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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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2015 シアターコンサートin新歌舞伎座 5月29日/30日 その1

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今日から、水無月、6月に入りました。6月といえば舟木さんのデビュー記念月でもありますね。

1963年6月5日発売
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2015年5月27日発売

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「水無月」というのは、雨が降り続いて天上に水がなくなってしまうから…なんて大人になってからもボンヤリと思ってましたが、大きな間違いでした(笑)

ものの本によると以下のような説明です。
~水無月の「無」は「の」にあたる連体助詞。「水の月」といういう意味で「水無月」。
陰暦の6月には田んぼに水を引く月にあたることから「水の月」と言われるようになった。~

左が五月の中頃のわが家の庭のガクアジサイ、右が今朝の様子です。6月を迎えたら律義に色づきました

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5月29日と30日に開催された、シアターコンサート。2015年は、新歌舞伎座からスタートしました。シアターコンサートの皮切りとあって、いつにも増しての大盛況。二日とも昼の部は早い時期からチケット完売で当日の立見席のみとなっていました。特に初日は、3階席の最後列の後ろの立見エリアは、あふれんばかりの方がいらして、2月の新歌舞伎座公演千秋楽の賑わいを思い出しました。夜の部も「満員御礼」でした。

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通常コンサートの前半は、開催が関東に偏ってましたし、逆にシアターコンサートは、西から始まって、最終が9月8日の新橋演舞場ですから、それまで待っていられない…という関東のファンの方や
、北からも南からも、多くの舟木さんファンが駆けつけたこともプラスして、熱気あふれる2日間となったのでしょうね。

では、いつもように、舟木さんの軽快なトークを中心にコンサートの模様をご報告します。
二部制で、トータルで30曲も歌われましたので、報告は2回に分けて掲載します。

「その1」では、第一部のコンサートの模様、そして、「第二部 船村徹~演歌の旅人」で、船村先
生にとって、亡くなられた後も、生涯の友として先生の心に生き続けていらっしゃる高野公男さんに
ついての、資料などをご紹介させていただきます。

2015 シアターコンサートin新歌舞伎座 5月29日/30日


舟木さんのトーク部分はピンク文字です。29日昼夜、30日昼、ごちゃまぜになりますがご了承下さいね。

まずは、開演前のプレゼントタイムでのお喋りから…

プレゼントタイム

29日は、淡い色合いのブルージーンズに、薄墨色の地に青とか黒の大きめのベーズリー模様をあし
らったシャツブラウス、靴はえび茶色に見えました。30日は、ウォッシュ系のジーンズかはたまた綿パンのような色合いに見えましたが、私は全く服飾関係に疎いのでご容赦を…シャツブラウスは白地にグレー系の刺繍糸で花模様。両日ともに、「北海道のバターあめ」をナメナメということでした(笑)、一般のお客様のいらしているコンサートなので、開幕前のプレゼントタイムをとっていらっしゃることをしきりに恐縮なさって、「すみません、お時間をとらせていただいて…」と何度もお詫びをされている律義な舟木さんでした。
舟友さんのステキな花束

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イメージ 8船村先生の演歌を歌いながら、こうやってプレゼントをいただけないですよね…去年は遠藤先生、今年は船村先生…歌い手として幸せなことです。普段、歌っていない歌ですから、タメ息がでるんです…「プレゼントを渡す時に握手」というのが流れなのですが控え目な方は遠慮なさるのでしょうね。握手できずに戻ろうとなさったファンの方を気遣ってやさしく「ニギるか、ニギらないかハッキリして下さい…」(笑)53年間ニギられ続けて手が…ハレちゃった?とかおっしゃったのかな?笑い声が起こったのでこんなようなことを言われたのかな?…ちょっと聞き取れなかったんですが(笑)

フォークとかニューミュージックが出てきたころの取材の方が、こういうプレゼントをステージで受け取る風景を不思議がってました。2階、3階席の方を見上げて「すみません、お時間をいただいてます。」時々、ペーパーバッグの中をいたずらっぽくのぞいて見る御茶目な舟木さん。花束を受け取
りながら、花粉症の歌い手はお花は手渡しではくしゃみが出て困るようですが私は原始人ですから(笑)

つい先日、船村先生と食事をしたんですが、私よりひとまわり上で、今年何月かで83歳。私は61になりますが…(笑)申年はこの世界に向いているんですかね、遠藤先生も申年<船村先生と同じ生まれ年)ですから。さすがに、あの大酒飲みがちょっと弱くなりましたね。船村先生の独特の栃木県の訛りを聞くとホッとしますね。どっか、あったかみがあって…そして船村先生のマネをちょっとして、できませんけどね…といいつつ「僕はね訛りを直そうとは全くしないんだよ。聞いた人が栃木の人なんだと思い出す、これも村おこしのひとつだなぁ…」 と栃木訛りっぽく言って、それでは着替えてきます…

幕が上がって、新緑のみどりをイメージする鮮やかな色合いのジャケットで登場。
白のワイシャツに黒の蝶ネクタイ、ベストとパンツは黒、胸のバラはクリーム色。

一部  舟木一夫 ヒットパレード

  一部のお召し物はこのジャケットを新緑グリーンにしたカンジでした

イメージ 11オープニング
~北国の街

お暑うございます…と言ってもいいくらい、半袖のTシャツでもいいくらいですが…これくらい冷房をきかせてると、舞台の袖のスタッフはたいへん、照明が当たらないですから厚いジャケットを着てます(笑)今日は、二部構成です。二部の「船村徹~演歌の旅人」の方がメインディッシュですが…とはいうもののあれやこれやと…両方あわせると30曲くらいになるんでしょうね。どうぞ、お楽しみください。


絶唱    

夕笛    作詩:西條八十  作曲:船村徹
https://youtu.be/J1gG-7e21eQ 
(船村先生の歌唱でお聴きください/確かに、十三を十六に「作詩」されてます

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「夕笛」は、船村先生の曲ですが、二部では持ち歌は入れてないので一部のほうで…歌い手も自分の歌に好き嫌いがあるように、詩の先生とか曲の書き手も、いいと思って書いたけれど、今、聞くとつまんねぇな…と(笑)そりゃ、そうですよね、その時は素朴でいいなと思っても、若い頃は未熟ですから…
「夕笛」は、船村先生の中でも10本の指に入るんですよ。先生がご自身で歌っている「夕笛」の二番の歌詩の「♪君は 十三」が「♪君は 十六」になってる(笑)3っつ増えちゃって、そのまま発売になってます(笑)

船村先生というと「北島三郎」、遠藤先生は僕という印象が強いんですが、実は、遠藤先生がコロムビアを出られたあとは船村先生にたくさん曲を作っていただきました。シングルだけではなくて、組曲のようなアルバムも入れるとシングルにすると100曲以上になるでしょう。ステージ用に作っていただいた
*「北の出船」というのもあるんです。船村メロディーは粘りというか色気があって好きですね
当時のコロムビアの歌い手は幸せでしたね。作詩家、作曲家の当時の錚々たるお名前をたくさん出
されて、本当にご自身の歌い手としての幸せをかみしめているような舟木さんでした。

イメージ 9「北の出船」~舟木一夫 コンサート「詩秋」にて発表
(1975年 11月2日/3日 東京郵便貯金会館)
(1975年 11月30日 大阪万博ホール)
組曲「北の出船」(38分)
作詩:横井弘 
作曲:船村徹 
朗読:東京/松本典子 大阪/石原みちこ

*とっても気になる「北の出船」…ご存知の方がいらしたら情報などぜひ、お教え下さいね。





イメージ 13船村先生も、印象深い仕事だとおっしゃってましたが、僕が21の時に出したアルバム「その人は昔」のテーマを…これは流行歌のうちに入れていいのか…。船村先生は、この時、「困ったね、週刊誌にメロディーをつけてるみたいだ…」と、作詩、作曲…ではなくて「作・松山善三 音楽・船村徹」あとちょっと間をおいて「歌唱・舟木一夫」と言ってたあとで付け足すように、かすかに聞こえてきたのが「アラン・ドロン」?私の空耳だったのかな?(笑)

その人は昔のテーマ

哀愁の夜

高原のお嬢さん

こうやって歌ってきますと、いかにも歌に恵まれた歌い手だと思いますね。
デビューがアレですから、この先どうなるんだろうと思ってた矢先に「北国の街」、「高原のお嬢さん」が出てきた時に、片足だけ根っ子が生えたというカンジで安心しました。ステージで恒例になってる「銭形平次」も…それは福山クンに任せて(笑)、後輩が目をつけるということは、それだけ名曲だといういう事なんでしょう。私の歌がスバらしかった…ということも…と言ってからテレ隠しに「バカヤロー…」といつものあのロウ・トーンで言う舟木さんが可愛すぎでした。

私も、もう満で70ですから、まさか詰襟着てた頃に70まで歌っているとは思ってもいなかったですから…最近、体力の衰え著しい…「負けるもんか!」拍手)来年3月(特別公演)に来た時は、こんなになってるかも…と、よぼよぼ感をジェスチャーでしてみる舟木さん(笑)
こういう特集の企画もののステージというところでお客様に迎え入れていただけると、僕だけじゃな
く、いろんな歌い手がこういったステージを受け入れてもらえるいい例になるれば嬉しいということで昨年からやってるんですが…拍手)

これは歌っておかないと何が飛んでくるかわからないですから…

高校三年生

学園広場

イメージ 10このへんのは53年経ってるわけですけど、いい歌というのはいつまで経ってもいいですよね。
でも、30代の頃は一番、歌い辛かったんですね。今はもう、そんなことはなくて楽しんでます。
18才が今は70才ですから、にっちもさっちもいきまへん…18の時から比べると残念ながら甘い
、ツルっとした声は出ないですが、まぁ、それも変化ということで、「変化」というのが「進歩」してるのか「退化」しているのか分らないところもありますが…それはお互いサマですから…。

2日前に出たばかりの新曲をお聞きいただこうと思います。こんな世の中ですから、こういった歌が広がってくれたらと…今のタイミングでこういう歌と出逢ったことを幸せなことだと思ってます。

新曲 春はまた君を彩る

ステップの中段に上がって、ツーコーラス目は右手をポケットに入れて、リラックスして「春はまた君を彩る」で、一部のラストを飾りました。


 ここからは、二部の「船村徹~演歌の旅人」の予習です 

以下は日本コロムビア 公式サイトによる船村先生のプロフィールです

イメージ 14船村徹
◇ 本名:福田博郎
◇ 生年月日:昭和7年6月12日
◇ 出身地:栃木県塩谷郡船生村(現:塩谷町)

船村徹 プロフィール 

演歌の世界で、並ぶものがない大御所の作曲家。昭和7年、栃木県船生村生まれ。父親は獣医だった。
高校時代は、数学が苦手で、教室ではいつも一番前に座らされていたという。
そこで数学の教師からは、「いつもいじめられていた」(本人談)という。大学受験には、全く自信がなかった。そのころ、船村は音楽部の部長をやっていて、そこへ同級生が、「ここなら入れるんじゃないか」と音楽学校の入学願書を持ってきた。そして入学、昭和24年のことだった。その東洋音楽学校(現東京音楽大学)ではピアノ科に学ぶ。同校の声楽科に在籍していた高野公男と知り合い、二人で作品作りを精力的に始める。

昭和20年代、まだ駐留米軍が数多くいた時代、船村は米軍キャンプ専門のバンドで、そのリーダーをつとめたこともあったという。高野と一緒に、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。ただ、栃木にいる頃は、生活には困窮し、朝食は向こうが透けて見えるトースト一枚。あとは水を飲んで飢えをしのいだという。「ピアノを弾くことはエネルギーがいりますから」とても腹が減って、辛かったとも、船村は語っている。そこで知り合った同級生の高野公男の弁当から、にぎりめしを取ってたべてしまったことから、仲良くなり、一生の「友人」としての交際がはじまった。その高野が、「焼け野原で働く大衆のための歌を作れ」と言い出して、船村は、演歌を志すようになった。

船村が栃木の出身、高野が茨城県。ともに地方出身ということもあり、意気投合したこともあったらしい。ともに演歌を自分の仕事と思い定め、二人揃って、貧乏暮らし。キャバレーのボーイのアルバイトでは、客の残したビールを洗面器に集め、二人でそれを飲んだこともあったという。
この当時、東洋音楽学校の一級上に黒柳徹子がいた。黒柳は声楽科で、そのような上級生の伴奏を勤めさせられることがあり、そのことを「指導」と呼び、船村も、黒柳から、たびたびそのような「指導」を受けたことがあるという。
昭和30年、キングレコードから春日八郎のデビュー作として「別れの一本杉」が発売される。昭和31年、コロムビアレコードから招かれて、高野公男とともに専属となる。そのとき高野26歳、船村24歳。昭和31年8月、コロムビア入社第1作「早く帰ってコ」を発売。その翌月、高野は26歳で、結核のため亡くなってしまう。
昭和36年、村田英雄による「王将」を発売。戦後初のミリオンセラーとなる。
昭和53年、22年在籍したコロムビアを退社、フリーの作曲家として活動を始める。同時に、「二代目
・船村徹」として、歌作りの原点に立ち返るとして、演歌巡礼の旅を発想し、全国を歌いながら回ることになる。小さな街や刑務所での慰問し、法務大臣より感謝状を送られる。
これまでに世に送り出した作品は約4500曲。弟子の北島三郎によれば「職人の名人芸」という。作詩家とのつきあいは。西條八十、野村俊夫、石本美由起、丘灯至夫、西沢爽といった、いまでは超ベテランと呼ばれるひとたちから、なかにし礼、吉岡治、阿久悠に繋がる幅の広さだ。「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」「あの娘が泣いてる波止場」「矢切の渡し」「女の宿」「王将」「新宿情話」など、多くの人たちが、折りにふれて口ずさむ歌の数は、圧倒的に多い。
日本作曲家協会理事長を、吉田正から引き継ぎ平成17年まで務めた。作曲家として、十分以上の実績を積み上げながら、なお現役にこだわりつづけ、今なお、作曲を休まない。


こちらは、船村先生について書かれている資料 (pdfです。むっちゃボリュームあります) ↓ 
スペシャル・エディション nippon  熱くて温かいニッポンの男~船村徹、ひとり列伝
http://www.ehimekenichi.com/pdf/1206_funamura.pdf


高野公男氏のこと

イメージ 15そして、「親友」という言葉も、色褪せるような、船村徹という偉大な作曲家が生まれるために、欠くべからざる存在であった、唯一無二の大切な人、高野公男さんへの船村先生の深い想いが偲ばれる資料を併せてご紹介します。

船村先生が、高野公男氏の御命日に毎年欠かさずお墓参りされている高野氏の故郷を以下のサイトから、資料としてご紹介させていただきます。
「茨城県笠間市大郷戸」
http://4travel.jp/travelogue/10307355







「別れの一本杉」の歌詩と船村先生の鎮魂の言葉が刻まれた石碑がお地蔵さんに見守られています

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高野公男作詩「男の友情」原稿

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「2015 シアターコンサートin新歌舞伎座 5月29日/30日 その2」のレポートでもあらためて掲載しますが、船村先生が捧げられた石碑に刻まれているのが、高野氏の遺言でもあるかのような「男の友情」(高野氏作詩)を受けて、船村先生が高野氏に返歌なさったかのような「友よ」から始まる詩です。


友よ 土の中は イメージ 16
寒いのだろうか 
友よ 土の中には 
夜があるのだろうか 
もしも 
寒いのならば 
俺のぬくもりを 
わけてあげたい 
もしも 
夜があるのならば 
俺の手で灯りを 
ともしてやりたい 
友よ 俺の高野よ 
こおろぎの 
よちよち登る 
友の墓石 

~昭和四十三年秋 船村徹~



高野公男(吉郎)の譜

イメージ 17昭和五年二月六日 茨城県笠間市大郷戸一六二番地に生まれる。
昭和二十年三月、西茨城郡北山内尋常高等小学校を卒業後、上京、小松川工業高校 向島工業高校を経て東洋音楽学校に入学、詩作の道に入る。

音楽学校の親友 船村徹と共に作詞 作曲のコンビを組み、戦後の日本歌謡界不朽の名作と云われる「別れの一本杉」を始め「あの娘が泣いている波止場」「男の友情」「早く帰ってコ」「ハンドル人生」「ご機嫌さんよ達者かね」「三味線マドロス」等、多くの名作を残す。

昭和二十九年、初夏、胸を病み、親友、船村徹との数多い友情物語りを残こし、昭和三十一年、国立水戸病院にて歿、二十六年間の短かくも悲しいドラマは終わった 見知らぬ人々の歌声と共に




笠間市立箱田小学校HPにも高野氏について掲載されています。
http://www.ed.city.kasama.ibaraki.jp/el-hakoda/files/items/3696/File/4ee6832227835.pdf

~2015 シアターコンサートin新歌舞伎座 5月29日/30日 その2に続きます~


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