にぼくが二十代前半に商業演劇の客席をどうやって埋めるかということになって、長谷川一夫という人に行き着き、生意気ながら分析させていただいた結果を言っているだけです。そもそもそういう評価っていうものは、いつの時代もお客さまがするものだと思う。
でしょう。長谷川先生には自信があったんだ。プロとしての計算がちゃんとできていたし、それ以前にてっぺんから思い込んでる自信というものもあったと思うよ。
おれがやるんだ、できるよ、とかね。
そういうてっぺんからの自信。ぼくは男の子同士としてよくわかる。ぼくは青年期からだけど、あの方は幼年期からやっているわけだ。そういう世代からやってきて、林長二郎時代の歩みなんていうのを本当に二歩、三歩見ただけで、この人の思い込みは絶対的なものがあると思った。例えば、五歳とか六歳とか、幾つのときにに初めて顔をつくってもらったのか、あるいはつくったのか、ぼくは知らないよ。でも、そのとき、鏡の中を見て、幼心に「わぁ、きれいやなぁ」と思った瞬間がある。あるはずだよ。その道を行くと決めた以上、そのとき持った自信・思い込みというのは……ちょっと言葉では説明できない。
同じ体験というのではないけど……もし万が一、長谷川先生と多少似ているところがあるとすれば、カット・インってところかなあ。
歌舞伎の世界から映画「稚児の剣法」で林長二郎としてデビューするときに、松竹が当時数万円(現在の数億円)というすごい宣伝費をかけて、その一本目の映画でものすごいお客さまがおしかけて大ヒットしているわけですよ。いきなりバーンと売れちゃった。フェイド・インじゃなく。カット・インなんだ。
もう少し言えば、こういうこと。林長二郎っていう人がバーンと出て、名前を全国的に知られる。それで「稚児の剣法」は大ヒットする。だけど、映画を観ていない人は、名前だけは知っているんだけど、まだ映画を観てないから林長二郎ってどういうやつ?どういうやつ?ってことになるんだね。全国が。
ぼくもその何百分の一くらいの経験をしている。デビューして半年くらいで紅白に出場するんだけれども、その半年間、あるジェネレーションというのは「平凡」や「明星」という雑誌やレコードを買ったりして、名前は知っているんだけれども、昭和三十八年というのはテレビの受像機がひとつの町に何台あるのっていうようなレベルの時代でしょ。いったいどういう子なんだよって興味を煽られる。で、
瞬きしたら、次の瞬間いきなり目の前にいた。そういう形で出てきたんです。そういうのをぼくはカット・インっていう言い方をしてるんだけど、長谷川先生はぼくよりはるか昔だからね。目の前に表れたときのインパクトはすごかったんじゃないかなあ。
瞬きしたら、次の瞬間いきなり目の前にいた。そういう形で出てきたんです。そういうのをぼくはカット・インっていう言い方をしてるんだけど、長谷川先生はぼくよりはるか昔だからね。目の前に表れたときのインパクトはすごかったんじゃないかなあ。
舟木さんが語る長谷川一夫「百年にひとりの人」 その4(完結)につづきます