2014年のシアターコンサートは、四会場で開催されます。その先陣を切って京都の南座で幕が開きました。あまりに内容の濃い、ボリューム感のあるコンサートでしたので思うようにまとめられず、上・下に分けて掲載させていただきます。
2月22日、23日の京都での二日間は大好きな京都で大好きな舟木さんの歌声のシャワーを浴びその幸せに満ち溢れた笑顔をたくさん拝見できた夢のような時間でした。
また連日連夜の尽きることない舟友さんとの舟木談義(笑)も本当にそれぞれの舟友さんの舟木さんへの愛あればこその盛り上がりでした。みんなどこまで舟木さん好きやねん!(笑)そんな皆さんの想いがまた嬉しく舟木さんの魅力って素晴らしいんだと改めて噛みしめました。
初日、千秋楽の二日間とも京都のホテルに宿泊して24日の月曜日の朝ホテルでテレビのニュースを見ていたときソチ・オリンピックのジャンプに出場なさった葛西紀明さんが言われた言葉です。
「ここまできたら まだいける もっといける」
この二日間の舟木さんのステージを拝見しその素晴らしい歌を聴かせていただいて私がずっと感じていた「何か今までとは違う感動と予感」の正体はこの「レジェンド・葛西」の言葉を聞いて見えてきたように思いました。
「ここまできたら まだいける もっといける」
この二日間の舟木さんのステージを拝見しその素晴らしい歌を聴かせていただいて私がずっと感じていた「何か今までとは違う感動と予感」の正体はこの「レジェンド・葛西」の言葉を聞いて見えてきたように思いました。
潜在能力…古稀を前に、もしかしら歌い手として未だ開拓されていない未知の能力や魅力がもっともっとあるのではないかと思わせる舟木さんだったのです。
「伸び代(のびしろ)」という言葉はどのフィールドにおいても新人に使う言葉だと思いますがなぜかこの二日間の舟木さんの歌唱からこの言葉を思い出していました。
「伸び代(のびしろ)」という言葉はどのフィールドにおいても新人に使う言葉だと思いますがなぜかこの二日間の舟木さんの歌唱からこの言葉を思い出していました。
「レジェンド」という言葉は今年の流行語大賞にノミネートされそうでこんな言葉を軽々に使うのは恐縮なんですが、タイムリーなので敢えて「レジェンド舟木」と言わせていただきます(笑)
「レジェンド」には「伝統、言い伝え、また言い伝えとなる予感」…などという意味合いがあるそうです。
昭和の流行歌の歴史の中に「高校三年生」の大ヒットでアイドル歌手となった舟木一夫がいます。そして、もうひとり昭和歌謡を誰よりも愛し昭和歌謡をステージで歌い続けることをライフワークとした唯一無二の歌手・舟木一夫、そんな風に日本の歌謡史に名を刻まれる二人目の舟木一夫が今生まれようとしているのではないか…まさに舟木一夫が「伝説の歌い手」として名を残す予感が私の中で大きな確信となった南座でのコンサートでした。
「レジェンド」には「伝統、言い伝え、また言い伝えとなる予感」…などという意味合いがあるそうです。
昭和の流行歌の歴史の中に「高校三年生」の大ヒットでアイドル歌手となった舟木一夫がいます。そして、もうひとり昭和歌謡を誰よりも愛し昭和歌謡をステージで歌い続けることをライフワークとした唯一無二の歌手・舟木一夫、そんな風に日本の歌謡史に名を刻まれる二人目の舟木一夫が今生まれようとしているのではないか…まさに舟木一夫が「伝説の歌い手」として名を残す予感が私の中で大きな確信となった南座でのコンサートでした。
では、いつものように舟木さんのMCの中で印象に残った部分を交えながら、ご報告させていただきます。
(ピンク文字は舟木さんのトークです)
(ピンク文字は舟木さんのトークです)
22日昼の部での舟友さんからのプレゼントの花束
シアターコンサートin南座 2014年2月
初日:22日/千秋楽:23日 13時開演/17時開演
第一部:13:00~13:30(30分)
休憩:13:30~13;50
第二部:13:50~15:10(80分)
先ず、開演の10分前に舟木さんが私服で登場。サンクスコンサートやふれコンなどと同様、プレゼントをまとめて開演前に受け取って幕が開いた時にはステージのテーブルに整然と並べられているスタイルです。ラフな私服の舟木さんがたくさん拝見できて、これもひとつの楽しみになりますし、プレゼントをなさるファンの皆さんも、舟木さんのステージをゆっくり楽しむことができると思いますから私はこのスタイルをダンゼン支持します。
さて、舟木さんのお召し物は、黒っぽい地に花もよう。葉の部分はグレーで花はオレンジ系のタイトなシャツに黒の綿(?)パン。靴はスェード素材のような日本の色名でいうと柑子色?胸にペンダント。
プレゼントを受け取りながら「今日は、私、機嫌がいいんです。昨日、パチンコに勝ったんで・・」とまたして
も「パチンコ」ネタ(笑)何も京都にきてまでパチンコなんて(笑)でも、きっとパチンコは舟木さんの心のオアシスなんですね。ゴキゲンがいいせいか、お喋りもなめらかな舟木さん。帰る頃に雪が降ってたら夜の部も観て、なんなら南座に泊っていって下さい(笑)僕、今クセでアメダマなめながら失礼しています。バレンタインデー前にコンサートをやったら(メルパルク大阪のふれコン)すごいチョコレートの山で、これならジャニーズと勝負できるかも(大きな拍手)嬉しそうな表情でおっしゃる舟木さんが可愛かったです。
やっぱりあの日のチョコレートのプレゼントの多さは舟木さんご本人ですら想像以上で嬉しく思われたんでしょうね。さらにプレゼントされた真っ白な花束を見て、花嫁さんのブーケをイメージされたようで「結婚式みたい!僕、花嫁?!」と軽口も出るゴキゲンの良さでした。最近、この高さでいただいていると、ちょっとね・・ふふふ・・と腰を伸ばしたり叩いたり・・ぼちぼちトシでんがな~。僕らが中学生の頃は修学旅行というと京都、奈良・大阪が定番だった。昔は京都を歩いてると舞妓はんとすれ違ったりしたけど、最近あまりなくてちょっとサビシイ・・~そんなことないと思いま~す。私はこの日南座にくる時に普段着のお着物の舞妓さんと出逢いました。京都暮らしの頃も、先斗町や祇園小路ではお稽古に行かれるのかオフの普段の着物の舞妓さんにはよく遭遇してました。おそらく舟木さんが京都の祇園界隈をブラブラと歩かれることがあまりなくなったからではないかと思うのですがどうでしょう。ちょうど10分でプレゼントをすべて受け取られていよいよ開演です。
さて、舟木さんのお召し物は、黒っぽい地に花もよう。葉の部分はグレーで花はオレンジ系のタイトなシャツに黒の綿(?)パン。靴はスェード素材のような日本の色名でいうと柑子色?胸にペンダント。
プレゼントを受け取りながら「今日は、私、機嫌がいいんです。昨日、パチンコに勝ったんで・・」とまたして
も「パチンコ」ネタ(笑)何も京都にきてまでパチンコなんて(笑)でも、きっとパチンコは舟木さんの心のオアシスなんですね。ゴキゲンがいいせいか、お喋りもなめらかな舟木さん。帰る頃に雪が降ってたら夜の部も観て、なんなら南座に泊っていって下さい(笑)僕、今クセでアメダマなめながら失礼しています。バレンタインデー前にコンサートをやったら(メルパルク大阪のふれコン)すごいチョコレートの山で、これならジャニーズと勝負できるかも(大きな拍手)嬉しそうな表情でおっしゃる舟木さんが可愛かったです。
やっぱりあの日のチョコレートのプレゼントの多さは舟木さんご本人ですら想像以上で嬉しく思われたんでしょうね。さらにプレゼントされた真っ白な花束を見て、花嫁さんのブーケをイメージされたようで「結婚式みたい!僕、花嫁?!」と軽口も出るゴキゲンの良さでした。最近、この高さでいただいていると、ちょっとね・・ふふふ・・と腰を伸ばしたり叩いたり・・ぼちぼちトシでんがな~。僕らが中学生の頃は修学旅行というと京都、奈良・大阪が定番だった。昔は京都を歩いてると舞妓はんとすれ違ったりしたけど、最近あまりなくてちょっとサビシイ・・~そんなことないと思いま~す。私はこの日南座にくる時に普段着のお着物の舞妓さんと出逢いました。京都暮らしの頃も、先斗町や祇園小路ではお稽古に行かれるのかオフの普段の着物の舞妓さんにはよく遭遇してました。おそらく舟木さんが京都の祇園界隈をブラブラと歩かれることがあまりなくなったからではないかと思うのですがどうでしょう。ちょうど10分でプレゼントをすべて受け取られていよいよ開演です。
第一部 :ヒットパレード
~オープニング
あゝ青春の胸の血は(遠藤実)
あゝ青春の胸の血は(遠藤実)
シルバーのラメ入りの黒のタキシード、ウエストの切り替え部分はサテン生地のようです。蝶ネクタイに胸には白いバラ(時々ライトのかげんでクリーム色に見えます)久しぶりに拝見したフォーマルなタキシード姿の舟木さんはやっぱりカッコいいです。タキシードを着こなすには、やはり人間的な中身が必要なんだなァと思いながらしばしウットリ見つめていました。
「あゝ青春の胸の血は」で幕を開けるのは何年ぶりかなァ・・一部の持ち歌でも遠藤先生の曲をきっちりつめて二部でもスペシャルということで・・いただいたヒット曲がたくさんある中で選ぶのはなかなかむつかしい。
「あゝ青春の胸の血は」で幕を開けるのは何年ぶりかなァ・・一部の持ち歌でも遠藤先生の曲をきっちりつめて二部でもスペシャルということで・・いただいたヒット曲がたくさんある中で選ぶのはなかなかむつかしい。
花咲く乙女たち(遠藤実)
北国の街
「北国の街」で急に思い出しましたが、5、6日前に共演した本人から電話があったんですよ。北海道にしばらく行ってくるから20日くらい帰ってこない。春頃、帰ってきたらまたコーヒーおこってね。あの人はきれいなんですが女らしくないボーイッシュな魅力のある人。とまたマコちゃんの話題でした。いつまでも、たまに会ってお茶できる関係を、青春時代に培われたのは素晴らしいですね。うらやましい「茶飲み友だち」のお二人です。お二人のツーショットを舞台で拝見できたら、感動でしょうね。舟木さんがマコちゃんにオファーなさったらきっと叶うと思うのですが・・・「北国の街」「絶唱」の2本の映画だけはリアルタイムで拝見しているので私にとっては特にそういった想いがあるのでしょうね。
絶唱
哀愁の夜
高原のお嬢さん
哀愁の夜
高原のお嬢さん
「絶唱」「哀愁の夜」「高原のお嬢さん」考えてみたらこの三本ともさっき話した人と共演してる・・
「哀愁の夜」は最近、存在感が上がってきている。その時、その時「育とうとしている歌」が出てくる。ある時
は「友を送る歌」だったり、去年は「哀愁の夜」と「高原のお嬢さん」・・長く歌っていると不思議とポツポツ
と気になる歌が出てくる。そういうのを育てたくなる。
「哀愁の夜」は最近、存在感が上がってきている。その時、その時「育とうとしている歌」が出てくる。ある時
は「友を送る歌」だったり、去年は「哀愁の夜」と「高原のお嬢さん」・・長く歌っていると不思議とポツポツ
と気になる歌が出てくる。そういうのを育てたくなる。
~余談ですが、私の好きな「落語」も全く同じです。噺家さんもある時期に集中的に同じネタばかりを高座にかけることがあります。舟木さんがおっしゃるようにネタを「育てて」いらっしゃるのです。基本的に、ひとり芸である「流行歌手」と「噺家」には共通して「自由と孤独」の両面があるのでしょう。いずれもステージ(高座)では自分の想いにまかせることができる故に、その結果は全て自分ひとりに返ってくるということなのですね。
最近はこの歌がステージから外せなくなってきた。サインボール投げで使ってます(笑)多分「高校三年生」より幅広い人に聴いていただいている。あの頃、橋蔵先輩の歌(主演作の主題歌?)は三波さんが歌っているのが多かった。橋蔵先輩が「あの詰襟の高校三年生歌ってる子に・・」と御指名して下さった。
銭形平次(スタンディングはなし)
~サインボール
~サインボール
では一部は、この歌できちんと区切りをつけて行きたいと思います。
高校三年生(遠藤実)
学園広場(遠藤実)
第二部では「遠藤実スペシャル」ということで、コンサートの進行に添って、遠藤氏の自伝を参考に、それぞれの曲にまつわるエピソードなどを抜粋して挿入させていただくのですが、私たちにとっては「遠藤実といえば舟木一夫」と連想ゲームのような存在の遠藤氏の自伝に舟木さんが登場しないわけもなく、きっちり舟木さんとの出逢いについても書いていらっしゃいますので、ご紹介させていただきます。
「高校三年生」
~参考資料:「涙の川を渉るとき」遠藤実自伝
日本経済新聞出版社(2007年初版)より~
~仕事が軌道に乗った私のところに、雑誌「明星」の記者、恒村さんが上田成幸君という青年を連れてきた。コロムビアのスタジオで会った上田君は松島アキラの「湖愁」を歌ってみせた。確かにはやりの歌い方ではあったが、それ以上ではない。しかも様子をうかがっていると彼はいつも自信がなさそうに俯いてばかりいる。果たして芸能界で生きていけるだろうか。歌の評価の前にそんな心配が頭をもたげた。もう少し勉強してからでもデビューは遅くあるまいと思っていた。しかしコロムビアは待てなかった。テレビや音響機器の製造にまで手を広げていたコロムビアの経営は必ずしも順調ではなく、社内部門間の対立も目立っていた。嫌気がさした幹部たちが昭和38年9月に日本クラウンを設立し、馬淵玄三さんら有力ディレクターがごっそり移ってしまったため、残留組はあせっている。ここで大型新人をデビューさせ、大ヒットを飛ばさないと屋台骨まで揺らぎかねない。上田君の担当ディレクターがデビュー曲用に詞を十編ほど持ってきた。その中に丘灯至夫さんの作品があった。
「赤い夕日が 校舎を染めて ニレの木蔭に弾む声」
「赤い夕日が 校舎を染めて ニレの木蔭に弾む声」
歌詞を読んだ途端、貧乏ゆえに中学に行けなかった自分のことが思い出された。日東紡績で見習工をしながら通信教育用の中学校教科書を買い校章に似た付録のバッジを帽子につけて悔しさを紛らわせていた日々。もし中学、高校と進めていたら、どんな青春が待っていたのだろう。
思いつくままにワルツ風の旋律を譜面に落としてみた。いや少し違う。東京オリンピックは翌年に迫っている。そこでマーチ風の旋律に書き換えた。そうだ軽快で明るい方がいい。私自身の「失われた青春」に対するオマージュ(賛辞)でもあるのだから。吹き込みの日、上田君は見違えるような気力あふれる歌唱をみせた。その足で私を自宅に訪ねてきて「名前はどうしたらいいでしょう」と聞く。私は即座に答えた。
「舟木一夫だよ。」かねて用意していた名前だった。
舟木君が学生服で歌う「高校三年生」は昭和38年を代表するヒットになり、その年の日本レコード大賞新人賞を受賞した。
思いつくままにワルツ風の旋律を譜面に落としてみた。いや少し違う。東京オリンピックは翌年に迫っている。そこでマーチ風の旋律に書き換えた。そうだ軽快で明るい方がいい。私自身の「失われた青春」に対するオマージュ(賛辞)でもあるのだから。吹き込みの日、上田君は見違えるような気力あふれる歌唱をみせた。その足で私を自宅に訪ねてきて「名前はどうしたらいいでしょう」と聞く。私は即座に答えた。
「舟木一夫だよ。」かねて用意していた名前だった。
舟木君が学生服で歌う「高校三年生」は昭和38年を代表するヒットになり、その年の日本レコード大賞新人賞を受賞した。
休憩:20分
第二部 七回忌に偲ぶ~遠藤実スペシャル~決して散らない花々
いよいよ今年のシアターコンサートの目玉である第二部についてのご報告をさせていただくのですが、その前に13日のふれ・コン「日本の名曲たち~船村徹スペシャル」と同様、私は、歌謡曲の作曲家のことについては、恥ずかしながら何も知識がありませんので、遠藤実氏のことも昭和の歌謡界を代表する偉大な作曲家ということだけしか存じ上げません。またしても付け焼刃で少しだけ予習をしていきました(笑)その一部を先ずご紹介してコンサートの進行に沿って、参考資料の中から関連する箇所を挿入してまとめていきます。
遠藤 実(えんどう みのる、1932年7月6日 - 2008年12月6日) ~ウィキペディアより~
戦後歌謡界を代表する日本の作曲家の一人である。東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区向島)生まれ。
第二次世界大戦時に新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)にて疎開生活を送っていた。
新潟特有の門付けという演芸スタイルが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。門付けとは、越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である。
1949年、17歳の時上京。さまざまな職を経て、ギターを携えて流しの演歌師になる。
1956年、日本マーキュリーレコードより『お月さん今晩わ』にて作曲家としてデビュー。当時の芸名は星幸男で、現在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。
1965年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化され、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) が東映から製作配給された。~*舟木さんも門下生として出演なさっているそうです~
第二次世界大戦時に新潟県西蒲原郡内野町(現在の新潟市西区内野)にて疎開生活を送っていた。
新潟特有の門付けという演芸スタイルが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。門付けとは、越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である。
1949年、17歳の時上京。さまざまな職を経て、ギターを携えて流しの演歌師になる。
1956年、日本マーキュリーレコードより『お月さん今晩わ』にて作曲家としてデビュー。当時の芸名は星幸男で、現在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。
1965年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市(太平住宅創業者)の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化され、『太陽に突っ走れ』 (主演:千葉真一) が東映から製作配給された。~*舟木さんも門下生として出演なさっているそうです~
1968年にはレーベル名のミノルフォンを社名にも転用し、形式上の社長に就任した。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だったが、1972年に徳間康快(徳間書店)に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパン(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)に改組した。
2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。
2008年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で逝去。76歳没。
2008年12月19日、日本国政府は遠藤実に対し、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした彼の功績を讃え、死去した
12月6日付で正四位に叙し、旭日重光章を授与することを決め、更に2008年12月26日、2009年1月23日に国民栄誉賞を授与することを閣議に於いて正式決定した。国民栄誉賞の受賞は陸上選手の高橋尚子以来8年ぶり16人目の受賞で、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者であった。
2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。
2008年12月6日10時54分、急性心筋梗塞のため東京都内の病院で逝去。76歳没。
2008年12月19日、日本国政府は遠藤実に対し、数々の楽曲で大衆音楽発展に尽くした彼の功績を讃え、死去した
12月6日付で正四位に叙し、旭日重光章を授与することを決め、更に2008年12月26日、2009年1月23日に国民栄誉賞を授与することを閣議に於いて正式決定した。国民栄誉賞の受賞は陸上選手の高橋尚子以来8年ぶり16人目の受賞で、作曲家では古賀政男、服部良一、吉田正に次いで4人目の受賞者であった。
私の以下のレポート文中で使用させてただいた遠藤氏ご自身による文章はすべて下記資料からの抜粋によります
参考資料:「涙の川を渉るとき」遠藤実自伝
日本経済新聞出版社(2007年初版)
いつもと違って、オープニングの曲を歌いながらではなく、舟木さんが登場します。チャコールグレーに白い極細のストライプのスリーピースに白いシャツ、胸にはシルバーのペンダント。
開口一番、サインボールをお持ちの方に色紙のことを言うのを忘れました。すんませんでした・・・
早いものでもう七回忌、十三回忌をやろうとするとこっちがアブナイ(笑)ただ先生を偲ぶというだけでなく、「遠藤実スペシャル」のような企画が皆さまに受け容れていただけるなら、こういうものがこれからもできるという大きなもの(舟木さんのステージの構成としての新たなスタイルという意味合いだと理解しました)がひとつ増える可能性がある。昭和の流行歌・日本の名曲たちというくくりで、いろんなジャンルの歌が入ってくる。それを「ステージで直接味わっていただきたい」そういうことも含めての「決して散らない花々~遠藤実スペシャル」です。
「お月さん今晩わ」は、昭和32年、遠藤先生24歳、私12歳の時の歌・・・この最初の遠藤先生のヒット曲をどうしようかと思ったんですが、原盤のSPを聴くところからスタートします。ちょっと聴いてみて下さい。ステージのライトがおちて舟木さんはステージのセンターで客席を向いていらっしゃいます。藤島桓夫さんの若い、というかまだ幼さの残るような可愛い歌声が昔懐かしいレコード録音で会場に流れました。舟木さんは微笑みながら聴いていらっしゃるような懐かしいような表情にみえました。僕の「高校三年生」もそうでしたが当時は同時録音でスリーコーラス通してOK!をとらなきゃいけなかった。だからいかに先輩たちの歌がしっかりしてたかということです。舟木さんと一緒に聴くSPレコードの「昭和の音色」に感動しました。
~「涙の川を渉るとき」より~
何もかもうまくいかず、心躍ることもない。流しに出るまでの長い時間をもて余す毎日だった。その日もナメクジが這った跡の銀色の筋をぼんやり眺めていた。突如として新潟を出奔する前夜、砂山で見上げた月の像が記憶の底から立ち上がり、詞と曲が同時に湧いてきた。私の中で何かが何かを探り当てたらしい。~中略~「りんご畑のお月さん今晩わ うわさをきいたら教えておくれよナ」三番まで書きあげるのに20分もかからなかった。タイトルは「お月さん今晩わ」できたばかりの譜面を手に流しに出た。~中略~客は静かに耳を傾けている。二番になると店の人が手を止めて聴き入り、三番で涙を浮かべる人もいる。大衆に迎え入れられるということはこういうことなのか。振り返ると自分の個性ばかりを強調しようとしていた。歌というものは聴く者が思っていること感じていることを基本にし、そこに作者の個性が味付けのように入ってこそ受け容れられるものだということに初めて気づいた。松村又一先生があらためて詞を書いて下さることになり先生の勧めで初めて本名の遠藤実の名を出した。藤島桓夫さんが歌ってレコードが発売になったのは昭和32年の春。
何もかもうまくいかず、心躍ることもない。流しに出るまでの長い時間をもて余す毎日だった。その日もナメクジが這った跡の銀色の筋をぼんやり眺めていた。突如として新潟を出奔する前夜、砂山で見上げた月の像が記憶の底から立ち上がり、詞と曲が同時に湧いてきた。私の中で何かが何かを探り当てたらしい。~中略~「りんご畑のお月さん今晩わ うわさをきいたら教えておくれよナ」三番まで書きあげるのに20分もかからなかった。タイトルは「お月さん今晩わ」できたばかりの譜面を手に流しに出た。~中略~客は静かに耳を傾けている。二番になると店の人が手を止めて聴き入り、三番で涙を浮かべる人もいる。大衆に迎え入れられるということはこういうことなのか。振り返ると自分の個性ばかりを強調しようとしていた。歌というものは聴く者が思っていること感じていることを基本にし、そこに作者の個性が味付けのように入ってこそ受け容れられるものだということに初めて気づいた。松村又一先生があらためて詞を書いて下さることになり先生の勧めで初めて本名の遠藤実の名を出した。藤島桓夫さんが歌ってレコードが発売になったのは昭和32年の春。
曲が終わると「可愛いですね・・♪お月さんコン・バン・ワ♪」と藤島さんの歌い方で歌ってみせました。翌日23日には、「こんな淋しいいなかの村で・・」・・舟木一夫が歌うとこうなるとちょっと歌って下さったのですが、これもフルコーラスで聴きたかった~ァ!
では、「遠藤実スペシャル」お楽しみ下さい。
くちなしの花 昭和48年 作詩:水木かおる
http://www.youtube.com/watch?v=7g51o-46n90 (舟木さん歌唱) 渡哲也オリジナル
アルバム「花もよう」収録(1976年)
http://www.youtube.com/watch?v=7g51o-46n90 (舟木さん歌唱) 渡哲也オリジナル
アルバム「花もよう」収録(1976年)
すきま風 昭和51年 作詩:いではく
http://www.youtube.com/watch?v=sGNqEPweTUk (舟木さん歌唱) 杉良太郎オリジナル
アルバム「どうしているかい」収録(1981年)
http://www.youtube.com/watch?v=sGNqEPweTUk (舟木さん歌唱) 杉良太郎オリジナル
アルバム「どうしているかい」収録(1981年)
三曲とも俳優さんです。先生に君の声ではいずれ「湖畔の宿」みたいなものを歌わせてみたいとまだデビュー前の17歳の時に言われました。僕はブルースが歌いたくて歌手になった、そのことを先生はお見透しだったんですね。「山のさびしい湖に♪」とちょっと歌ってみて、伴奏がないとヘタでしょ(笑)~いつもの舟木さんの洒落ですね~昔は作家も専属制(レコード会社の)だったんで共作は難しかった・・・
この三曲の男唄は「男前」の唄ですが、元歌を歌われた三人の男前俳優さんたちとはまた異なった舟木さ
ん独特の哀愁漂う男前ぶりが、匂い立つようですっかりとろけちゃいました。
どんな作家の方も歌い手の特徴に合わせる。舟木一夫というひとつの個性の中でいろんな歌を歌う時は曲の原点に戻る。遠藤先生も、船村先生もメロディーが美しい。ここでふたつ並べたのは前の三曲の骨太のイメージと違って遠藤先生の最も繊細な部分がカオを出した一本の細い線が出たような曲~男唄と女唄を・・・
舟木さんが島倉さんに「慕情はかなく」の詩を創られた頃
からたち日記 昭和33年 作詩:西沢爽
http://www.youtube.com/watch?v=4bUodAxWp4U
http://www.youtube.com/watch?v=4bUodAxWp4U
島倉千代子
~「涙の川を渉るとき」より~
お千代さんは昭和30年に「この世の花」でデビューし、32年の「東京だよおっ母さん」で人気を確立したが、喉を痛めて初めてのスランプに陥っていた。馬淵さん(当時コロムビア文芸部ディレクター)は詞を差し出した。西沢爽作詩「からたち日記」原稿用紙の罫線が黄色いインクで盛り上がり「こころで好きと 叫んでも ただあの人と」という直筆の詩句が並んでいる。~中略~流しの合い間に胸ポケットから詞を取り出しては心に浮かぶメロディーを口ずさむ。いや違う。また別のメロディーを頭に描いてみる。これも違う。ある日、頭のどことも知れないところから一筋の音の流れが湧いてきた。四分の三拍子で始まり、「さああけんでも」で四分の二に変わる。更に四分の四へと移る変拍子の曲だった。西沢先生の許しを得て最後の「からたち からたち 」という繰返し部分を付け加えると、どこかにクラシックの匂いがする長調のメロディーができあがった。知り合いの音楽記者に両方の曲を聴いてもらったが「わからない」という。決めかねて馬淵さんにふたつの楽譜を見せた。だがやはり判断を示さない。「島倉君に決めてもらおう」と言った。~中略~私は、ふたつのメロディーをピアノで弾いた。じっと聴き比べていた彼女は「短調の曲を上手に歌う自信はあります。長調の曲は「さああけんでも」という変拍子のところがものすごく難しい。こんな歌は初めてです。ぜひ難しい方に決めてください。」と静かに言った。33年10月「からたち日記」は発売と同時に大ヒットした。
「からたち日記」は島倉さんの曲の中で私が一番好きな曲ですから、舟木さんが歌って下さるのを聴けて本当に感激しました。この曲にはなぜだか私もリアルタイムで間に合っています。昭和33年というと私はまだ小学校入学前でしたが、歌う事が好きでしたから同年代の子どもに比べて当時の流行歌はよく知っていた方だと思います。むしろ歌謡曲にあまり関心を持てなくなったのは舟木さんに出逢った小学校高学年になった頃からでしょう。多分昔の流行歌の方が私の感性に合っていたんだろうと思います。「からたち日記」やこの後でご紹介する「襟裳岬」の世界は、とても強く印象に残っています。
星影のワルツ 昭和41年 作詩:白鳥園枝
http://www.youtube.com/watch?v=ZrhIgXycTNw 千昌夫
http://www.youtube.com/watch?v=ZrhIgXycTNw 千昌夫
~「涙の川を渉るとき」より~
前後するが、私には千昌夫という内弟子がいた。高校二年の時に学校を辞めて押しかけてきたため仕方なく家に住まわせた。彼が私の前で歌った「高校三年生」は「いったいどこの民謡だ」と作曲した私が思うほど勝手に節回しを変えたものだった。破天荒な行動を厳しく叱りながらもいつかは一人前の歌手にしてやりたいと思っていた。~中略~第二弾の「君ひとり」のB面に入れる曲がない。そこへ第二制作部長が福島県相馬市に本拠を置く作詞の同人誌「こけし人形」を持ってきた。白鳥園枝作詞「辛いな」という四行詩が載っている。「別れることは辛いけど しかたがないんだ君のため」・・脈絡もなく明星楽団の一員として吹雪の中を歩いた夜のことが脳裏に蘇った。見上げた空の星の輝き。「別れに星影のワルツを歌おう」と書き足した。白鳥園枝さんの歌詞を「星影のワルツ」と改題して昭和41年1月に発売した。しかしだめなときは何をやってもだめでまたしても不発。反響はない。千君は落胆し将来を悲観した。そしてその怒りは私にも向いた。ある出来事がきっかけになって私は彼を家から追い出した。千君は弟子の藤健次君の家に厄介になりながら毎日のように詫びを入れるため家に来ていた。だが決して会わなかった。~中略~多忙な日々のある日、岡山のナイトクラブに立ち寄った。店の女性たちがジュークボックスに硬貨を入れて何度も何度も同じ曲をかけている。「星影のワルツ」だった。作品としては自信があった。「この曲でもう一度勝負しよう」と決めた。あれから一年以上が経っている。許す時期だろう。アレンジを変えて吹き込み直すことにした。驚いたことに千君の歌唱は以前と全く違い甘えが抜けて表現に力があった。「そうだ、これだ」私は千君の肩を抱いた。千君は局名を書いた段ボールを体の前後に下げ、街の賑わいの中で歌い続けた。ポケットではいつも十円玉がジャラジャラと音を立てている。そのころはやり始めた有線放送に電話して自分の曲をリクエストするためだ。「星影のワルツ」は日本歌謡史上初めて有線放送からヒットした曲になった。二百五十万枚のレコードを売り、いまでもカラオケの定番として歌い継がれている。
「星影のワルツ」はとにかく大ヒットした曲ということが私の記憶の中では第一でした。今回、舟木さんの歌唱で聴かせていただき、この曲は「抒情歌」だったんだと思いました。ツーコーラスまで歌ったあと、舟木さんがくるりと後ろを向いてあの素敵な背中を見せ、ワンコーラス分のインストゥルメンタルという趣向でこの曲の旋律の美しさを堪能させて下さいました。そしてまた客席の方に顔を見せてスリーコーラス目を歌い始め、ラスト「今夜も星が降るようだ 今夜も星が降るようだ」とリフレインで心が洗われるような余韻が残りました。
この歌のメロディーと詩が舟木さんの肉体と魂をとおしてさらに浄化されたような澄んださわやかさが広がりました。そして「遠藤先生」への深い敬意もひしひしと伝わってきました。
この歌のメロディーと詩が舟木さんの肉体と魂をとおしてさらに浄化されたような澄んださわやかさが広がりました。そして「遠藤先生」への深い敬意もひしひしと伝わってきました。
私には、さながら「抒情歌」に聴こえましたが、舟木さんは「ふつうの演歌というだけではセイリがつかない抒情歌との中間にあるような曲」・・と言われました。
僕はお千代姉さんのリアルタイムにはすべりこみで間に合っている。他にも「新宿育ち」「おひまなら来てね」「困っちゃうな」なども歌うかどうかさんざん考えた。けど、私が「困っちゃうな」歌ったたらお客様が「困っちゃうな」(笑)、シナを作って「おひまなら・・」なんて気持ち悪いでしょ・・と言いつつもちょっとだけ「シナ」をつくりそうになる舟木さんがキュートで可愛い!
遠藤先生の曲にはアップテンポの歌はあまりない。僕みたいな乱暴者がいて「高校三年生」みたいな歌ができてくる。それまでの青春ものでは「若いふたり」このステージの中で一曲だけ明るく楽しい歌です。
前列遠藤氏を挟んでこまどり姉妹、後列左から舟木さん、安達明さん、北原謙二さん、梶光夫さん
若いふたり 昭和37年 作詩:杉本夜詩美
http://www.youtube.com/watch?v=lRqUE_M21PY
http://www.youtube.com/watch?v=lRqUE_M21PY
北原謙二
やっと元気で楽しい歌が出てきたせいか、手拍子で客席が盛り上がりました。北原謙二さんはビブラートを入れない数少ない人、女性では西田佐知子さん。と西田さんの「アカシアの雨がやむとき」をモノマネ風に歌う舟木さん。
これなんか舟木一夫の持ち歌でも不思議ではない。ドドンパなんですが、一時先生はドドンパに凝ってた(笑)と言いながら、後ろを振り返ってバンドに向かって「ちょっとドラムやってみて!」「ベースはいらないよ。ドラムだけ・・」とドラムのリズムだけでアカペラで「学園広場」をワンコーラス歌いきった舟木さん。これには客席全員が大喜びでした。「学園広場」は最初はコレだったんですよ。遠藤先生が「変?コレ・・」、僕が「変です!」歌っている舟木さんのビミョーな反応に気づかれたんでしょうか?(笑)そしたら二階に上がっていって40分くらいでできたのが今の「学園広場」舟木さんが歌う見事なアカペラ「ボツ盤・学園広場」を聴かせていただけたのは、23日昼の部でした。私も含めてこの日客席にいらした舟木さんファンには、感動的なサプライズ&トピックスだったと思います。
「高校三年生」も15分くらいで作ったそうです。「学園広場」がドドンパにならなくて良かったです(笑)
当時は専属制が強くて作家の方と歌い手の幅が狭かった。コロムビアは西條八十、船村、遠藤・・もし僕がビクターとかキングとかだったらどうなったか・・出逢いというのは不思議で吉田先生が橋さんと出逢ってそれまでの曲調から一気に開花した。ぼくと遠藤先生の出逢いも同じで舟木一夫のお客様はあまりそれまで流行歌を聴いていなかった特殊な層といえる。それまでの遠藤先生の青春ものから「高校三年生」で開花した。
~以下は「2014 シアターコンサートin南座 2月22日/23日 (下)に続きます~