2015年8月15日は70回目の「終戦記念日」。私の中では「第二次世界大戦」という歴史上の出来
事として、子どもの頃から耳にし、毎年、夏休みのお盆の頃がやってくるとテレビや新聞などでも取り上げられていた日本人にとって特別の日というイメージの日です。
「イメージの日」というのは、あまりにも軽い言葉ですが、実際に戦争を経験していない昭和27年(1
952年)生まれの私にとっては、正直な気持ちで言えば、そういう表現になることをあらためて思わざ
るを得ない気がしているこのところの政局です。
自分自身の戦争に対する危機意識の浅薄さそのものが、現在、国会で議論されているような切迫した事態を生んでしまったことに加担しているような、うしろめたさも否めません。
中学生になった思春期の頃から、戦争の悲惨さは勿論、いわゆる「聖戦」などという言葉の持つ欺瞞性などを少しずつ考えるようになっていきましたし、このブログでも再三再四、舟木さんのおかげでこの思春期の頃に出逢うことのできた「絶唱」という作品(歌も映画も含めて)のことも、思い起こして記事にしてきました。また、広島、長崎へも高校時代に訪れて、「原爆の爪痕」も追体験してきてはいました。でも、戦後70年を経て、また、「軍靴の足音」が、近づいてきたような不安感に囚われている今日この頃です。昭和27年生まれの「戦後世代」のひとりである自分自身が、今日まで「戦争」というものと、どのように向き合ってきたのか?を自分自身に問う時が来ているように感じています。
それなりの「平和」教育を受けてきた世代ですから、自分なりに、もっとできることがあったのではない
かと70年目の終戦の日を迎えて自問自答しています。
よく映画やテレビドラマなどでも登場するラジオから流れる「玉音放送」を国民が聴く場面がありますが、自分自身の追体験として、8月1日に宮内庁が公開した「玉音放送」のレコード原盤を聴き、その意味するものを考えてみたいと思っています。
毎日新聞 webニュース (2015年08月01日 05時00分)より、転載させていただきました。
http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20150801k0000m040144000c.html
玉音放送
録音レコードの原盤を初公開
◇「御前会議」会議室の写真も 50年ぶりに
戦後70年にあたり、宮内庁は1日、昭和天皇が国民に戦争の終結を伝えた「玉音放送」の音声を録音したレコードの原盤を初めて公開した。デジタル録音したこの原盤の音声も公開した。終戦を決断した「御前会議」が開かれた皇居内の防空壕(ごう)の現状を撮影した写真や映像も併せて公開した。同庁のホームページ(HP)に掲載する。
玉音放送の音声は、「終戦の詔書」を読み上げた昭和天皇の声を録音したもので、1945年8月15日正午、全国にラジオ放送された。
録音は、前日の8月14日夜に宮内省(当時)で行われた。原盤は2枚組みと3枚組みの計5枚で、戦後、皇室の所蔵品の「御物」として宮内庁が保管していた。3枚組みは1枚に破損があったが、2枚組みは再生が可能で、その音声をデジタル録音して公開した。
原盤は天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さまも今年6月に聞かれたという。
宮内庁によると、市販のCDやインターネットなどで公開されている玉音放送の音声は、戦後、コピーが繰り返されたものとみられる。原盤は46年7月、連合国軍総司令部(GHQ)からの「コピーを残したい」との要請を受け、9日間貸し出されたことがあるという。
内部の写真などが公開された防空壕は「御文庫(おぶんこ)付属庫」と呼ばれる施設。昭和天皇が居住していた御文庫の北東約100メートルの場所に陸軍が建設した。御前会議が開かれた会議室などがあり、宮内庁は今年7月に撮影した25枚の写真と映像、図面を公開した。会議室は壁の化粧板がはがれ、床が朽ちており、戦後70年の時間の経過をうかがわせている。付属庫の写真公開は65年以来、50年ぶり。
宮内庁幹部は「終戦関係の象徴的な資料を国民に知ってもらうことに意義がある。(両陛下も)そういうお気持ちだと思う」と話している。【真鍋光之、高島博之】
以下は同じく毎日新聞がyoutubeにアップした動画です。
戦後70年に当たり宮内庁は1日、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤を初めて公表し、併せて音声を公開した。玉音放送は、1945年8月15日正午からラジオ放送された昭和天皇による終戦詔書の朗読(約4分30秒)。前日の14日深夜、当時の宮内省内で録音された。昭和天皇はとり直しを希望して2回読み上げ、2種類の原盤が完成した。今回公表されるのは、実際に放送された2回目の録音の原盤。
「終戦の詔勅(玉音放送)」口語訳
ネット上のサイト「満州引き揚げ回想記」より転載させていただきました。
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm
http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm
終戦の詔勅 -玉音放送- (1945.8.15正午)
原文(赤字)と口語訳(黒字)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。
そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。
ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。
ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。
終戦記念日に合わせて、舟木さんが唄っていらっしゃる曲でyoutubeにアップされているものの中から二つの歌を選んでみました。
ふたつとも「戦争」が題材にされているのですが、一見すると、全く異なる「戦争」というものの側面が
表現されています。そして、どちらも「戦争」というものが、もたらす人間の心情であり、風景なのだと
思います。だからこそ、なおさらに「戦争」を引き起こしてしまう人間の心の脆さや危うさ、愚かさに真正面から向き合わなくてはならないのだと思います。
その1 里の秋 作詩:斎藤信夫、作曲:海沼実 アルバム「舟木一夫の想い出の歌」収録
https://youtu.be/mKe3JUjXSUQ(kazuyanさんの動画です)
https://youtu.be/mKe3JUjXSUQ(kazuyanさんの動画です)
静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた
明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す
さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります
里の秋 ~ウィキペディアより~
1945年(昭和20年)12月24日、ラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。
放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。
1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では夜空の下で遠くにいる父親を思う様子、3番では父親の無事の帰りを願う母子の思いを表現している。
*仁木紘三のうた物語~ 「里の秋」の誕生についての詳細がアップされています。
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_36eb.html
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_36eb.html
その2 荒鷲の歌 作詩・作曲:東辰三 (昭和15年10月発表/昭和48年発売「決定版 日本軍歌大全集」)
https://youtu.be/Auh6rCblVLw
https://youtu.be/Auh6rCblVLw
昭和15年頃の原盤レコード
見たか銀翼 この勇士
日本男子が 精こめて
作って育てた わが愛機
空の護りは 引受けた
来るなら来てみろ 赤蜻蛉
ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ
日本男子が 精こめて
作って育てた わが愛機
空の護りは 引受けた
来るなら来てみろ 赤蜻蛉
ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ
誰が付けたか 荒鷲の
名にも恥じない この力
霧も嵐も なんのその
重い爆弾 抱えこみ
南京ぐらいは ひとまたぎ
ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ
名にも恥じない この力
霧も嵐も なんのその
重い爆弾 抱えこみ
南京ぐらいは ひとまたぎ
ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ
荒鷲航空隊員
金波銀波の 海越えて
曇らぬ月こそ わが心
正義の日本 知ったかと
今宵また飛ぶ 荒鷲よ
御苦労しっかり 頼んだぜ
ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ
曇らぬ月こそ わが心
正義の日本 知ったかと
今宵また飛ぶ 荒鷲よ
御苦労しっかり 頼んだぜ
ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ
翼に日の丸 乗組は
大和魂の 持主だ
敵機はあらまし 潰したが
あるなら出て来い お代わり来い
プロペラばかりか 腕も鳴る
ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ
大和魂の 持主だ
敵機はあらまし 潰したが
あるなら出て来い お代わり来い
プロペラばかりか 腕も鳴る
ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ
*二番は歌唱されていません。
*歌詞中に出てくる「赤蜻蛉」とは当時の海軍の練習機である九三式中間練習機や陸軍の九五式一型練習機のことで、日本軍航空部隊練習機は橙色で塗られており、それが「赤トンボ」に見えることから。 タイトルにも含まれる荒鷲は当時の航空隊の搭乗員のことを表す。
中日新聞webより転載 8月14日 社説 元ゼロ戦乗りの反戦論~戦後70年を考える
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2015081402000114.html
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2015081402000114.html
戦争体験者が減る中、真珠湾攻撃から敗戦まで「ゼロ戦」に乗り続けた元パイロットがいます。講演で「戦争ほどの罪悪はない」と語り続けています。
長野市在住の原田要さん。九十九歳。つえが必要な日常ですが、往時を語りだすと言葉に力がこもります。十七歳で旧海軍に入り、パイロットとして日中戦争へ出撃、太平洋戦争ではゼロ戦に乗り、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島攻撃など主要な戦闘に参加。空中戦で撃たれ、重傷を負ったこともあります。
危機感から始めた講演
原田さんは語ります。「寝ると戦争の夢ばかりみる。忘れよう、と努力して忘れかけていたところで湾岸戦争が起きたのです。テレビでミサイルが撃ち込まれる様子を見た若い人たちが『花火のようできれい』と言ったのにがくぜんとしました。ミサイルが落ちるところには一番弱い人々がいて犠牲になっている。そのことに思いが至らないのです」
幼稚園経営を引退し、穏やかな生活を送っていた原田さん。講演活動を始めたのは、戦争を知らない世代への危機感からでした。「戦争で幸せになる人は一人もいない」。これが操縦席の内側から最前線を見てきた実感なのです。
開戦前の一九四一年秋、空母「蒼龍(そうりゅう)」への乗艦を命じられ、大分県の航空隊でゼロ戦と出会いました。厳しい訓練を経て出港。戦艦、空母、巡洋艦などが集結した択捉島の単冠湾で「目標は真珠湾」と知らされました。原田さんの役割は艦隊の哨戒飛行でした。攻撃隊が戻り、「軍港が火の海になりました」との報告があり、艦上は「バンザイ、バンザイ」と戦争に勝ったよう。電信員が原田さんに近づいてきました。ゼロ戦一機がはぐれてしまったのです。
小を見捨てる無慈悲
「攻撃前、位置が分からなくなったら、誘導電波を艦隊に要求しろ、その電波に乗って帰れるという話でした。電信員は『電波を要求しているが出せない』という。『ひどいじゃないか』と詰め寄ると『敵が電波に乗ってやってきたら元も子もない』というのです。大を守るために小を犠牲にする。戦争の無慈悲を感じたのです」
真珠湾攻撃から半年後、日米の空母機動部隊が激突したミッドウェー海戦で日本は参戦した空母四隻すべてを失いました。原田さんはやむを得ずゼロ戦ごと着水、周囲の兵士が海に沈む中、日本の駆逐艦に救助されます。
「甲板は手や足を失った兵士や顔が黒こげになった兵士で埋めつくされ、地獄絵のようでした。医官が近づいてきたので『苦しんでいる人を早くみてください』というと『何を言っている。君のように少し手当てをすれば、戦える人から治療する。ここは最前線なんだ』といわれたのです」。戦争はやはり無慈悲でした。
軍は敗戦を隠すため、原田さんら生還したパイロットを鹿児島県の収容所のような基地に幽閉。その後、転属を命じられ、ガダルカナル島の攻略戦で敵機に撃たれて左腕を負傷、ジャングルに不時着して日本軍の基地にたどり着き、再び一命を取り留めました。内地に戻り、特攻隊員の養成教官などを経て、終戦を迎えました。
講演会で「敵を撃墜すると気持ちがいいでしょう」と聞かれることがあるそうです。原田さんはこう答えています。
「とんでもない。まず落とされないで助かったとホッとする安堵(あんど)感。その次に技術が彼よりも上だったという優越感。このふたつが頭をさっとかすめる。そのあと相手も死にたくなかった、彼の家族まで泣くだろう。そう考えれば、気持ちがいいはずがない」「接近戦で相手のパイロットが『もうやめてくれ』という顔をする。身ぶりまで見える。でも、撃たなければ次には自分が撃たれるから撃つしかない。罪も憎しみもない同じ人間にとどめを刺すのが戦争なんです」
戦後、原田さんは米国に行き、ガダルカナル島で自分が撃墜したものの、生還した米人パイロットに会い、州知事になったことを知りました。英国ではインド洋空戦で撃墜した英人パイロットと再会、「ヨウコソ」と歓迎され、涙がとまらなかったそうです。
「戦争ほどの罪悪はない」
訪れたミッドウェー島は野鳥が生き生きと暮らすのどかな小島でした。小さな島の取り合いに命を懸けた過去は、尖閣諸島をめぐり対立する現在の日本と中国の姿と重なります。
国会では野党が「戦争法案」と批判する安全保障関連法案の審議が進みます。「戦争ほどの罪悪はない」「平和は犠牲の上になりたっている」。原田さんの言葉を今こそ、かみしめたいものです。
太平洋戦争で吉本は戦闘機部隊「荒鷲隊」にちなんだ「わらわし隊」を戦地に派遣!
http://blog.livedoor.jp/corez18c24-mili777/archives/42150027.html
国力のすべてを戦争に-。1938年に成立した国家総動員法は、経済活動のみならず、文化・芸術・芸能までも戦争の道具にしていった。漫才師たちは海を渡って戦地で兵隊を笑わせ、国内で戦時スローガンを浸透させる役割を担った。「移動中に崖の上から銃撃されたこともある。線香を供えられた遺体は、前日、漫才を聞いてくれた兵隊だった」
漫才師の内海桂子さん(92)は43、44年に、陸軍が編成する戦地慰問団に参加し、旧満州と中国北部を訪れた。 軍部につながりのある芸能会社が慰問の仕事を請け負い、芸人を集めていた。慰問先は戦地だけでなく、内地の部隊や軍需工場にも及んだ。芸人も、芸能会社も、戦争で仕事を増やした人たちがいたという。 「国には戦争でえらくなる人もいる。戦争をあおって飯を食ってる人がいたんだよ。そんなのがなければ、戦争しなくても済んだかもしれないのに」
◆吉本は「わらわし隊」
漫才師の戦地慰問は31年の満州事変の直後に始まった。大阪に拠点を置く吉本興業は38年、日本の戦闘機部隊「荒鷲(あらわし)隊」にちなんだボランティアの慰問団「わらわし隊」を派遣する。同社文芸顧問の竹本浩三さん(79)は「戦争が進むと国内の劇場は閉鎖されていった。吉本は軍に協力して、興行を継続させようとしたんだろう」と話す。
当時、国内の舞台は事前検閲の上、警察の監視下で行われたが、戦地は別だった。竹本さんは「あすの命もしれない兵隊の前で、ぬるま湯の漫才なんてできない。軍批判も反戦的なものも自由にやった」と話す。
◆軍批判も反戦漫才も
陸軍情報局で言論統制の中心的役割を担った鈴木庫三(くらぞう)少佐は漫才を国策宣伝の有力な手段と認識していた。41年の雑誌の対談では「吉本興業で漫才師300人を集めて、午前2時まで講演したことがある。時局漫才は、笑わせながら時局認識を与えようというところがある」と話している。
漫才にとどまらず、文化芸能は戦争と深く結びついていた。「詩歌と戦争」の著者で東京外大大学院の中野敏男教授は軍の暴走だけでは、その背景は説明できないと考えている。32年の上海事変では、敵陣への突撃路を確保するため3人の兵隊が爆死し、爆弾三勇士と呼ばれた。新聞は関連記事を連日書き、映画、演劇、歌、講談、漫才になり、国民は熱狂した。「国民が求め、(見せる側が)大衆迎合した」と指摘する。
大切な人との、あたりまえの日常を守っていくために、日本が世界の中でどのような役割を果たす国になるべきなのか、どういう日本の姿を見せていくのか、その方向性をイメージし、決めていくのは私たちひとりひとりだと思います。むつかしい選択ですが、「終戦の日」を機に、それぞれがこれからの日本の姿を思い描いてみることは、私たち戦後生まれの者の大切な責任なのでしょうね。
愛おしい 山鳩は
山こえて どこの空
名さえはかない 淡雪の娘よ
なぜ死んだ ああ 小雪
山こえて どこの空
名さえはかない 淡雪の娘よ
なぜ死んだ ああ 小雪
結ばれて 引き裂かれ
七年を 西東
いのち短く 待つ日は永く
泣きぬれた ああ 小雪
七年を 西東
いのち短く 待つ日は永く
泣きぬれた ああ 小雪
山番の山小舎に
春が来る 花が咲く
着せて空しい 花嫁衣装
とこしえの ああ小雪
春が来る 花が咲く
着せて空しい 花嫁衣装
とこしえの ああ小雪
なぜ死んだ ああ 小雪