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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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ふれ・コンBEST SELECTION・パートⅡ~メルパルク大阪 2月13日

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イメージ 12月6日の大宮ソニックシティでのコンサートの翌日も大雪・・・そして13日の大阪メルパルクでのふれ・コンの翌日も大雪・・・災難をすり抜けるようなタイミングで2014年のコンサートのスタートをきることができて本当に幸運でした。私は13日の昼・夜とも拝見して、近鉄の大阪難波を20時半の特急に乗って無事に帰宅できました。大宮での舟木さんの今年の快調なすべり出しに、なんだか細胞のひとつひとつが若返るという、あの、イメージ 2先ごろの大発見の「STAP(スタップ)細胞」のことを思い出してしまいました。50周年を迎えられた頃から舟木さんと遅すぎる「再会」を果たした私ですが、少なくとも私がこの一年半ほど毎月のように拝見している舟木さんのコンサートでのご様子は、歌声も佇まいも、どんどん若々しくなっていらっしゃるように思えます。これはホントに不思議なミラクルが起こっているとしか思えません。後援会主催のコンサートということも、さらにリラックスした雰囲気が会場に漂っていて、オフィシャルコンサートのいい意味の緊張感に満ちたものとはまた異なって二者二様の切り口が楽しめます。一部制のツアコン(今年は4箇所だけですが)と二部制のシアターコンサート、そして後援会主催のちょっとラフなコンサートというバラエティがあることも舟木さんご自身のステージの構成の工夫にメリハリがついて、変化に富んだローテーションで回っていくのが新鮮味もあっていいのでしょうね。そして今年はさらに「BIG3」という企画もたくさんはさまっていて、下半期には一ヶ月公演も二か所で開催されますから舟木さんは例年よりハードなんだろうと思いますが、6日と13日のステージを拝見していると心配は無用かな・・という頼もしい気持ちになってきています。では、いつものように私なりにまとめたコンサートれぽを記していきます。
 
イメージ 11FRIEND CONCERT No.73
KAZUOのわがまま選曲
日本の名曲たち~船村徹スペシャル
14時30分  18時  各回約90分

バレンタインデー前日でもあり、プレゼントのペーパーバッグの中は多分95%がチョコレートだったようです。紙袋の中を時々のぞいては私たち客席の方に向かって紙袋を指さしながら「これもチョコレート」とサイレントで口だけ動かして報告する舟木さんですが、これまでだってバレンタインのチョコレートなんて山ほどもらっていらっしゃるんでしょうが、やっぱりとても嬉しそうなお顔でした。
昼は約10分くらいかかって受け取られ、夜は7分くらいだったかな?とにかくステージのテーブルの上はこの日もプレゼントでいっぱいでした。
いよいよ開演!
淡いブラウンのスリーピースに同系色のやや濃い目のブラウンのソフトな感じのシャツ、シューズも明るいブラウン系で胸にはペンダント。
 
つものように舟木さんのトーク部分はピンク文字です。昼と夜をまとめています。
曲のタイトルの後ろの()内はオリジナル歌唱の歌手のお名前(敬称略)と発売年

今回のコンサートのテーマは「船村徹スペシャル」ということです。舟木さんにとって恩師である作曲家の遠藤実氏と並んで、ご縁もご恩も深い船村徹氏ですが、私は、実のところ、遠藤氏も含めて失礼ながら歌謡曲の作曲家のことについては、ほとんど何も知らないことばかりですのでこれを機に、船村氏のことを少しばかり付け焼刃ですが、ちょっとだけお勉強させていただきました。
 
イメージ 12船村 徹(ふなむら とおる、1932年6月12日 - )
日本の作曲家。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。本名は福田博郎(ふくだ ひろお)。歌謡曲作曲家の大御所として知られ、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。
栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町)出身。父親は獣医だった。栃木県立今市中学校(現・栃木県立今市高等学校)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒。
大学在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり、船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーをつとめたこともあったという。大学在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲の活動を開始した(高野は1956年に肺結核のため、26歳の若さで死去)。ただ、高野とともに、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。作曲家としての本格的な作品は「別れの一本杉」(歌・春日八郎・1955年発表)。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」(歌・三橋美智也)などが連続ヒットした。1956年、キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録した。
1993年、日本作曲家協会理事長に就任し、1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。1995年、紫綬褒章受章、2008年、文化功労者。
作曲家としての本格的な作品は「別れの一本杉」(歌・春日八郎・1955年発表)。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」(歌・三橋美智也)などが連続ヒットした。
1956年、キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録した。1993年、日本作曲家協会理事長に就任し、1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。1995年、紫綬褒章受章、2008年、文化功労者。

参考資料として以下の書籍から一部抜粋し、コンサートれぽの流れの中に船村氏の御自身の言葉を引用して織り込ませていただきました。
私の履歴書 船村徹  ~歌は心でうたうもの~ 
日本経済新聞社刊 (2002年9月20)
 
 
イメージ 13あの娘が泣いてる波止場(三橋美智也/昭和30年) 作詩:高野公男
 
思い 出したんだとさ
逢いたく なったんだとさ
いくらすれても 女はおんな
男心にゃ 分かるもんかと
沖の煙を 見ながら
ああ あの娘が泣いてる波止場

「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
~共作(高野公男作詩、三橋美智也歌唱、)第二弾は「あの娘が泣いてる波止場」。この曲はレコードのB面に入っていた。いまはCDとかMDとかで片面に全曲が収録されているが、昔のレコードにはA(表)面とB(裏)面の区別が厳然とあった。B面は付け足しみたいなものだったのである。ところが、発売されてみるとA面の曲を差し置いてヒットした。~中略~定型詩ばかりだった歌詞の世界に初めて破調を持ち込んだのだ。「日本の歌謡界に新しい波を作った作品」という好意的な評価があった。~

今回は、一部変わってますが、去年のサンクスコンサートで歌った船村スペシャルということで・・
それにしても寒いですねー・・・今、引っ込んでちょっと袋の中を見たらチョコレートがいっぱい入ってました。船村先生は遠藤先生の先輩にあたる方で、古き良き時代の最後の方・・「大家」といわれるのを嫌う方で気取ったところがひとつもない・・そんな船村メロディーの世界を今日は楽しんで下さい。
船村先生のメロディーにはネバリがあって、歌詩は悲しくてもメロディーは弾んでいるという「浮かれ節」若い頃にはこなしきれないものがあります。ふだんとちがって思いっきり演歌チックにいきます。

柿の木坂の家(青木光一/昭和32年)

別れの一本杉(春日八郎/昭和30年)  作詩:高野公男
 
泣けた 泣けた 
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘と別れた哀しさに
山のかけすも鳴いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ

イメージ 14「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
~当時のレコード会社には実に良心的なところがあって、どんな作品を出すかについて厳格な選考が行われていた。作ったから売るという安易な姿勢ではなく、いい作品を世に出すのだという確固とした方針が貫かれていた。だから、ボツになったりレコーディングを見あわせてお蔵入りになった作品が大と積み上げられていた。私たちの作品もたくさんお蔵入りになっていた。その中に私と高野の作品もあった。「泣けたっけ」である。「泣けたっけ」は新譜決定会議で春日さんの作品に選ばれた。~中略~「泣けたっけ」という原題に赤い棒線が引かれ「別れの一本杉」という新しい題名が書き加えられている。~
 

「別れの一本杉」は船村先生の最初の大ヒット曲。昭和30年ですから僕はリアルタイムで11才で聴いた。船村先生が23才の時の曲、今の23才では考えられませんね。船村先生は遠藤先生と同い年で、僕のひとまわり上の申年。同じ申年なので通じるところがあったのか遠慮なくものを言ってました。申年というのは頭がいいかわるいかのどっちか・・私は後者の方ですが・・それに器用だけど飽きっぽい(後ろを振り向いて)バンドのメンバーはあんまり演歌は得意じゃないけど、演歌チックにすすめて行こうかと・・・ここは、女唄を女になったつもりで・・・
 
 

どうせひろった恋だもの(初代コロムビアローズ/昭和31年)

おんなの宿(大下八郎/昭和39年)

哀愁のからまつ林 (島倉千代子/昭和34年)作詩:西沢爽
 
涙あふれて はり裂けそうな
胸を両手で 抱きしめる
みえないの みえないの
背のびをしても
あゝ あの人は 行ってしまった
からまつ林

「哀愁のからまつ林」イントロから何からきちっと丁寧に書かれてる。それなのに3分30秒前後でおさまってるんですね。50周年の時に船村先生が書くよ(舟木さんの50周年のお祝いに)とおっしゃって下さったんですが、船村先生のところにもっていける詩がない・・・歌い手、曲、詩の三者のバランスがむつかしい・・これはお千代姉さんの歌ですが船村先生はその歌い手の音域をメいっぱい使って作る。昔は作家(作詩家・作曲家)はレコード会社の専属制だった。今は専属制がなくなった。~たくさんの作家の名前を具体的に挙げて~だから舟木一夫の歌を聴くとこれはどの作家のかがわかった。石本美由起作詩で船村先生独特の世界のメロディーの曲をふたつつなげて・・・
 
イメージ 15さだめ川 (ちあきなおみ/昭和50年)
船村氏のギター伴奏による
 
 
矢切りの渡し(ちあきなおみ/昭和51年)

船村先生は、メロディーを丁寧に追わなくていいよと・・例えば「その人は昔」などコードの中で漂っていいよというタイプ・・遠藤先生はこういう歌を歌ってほしいから、その通りに歌ってくれよというタイプで古賀(政男)メロディーの後継者という作曲家・・船村先生からそれまでの演歌のメロディーが変わったという・・吉田(正)先生もそう・・榎本美佐江さんの「後追い三味線」などがそういう曲・・そして一気に開花したのが「♪潮来の伊太郎♪(とちょっとモノマネ風に歌ってみる舟木さん)客席が笑いでどよめくと「ホントですよ、これ!」遠藤先生も「高校三年生」で一気にハレツするということになった・・・
こないだ先生のギターで歌ってきました(NHK・BSの番組録画)先生はテレ屋だからわざと乱暴な口をきくんですが、大変に情のある方ですね。船村先生や遠藤先生はあまり歌い手と酒を飲みに行くということはなかった。僕は一回だけ船村先生に食事をおごってもらった・・・僕は酒でなくてコーラ飲んでましたが(笑)次は珍しい方に入るムード演歌を・・
 

悦楽のブルース(島和彦/昭和40年)

女と男のブルース(島和彦/昭和41年)
 

島和彦という人が出てきた時に、船村先生がお書きになった歌です。年が明けて今年は70(才)になります。70までは数えますけど、あとは数えません。70過ぎたら18(才)にもどる(笑)此の頃まず思うのは、歌を歌うためだけに生まれてきた・・ホントにそれしかできなかった。流行歌手になってよかった。流行歌の奥ゆきに気づき始めたのは60(才)過ぎてから・・流行歌はなくならない方がいい。寄席の世界もなくなってきたでしょ。古典落語も何百年の歴史がある。僕らはいい時代にお互い様に流行歌に触れることができたという感じがします。今度の「遠藤実スペシャル」(シアターコンサート)をきっかけとして日本の名曲をせっかく昭和といういい時代に歌い手になれたんですから~今の歌は「平成の演歌」~日本に本当の貧しさがあった頃の演歌、~今は、そんな貧しさなんかないですから流行歌が棲息する場所がなくなってしまった。昔(昭和)は、男と女が袋小路に迷い込んでしまうという独特の情があった。

ブンガチャ節(北島三郎/昭和37年)
 
ダイナマイトが150屯(小林旭/昭和33年)

これなんか隠れた名作じゃないですか。「恋の病にお医者を呼んで キュキュキュキュキュキュ 氷枕で風邪ひいた ブンガチャチャ ブンガチャチャ」と歌詞を歌うように言って)・・ここまで無責任な歌ないですね(笑)遠藤先生の歌では、「ダンチョネ節」なんか・・・これは小林旭さんのキャラもありますが・
西條八十のオリジナルを歌っている歌い手が舟木一夫ひとりになったという巡りあわせになっていくというのはある種の幸せとも感じるんですが・・・
イメージ 16・・・とおっしゃって西條八十・船村徹コンビによるアルバム・歌謡組曲「雪のものがたり」の中の「♪うしろ立山 なだれはこわい 恐い こわいと ししさえ逃げる♪」とまたもや私の好きなこの民謡調の一節を見事なアカペラで披露して下さいました。大宮ソニックシティ大ホールでの「吉野木挽唄」の感動がよみがえりました。舟木さんは若い頃から民謡も素晴らしい独自のセンスで歌いこなしていらして民謡アルバムの音源もあります。青春歌謡や都会派の歌や抒情歌のみならずこういった日本の土の匂いのする素朴な世界もまた舟木一夫の歌い手としての歌詩の咀嚼力や表現力を示すものとして特筆すべきジャンルだと思います。
舟木さんのコンサートに通いつめていると、こうしてレコードで聴いて感銘を受け印象深く心に刻まれている歌を思いがけず今の舟木さんのナマのお声で、しかも思い入れ深い歌唱で聴けるという幸せに遭遇できるのです。トークの中でたまたま舟木さんの心に浮かぶ様々な曲に出逢えることは望外の喜びです。「船村徹スペシャル」というタイトルに、こんな感動的な「スペシャル」のオマケがついてるなんて最高でした。
 
 
ここで単独にしたのは、西條八十・船村徹ゴールデンコンビの「王将」・・・西條先生が将棋盤に駒を置いて吹いてみて飛ぶかどうかやってみて・・飛んだんだよ、コレが・・とおっしゃった(笑)

王将 (村田英雄/昭和36年)

「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
~私が欧州に向かった昭和三十六年というのはニール・セダカの「カレンダー・ガール」やコニー・フランシスの「ボーイ・ハント」といったロッカ・バラードが人気を得ていた。演歌や歌謡曲は依然として最大の潮流ではあったが、次第に洋楽が浸透しつつある状況だった。邦楽盤はリバイバルでお茶を濁すような面さえあった。「何をやっているんだ」評論家から作曲家や作詞家に対する叱咤とも皮肉とも聞こえる声が出ていた。私もそんな風潮に内心では反発を感じていたが、では具体的に何をすればいいのか。考えているうちふと浮かんだのが「純日本式でいこう」ということだった。~中略~歌手は村田英雄さんに決めてあった。古賀政男門下だったが浪曲出身の村田さんこそ「反時代的」な作品を歌うのに最も適していると思ったからだ。斎藤ディレクターは西條八十先生に将棋の坂田三吉物語を詞にしてほしいとお願いした。先生が将棋のことをまったくご存じないことは百も承知だったが、そんなことはどうでもよかった。やがて「吹けば飛ぶよな 将棋の駒に」で始まる「王将」の詞ができてきた。私は、「吹けば飛ぶよな演歌の旋律(ふし)に賭けた男を笑わば笑え」と読み替えて、まるで自分の心を詠んでいるような詞に素直な感動を覚えた。~中略~作品ができたとき西條先生は「こんなレコード誰が買うんでしょうね」とおっしゃっていた。社内視聴会でも不評だった。だが、私は成算とまでは言わなくと可能性は感じていた。~
*「王将」は、発売から約一年後の昭和37年12月に日本レコード大賞特別賞受賞
 
                                   今回の舟友さんの花束のプレゼントもこんなに豪華絢爛!

イメージ 17日本の四行詩の七五調のころがり・・素晴らしいですよね。こういうのはツボにハマるとデカイんですよね。僕はツーコーラス目が好きなんですが船村先生は15分くらいで書いた。いい歌はスルスルっとできるんですね。歌い手もあまり考えずに、無意識で歌ってる方がいい歌が歌える。
いつまでもつか・・ある日突然きたら困るなァ・・・こういう話は決して縁起の悪い話ではない・・・そういう日常会話はむしろ必要・・・僕は持ち歌は、自分に合わせたものだからある程度付き合っていけると思うんですが、他の人が歌ってヒットした曲をいつまで歌えるか・・オフィシャルのコンサートでそういう歌をのっけていくのはコワイですが、みんなでやっていけばいいんじゃないかなと・・(拍手)
船村先生とひばりさんの出逢い・・・いかにも狙って打ってヒットしたという感じの曲
 
波止場だよ お父っつぁん (美空ひばり/昭和31年)

哀愁波止場(美空ひばり/昭和35年)

ひばりの佐渡情話(美空ひばり/昭和37年) 作詩:西沢爽
 
イメージ 18佐渡の荒磯の 岩かげに
咲くは鹿の子の 百合の花
花を摘み摘み なじょして泣いた
島の娘は なじょして泣いた
恋は・・・つらいと
いうて 泣いた
 
波に追われる 鴎さえ
恋をすりゃこそ 二羽で飛ぶ
沖をながめて なじょして泣いた
島の娘は なじょして泣いた
逢えぬ・・・お人と
いうて 泣いた
 
 
佐渡は四十九里 荒海に
ひとりしょんぼり 離れ島
袂だきしめ なじょして泣いた
島の娘は なじょして泣いた
わしも・・・ひとりと
いうて 泣いた
 
「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
~率直に云えば彼女の表現力は私の感性の先を行っていた。こんな歌手にどんな曲を書けばいいのか。少しでも手を抜けば、歌唱で完膚なきまでにやりこめられるに違いない。ひばりというブラックホールに巻き込まれ、自滅するのではないかという恐怖に似た思いが胸をかすめた。ほかの作曲家がどう感じていたかは知らない。しかし私にとって彼女との出会いは不世出の歌手「美空ひばり」との戦いの始まりだった。~中略~私が書き、ひばりさんが歌った作品は五十曲近くになる。その一曲、一曲が真剣勝負だった。~中略~平易な云い方をすれば、「どうだ、このメロディーを歌いこなせるか」「フン、こんなもんかしら」といった無言の戦いであり、結果として全く新しいメロディーの創作や従来なかった歌い方の発見にもつながった。例えば昭和35年に発売された「哀愁波止場」、「夜の波止場にゃ 誰もいない」という歌いだしは高音の裏声から入る。この間の高低差は1オクターブである。
 
今はもう通じない言葉・・荒磯(ありそ)なんて言っても「冬の稲妻(アリスとアリスのヒット曲をかけた?)
かと思っちゃう(笑)船村先生が、「どうしても作曲家の宿命なんだよ」とおっしゃってたこと・・・例えばスリーコーラスの曲の場合、2番の歌詩がストーンと入ってきたら、2番の詩で曲を作る。そうすると1番、3番の歌詩はメロディーの中に押し込まれるような形になるということを「荒磯」を「ありそ」と歌わせてると舟木さんは説明しようとなさったのかな?と・・・私の解釈、合ってるかしら(笑)
イメージ 3船村氏も上記の「私の履歴書」で書いていらっしゃいますが、高低差1オクターブというハード面でも一筋縄ではいかない技量を要し、しかも情感と叙景の描写力というソフト面での技巧と人間力を求められる「ひばりの佐渡情話」・・・頭に「ひばりの」と冠されているだけでもおそらく歌い手ならだれでもがビビってしまうであろうこの難曲を御自身のカラーにたっぷりひきつけて、客席の空気を震わせるような舟木さんの歌唱にまたしても不覚にも涙がこぼれました。

あんまりこういう歌をつなげると聴いてる方もしんどいですから・・最近ね、歌つなぎがしんどくなってきた。
ラストスパート三つ・・船村先生は、僕が知る限りでは演歌の中でもっとも強いメロディーをもってる人だと・・そういう力強いメロディーの三曲
 
なみだ船(北島三郎/昭和37年) 作詩:星野哲郎
 
「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」より抜粋
~ここで星野さんとつくった「なみだ船」にまつわる話をしよう。この曲は北島三郎が歌って大ヒットしたが、世に出るまでは紆余曲折があった。~中略~デビュー曲はどうするか。そのころ渋谷の流しの間で「キュキュキュ節」というのがはやっていた。この曲を採譜して編曲し、星野さんの詞で「ブンガチャ節」という曲にした。飲み屋街で自然発生的にはやった歌だからもともとヒットする要素はあったが、発売すると予想以上の売れ行きでようやく北島にも可能性が出てきた。ところが、思いもかけないことが起こった。「キュキュキュ」という囃し言葉が猥褻であるということで放送禁止になってしまったのである。これがなぜ猥褻なのかいまでもわからないが、ともかく放送倫理規定にひっかかると言われればどうしようもなかった。そこで登場するのが「なみだ船」である。~中略~その裏で私もある挑戦をしていた。導入部に高音のメロディーをもってきて、歌いだしで聴く者に強烈なアピールをするという手法を試みたのである。「なみだ船」の場合は「なーみだのーおおおおー」の部分だが、中低音で勝負していた従来の歌謡曲の中で異彩を放ったことがヒットにつながったのならば、私の試みは成功したことになるのだろう。~中略~星野さんとはその後「兄弟舟」「北の大地」「風雪ながれ旅」といった曲を世に送り出した。星野さんと作品を作るとき、細かい打ち合わせはしない。私が楽曲のイメージを伝えるだけで十分なのだ。~
 
 
兄弟船(鳥羽一郎/昭和57年)
 
風雪ながれ旅(北島三郎/昭和55年)
船村徹歌唱

イメージ 8
なお「歌は心でうたうもの」巻末に「船村徹主要作品リスト」が付記されています。その中から舟木さんのために作られた楽曲をリストアップしました。70作品以上あります。
私の知らない未発表、未発売の作品がたくさんあることに驚きました。何度か改作・改題されている曲もあるように思います。「星の下をゆく」~「星の下北へ帰る」は最終的には「星の夜北へ帰る」に改作・改題されたもののように思われますがどうでしょうか。
年代順ではアルバム「日本の四季」はまだ舟木さんがデビューして間もなくに船村氏が西條八十の詩を得て組曲として書かれ、7年ほど後に舟木さんの歌唱でアルバム化され発売されたものでしたね。
昭和39年から52年の「春哀し」「愛を探しに」まで、こうしてあらためてたどっていくと舟木さんの青春の季節
の背景には船村氏がいつもいらしたことがわかります。
 
                    丘灯至夫氏と船村徹氏と舟木さん。「夏子の季節」レコーディング打ち合わせ
 
イメージ 4
 
 
船村徹主要作品リストから舟木さんのために作られた曲 作曲年代順()内は作詩者
 
イメージ 7日本の四季(西條八十)
夢のハワイで盆踊り(関沢新一)
星の下をゆく(関沢新一)
星の下北へ帰る(関沢新一)
若い魂(関沢新一)
わすれ花(安部幸子)
谷のわき水(安部幸子)
東京百年(丘灯至夫)
湖畔の日記(石本美由起)
六月のギター弾き(猪又良)
チックタックのブルース(土井朗)
あいつ(三浦康照)
青春太鼓(関沢新一)
溜息のブルース(南条あきら)
銀座すずらん通り(丘灯至夫)
踊ろう僕と(大林郁恵/古野哲哉)
ひとりぼっちの女の子(深沢真弓/古野哲哉)
真珠っ子(植田梯子)
太陽にヤア(関沢新一)
その人は昔(松山善三)
イメージ 9話してごらんこの僕に(丘灯至夫)
ブルートランペット(古野哲哉)
青春の停車場(関沢新一)
それは白い花だった(松山善三)
男の太鼓(関沢新一)
南へゆこう(三浦康照)
香港の街角で(関沢新一)
ふたつちがい(万里村ゆき子)
レディ・イン・ザ・ナイト(万里村ゆき子)
a boy in the sung jown(松山善三)
君の心が欲しいんだ(野村俊夫)
流木の唄(野村俊夫)
南国の舟唄(吉岡治)
リラの雨ふる(西沢爽)
唇に言葉を(松山善三)
かくれんぼ(寺山修司)
川に捨てたギター(寺山修司)
大平原の恋(野村俊夫)
太陽に向って駆けよう(関沢新一)
あいつと私(丘灯至夫)
夏子の季節(丘灯至夫)
心をこめて愛する人へ(松山善三)
じっとしてると恋しい(松山善三)
夕笛(西條八十)
ホロッポは愛の歌(松山善三)
なぜ泣いてるの(松山善三)
夜霧の果てに(大倉宏之)
夢の中の恋人(島田幸一/古野哲哉)
イメージ 10俺は坊ちゃん(西條八十)
喧嘩鳶(村上元三)
雪のものがたり(西條八十)
夢の中だけの二人(島田幸一)
きみぼく青春の宴(丘灯至夫)
花火(鹿倉義一)
血斗桜田門(横井弘)
津和野川(吉田旺)
若者は何処へ行く(横井弘)
アンジェラスの鐘(二条冬詩夫)
あなたの故郷(石本美由起)
さすらい演歌(横井弘)
サルル岬(横井弘)
帰郷(横井弘)
サンチャゴの鐘(横井弘)
夏子(古野哲哉)
結婚(丘灯至夫)
友情(丘灯至夫)
むかえ火(吉田旺)
星の夜北へ帰る(関沢新一)
惜別旅(吉田旺)
愛を探しに(猪又良)
春哀し(猪又良)
 
 
イメージ 5舟木さんがこの日のトークで「一回だけ先生に食事をおごってもらったことがある」とおっしゃっていましたが、もし舟木さんのご記憶が確かで一回だけだったのなら、舟木さんと船村氏が一緒に食事をなさったということが書かれている資料があります。
下記のリストの中で一番最後の「春哀し」(昭和52年11月発売)の曲ができた時のエピソードについて船村氏が舟木さんの「15周年リサイタル~限りない青春の季節」(1977年11月1日~3日/東京郵便貯金ホール)のパンフレットに寄稿なさっています。以下に抜粋してご紹介します。
 
「鎌倉山の夜」 ~ 「春哀し」を作曲して 船村徹
 
「やっぱり、そうしよう・・九月になれば江の島や由比ヶ浜のあたりも、だいぶ落着きをとりもどすからねぇ・・・鎌倉山にもなじみの店があるんで、ぜひそこへも案内したいんだ。その時季になれば、あの山にもきっと秋の花が咲きはじめるし。待ってるから、かならず来てよねぇ」
約束のその日は、朝から良く晴れて残暑はいささかあったけれども、海からやって来る湘南の風はとてもおだやかであった。私は、早くから彼を待った。彼を待つためだけの一日であった。しかし彼はなかなかあらわれなかった。サンルームにさし込む西陽がめっきり細くなった時分になってやっと彼は顔を見せた。~中略、「彼」というのは、もちろん舟木さんのことです。~店に着いて座敷にすわると、山塊の持つ静寂が快くせまって来た。仏蘭西料理を、日本的にアレンジしたこの店のメニューは、彼も気に入ってくれたようであった。私は少年のようにはしゃぎ、無作法に食べ、気ぜわしく飲み、くどくどとしゃべり、そして酔った。
 
イメージ 6この愛におぼれたら 
こわいけどおぼれたい
江の島の春の夕ぐれ・・・
「・・ようし!出来たぞ! イケル!この歌をわからん日本人なんて俺はもう相手にゃセン!この抒情の世界こそ彼のモノなのだァ!」
この愛におぼれたら
こわいけどおぼれたい
江の島の春の夕ぐれ・・・
肩をゆさぶりながら唄いつつ、海へ続く細露地を私はひとり歩いた。・・・・そうだよ、これが彼のものだよ、この作品こそ、舟木一夫の世界なんだよ!
 
 
 
船村氏の作品に賭ける情熱と舟木一夫という若い歌い手の持つ歌の世界観へ想いを寄せる情愛があふれる文面です。それぞれの歌い手の個性と美点を鋭い観察眼と感受性で把握した上で、愛情をもってその魅力のすべてを引き出そうとする船村氏の作曲家という表現者としての力量と、情の深さがこうして数々の名曲を生みだし大ヒットさせる機動力となったのだと思います。そして、船村徹という才能が世に送り出した歌と歌い手もやはり昭和と言う時代背景なしには存在し得なかったのでしょう。

最後に「歌は心でうたうもの~船村徹 私の履歴書」の冒頭の「はじめに」という文章の中から船村氏の歌謡曲作家としての心意気が印象深く伝わってくる一節をご紹介します。
 
~歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。日本の音楽教育は明治以来、西洋音楽至上主義の歴史を歩んできた。それもテクニック重視で、心をうたうことを教えてこなかった。のみならず、邦楽全般を西洋音楽より下に見る風潮が広く社会を覆い、中でも町の片隅で黙々と生きる人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を蔑む傾向さえある。私の作曲家人生はこうした風潮に対する反逆でもあった~
 
歌手・舟木一夫にとっての船村先生、そしてまた作曲家・船村徹にとっての歌手・舟木一夫、昭和の歌謡界の一時代を共に築いてこられたお二方の胸に去来するもののほんの一片でも、同じ昭和を生きてきた私たち世代が共有し、これからも舟木さんの素晴らしい表現力と歌唱で楽しませていただければこんな幸せなことはありませんね。詩と旋律と歌い手のトライアングルが力強く響き合って生まれた流行歌、ただ歌うためにだけ生まれてきた、それしかできなかったと断言なさった舟木さんでした。それはまた、歌い手としての自信に満ち溢れた言葉でもあるのだと確信できた感動的なコンサートでした。
 

 
 

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