野口雨情の命日に~野口雨情ものがたり/船頭小唄~ (上)
野口雨情は、明治15年(1882)5月29日茨城県多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)に生まれ、昭和20年1月27日に亡くなりました。「漂泊の詩人」と言われた雨情ですが、明治、大正、昭和という三つの時代をもまた、旅した生涯でした。
詩歌の中でも童謡という分野は、あまりにも幼い頃から身に沁みついているので、ほとんど意識することもなく歌ってきていて、ちょっと古風な抒情性の漂う詩歌が背伸びした思春期の時期の私の心を捉えたのとは全く違った形で自分の周囲に自然にあったというところでしょう。
野口雨情の名前も、私は童謡というより、どちらかというと「波浮の港」や「紅屋の娘」の詩の作者という知識の方が先だったように思います。あまりにも有名な「シャボン玉」「七つの子」他の多くの「童謡」の作者が誰だったかということはほとんど考えたこともなかったのかも知れません。多分「童謡」は文芸詩よりも一段低いものという認識が若い頃にはあったのでしょう。というか「童謡」は「童謡」であって詩歌という範疇では考えていなかったということになります。若気のいたり・・・(笑)
難しい言葉や雅な言葉を使った詩歌がより芸術性の高いものという間違った捉え方をしていたのでしょうね。舟木さんと文芸詩人と言うと、私はつい二年余り前に舟木さんと再会するまでは「絶唱」の西條八十と「初恋」の島崎藤村くらいしか思い当たりませんでした。野口雨情の「船頭小唄」をオリジナル曲のような愛着をもってステージで歌ったり、CD化されていることを知ったのはもちろん「再会」後のことです。それから、舟木さんの古いLPアルバムや若い頃の公演パンフレットなどを手に入れるようになって、舟木さんが二十代の初めから「船頭小唄」を既にステージで歌っていらっしゃることや、それ以降もリサイタルで雨情の歌を想い入れをこめて歌っていらっしゃるのを知りました。
あの町この町/旅人の唄/船頭小唄 収録 →
舟木さんが復活なさってから1995年に名古屋の中日劇場で「雨降りお月さん」というタイトルで初演され、1997年8月に新橋演舞場の初公演の舞台にかけられたのが「野口雨情ものがたり」であることを思えば、雨情への舟木さんの想いの深さを感じることができます。そして2006年には新橋演舞場連続10回出演記念で「野口雨情ものがたり~船頭小唄」として再演なさっていることも雨情の世界観と舟木さんの歌い手としてのスタンスがきっちり重なり合っていることを示しているように思います。またこの三回の公演のタイトルの変遷も舟木さんが年令とともに「雨情の世界観」の高みにより高く昇りつめていかれたことの証のようにも感じます。その雨情の御命日にちなんで、あらためて雨情のことに想いを馳せてみました。
2006年8月2日~26日に新橋演舞場上演された「野口雨情ものがたり~船頭小唄」のストーリーを追いながら、並行して、雨情の生涯などをたどっていきます。
参考資料は、
参考資料は、
「名作童謡100選 」編著:上田信道(春陽堂)の中から巻末の
「評伝・野口雨情 土に生まれ、土に還る」です。
新橋演舞場(2006年8月公演)
昭和27年11月27日、東京武蔵野市の井の頭公園。野口雨情記念碑除幕式。中山晋平、三木露風、西條八十、などが列席。雨情の妻のつる、最初の妻の子の雅夫と美晴子などとともに、それぞれが知っている雨情のことを教えあおうと回想という形での幕開け。
記念の歌碑 「鳴いてさわいで 日の暮れごろは 葦(よし)に行々子(よしきり) はなりゃせぬ」
雨情は、1882年(明治15)5月29日、茨城県北茨城市の磯原の手広く廻船問屋を営んでいる旧家に生まれました。父を野口量平、母をてるといい、赤ん坊は英吉と名づけられました。
少年時代の英吉は野口家の跡取り息子として溺愛されわがままに育ちます。気は弱かったといいますが、学校へ行く途中で弁当を食べてしまっては山で遊ぶような腕白なところもあり、学校ぎらいだった、と伝えられていますが、成績はかなり良かったようです
少年時代の英吉は野口家の跡取り息子として溺愛されわがままに育ちます。気は弱かったといいますが、学校へ行く途中で弁当を食べてしまっては山で遊ぶような腕白なところもあり、学校ぎらいだった、と伝えられていますが、成績はかなり良かったようです
野口家は地元の人たちから「磯原御殿」と呼ばれていたほどでしたが雨情の父・量平の代に没落しました。量平は北中郷村の村長も務めましたが、文明開化の新時代に適応できなかったことや、持ち船の沈没という不幸な事故も重なり、伯父・勝一の政治活動に財産を費やしたことなども没落の一因のようです。雨情が家を継いだ時にはすでに借金でどうにもならなかったようですが父は野口家の誇りを忘れず磯原の家の再興を長男の雨情に託しました。
雨情は磯原尋常小学校から、組合立豊田高等小学校に進んだ頃には文学、ことに新詩体に興味をもつようになり、1897年4月から伯父・勝一の東京・小石川の家に寄宿、神田の東京数学院尋常中学に通いました。三年生で順天求合社学校に編入学、1901年、東京専門学校高等予科(現・早稲田大学)入学。
父・量平が亡くなり雨情は帰郷して野口家を継ぐことになります。栃木県の高塩家から妻・ひろを迎えます。その翌年には創作民謡集として文学史的に画期的な民謡集「枯草」を出版しますが売れず南樺太に渡航。その際には妻の実家から大金を借りたうえに、なじみの芸者を同行し、挙句の果てにこの芸者に大金を持ち逃げされます。その後も何をやってもうまくいかず故郷には帰るに帰れず、東京で恩師の坪内逍遥の世話で「東京パック」という雑誌作りに携わります。文学への志は諦めずに1907年「朝花夜花」という月刊民謡パンフレットを発行。これも売れず逍遥から札幌に新聞記者の口があると聴き「北鳴新聞」に入ります。その後北海道の各新聞社を転々とし「小樽日報」へは石川啄木とともに入社。
啄木と相談して主筆の不正を糾弾、排斥しようとしました。ここで同僚だった鈴木志郎の妻・かよの連れ子の「きみ」をモデルに創ったのが「赤い靴」と言われています。
新橋演舞場(2006年8月公演)
所は小樽、袴姿の舟木さん登場。「風、好きに吹け~迷夢本望~」歌唱。
「小樽日報」の記者として務めていた雨情、啄木たちは、地元資本家と結託して私利私欲に走っている編集長の弾劾を企てていたが、密告されて発覚。新聞社を追い出される。下宿先の長屋では、磯原から出てきた妻のひろと愛人のまち(福島湯本町の芸者)が互いに睨みあっていた。そんな矢先に身重のひとが産気づく。生まれた女の子はみどりと名づけられた。しかし、みどりはわずか数日で短い命を閉じた。
シャボン玉
新聞社も追われ、みどりを亡くした悲しみにくれる雨情は妻ひろと、長男を連れて磯原へ帰り、家業を継いで働きますが、詩を書くことは捨てきれませんでした。磯原に戻ってからもひろとは心を通わすことができず、1915年にはひろと協議離婚します。そして、1917年にはふたりの子どもを連れて福島県湯本町の湯本温泉にある芸者置屋の柏屋に寄留しました。
お芝居では湯本温泉の芸者置屋・柏屋の女主人のまちも登場し、詩人としての雨情のよき理解者でもあり、男女の情を交わす女性として描かれています。彼女との今生の別れは舟木さん扮する雨情が磯原に帰り「磯原節」を歌う幻想的な場面で暗示され、その後に柏屋の妹芸者が、まちの死を伝えにやってくる場面へと続きました。
末の松並
東は海よ
吹いてくれるな
汐風よ
風に吹かれりゃ
松の葉さえも(オヤ)
こぼれ松葉に
なって落ちる
東は海よ
吹いてくれるな
汐風よ
風に吹かれりゃ
松の葉さえも(オヤ)
こぼれ松葉に
なって落ちる
これは「磯原節」の出だしです。むかしから歌い継がれてきた民謡ではなく「新民謡」です。新民謡とはおもに大正時代以降に創られた創作民謡のことで、この唄は野口雨情が作詞し。藤井清水作曲です。「磯原小唄」というタイトルであったものを、のちに「磯原節」にあらためました。磯原の自然を愛した雨情の熱い想いが伝わってきます。
雨情は、その才能を高く買う出版社社長との関わりで作曲家の中山晋平と出逢います。舞台では、招かれた貴族院議員の夜会の席で晋平作曲の「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」を松井須磨子が歌うという場面も挿入されています。
実際は、雨情が後添えのつると出逢ったのは、柏屋で働く芸者を探すためにでかけた先の水戸だということです。
そこでまだ十六歳の少女だったつると知り合い、雨情がつるに惚れこんで結婚を申し込みます。つるがまだ若すぎたので子どもたちは雨情の妹夫婦に預けられました。お芝居では子どもたちが母のひろを慕って何度も家出をするので、母の許に返すことになったという設定になっています。また、お芝居の中で八十、露風、雨情がそれぞれ「即興童謡」を創る場面があります。つるが「鳥=飛ぶもの」という「お題」を出すと、それぞれ「かなりあ」「赤とんぼ」「七つの子」を自らメロディーをつけて歌います。場面が実際にあったかどうかは「?」ですが、この場面は私が一番印象深く感じ、胸がわくわくした場面でした。ひとりずつでもすごい詩人のスリーショットでしかも「即興」で童謡を創るという発想はとっても嬉しい演出です。
そこでまだ十六歳の少女だったつると知り合い、雨情がつるに惚れこんで結婚を申し込みます。つるがまだ若すぎたので子どもたちは雨情の妹夫婦に預けられました。お芝居では子どもたちが母のひろを慕って何度も家出をするので、母の許に返すことになったという設定になっています。また、お芝居の中で八十、露風、雨情がそれぞれ「即興童謡」を創る場面があります。つるが「鳥=飛ぶもの」という「お題」を出すと、それぞれ「かなりあ」「赤とんぼ」「七つの子」を自らメロディーをつけて歌います。場面が実際にあったかどうかは「?」ですが、この場面は私が一番印象深く感じ、胸がわくわくした場面でした。ひとりずつでもすごい詩人のスリーショットでしかも「即興」で童謡を創るという発想はとっても嬉しい演出です。
~1月27日は「やんすのダンナ/野口雨情」の御命日 (下)につづく~