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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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END-FIN-FINE(ラストシーン)~舟木一夫自作曲によせて その1

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3月18日の堺市民会館でのソロ・コンサートからわずか10日後に開催される中日劇場でのシアター・コンサートなのですが、そのたった10日ほどの時間も、待ちきれないような想いで、頭の中も心の中も舟木さんのことでいっぱいです。「*愛しすぎ症候群」かもです(笑)これは、ヤバイぞ(笑)
*「愛しすぎ症候群」~「愛しすぎる女たち」ロビン・ノーウッド(訳:落合恵子)とは・・
1980年代の終わりごろに書かれたもので、日本語訳も当時ベストセラーになったと思います。「なぜわたしの愛は、うまくゆかないのだろう。こんなに愛しているのに…」と、相手の男性との関係を「愛」によってコントロールしようとして敗北し、苦悩する「愛しすぎ」症候群。
 
イメージ 1冗談はさておき、閑話休題・・・
とはいうものの、舟木さんのこの「END-FIN-FINE」の「見つめすぎたと 気づくのが 求めすぎたと気づくのが・・遅すぎて」のフレーズを初めて知った時に、この「愛しすぎる女たち」という昔読んだ本のことを思い出しました。この詩は、舟木さんが上田成幸のペンネームで書いていらっしゃるのですが、あきらかに「女唄」の世界です。男性である舟木さんが、こういった視点から男女の愛の亀裂や心のすれ違いを実に繊細に、同時にシビアに描かれていることに驚きました。私が舟木さんの御自作の曲で一番好きなのは、ブログのタイトルにも頂戴している「れんげ草」なのですが、もちろん、それ以外にも甲乙告げがたく心惹かれる曲がたくさんあります。その中でも、この「END-FIN-FINE」は、トップクラスです。
 
イメージ 2歌唱時間にすると4分以上にもなる、比較的長い詩なのですが、最初から最後まで、唸らされます。「れんげ草」もそうなのですが、この作品も、「私もこんな詩が書きたかった」と思わせるのです。過去形なのは、この曲の主人公のような気持ちになっていた時期に、自分自身がこれだけの言葉を紡ぎだせなかったからちょっと悔しい・・(笑)女なのに男の舟木さんに「女性の心理」をみごとに読み抜かれて、しかも女性でも描けない心の風景を哀しみと美しさにあふれた言葉で織りなしてしまわれたことが、女性として、してやられた!という感じです(笑)
そして、さらにメロディーラインが、なんとももの哀しくて、舟木さんの歌唱には、女性がのりうつったのでは
ないかと思われるほどの切ない女心が漂っていて、自然と涙がにじんできます。
おそらく「れんげ草」も「END-FIN-FINE」も、多くの舟木さんファンの女性の心に深く沁みて、もの想わせる曲の筆頭ではないかと思います。
 

END-FIN-FINE(ラストシーン)作詩・作曲:上田成幸
(1998年5月21日発売 「WHITEⅢ」)
 
イメージ 3花びらごしに 春は逝き
わたしひとり 旅の果て
醒めたまなざし 冷えた愛
空の碧さ つきぬける
見つめすぎたと 気づくのが
求めすぎたと気づくのが・・遅すぎて
あの人ごしに 春は逝き
わたし ぽ・つ・ん 海の果て
身知らぬ異国(くに)の潮風(かぜ)の中
肩の陽射し 昼さがり
 
哀しみごしの さんご礁
わたしふっと 瞳(め)をふせる
とまったままの 腕時計
わたしそっと 瞳(め)をあげる
こんな明るい海でなら
沈むつらさもないようで・・立ちつくす
イメージ 4
END-FIN-FINE(ラストシーン)は あざやかに
けれどやっぱり ありふれて
あの人ごしの あれこれが
波に映えて 昼さがり
 
責めるつもりはないのです
うらむつもりもないのです・・・さようなら
花びらごしに 春は逝き
心 ぽ・つ・ん 空の果て
あなたのために 生きたこと
生命(いのち)かけて 忘れない

 
 
 
この曲の冒頭から、ステキすぎます。「花びらごしに 春は逝き」・・舟木さんは、花の名前は詩の中で書いていらっしゃいませんが、この「花びら」は、私のイメージでは「桜」以外には考えられません。

イメージ 5桜と言えば、西行の「桜の下にて春死なん その如月の望月の頃」という古歌を先ずイメージしますが。それは散りゆく桜に自分自身の儚い生涯を重ねた仏教的な無常観の世界でしょう。そして、桜は、日本古来から単に「花」という言葉で様々な文学に詠われていますから、舟木さんのこの「END-FIN-FINE」でも、「桜」という具体的な表現ではありませんが、この叙景詩部分を自分のイメージの中で広げてみると、やはり「花びらごしに 春は逝き」の「花びら」から想像されるのは「散りゆく桜の花びら」ということになるのでしょう。
「世の中は三日見ぬ間の桜かな」という句もありますが、「桜」は「永遠なるもの」の対極にあるものの象徴という役割も背負っている気がします。既に、中世の女流文学の代表でもある「枕草子」でも「桜など散りぬるもなほ世の常なりや」とあのドライで勝気な印象のある清少納言ですら「散りゆく桜」の無常を書き留めています。
しかも「逝く春」です。満開に咲き誇った桜は「深まりゆく春」の象徴であると同時に、あっという間に、わずかな風にもはらはらとはかなく散って「逝く春」の象徴でもあります。「束の間の華やぎを見せたと思うや否や土に還ってゆく」姿は、日本文化、日本情緒の根幹にある「無常観」そのものをあらわしているようです。

花びらごしに 春は逝き
わたしひとり 旅の果て
醒めたまなざし 冷えた愛
空の碧さ つきぬける
見つめすぎたと 気づくのが
求めすぎたと気づくのが・・遅すぎて
あの人ごしに 春は逝き
わたし ぽ・つ・ん 海の果て
身知らぬ異国(くに)の潮風(かぜ)の中
肩の陽射し 昼さがり

舟木さんが描いた詩の世界を、私のへぼな、散文で読み解くとすれば、こんな感じでしょうか。
 
~桜の花びらのむこうに見える、わたしたちふたりの鮮やかな風景だけを残して、春は逝ってしまうのね。あんなにも愛し合ったふたりなのに・・。
そして、愛に疲れた私は、ひとりあてもなく旅に出ました。来たこともない未知の異国のような海辺に立って、潮風に吹かれています。昼下がりの突き抜けるような空の碧さが、かえって哀しみを深くするのです。
愛に燃えていた瞳は、今はもう輝きを失って心は冷え冷えとしています。でも、肩先に届く陽射しの温かさだけが私を慰めてくれているようです。~
 
つづいてツーコーラス目・・・
 
イメージ 9哀しみごしの さんご礁
わたしふっと 瞳(め)をふせる
とまったままの 腕時計
わたしそっと 瞳(め)をあげる
こんな明るい海でなら
沈むつらさもないようで・・立ちつくす
END-FIN-FINE(ラストシーン)は あざやかに
けれどやっぱり ありふれて
あの人ごしの あれこれが
波に映えて 昼さがり

~海辺から見える、美しいさんご礁さえも、私の哀しみの想いを通してみると、その美しさが切なさを募らせます。耐え切れず、瞳をふせた私の手首に、あの日のまま時が止まったかのような「腕時計」が・・私の心に、目の前の明るい海が、「淋しいおまえを包み込んであげるよ」と誘い込んで
いるように囁きかけます・・・・。
でも、ふっと我に還った私・・・ここが、私の「END-FIN-FINE(ラストシーン)」なのでしょうか。でも、それは鮮やかに見えるけれど、やっぱり所詮はありふれた男と女の愛の終わりに過ぎない・・・私を誘い込んでいるかのような波の面をぼんやりと眺めていても、浮かんでくるのは、あの人と過ごした愛の日々の想い出ばかり・・・その想い出だけは昼下がりの波に美しく映えているのです~

最後は・・

イメージ 6責めるつもりはないのです
うらむつもりもないのです・・・さようなら
花びらごしに 春は逝き
心 ぽ・つ・ん 空の果て
あなたのために 生きたこと
生命(いのち)かけて 忘れない

~そうね、あなただけが悪いんじゃないのよね。決して責めるつもりなどありません、ましてうらむつもりもないんです・・ただ、今は、ふたりのために「さようなら」を言うわ・・桜の花のように、儚く、散ってしまう恋もあるのね。楽しかった日々の想い出を残して春は逝ってしまった。私の心だけが、「ぽ・つ・ん」と果てしない空に取り残されてしまったけれど、私が精いっぱいあなたを愛して、あなたのために生きたという時間だけはしっかりと抱きしめていくわ。私の生命のある限り、あなたとの愛の想い出を私は忘れないで生きていくわ~
 
 
 
「愛しすぎる女たち」・・愛は崇高で尊いものであるはずなのですが、「男女の愛」に限って言えば、その半分以上は、自己愛であったりエゴイズムであったりすることもまた確かではないでしょうか。
「愛と憎しみ」とは表裏一体で、それだからこそ、古今東西の文学で描かれた男女の「恋愛」にまつわる作品の数は膨大なのだとも言えるのでしょう。
恋愛時代は、相思相愛で、互いの情熱も燃え上がるのですが、ひとつ屋根の下に暮らすようになると、日常の煩雑な事柄が、相思相愛のふたりの間に割り込んできます。そして、「こんなはずじゃなかった・・」が積み重なって、「愛が冷めて」いくのかも知れません。
 
ここで、私が大好きな新川和江さんの「ふゆのさくら」という詩をご紹介します。
全編がひらがなで書かれた、なんとも優雅なイメージの詩なのですが、中身は、新川さんらしい知性と、自己をみつめるシビアなまなざしに貫かれています。
これは、本当に愛した人との純粋な関係性を希んだとしたら、女性なら誰もが理想とする愛の形なのかも知れません。でも、ファンタジーの世界でしかこのような美しく穏やかな「男女の愛」はのぞめないこともまた事実であることは確かでしょう。だからこそ「詩」なのですね。
今回、私が大好きな舟木さんの「END-FIN-FINE(ラストシーン)」を紐解いているうちに、「桜」というキイワードに行きあたりました。そして「さくら」から思い出したのが、これまた私の大好きな新川さんの「ふゆのさくら」でしたが・・
なんと、この新川和江さんの経歴をあらためて確認したら、またしても舟木さんに繋がってしまい、自分でもビックリ仰天です。こういったことが本当に、度重なるとちょっとコワイかも・・(笑)
新川和江さんは、茨城県の出身で、子どもの頃から郷土の詩人である野口雨情の童謡に親しんで育ったというのです。そして、さらに茨城県の女学校時代には、近所に疎開してきた西條八十に師事なさったというのですから、本当に驚きました。私が、高校時代から大好きだった新川和江さんが、雨情とも八十とも深く関わりのある方だったことなど、「END-FIN-FINE(ラストシーン)」のことを、ブログに書いてみようと思わなければ知る由もありませんでした。
毎度のことながら、舟木さんってすごい!舟木さんのおかげで、今頃になって、若い頃に触れていたあれやこれやが、どんどん織物を織りなすようにタテ糸、ヨコ糸で繋がっていくのです。もう一回、「舟木さんってすごい!」
 
イメージ 7ふゆのさくら 新川 和江
 
おとことおんなが
われなべとじぶたしきにむすばれて
つぎのひからはやぬかみそくさく
なっていくのはいやなのです
 
あなたがしゅろうのかねであるなら
わたくしはそのひびきでありたい
あなたがうたのひとふしであるなら
わたくしはそのついくでありたい
あなたがいっこのれもんであるなら
わたくしはかがみのなかのれもん
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい
 
イメージ 8たましいのせかいでは
わたくしもあなたもえいえんのわらべで
そうしたおままごともゆるされてあるでしょう
しめったふとんのにおいのする
まぶたのようにおもいたくひさしのたれさがる
ひとつやねのしたにすめないからといって
なにをかなしむひつようがありましょう
 
ごらんなさいだいりびなのように
わたしたちがならんですわったござのうえ
そこだけあかるくくれなずんで
たえまなくさくらのはなびらがちりかかる
(1968年「比喩でなく」収録)

新川和江(しんかわ かずえ、1929年4月22日 - )
茨城県結城市出身。県立結城高等女学校(のちの茨城県立結城第二高等学校)卒業。小学校のころより野口雨情などの童謡に親しみ、定型詩などを作る文学少女だった。女学校在学中、近くに疎開してきた詩人の西條八十に詩の手ほどきを受けた。
卒業して17歳で新川淳と結婚後、上京し、詩の投稿を始める。1953年、最初の詩集『睡り椅子』を刊行。新鮮で自由な感覚で、母性愛や男女のさまざまな愛の姿をうたう。巧みに使われる比喩表現が特徴。1983年、吉原幸子と共に女性のための詩誌「現代詩ラ・メール」を創刊。1993年の終刊まで女性詩人の活動を支援した。

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