秋の庭は、花も少なくてさびしいですが、今は、黄色と白の小菊がたくさん花をつけています。
白の小菊は、ところどころピンクに色が変わっていってます。
白いものは急に寒くなると、ピンクに変わるみたいですね。
明日は、丘灯至夫先生の御命日にあたります。亡くなられたのは2009年11月24日。
先日、ブログでもお知らせしたように、来年は、丘先生の生誕100年記念ということで、作品集のCDなども発売が予定されています。
そこで、私の手元にある資料から、丘先生が1970年にコロムビア創立60周年記念として発売された舟木一夫大全集というアルバムの解説書に寄稿された「舟木君と私の七年間」という文章を、ご紹介させていただきます。6ページにわたる長文なので、3回に分けてアップします。
先日、ブログでもお知らせしたように、来年は、丘先生の生誕100年記念ということで、作品集のCDなども発売が予定されています。
そこで、私の手元にある資料から、丘先生が1970年にコロムビア創立60周年記念として発売された舟木一夫大全集というアルバムの解説書に寄稿された「舟木君と私の七年間」という文章を、ご紹介させていただきます。6ページにわたる長文なので、3回に分けてアップします。
日本コロムビア創立60周年記念 舟木一夫大全集
別冊解説書
舟木君と私の七年間 私の覚え書メモから 丘灯至夫
早いものである。舟木一夫君がデビューしてから、まる七年になった。そして、こんどこの「舟木一夫大全集」が日本コロムビア創立60周年行事の一環として装いも新しくまとめられることになった。大全集に顔を並べる数少ない男性歌手の中では、舟木君が一番新しく、いちばん若い。ということは、スター歌手として、押しも押されもしない存在になったのが、いかに早かったか、とともに、いまやその地位が、まったく揺るぎないものになっている立派な証拠であるといえるだろう。全国のファンとともに、私も心から「舟木君、おめでとう!」と叫び、同時に、私もまたひとしお感慨深いものを、しみじみと味わっている。
考えてみると、舟木君の七年間の歩みを、私もまた一緒に歩いてきたような感じがする。大全集に納められた曲数の三分の一が私の詩、ということにもその理由があるのだろうが、この期間、私は他の仕事をあまりせず、舟木君の仕事に精力を費やしてきた、といっても過言ではないからである。それはやはり、舟木君の終始変わらない真面目さ、清潔な魅力にひかれたから、といっていいだろう。ふりかえってみる七年間、そのあいだにつぎつぎに私がまとめた詩には、それぞれ、作曲家の大きな力を得て曲づけされ、そのひとつひとつに、懐かしい思い出がひそんでいる。
会社のディレクターから「解説を書いてくれませんか」と依頼されたときに、私は「私の覚え書的なものでよければ…」と引きうけたのも、ここで、私は七年間の思い出をまとめることができたならば、と考えたからである。だから、ここでは主として、私が舟木君のためにまとめた歌についての思い出話を書かしてもらうという心づもりである。その点をまずお許し願いたい。
ご存知「高校三年生」は、舟木一夫君の輝かしいデビュー作品である。私の詩に、舟木君の恩師である遠藤実氏が作曲し、福田正君の名編曲を得たものである。つい先日、「高校三年生」はいつ発売だったろうね」と舟木君にたずねたら、舟木君は即座に「譜面をいただいたのは三十八年の一月十五日です。吹込みをしたのが二月二十三日、発売日が六月五日でした。」と答えてくれた。譜面を貰った日まで覚えているということは、まことに珍しいことだと感じたものだが、それだけ舟木君にとっても忘れ得ない感激だったのだろうと思う。しかし、この「高校三年生」が発売になるまでには、色々困難な事情がからんで難航した。
ひとつは、私の「高校三年生」が作歌されるまでに、舟木君のデビュー作品として、すでに七、八曲が用意されていたこと。ひとつは「高校三年生」というタイトルについてで、会社内部に「これは流行歌じゃないよ。学芸部から出す性質のもので、文芸部からは出せませんよ。」という反論があったこと。おりから北島三郎君の「なみだ船」がヒットしていただけに、いかにも幼い唱歌じみた印象を与えたに違いない。そういえば、私はこの「高校三年生」という歌を、このときはじめて作詩したのではない。四、五年前に一度まとめて、会社のディレクターに見せたところ、これは流行歌としては、どうも…ね」と、あっさり葬り去られたことがある。勿論、舟木君の作品としては、内容も新しく書き変えたけれど、題名の「高校三年生」だけには固執した。それがまたひっかかったわけである。
もうひとつは、会社の文芸部に大変動が起きたことである。この年、創立したクラウン・レコード会社に、コロムビア文芸部の部長をはじめ、中堅どころのディレクターが、一挙に移り変わっていってしまったのである。その他もろもろのことがつづいて、私は、神経も身体もまいってしまった。私は、「高校三年生」をついに引っ込める覚悟をした時期があった。「作曲は遠藤さんのすばらしい曲だから、これは棄てるには惜しい。しかし、私はこの詩を発表することはあきらめる。だから、この曲に、誰か、他の詩人に詩を書いてもらってほしい。」と、私は会社へ申し出た。春浅い日の深夜、車を飛ばして、遠藤氏が私宅を訪ねてきた。
「丘さん、あの私の曲は、あなたの詩があってこそ生まれた曲なんです。あの詩があってこそ、あの曲は生まれたんですよ。ぜひ、あの詩で出してください。頼みます。」熱情家の遠藤氏は、こぶしをふるわせながら、苦悩する私に迫ったのである。この情熱に私は負けた。夜もしらじらと明ける頃に、遠藤氏と私は手を固く握り合って、そして別れた。この夜、遠藤氏が私を訪ね、私を激励してくれなかったならば、「高校三年生」は世に出なかったに相違ない。
困難な障害がつづいたが、文芸部大異動の中で、幸いコロムビアに残留した、舟木君担当の若いディレクター栗山章君の奔走で「高校三年生」がかろうじて発売されたのが、三十八年六月五日である。すでにそのときには、舟木君の第二弾として、私と遠藤氏は「修学旅行」をまとめていたが、その月の十六日、ついに私は病気で倒れた。
東京神田和泉町の三井記念病院に入院したが、そのときの体重が三四・五キロだった。貫目に直してわずかに九貫目である。もともと丈夫な身体ではないが、それにしてもひどすぎた。どうやら、平常に復した今が四二キロだから、八キロちかい痩せ方だった。よく生命がもったと思う。入院約一ヶ月、どうやら、一人歩きができるようになって退院すると、七月十五日には、舟木君の晴れのデビュー姿を見ることも無く、私は、福島県会津の横向温泉へ、病後静養のため引きこもってしまった。
人里離れた温泉宿で、思うように回復しない身体に、いらだちがちになる私の心を思いがけぬ東京からの便りが、たいへんな励ましとなった。そのひとつは、レコード会社の幹部が、定期便のように知らせてくれた「高校三年生」の、レコード売上報告だった。その数字は、私がレコード会社の専属となって以来、はじめて見るハイ・ピッチの記録的数字だった。そのころのメモからひろいあげて見るとそれがよく分る。
東京神田和泉町の三井記念病院に入院したが、そのときの体重が三四・五キロだった。貫目に直してわずかに九貫目である。もともと丈夫な身体ではないが、それにしてもひどすぎた。どうやら、平常に復した今が四二キロだから、八キロちかい痩せ方だった。よく生命がもったと思う。入院約一ヶ月、どうやら、一人歩きができるようになって退院すると、七月十五日には、舟木君の晴れのデビュー姿を見ることも無く、私は、福島県会津の横向温泉へ、病後静養のため引きこもってしまった。
人里離れた温泉宿で、思うように回復しない身体に、いらだちがちになる私の心を思いがけぬ東京からの便りが、たいへんな励ましとなった。そのひとつは、レコード会社の幹部が、定期便のように知らせてくれた「高校三年生」の、レコード売上報告だった。その数字は、私がレコード会社の専属となって以来、はじめて見るハイ・ピッチの記録的数字だった。そのころのメモからひろいあげて見るとそれがよく分る。
七月二十日 一一五、七五二枚
ハ月 三日 一六一、六一三枚
九月十六日 四一一、四九四枚
ハ月 三日 一六一、六一三枚
九月十六日 四一一、四九四枚
そして年末には、百万枚の大台にのせ、同時に、八月に発売した「修学旅行」も、五十万枚を突破してしまったのである。
もうひとつ、私を喜ばしてくれたのは、舟木君からの便りであった。多分、八月の末ごろだったと思う。
――「高校三年生」は、現在二十五万枚だそうです。僕はもう嬉しくてたまりません。でも、これからが本当の勝負だと改めてファイトを燃やしています。先生も身体が完全に直るまでがんばってください。くれぐれも完全に直るまでがんばってください。―― 一夫
短い内容だったけれど、デビュー作の大ヒットで、大いにファイトを燃やしている舟木君の意気込みが溢れていた。私は、この手紙を、いまも大事に仕舞ってある。
秋深むころに、私は温泉場を引きあげ、東京へ戻ってきたが、もうそのころには、スター歌手としての舟木君の地位は確実なものとなり、舟木君は、寸刻も自分の時間のない、あわただしいスケジュールに追いまわされる生活の真っ只中に入ってしまっていた。
「只今授業中」や「学園広場」といった学園ソングを、つぎつぎに歌い、この年十一月には、第一ホテル別館で、「舟木一夫君を励ます会」も催された。
十二月に入ってまもなくの六日夜遅く、寝床に入っていた私は、けたたましい電話のベルで呼び起こされた。なかば、寝ぼけながら取った受話器のむこうから、切迫した感じの声がとびこんできた。「先生ですか、ボク、舟木です……。」声が、一瞬とぎれて、またつづいた。「ボク……新人賞だそうです。」ここまで聞いて、私はようやく目が覚めた。と同時に、そうか、レコード大賞のことだなと知ったのである。「新人賞か、そうか、そりゃおめでとう。」私は思わず高い声をはりあげた。ところが舟木君は、私の声をひきとるように、「あの……それで、先生も作詩賞だそうです。」舟木君の声がなんとなくうるんできこえたのは、私が病み上がりのせいばかりではなかったようであった。
この年の暮、十二月二十七日、東京の日比谷公会堂で行われた、日本レコード大賞の受賞式で、「高校三年生」を歌い出した舟木君が、あふれ出る涙をこらえることができず、絶句したまま顔を覆って、舞台に立ち往生した姿は、テレビでこれを見ていた大ぜいのファンの胸にも、いまも残る感動的なシーンであった。「歌手が、しかも男性が舞台で泣くとはなにごと…。」という声もきかれたが、純情な舟木君であればこそ許されることではないか、と、いまでも、私にはあの時の舟木君の心情が、痛いほどよく分るのである。
沢田舟木さんの動画で、授賞式の感動的シーン音源をどうぞ!
15周年記念「限りない青春の季節」10枚組アルバム収録音源
舟木君と私の七年間 丘灯至夫 舟木一夫大全集 寄稿文(1970年10月)その2へつづく