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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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1月27日は「やんすのダンナ/野口雨情」の御命日 (下)

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 ~1月27日は「やんすのダンナ/野口雨情」の御命日 (上)  のつづき~       
 
        野口雨情の命日に~野口雨情ものがたり/船頭小唄~ (下)
 
イメージ 11918年(大正7)に湯本温泉から水戸へ移り、つると再婚したこの頃には雨情の持ち物は二冊の辞書とわずかな現金のみだったといわれています。雨情はつるの母親が経営する下宿屋の一室に住みしばらく下宿屋の手伝いをしたそうです。

1919年(大正8年)3月に雨情は遠い親戚の長久保紅堂が創刊した「茨城少年」という小中学生を対象にした雑誌の主幹に招かれ、ここで童謡の普及活動を行います。
6月には民謡集「都会と田園」出版。中央のメジャーな児童雑誌にも雨情の動揺が載るようになります。8月には「おとぎの世界」、9月には「こども雑誌」、そして「金の船」が創刊されます。
以下は西條八十氏とのエピソード
「金の船」の経営者斎藤佐次郎が、早稲田の先輩にあたる西條八十に、自分の雑誌に移ってきてほしいと依頼したそうですが、八十は自分を引きたててくれた「赤い鳥」主宰者の鈴木三重吉への恩義からそれを断り、代わりに敬愛していた雨情を推薦しました。また「金の船」の11月創刊号には、なるべく目立たないようにしてほしいと条件付きで童謡「船頭の子」を寄稿して義理をはたしたとのことです。このエピソードから八十の人柄が偲ばれます。
 
                                                                  向かって右端が雨情、ひとりおいて歌手の佐藤千夜子↓
 
イメージ 2また雨情は「西條氏の思ひ出」(1931年)に以下のように書いているそうです。
八十がまだ早稲田中学の生徒だった頃、雨情は早稲田中学で英語教師をしていた吉江喬松(たかまつ)と知り合い「中学四年生だが、天才詩人がいますよ。牛込の金持ちの息子さんで、西條と言います。」と聞いていたそうですが、一方、八十は雨情の「朝花夜花」にたいへん感動していたので、吉江はわざわざ用事をこしらえて八十に雨情の許を訪ねさせてやります。八十は後に「ひとりの美男子がランプのホヤ(ガラス筒)掃除をしていましたがそれが雨情だった」と語っています。天才と天才の出逢いの瞬間だったのですね。

タイトルにも掲げていますが、雨情は上京してからも茨木訛りが抜けず、「~でやんす」が口グセだったので、親しみと尊敬の意を込めて人々は「やんすのダンナ」「やんすの先生と」呼んでいました。また「夕焼小焼」で有名な中村雨紅のように「押しかけ弟子」になる人が現れるほど雨情は若い詩人からも慕われたそうです。
 
イメージ 4雨情の詩人としての名は知られていきますが、生活は相変わらず苦しかったようです。お芝居では、極貧の中で「船頭小唄」が生まれたストーリーをドラマチックに脚色しています。そして「船頭小唄」の大ヒットから一転して1923年の関東大震災という悲劇が「船頭小唄」に試練を与えることになったというこの日本最初の流行歌が背負った運命を大きくクローズアップして「野口雨情ものがたり~船頭小唄」のクライマックスとして盛り上げての幕という運びにすることで感動を呼び起こす舞台芝居として成功しています。
 
以下も、「名作童謡100選 」編著:上田信道(春陽堂)の中から
巻末の「評伝・野口雨情 土に生まれ、土に還る」を参考にさせていただきました。
 

 
 
 
 
 
イメージ 5船頭小唄 
作詩:野口雨情 作曲:中山晋平
 
おれは河原の 枯れ芒
おな
じお前も 枯れ芒
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れ芒
 
死ぬも生きるも ねぇ お前
水の流れに 何変ろ
おれもお前も 利根川の
船の船頭で 暮そうよ
 
何故に冷たい 吹く風が
枯れた芒の ふたりゆえ
熱い涙の出た時は
汲んでおくれよお月さん
 
おれは河原の枯れ芒
おなじお前も 枯れ芒
どうせふたりはこの世では
花の咲かない 枯れ芒
花の咲かない 枯れ芒
 

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雨情が「船頭小唄」の原型を創るのは1919年ごろのことだと言われています。水郷として知られる茨城県の潮来を舞台にした新民謡として創りました。失意と焦燥にかられながら自らの心境を叩きつけるように歌い込めています。お芝居でも、雨情のこういった救いようのない暗さの中にも煮えたぎるような熱い想いを舟木さんは実に見事に表現なさっています。

 
 
イメージ 111923年1月には、映画「船頭小唄」(池田義信監督/岩田祐吉・栗島すみ子/主演)が封切られ、主演女優の栗島すみ子のレコード「船頭小唄・枯れすすき劇」は売り出し後二十日足らずで、十万部を売り上げるという大ヒットになります。
 
 

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http://www.youtube.com/watch?v=jaVg7GTc20k  舟友さんによる「船頭小唄」動画
 
  
この年の9月1日に関東大震災が発生。東京や横浜などの諸都市が焼け野原になりました。すると「船頭小唄」があまりにも暗い世相を予感させるような唄であったから震災が起きたのだといいがかりをつけられました。その後は、1957年封切りの映画「雨情」の中で、雨情に扮した森繁久弥が歌いました。

  
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雨情は生涯に四冊の童謡集を出版しています。第一童謡集は「十五夜お月さん」(1921)第二童謡集は「青い眼の人形」(1924)、これら二冊の童謡集には音楽家の本居長世とのコンビが多く収録されています。本居には三人の娘がいて、彼女たちはそろって少女歌手としてデビューしこれらの童謡を歌って評判になりました。こうして、雨情の童謡はレコードやラジオにのって広く人々の間に浸透していくようになります。
 
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国語学者の金田一春彦氏が草創期のラジオ番組で放送された童謡について調査をしたところ、創った童謡の数は北原白秋が多いのですが、メロディーにのせて歌われた童謡は雨情のほうが多いという結果が出たそうです。雨情の童謡は歌われることを通して親しまれていったのです。
 
雨情は1924年三月に今の武蔵野市吉祥寺に移り住むと、長かった放浪生活に終止符をうち、この地に腰をすえます。吉祥寺の家は自分で図面をひいたり、庭に植える樹木にも気を配ったりして凝ったつくりでした。別棟の書斎は「童心居」と名づけられ、各地への旅にあいまにここで詩作にふけりました。
 
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そして、第二次世界大戦の戦局が悪化した1944年に現宇都宮市に疎開。疎開先で生涯を終えました。
 
お芝居の冒頭でも語られていますが、常に雨情が言っていた以下の言葉に表された精神こそ真の詩人、芸術家のものだと感動せずにはいられません。死して名を残すのではなく作品を残すことが何よりの本望だった雨情の理想はおそらく叶えられたように思います。舟木さんに再会するまでは「七つの子」や「シャボン玉」の詩の方が、雨情の名前よりもずっと私の記憶の襞に深く刻み込まれていたのですから。
 
  
    「詩というものは、それを書いた人の名前は忘れられ、
          その詩だけが残った時、初めてほんとうのものになる」   
                                                       ~ 野口雨情~
 
イメージ 3
 

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