2017年の中秋の名月は10月4日です。十五夜とも言われ、月見をするにはもっともよいと言われています。月見の習慣は古く、9世紀ごろに中国から伝来しました。以来、月を見て詩歌を詠んだり、祈りを捧げたり、月を愛でる風習が続いています。
当然、中秋の名月=満月と思いがちですが、満月であることはまれで、たいてい1日か2日ずれています
当然、中秋の名月=満月と思いがちですが、満月であることはまれで、たいてい1日か2日ずれています
月のサイクルは30日ぴったりで地球を一周するわけでないことや、月の軌道が楕円であることなどにより、実際の満月は1日か2日ずれることが多いのです。今年の場合、実際の満月は10月6日。中秋の名月は満月一歩手前の月なのですね。とはいえ、名月には変わりないので、月の風情を楽しみたいですね。
今日の夕食後のデザートは「お月見団子」でした
夕月の乙女
さいはての月 作詩:舟木一夫 作曲:船村徹
さいはての 月は銀色
北国の 夜の深さに
還らない 恋が泣いてる
北国の 夜の深さに
還らない 恋が泣いてる
愛しさに 心ふるえて
死ぬまでと 命かさねた
遠い日々 今はまぼろし
死ぬまでと 命かさねた
遠い日々 今はまぼろし
”いつまでも きっと待ってる…”
くりかえし 指をからめた
あのひとの ここはふるさと
さいはての 月は銀色
見上げれば 涙ひとすじ
吹きわたる 風にちぎれる
見上げれば 涙ひとすじ
吹きわたる 風にちぎれる
「さいはての月」…秋から冬にかけての冴え冴えと降り注ぐ月の光を感じます。
…余談ですが…
十五夜の次の日のお月さまを十六夜(いざよい)といいます。
私は、去年の5月から市民文学講座(古典文学)で「十六夜日記」(阿仏尼)を勉強しています。
「十六夜日記」は、弘安二(1279)~三(1280)年、阿仏によって書かれた日記です。阿仏は藤原為家(藤原定家の二男)の妻(側室)でした。建治元年(1275)、為家が没すると、その遺産である播磨国細川庄の土地所有権をめぐって為家と阿仏との間に生まれた為相と、為家の長男の為氏(為相とは異母兄弟)との間に争いが起こります。生前、為家は当初為氏に譲るつもりでいましたが、のちにそれを撤回し為相の方に譲るという譲り状を出していました。しかし為家の没後、為氏は自分の領有権を主張し細川庄を為相には渡しませんでした。そこで為相の母である阿仏がこの件を幕府に訴え審理してもらうために鎌倉へ向かいます。
「十六夜日記」はその道中の日記と鎌倉滞在中の日記との二部から成っています。阿仏が旅立ったのが弘安二年十月十六日のことだったので「十六夜日記」という名前がつけられました。単なる記録だけではなく歌人でもあった阿仏らしく道中の名所を詠んだ歌や鎌倉滞在中に贈答した歌など和歌が多く記されています。
日本の詩歌は、七五調を基本とする和歌文学にその源流があるといってもいいでしょう。平安時代を彩る貴族文化の中でも和歌の果たした役割は大きくて、和歌を能くする貴族が政治的にも重要な役割を担っていたようです。下記の系図は、平安時代に隆盛を誇った藤原氏から出た俊成、定家に連なる「和歌の家」御子左家の系図です。定家の子である為家の子、為氏、為教、為相の代には、御子左家が分かれてそれぞれ二条家、京極家、冷泉家と名のるようになりました。現在、重要な和歌の文献等歴史的資料は冷泉家が受け継いでいます。冷泉(れいぜい)家という名前は、今もよく耳にしますよね。
去年は5月から12月まで計6回、今年は7月から11月まで計6回、2年にわたっての講座です。
何年か振りに、学生気分で授業を受けるのはとっても楽しいもの…
しかも、学生時代は、授業の後は必ずテストがありましたが、それがない!バンザーイ(笑)
講師をしてくださっている先生(S大学)…四十代初めくらいかな?それこそ平安時代のお姫様みたいな感じのきれいな女性で、講義の時の言葉遣いも美しくてステキで、あらためて日本語の美しさをみなおしています。「十六夜日記」の作者・阿仏尼も若い頃は宮中に出仕していた女房ですから、当時のキャリア・ウーマンと云ってもいいでしょう。優美な和歌を詠む女性ですが、もう若くはない晩年になってから、住み慣れた京の都を離れてはるばる鎌倉まで旅をするワケですからパワフルですね。でも、鎌倉幕府への訴訟も取り上げてもらえず、都に帰ることもなく鎌倉で生涯を閉じたということです。