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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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NHK「日曜美術館」と「宵待草」~夢二と八十のエピソードも

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12月7日放送の「日曜美術館」は竹久夢二の描いた世界を紹介した企画でした。

NHK日曜美術館

「響き合う絵と詩~竹久夢二の大正ロマン」


夢二の残した作品を
・夢二式美人
・異国趣味
・子ども絵

の三つの分野ごとにそれぞれに「宵待草」「蘭燈」「子守唄」の音楽をバックに流し、また夢二の詩の朗読と合わせて夢二の世界観を描くという構成でした。


今年の舟木さんのオフィシャル・ソロ・コンサートでは「日本の名曲」として「ゴンドラの唄」と「宵待草」を唄われています。


宵待草

作詩
一聯:竹久夢二
二聯:西條八十


待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさこよひは月も出ぬさうな

暮れて河原に星ひとつ
宵待草の花が散る
更けては風も泣くさうな


「宵待草」は来週14日の中野サンプラザ・ファイナルでも聴かせていただけるのではないでしょうか。

「宵待草」については、舟木さんがステージのトークでもエピソードをお話されていますが、もともとは一聯のみの詩だけだったのを西條八十八氏が、一聯だけではもったいないからと二聯目を作られたと聞いています。

夢二との出会いとこの「宵待草」の歌に関わる経緯について八十自身が自著「唄の自叙伝」で書かれた文章がありますのでご紹介します。


西條八十著 「唄の自伝」より ( 日本図書センター刊 人間の記録29)

~いまは北陸の郷里に引退している翁久允氏が「週刊朝日」を牛耳っていたころだ。気の置けない芸術家連中だけの赤城登山だ。初夏だったし赤城躑躅(つつじ)が美しかろうと想うと心が動いた。それに一行の中には、竹久夢二、直木三十五、福田蘭童などという会ってみたい顔触れも見えていた。それで団体行動の嫌いなわたしが出かけた。~中略~ところで、有名な竹久夢二という画家をその日わたしは初めて見た。端麗な顔が年齢にしてはひどく老けて、眼もと、口もとの深い線が目立った。鋭い眼つきをしていた。
~中略~
その夜旅館に着いてから、わたしは朝日新聞の前橋支局の若い記者から面白い話を聴かされていた。それは夢二がきょうの登山の道に迎いに出ていた女学生のファンのことを非常に気にしていて自分のところに訪ねてきた女学生と西條八十のところへ来た女学生とどちらが数が多かったかということを真剣な顔でその記者に尋ねたということである。
わたしはこの徹底している夢二の甘美主義をむしろ敬長の念をもってみた。かれはわたしよりもずっと年長でたぶんもう五十に近かったろう。それにもかかわらぬこの人の人気な対する強い競争意識、しかもそれを堂々と随行の記者に聞き糺す度胸は「流石に」と感じ入ったのであった。夢二はたしか五十一才で死んだ。わたしは昭和十二年アメリカの旅をした際、桑港の日本人が形見に持っていた、桑港を去るにのぞみ、彼が船上で書き残した「さらばアメリカ」という絵を見た。在りあわせの木片にペンか何かで描いたもので、句は忘れたが短い詩のようなものを書きつけてあった。なにがなしこころを打たれる絵であった。
彼ほど花を追う胡蝶のように、甘美な恋に徹した抒情画家をこの後に見ない。



*春日局註*
~夢二は満四十九才没です。八十は数え年で記憶していたのでしょうか~


そうそう、書き遅れた。夢二についてはもうひとつ書いておかねばならぬ謡の想い出がある。
かれの詩に「宵待草」のあることは有名だ。歌詞はただ一聯だが、多(おおの)忠亮氏の曲できわめて一般的な愛誦歌になっている。
赤城登山の帰りみち、なにかで二人だけが並んで山径を下っているとき、ふとその話が出た。
「あの唄、わたしも好きだが、レコードなどでおなじ歌詞を二度繰り返すのは芸がない。どうです、もう一聯書き足されては」
とわたしが、ふとおもいついていうと、「さあ、なにしろ古い作なんでしてね」と竹久氏は気がなさそうに
「あなたにでも書いて頂くか」
と言って笑った。
「いつか書いてみたいな」
「結構です。お願いしますよ」
そんなことを云い合いながら径を急いだ。
ところが世の中はわからぬもので、それから十数年後、画伯も亡くなり、わたしもそんな話をすっかり忘れてしまった頃、この時の会話が急に実現されることになった。

それは大船で「宵待草」が映画化されることになり、その中で高峰三枝子がこの歌をうたうことになった。ところが誰であったか監督が、ぜひもう一聯歌詞を補足してもらいたいと云いだし、コロムビヤ会社からわたしへ註文してきた。わたしはこの偶然に、遠い昔の赤城の初夏を想いだし、懐旧の情に堪えなかったが、いろいろ考えて、どうやら註文の第二聯を附けてみた。

暮れて河原に星ひとつ
宵待草の花が散る
更けては風も泣くさうな

と書いたのである。
そのときわたしは大切(だいじ)をとっていろいろ宵待草のことを調べてみたが「待宵草」という花は辞引にあるが「宵待草」という名はどこにも見当たらなかった。いずれにしても夢二は「宵待草」を意味してこの言葉を使ったにちがいないのだが、宵待草とは結局かれの造語であるように思われた。それからわたしの書いたほうの「宵待草の花が散る」という文句は、発表してからあと、だいぶ気になった。というのは、待宵草の花はパッとは散らない。従って、どうせ散ることは散るのだが、この場合の「散る」という言葉はどうも不適切だと考え出したからだった。それで、この歌がレコードになってから、二、三年なお悩み通していたが、近頃になって、やっと考えがまとまって、次のように改めることにした。すなわち、

暮れて河原に星ひとつ
宵待草の花の露
更けては風も泣くさうな

これなら、亡き「宵待草」の作者も、また「結構です」と幽界から微笑してくれそうな気がするのである。


とこらで舟木さんは「宵待草の花が散る」と改作前の詩で唄われています。「詩」の流れの自然さをとるなら私も二聯は「花が散る」とするのが違和感がなく舟木さんが「花が散る」と唄われていることに共感します。


舟木さんと御縁の深い西條八十、そしてお芝居でも演じらた竹久夢二という偉大な芸術家おふたりのこのような接点やエピソードを知るにつけ「宵待草」という歌がさらに身近で懐かしいものに思えてきますね。


なお日曜美術館の再放送は12月14日夜8時からとのこと
中野サンプラザコンサート開催の日なので興味のある方は録画のご予約を!

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