いつの間にやら十月も半分過ぎてしまいました。早いですね~
もう一週間前になりますが、今月開催されている歌舞伎座公演に行ってきましたので
ちょっとだけご紹介させていただきますね。十八世中村勘三郎七回忌追善公演です。
私は8日の夕方に東京に着いて東銀座のホテルにチェックインしてその日の夜の部から観劇
昨年の12月の舟木さんの新橋演舞場公演の時から久々に東銀座木挽町周辺の夜景を見ました。
玄関を入ると左手に勘三郎さんのお写真が飾られていましたので、まずは、合掌。
ロビーには故勘三郎さんの奥様と片岡仁左衛門さんの奥様の姿も…
勘九郎さんと七之助さん、そして勘三郎さんと同じ舞台で数々の思い出深いお芝居を
ご一緒された俳優の方々がズラリと名を連ねる追善公演ですから見逃すわけにはいきません。
夜の部の「義経千本桜 吉野山」
勘九郎さんの佐藤忠信(狐忠信)と玉三郎さん(静御前)
勘九郎さんの踊りはキレが好くて躍動感にあふれていて
この人の踊りは大好き!とあらためて思いました。
そして、勘九郎さんの最大の魅力は「情」と「愛嬌」
これは、まさに父・勘三郎さん譲りともいえるでしょう。
「義経千本桜」に登場する忠信は、実は狐が化けたもの、「狐忠信」なのです。
幼い頃に狐の父母は捕らえられ、鼓の皮にされてしまいました。その鼓が「初音の鼓(はつねのつづみ)」です。
狐は親を慕う思いから忠信の姿を借りて初音の鼓を持っている静御前(しずかごぜん)に付き従っています。
夜の部のラストは「助六曲輪初花桜」
仁左衛門さんの助六に七之助さんの揚巻
仁左衛門さんが歌舞伎座で助六を演じるのは20年ぶりとか…
私は、9年前に南座の顔見世で拝見していますがその時は揚巻が玉三郎さん。
でも、残念ながら20年前は知りません。
20年前というと、仁左衛門さん54歳の時ですね。
74歳の今も、ホントにいいカタチの助六で、啖呵を切る時の長口上も素晴らしい。
発声の爽やかさ、滑舌もとても若々しくて感動しました。
*市川家の助六は演目名が少しだけ違って「助六由縁江戸桜」と云います。
9日は昼の部を観劇。大江山酒呑童子、勘九郎さんの酒呑童子
勘三郎さんを思い出させるのですが、勘九郎さんの方がより端正というカンジがします。
「大江山酒呑童子」は、十七世勘三郎に書き下ろされた舞踊劇です。
10年前の納涼歌舞伎で、十八世勘三郎が初めて歌舞伎座で酒呑童子を演じました。
その舞台では、公時(そう幼名があの金太郎さんです)だった勘九郎が酒呑童子を勤めました。
その10年前(2008年)の納涼歌舞伎の舞台は私も、拝見しています。
その日は、小泉純一郎氏(政界引退発表の少し前頃だったと思います)、
俳優の藤原竜也さんの姿も客席にありましたので、印象深く記憶に残っています。
さて拙ブログで連載してきた「小説舟木一夫」…欠落している号もあるので
とびとびで恐縮でしたが、いよいよ今回が最終回です。
雑誌「明星」連載「小説舟木一夫 第六章 最終回」(1964年5月号掲載)
表紙は三田明さんといしだあゆみさん
最終回号の5月号は私の手持ちではないので、以前、舟友さんからコピーをちょうだいしたものです。
文中(160p)で書かれている、歌のチャンピオンの3週目で成幸少年が歌って
グランドチャンピオンになったという「慕情の街」
とっても気になったので調べてみたら、youtubeにありましたのでアップしておきますね。
2週目に歌った三浦洸一さんの「純愛物語」は、見つけられませんでした。残念!
もうひとつ、ついでに…文中(162p)「上京」というところの文章について
~ある酒造会社のコマーシャル・ソングを吹き込んだ。
~作曲は森一也氏で、成幸はこの謝礼として、CBCから三千円をもらった。~
この部分に関連して、以下の日記のことを思い出しましたのでご紹介します。
舟友kazuyanさんの動画紹介~一宮七夕まつり 民謡大パレード (2015/7/28にアップしたもの)
https://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/70572464.html
https://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/70572464.html
「からたち日記」「ひばりの佐渡情話」などの作詞家、西沢爽氏の盃論。
作曲家、森一也氏の稿に、「CBCで吹き込む長誉のCMソングに立ち合い、唄で初めて得た三千円の紙袋をうれしそうに内ポケットにしまって帰った学生服姿の上田成幸君。彼が一年後に高校三年生でデビューする舟木一夫です」。
「織姫音頭」の作曲者・森一也氏は、舟木さんの母校である萩原小学校と萩原中学校の校歌の作曲をされていて、以前私のブログでもご紹介しています。
森一也(1915年(大正4)4月8日 - 1998年(平成10)2月1日)
コロムビア専属の作曲家・音楽評論家。一般には懐メロ解説の第一人者として知られる。愛知県一宮市出身。幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。戦後、雑誌社などを経て、コロムビア専属の作曲家となる。仕事を通じて西條八十と知り合い厚誼を賜り、その良い関係は八十が亡くなるまで続いたという。