薫風バラ園のバラ。まだアップしてないのがありましたので…
コロシート 舟木一夫/歌のプリンス(1968年8月発行)
連載その4
舟木一夫とショーあれこれ
三十八年の十二月、新宿コマで、十日あまりのショーをひらいたのが、舟木一夫の大劇場でのショーらしいショーのはじまりだったと記憶する。
*註12月5日から27日まで、東京・新宿コマ劇場で行われた「ホリプロダクション青春パレード~花咲く学園」のことかと思われます。
その年の六月「高校三年生」で花やかにデビュー、ひきつづき「学園広場」「仲間たち」と三枚のシングル盤が大ヒットしたので、彼が当時所属していたホリプロの主宰者堀威夫氏が、先輩格の守屋浩とのジョイント・リサイタルという形で、その実、舟木一夫のワンマン・ショーのような構成にして、新宿コマで大舞台の度胸づけをやらせたわけだ。
舞台稽古で、ベテラン演出家の山本紫朗氏に「もっと堂々と動いて」とアドバイスされても、やや肩を丸めて、つつましやかに広いコマの舞台で、スキー服かなんかを着せられた舟木が、ちぢこまっていたのを、つい先日のことのように思い浮かべる。
その翌年の正月に、国際劇場におめみえしたときの舟木は、そんな新宿の姿、いまいずこといった感じで、映画で共演した本間千代子を相手に、のびのびと動いていた。たしか、半天にねじりハチ巻きなんかで、日本太鼓をダイナミックに打ちまくっていた。
註:1965年3月、浅草国際劇場 「舟木一夫ショー」(文中では正月となっています)下の写真はいずれも、他の雑誌からのものです
もちろん、このころから、東京はもちろんのこと、大阪、名古屋などの大劇場でのショーは、年に数回ひらかれるようになったが、どうしたわけか、正月だけは、かたくなまでに休養をとっていたのが、妙に印象に残る。
四十一年の四月の末から五月の上旬にかけて、大阪・梅田コマ、東京・国際劇場と、東西の二大劇場でやった舟木のショーは、たいへんな努力がみられた。とくに、梅田コマでは、劇場の関係で映画が同時上映されないので、まるまる四時間ほどを、彼ひとりのショーで埋めなければならない。そこで二部構成にわけて、ヒット・パレードのほか、リバイバル・ソングでそれだけの時間を、寸分のすきもなくやってのけた。そのときに歌った「リンゴの唄」「港の見える丘」「東京の花売り娘」など、リバイバル曲のみごとさは、いまでも耳について離れない。
その年の十月、やはり大阪の新歌舞伎座で、舟木は初の一ヶ月公演というロング・ラン(芝居では当たり前だが、歌手には長い)に挑んだ。安藤鶴夫作「雨月道成寺」と村上元三作「松平長七郎・若君風流」という昼夜ちがった催し物のほか、それぞれにつくヒット・パレードまで、昼と夜とでは変える熱心さ。そんなことをされては、あとの人が困ると、ささやかられるほどの熱の入れようが通じて、連日、浪花っ子の嬌声で客席は沸いた。
四十二年の四月には、東京の明治座で、やはり一ヶ月の公演を持った。
「維新の若人」(村上元三作)、「春高楼の花の宴」(川口松太郎作)でがんばり、これまた昼夜ちがったヒット・パレードはファンの人気を呼んだが、舟木自身は、おおいに肉体的苦痛?と闘ったにちがいない。
「維新の若人」(村上元三作)、「春高楼の花の宴」(川口松太郎作)でがんばり、これまた昼夜ちがったヒット・パレードはファンの人気を呼んだが、舟木自身は、おおいに肉体的苦痛?と闘ったにちがいない。
さらにこの年は、「その人は昔」の映画化後、それを舞台で聴きたいというファンの声が強いとかで、舟木は七月七日から三日間、東京サンケイホールで「その人は昔」コンサートをひらいた。
*註:「その人は昔」、ステージでの相手役は、当時、宝塚歌劇団・雪組の大原ますみさん。
流行歌手数あれど、コンサートという名のもとに、大交響楽団をバックにして、これだけのことをやってのけた人はいないだろう。たいした努力だといえよう。
この公演が話題を呼び、そのあと大阪労音の主催で何回となく大阪フェステバルホールでも再演された。
この公演が話題を呼び、そのあと大阪労音の主催で何回となく大阪フェステバルホールでも再演された。
ところで、舟木はめずらしく、今年の正月は、大阪・梅田コマで、一ヶ月間のショーをひらいた。
内藤洋子との二度目の共演の「君に幸福を・センチメンタルボーイ」を、がらりと舞台向きに直して、ミュージカルに仕立ててやってのけた。文字通りの大入り満員。デビュー五周年を迎える意義ある年のスタートはまさに順風満帆!!日本に数すくないミュージカル・タレントとしての資質も兼ねそなえた舟木クンの、68年の船出に拍手をおくろうではないか……!
蛇足ながら、梅田コマ、明治座で試みた、他人のヒット曲を舟木がうたってみたらという余興?からみごとな出来のLPレコード「ひとりぼっち」がうまれたのは、まさに、ヒョウタンからコマの気がしてならない。(川口幸夫)
*註:書き手の川口幸夫氏の肩書の記載がありません。雑誌記者か音楽関係の方でしょうか?