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上記からのつづきです。
上記からのつづきです。
「夕笛」~悲恋を招く、三つのキイワードをあくまで私見ですが、私なりに読み解いてみました。
★1.軍歌の足音が近づく昭和初期の社会状況~一般庶民への思想および言論弾圧
映画に登場する新聞記事→
スクリーンに登場する新聞記事から推測すると、この物語の背景となった時代は昭和初期、満州国建国の年である1932年以降あたりから5年間ほどの時代と思われます。また、その頃から共産党及びそれに近いと見られた合法的大衆団体への弾圧・粛清が強まっていったということも、雄作と若菜にとっての不運・不幸を招くという流れに不可欠の要素となっているということも、あらためて 踏まえて観てみました。
★2.白椿が暗示する不幸
~白椿のある家には、不幸が起こるという言い伝え
「不幸を招く不吉な花、白椿」に、雄作と若菜を「悲運に翻弄される恋人たち」という展開に向かわせる狂言回し的な役割を与えていることは、西河監督のカメラワークでも十分に示唆されていますし、脚本の中でも若菜の父・筒井銀蔵(島田正吾)の台詞で語らせています。いわば、不幸を招く白椿屋敷の住人となった雄作と若菜のふたりが、もやは逃れられない運命として、まさに、その白椿の花が咲き匂う中で出逢ってしまった…ということからこの悲恋物語は約束されていたということなのでしょう。
★3.封建的な政略結婚
~家と家とが互いに即物的な利益を獲得するために、結婚する当事者の意思にかかわらず婚姻関係を結ぶ慣習
ニシン漁でにわかに富を得た筒井家は、次に家柄を求め、地元の城代家老の血筋を引く高須家は、気位は高いが金銭的には窮しているため富を求めた。互いの欲するところを埋め合わせるために、世間知らずの年若い若菜は望まない結婚を強いられ、その運命をはねつけることができない。
以下の記事も、別冊・近代映画 1967年10月号に掲載されたものです。私が勝手に、映画の場面映像を補足してまとめてみました。当時の舟木さんの中核をなしたファン層の年令を思うと、この記事を読まれた時点でピンと来なかったかも知れないな…と思いますが、今、読んでみると”ふむふむ…”なんてカンジですね。
~映画「夕笛」をめぐる”愛”の問題点 別所直樹
別冊近代映画 1967年10月号 掲載記事~
若い男女は結婚式とか花嫁衣裳など、映像面のはなやかさ結婚を夢想しがちだが、愛には苦悩もつきまとうことを忘れてはならない、映画「夕笛」は、愛の無情、愛の強さを謳い上げ、形式にとらわれた結婚の悲劇を若者に暗示している…。
恋の会話は眼から始まる……視線が合って結ばれた恋がいちばん早く成就する…。フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーはこのように述べている。眼は恋の使者であるかも知れない。恋の会話は、まず眼から始まる、とも言われる。
旧制高校の学生島村雄作は、かつて住んでいた田舎の旧居を訪れる。早春のことである。椿の古木が昔ながらに見事な白い花を咲かせている。
その日は、父の命日であった。白い椿を愛した父のために、雄作は一輪の椿を無心するつもりだった。そこで偶然に若菜と逢う。草笛を吹き鳴らすセーラー服の少女。
ふたりの眼が合う。はじめて逢った若い男女が、たがいに相手の内面をさぐり合う眼の色。そこにはまだ、恋の会話は見られない。好奇心があるだけだ。しかし、ふたりはまた海辺で逢う。それもふつうの逢い方ではなかった。誰もいない夕べの海でひっそりと泳いでいる若菜を四人連れの高校生がみつける。かれらは、若菜の白い裸身に、人魚を夢みる。そして、岩陰に脱ぎ捨てられた着物をかくす。これは、天の羽衣の伝説を思い出させるシーンだ。
この夢は二十世紀の男性にも生きている。高校生が着物を隠したくなるのも無理からぬことだろう。しかし真面目な雄作は少女の困惑を思い、その着物を返しにいくが、岩陰からのぞく少女の眼と視線を合わせ、ハッとおどろく。意外にも先日逢った椿の家の少女ではないか。
瞬間的な眼の動きが、海辺を背景にとらえられるわけだが、運命的な恋がここから展開されるのである。右の眼は地上に恋の花を咲かせ、左の眼は天上の理想を夢見ている。”恋の会話”である。
自身に責任を持つ恋愛結婚のむずかしさ
だが、若菜にはすでに決められた結婚相手があった。若菜の父親・銀蔵は北海道のニシン成金である。いま、ニシン漁は不振でそんな成金も影をひそめたが、この物語は昭和初年が舞台になっていて成金も実在した。
金を握った銀蔵は故郷で邸宅を買ったが、それは雄作の父の邸だった。雄作は父の友人である北国新報主幹根津の厄介になり、働きながら学んでいた。つまり、没落階級の人間として描かれている。そして、若菜一家は振興成金、さらにその結婚相手は名門ということになっている。
金を握った銀蔵は故郷で邸宅を買ったが、それは雄作の父の邸だった。雄作は父の友人である北国新報主幹根津の厄介になり、働きながら学んでいた。つまり、没落階級の人間として描かれている。そして、若菜一家は振興成金、さらにその結婚相手は名門ということになっている。
城代家老の血筋を引く家、高須家が若菜の結婚相手だが、この結婚には、恋とか愛ということは介在していない。あくまでも家と家である。名門と成金のとり合わせで、このような結婚は意外に多い。
殊にまだ封建的だった昭和初年に於いては「成金」の筒井家にとって、「名門」高須家との結婚は喜ぶべきことであった。人間は、金が出来ると権威が欲しくなる。爵位が金で買えた時代であり、名門の魅力は大きかった。城代家老の血筋といっても、今の若い人にはピンとこないだろう。が、士・農・工・商と言われ、”士”が上位にあった時代の名残が当時はあった。父の銀蔵がその名門との結婚によって筒井家にハクをつけようとする。若菜の兄、巳代治は作家志望であるだけに、精神に生きようとする。名門との結婚よりも純粋に愛に生きることをすすめる。「行くところまで行って、後悔することのないようにしろよ」と妹に言うが、これはつまり、自分に責任を持てということである。愛が破局に終わっても、自分が求めてしたことなら、後悔ははないだろう。若菜はついに家出を決心する。しかし、その直前、雄作は巳代治とともに思想犯の嫌疑者として特高刑事に捕えられる。
愛は残酷 そしてまた尊い
恋は炎に例えられる。燃えつきた後の灰が恋の果ての長い結婚生活だというのである。パッと燃えようとした瞬間、思わぬ邪魔が入り、若菜は呆然とする。その虚脱状態につけ込み、父母は高須家との結婚をすすめてしまった。若菜も雄作との恋を貫く勇気を失っていたのである。それもムリはないやっと女学校を卒業したばかりの少女なのだ。雄作にはまだ三年も学業が残されており、その上、巳代治の巻き添えをくって留置場にもふち込まれた。前途は多難であった。動揺しやすい娘ごころは、急に平安な生活に心ひかれるようになってしまったのである。
だが、高須家との結婚は幸せなものではなかった。空虚な名門意識にすがりついて生きる高須家には死んだような冷たい空気がよどんでいた。夫の姉は、底意地が悪く、美貌で裕福な若菜に敵対意識を抱いている。夫は愛人の芸者と手が切れず、養父母は若菜の実家の金をあてに家の増築を考えている。”愛”はどこにもない。”計算”と名門意識にすがって生きるくだらぬ一家であった。
若菜の絶望を支えるのは、雄作との楽しい想い出だけだった。雄作が少年時代、亡父から贈られたオルゴール時計を若菜は持って嫁いだ。その時計が夫の疑惑を招き、若菜を責める。その頃から若菜は自分の視力が急に衰えたのを知り、愕然となる。同時に兄の出征、父の急死、実家の焼失と母の死という不幸が重なる。彼女は焼け残った実家の土蔵に逃げ帰り、お手伝いのトヨの助けを借りてひとり暮らしをする。
そこに訪ねて来たのが雄作だった。三年間のドイツ留学が決まり、それとなく若菜に別れの言葉を言いに来たのである。恋人が結婚に破れ、しかも盲目になっていると知り、雄作は再び恋の嵐に吹きまくられる。
人を裏切った罰だという若菜。何も見えなくなっても、あなたのお顔だけはよく見えるの…という若菜の言葉は美しく悲しい。
雄作の変わらぬ愛を知り、一度は自殺を図ろうとした若菜も”再出発を決意する”上京して眼を手術することに決めたのだ。しかし、出発の直前、雄作は持病の心臓病で死に、彼の墓を抱くようにして若菜もそのあとを追う。
この作品の一年前に、大ヒットを放った「絶唱」の存在の大きさというのも、「夕笛」が、こういった悲恋ものになったことと無関係ではないのでしょう。「絶唱」に次ぐ大ヒットを狙うということであれば、その路線を続けていくということになるのは当然ですし、当時は、日活三人娘として、吉永小百合さん、和泉雅子さん、そして松原智恵子さんという三人の若手女優さんが活躍していた時期でもあり、「夕笛」のヒロインに抜擢された松原智恵子さんは、吉永小百合さんや和泉雅子さんと比べるとまぎれもなく、運命に翻弄される悲劇のヒロインというイメージにピッタリとハマる女優さんだと思います。おしとやかでどこかさびし気な顔立ちの松原さんの女性らしさを、さらに前面に押し出して日活の人気女優に育てていこうとする制作側の意図が「夕笛」という作品には色濃く出ているように感じます。あくまでヒロインとして松原智恵子さんの魅力を引き出そうとした制作側の狙いが、的を射たからこそ、これでもかの悲恋ドラマもただみじめな恋人たちの死ということに終わらず、若狭の海を背にした墓標「雄作 若菜之墓」を観客の目に焼き付けて「天国に結ぶ恋」という美しい余韻を残すことができたように思います。
そして「悲恋三部作」…といわれる「絶唱」「夕笛」「残雪」ではありますが、こういった表現は、おそらく「夕笛」以降に言われるようになったものだと私には思われます。「夕笛」「残雪」は、どこか因縁めいたものが二人の男女の間に横たわっていて、出逢うべくして出逢い、引き裂かれることがあらかじめ決まっていた「運命」を感じさせます。「絶唱」は、この二作品に比べると、主人公の男性が自分が育った特殊な環境に気付き、社会との向き合い方に目覚めていったことに端を発しているのですから、「意志的な生き方」と「戦争という時代」が生み出してしまった不幸であり、きわめて社会性、メッセージ性の強い作品であると思います。そういった意味では「悲恋三部作」といっても、やや異なるニュアンスであることを私的には感じています。
最後に「絶唱」についても別所直樹氏が、触れておられましたので、抜き書きさせていただきます。
舟木一夫で思い出されるのは、和泉雅子との共演作「絶唱」であろう。この作品では、舟木が旧家の大学生、和泉が山版の娘にふんした。舟木は「夕笛」とは逆の立場である。だが、舟木の父の反対に遭い、ふたりは結婚できない。和泉は他国の親類に預けられることになり、それを知った舟木は、愛を貫くために家を出て、貧しいが幸せな愛の巣をかまえる。しかし、戦争の黒い魔手が若いふたりにも襲いかかった。舟木は出征。和泉は激しい労働に耐えながら愛する男を待つが、やがて胸を冒される。この「絶唱」も悲恋に終わっているが、わずかな日だが、ふたりだけの幸福の日を送ることができた。それがせめてもの救いだ。
このように、結果としては、どちらも同じ「悲恋」という捉え方になってはいますが、ここで筆者が書いているように「絶唱」という物語の「救い」は、愛を貫いて短くも幸せなふたりだけの居場所を持てたということなのですね。私が、思春期に大きな感動を受けたのも、悲恋だったからではなく、意志的に生きたふたりの姿に勇気や、これから自分が生きていくための大切なものを示されたように感じたからではないかと、思います。もし、リアルタイム「夕笛」を観ていたとしても、昔の女性は可哀想だったなぁ…という感想に終わっていたのではないかと思います。生きていくための希望のようなものを示唆してくれたという意味では、「絶唱」は、やはり私にとってのベスト・ワン作品であり、ただの「純愛悲恋物語」では、なかったと言えるのだと思います。
「夕笛」ファンの皆さんには申し訳ないのですが、最後は、どうしても読む者に仄かな希望を与えてくれる作品である「絶唱」に軍配をあげてしまう私ですが、この当時の舟木さんと松原さんの美しさは、まさに「季節の花」というのでしょうか、掛け値なく申し分ないもので、映像としてこうした作品が残っていることは、本当に嬉しく、ありがたいことだと思います。
これ以上のクラシカルな美男美女のツーショットは、この世代のどんなコンビもたちうちできないと思います。松原智恵子さんの若菜でなければ、物語自体がウソっぽくなってしまうほどの過酷な運命に弄ばれる女性のリアリティは出ないでしょう。それほど浮世ばなれした美しさに輝いています。舟木さんもまた、昭和初期の好男子という佇まいを体現するような清潔感と正義感にあふれた凛々しい美しさを湛えたまなざしが、グッと見る者の心をワシヅカミにする眼の演技です。
おふたりの汚れない美しい容貌と、夕陽を背景にした燈台に向かって歩いている雄作と若菜のシルエットシーンや、あのクライマックスの嵐の夜のシーンのカメラワークはじめ随所に西河監督の美意識やセンスが光って、舟木さん主演の映画の代表作のひとつとなったことは確かだと思います。
夕笛 (映画の映像付)
https://youtu.be/PsMVvtl_4QM
https://youtu.be/PsMVvtl_4QM
夕笛 作詩:西條八十 作曲:船村徹
ふるさとの 蒼い月夜に
ながれくる 笛の音きいて
きみ泣けば わたしも泣いた
初恋の ゆめのふるさと
ながれくる 笛の音きいて
きみ泣けば わたしも泣いた
初恋の ゆめのふるさと
おさげ髪 きみは十三
春くれば 乙女椿を
きみ摘んで うかべた小川
おもいでは 花のよこがお
春くれば 乙女椿を
きみ摘んで うかべた小川
おもいでは 花のよこがお
ふるさとへ いつの日かえる
屋敷町 古いあの町
月の夜を ながれる笛に
きみ泣くや 妻となりても
屋敷町 古いあの町
月の夜を ながれる笛に
きみ泣くや 妻となりても
ああ花も恋も かえらず
ながれゆく きみの夕笛
ながれゆく きみの夕笛
夕笛 (船村先生歌唱)
https://youtu.be/J1gG-7e21eQ
https://youtu.be/J1gG-7e21eQ
「♪きみは十六…」と唄っていらっしゃいます。
夕笛 ギター:船村徹 歌唱:舟木一夫
https://youtu.be/JV4OkAjeQus
https://youtu.be/JV4OkAjeQus
舟木さんが「夕笛」を語る新聞記事