中野ファイナルが終わって、新橋演舞場公演初日までの期間…心にすきま風が吹いてる感じ?
このへんで、再び、古い雑誌などの資料を紐解いてみましょうか
以前にも紹介した「女学生の友」1963年12月号ですが、このメイン記事はまだでしたね。
この記事が掲載された2ケ月あとの「女学生の友」(1964年2月号)誌面では、この5人の女性たちに「年賀状」というスタイルで舟木さんからの返事の文面が掲載されています。
中学時代は、毎月欠かさず購入していた「女学生の友」も、もちろん手元にはなくなってしまったので
オークションで、少しずつ手に入れています。先に手元にきたのが、1964年2月号でしたので、先に、その記事をアップしています。その後、こちらの1963年12月号が手元にやってきましたので
ご紹介が、前後してしまいました。よろしければ、再度、併せてお読みになってくださいね。
「女学生の友」(1964年2月号)掲載の舟木さん関連の記事 その3
「特集 舟木一夫が出した五人の女性への年賀状」
こちらは、ネット上でみつけた記事です。舟木一夫という「アイドル歌手」が彗星のごとく出現した昭和の一時代。その前後の「アイドル史」も、記されていて、舟木さんが「アイドル史」の中で担った役割がいい感じにまとめられているように思いますのでご紹介しておきます。
J-POPを創った60年代アイドルたち
http://www.j-dream.net/free5
http://www.j-dream.net/free5
アイドル登場~日本の伝統美~シンガーソングライターの先駆者たち~時代の意思
日本の伝統美
むしろブームが去ると、大衆は不良性を帯びたロカビリーとは真逆な、日本古来の伝統美を歌謡曲に求めるようになるのだった。
その伝統美とは、真面目で清潔で品行方正を善とする美意識である。
やがてその美意識はアイドルのコスチュームとして具現化され、その象徴として登場したのが「学生服」であった。
その伝統美とは、真面目で清潔で品行方正を善とする美意識である。
やがてその美意識はアイドルのコスチュームとして具現化され、その象徴として登場したのが「学生服」であった。
63年、坂本九が「上を向いて歩こう」で全米第1位の金字塔を打ち立てた同じ年、美意識の象徴を身に纏(まと)ったティーン・エイジャーがデビューする。
ビルボードとキャッシュ・ボックスで1位を獲(と)ることがどんなに凄(すご)いことか理解も想像もできなかった当時の大衆の目は、坂本九からこの美意識を纏った新しいアイドル、舟木一夫に向けられるのだった。
舟木の歌う一連の学園ソングは大ヒットし、守屋浩から受け継がれた青春歌謡路線はブームの頂点を迎え、舟木の髪形や学生服姿を真似たフォロワーたちが続々とデビューする。
舟木の歌う一連の学園ソングは大ヒットし、守屋浩から受け継がれた青春歌謡路線はブームの頂点を迎え、舟木の髪形や学生服姿を真似たフォロワーたちが続々とデビューする。
この時期、女性アイドルのナンバーワンは吉永小百合で、彼女と同じように「歌う映画女優」が人気の的となり、吉永に続いて人気のあった本間千代子は、舟木の歌う青春歌謡をバックにスクリーンで学園のマドンナを演じた。
翌64年3月、東芝音楽工業オデオン・レーベルからビートルズが「抱きしめたい」で日本デビューする。
だが当時の一般大衆は髪の長い異邦人よりも、同じ月に青春歌謡を歌ってデビューした西郷輝彦に喝采を送った。
マスコミもまた舟木と橋、西郷を加えて、彼らに御三家の称号を与え歌謡ブームを盛り上げる。
だが当時の一般大衆は髪の長い異邦人よりも、同じ月に青春歌謡を歌ってデビューした西郷輝彦に喝采を送った。
マスコミもまた舟木と橋、西郷を加えて、彼らに御三家の称号を与え歌謡ブームを盛り上げる。
高度経済成長の象徴たる「夢の超特急」東海道新幹線が開通し、日本中が東京オリンピックに沸いていた頃、大衆音楽を牽引(けんいん)するアイドルは、詰め襟の学生服を着て青春歌謡を歌うものだと、誰もが信じて疑わなかったのである。