来月、6月5日には、デビュー52年目を迎え、秋以降は、12月12日のお誕生日(古希祝い)を挟んで半年間に3回の長期公演(9月新橋演舞場、10月から11月中日劇場、来年2月に新歌舞伎座)というハードなスケジュールにチャレンジなさる舟木さんです。私たちファンとしては、舟木さんの舞台をたくさん拝見できることは、とっても嬉しく大歓迎であることは間違いないのですが、一方では、やはり舟木さんのご健康が心配になってしまいます。
「やれるときに、やっておく」という言葉を、今年に入ってからの舟木さんのステージでのトークで度々お聞きしています。「音源を残しておくために色んな歌を歌っている・・」ということもおっしゃっています。
ステージでの歌唱は、未だに素晴らしい進化を重ねていらっしゃる舟木さんから、こういった言葉を聞くと正直とてつもなく淋しい想いにかられますが、「出し惜しみなんかしない、その時、その時を精いっぱいやるだけ・・・」という舟木さんらしい凛とした誠実な姿勢に、こちらまで背筋がピンと伸びるような気持ちになります。
ステージでの歌唱は、未だに素晴らしい進化を重ねていらっしゃる舟木さんから、こういった言葉を聞くと正直とてつもなく淋しい想いにかられますが、「出し惜しみなんかしない、その時、その時を精いっぱいやるだけ・・・」という舟木さんらしい凛とした誠実な姿勢に、こちらまで背筋がピンと伸びるような気持ちになります。
そんな気持ちでいる折も折、5月9日の「ラヴコン」のトークの中でおっしゃった舟木さんの言葉で、ずっと私の頭から離れない言葉があります。それは・・・
「僕はね、もったいなかった歌い手なんです・・」
舟木さん流の独特の表現ですから、捉え方は、聞く側の、それぞれの想像力によって、様々だと思います。また、それでいいのだと私は思っていますが、私が私なりに、この「もったいなかった歌い手」という表現を、どのように感じたか・・また、この言葉から、何を思い出したのか・・・勝手気ままに、少し書いてみようと思います。
舟木さん流の独特の表現ですから、捉え方は、聞く側の、それぞれの想像力によって、様々だと思います。また、それでいいのだと私は思っていますが、私が私なりに、この「もったいなかった歌い手」という表現を、どのように感じたか・・また、この言葉から、何を思い出したのか・・・勝手気ままに、少し書いてみようと思います。
資料1
アルバム「デビュー3周年記念 ひたむきな青春 舟木一夫の魅力」 1966年6月発売
舟木さんがおっしゃる「もったいなかった歌い手」という言葉から、私の記憶によみがえった部分を再度掲載します。
今から48年前のちょうど5月に、舟木さんご自身がこのアルバムのために寄稿なさった文です。舟木さん21歳の時の「想い」が綴られています。(アルバム記載原文のまま)
みなさん こんにちわ
こんにちわと書くのは、ぼくのくせみたいなものですから、ゆるしてください。
いま、ぼくは休養をかねて、したしい人と伊豆の山奥のひなびた湯の宿にきています。眼下には、あざやかな新緑のひだの間をぬって流れる、白い渓流がみえます。きこえるものといえば水音だけのこの宿で、3年をふりかえって、いま、感無量です。ふりかえるなどということは、この道、30年、40年の人がすることだとすれば、ぼくにその資格は、まだないのかもしれません。
こんにちわと書くのは、ぼくのくせみたいなものですから、ゆるしてください。
いま、ぼくは休養をかねて、したしい人と伊豆の山奥のひなびた湯の宿にきています。眼下には、あざやかな新緑のひだの間をぬって流れる、白い渓流がみえます。きこえるものといえば水音だけのこの宿で、3年をふりかえって、いま、感無量です。ふりかえるなどということは、この道、30年、40年の人がすることだとすれば、ぼくにその資格は、まだないのかもしれません。
いろいろのことがありました。
いろいろの人を知りました。
いろいろのことを学びました。
なんだか、自分がこうなろうと考えていたのとは、ちがう歌手になったような気がします。流行歌というのは、暗い、裏街にたゞよう血のぬくもりを感じさせるようなものだと思っていたからです。ありのまゝの自分、若さを表にだして、ひたむきに歌ってこられたぼくは、幸せものです。しみじみと、そう思います。おおぜいのファンのみなさんに、こころから、ありがとうをいいたいきもちで、いっぱいです。
しかし、このままではいけません。もっと成長しなさい。はばのひろい歌手をめざしなさい。ファンのみなさんのはげましが、耳にひゞきます。それにこたえるのが、ぼくの義務みたいなものだと信じます。
1966年5月 -伊豆の山奥でー 舟木一夫
弱冠21歳の舟木さんは「流行歌」というものについて、既にこのような認識をお持ちだったのですね。
「流行歌というのは、暗い、裏街にたゞよう血のぬくもりを感じさせるようなもの」だと思っていらしたのですね。
このブログで今年の1月12日付けで舟木さんのカバー企画CD「心に沁みた流行歌」について記載しています。(http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/68954008.html)
その中で、なかにし礼氏の著書「歌謡曲から『昭和』を読む」についても紹介しているのですが、なかにし氏の「歌謡曲=流行歌」観と21歳だった舟木さんの中にあった「流行歌」観とが根っ子を同じくしていることに驚かされます。以下、なかにし氏の文章から再び一部を抜粋させていただきます。
”歌謡曲から「昭和」を読む” なかにし礼著 NHK出版新書 366(2011年12月10日 第一刷発行)
~歌謡曲という大河 憧れとアンチテーゼより~
歌謡曲が終焉へと向かう時期に、私が考えたことを最後に記しておこう。歌はもともと、大人のためにあった。とりわけ悲しみややるせなさに押しつぶされながらも、なお生きていかなければならない大人のためにあった。悲しみに耐え切れずに伏せていた顔を、ふと上げたときに見る朝日の光、あるいは夜空に輝く月の光。人はそれに一瞬、心を奪われ、そして憧れる。同じように、人は歌に一瞬、心を慰められ、そして憧れる。戦争の時代や戦後の混乱を生きる人びとにとって、歌とはいつもそんな憧れの対象としてあった。しかし、高度成長の時代、人びとは生きることに自信をもつと同時に、歌に対する憧れを理解しなくなった。
歌謡曲が終焉へと向かう時期に、私が考えたことを最後に記しておこう。歌はもともと、大人のためにあった。とりわけ悲しみややるせなさに押しつぶされながらも、なお生きていかなければならない大人のためにあった。悲しみに耐え切れずに伏せていた顔を、ふと上げたときに見る朝日の光、あるいは夜空に輝く月の光。人はそれに一瞬、心を奪われ、そして憧れる。同じように、人は歌に一瞬、心を慰められ、そして憧れる。戦争の時代や戦後の混乱を生きる人びとにとって、歌とはいつもそんな憧れの対象としてあった。しかし、高度成長の時代、人びとは生きることに自信をもつと同時に、歌に対する憧れを理解しなくなった。
私が子どもの頃は、歌謡曲とは大人の世界を謡ったものがほとんでした。ですから、意味もわからず聞き覚えた歌を歌っていると、意味がわかっている大人は、いくらか「眉をひそめる」という空気があったような記憶があります。だから、家族がいない留守の間とか、だれも聞いていないような時に、こっそり歌っていたということもあったかも・・・と今になって思います。
舟木さんが21歳のときにおっしゃっている「暗い、裏街にたゞよう血のぬくもり」とは、当時の子どもたちに
とってはまだ踏み込むことがゆるされないタブーの世界と言ってもいいかも知れません。舟木さんが若くして、このような世界を、あえて歌いたいと思われたことは、ごく当たり前の家庭環境で育った私たちとは違った特別な条件の中で育ったということが、少なからず影響しているのではないかと感じます。
舟木さんが21歳のときにおっしゃっている「暗い、裏街にたゞよう血のぬくもり」とは、当時の子どもたちに
とってはまだ踏み込むことがゆるされないタブーの世界と言ってもいいかも知れません。舟木さんが若くして、このような世界を、あえて歌いたいと思われたことは、ごく当たり前の家庭環境で育った私たちとは違った特別な条件の中で育ったということが、少なからず影響しているのではないかと感じます。
私たちが、子ども時代に抱いていた歌謡曲=流行歌のイメージを覆すような明るく清新な若さにあふれた爽やかなデビュー曲「高校三年生」で登場した舟木一夫という少年が、その清潔で爽やかな風貌の奥に、ふと垣間見せる「憂いの影」・・・おそらくは、舟木さんが「ただただ清潔で爽やか」なだけであったならあれほどまでの熱狂が巻き起こったのかどうか・・と今さらながら思います。舟木さんが纏っていた「憂いの影」は、よりくっきりとその爽やかな清々しさに、陰影を与え、平面でのっぺりした青春像ではなく、未熟な若者であっても人としての苦悩を内に孕んだ、彫の深い青春像を、どこかで当時の人たちにイメージさせていたからこその熱狂だったのではないかと、この若き日の舟木さんの「流行歌」の捉え方を述べた文面を見て納得できる想いがしました。
また、以下は、同じくこのアルバムに、掲載されている文章です。
署名は、「日本コロムビア邦楽部・企画室」となっています。
舟木一夫は歌手であるまえに、人気ものでありすぎたかもしれない。
人気があるということは、大勢のひとに愛されているのとおなじことだから、いいことである。しかし、そのことは歌手・舟木一夫にとってほんとうによいことだったのか。どうか。公開放送の舞台風景。司会者に紹介されて舟木一夫があらわれる。ドッと湧く客席。うたいはじめる舟木一夫・・・よくある風景である。ちょっとだけちがうこと、彼のばあい、ドッときた客席がなかなかしずまりかえらない。熱狂的なファンは歌をきかずに姿をきいているという感じ。とたん、彼の顔にチラッと不満げな表情がはしる。
~ぼくは歌手です。歌をきいてはくれないんですか~
人気があるということは、大勢のひとに愛されているのとおなじことだから、いいことである。しかし、そのことは歌手・舟木一夫にとってほんとうによいことだったのか。どうか。公開放送の舞台風景。司会者に紹介されて舟木一夫があらわれる。ドッと湧く客席。うたいはじめる舟木一夫・・・よくある風景である。ちょっとだけちがうこと、彼のばあい、ドッときた客席がなかなかしずまりかえらない。熱狂的なファンは歌をきかずに姿をきいているという感じ。とたん、彼の顔にチラッと不満げな表情がはしる。
~ぼくは歌手です。歌をきいてはくれないんですか~
正直で純な、歌うことをこよなく愛する21才の青年である舟木さんのあまりにも真っ直ぐな想いに対して以下のように書き手の方は続けています。
ーそんなときの忠告ー
実力不足のせいさ。熱狂的なファンがしずかに歌をきいてくれるような実力、歌唱力をもつこと。これはほんとうをいうと、ちょっと厳しすぎる。注文が無理すぎるともいえる。だが舟木一夫はその壁にいどまねばならないし、それができる人だ。あたえられた作品(詩と曲、その中に流れている世界)を解釈できる深い理解力、研究心、うれいのある声、繊細な表現力、楽器のような感受性、そのすべてが花と開いたら、彼は、すべてのファンを激しく自分の歌の世界にひきこめる大歌手にきっと成長することができる。デビュー以来、おおきくゆれ動くこの世界で一条のまっすぐな航跡をひいて、ひたむきに進んできた人だ。これからも、青年としての深い自覚、激しい精神力をもってすゝんでいってほしい。
確かに、舟木さんは、子どもの頃から、普通の子どもたちとは、異質の精神的な重荷を背負っていらしたということは、あるでしょう。同じ年令の若者よりも、ずっと心の成長は深く根を張り、人間が生きていく上での哀しみや苦さという感情は、私たちの想像を超えるものであったと思います。けれど、そんなことを加味してもやはり20歳になったばかりの若者であることに違いはなく、音楽関係者や芸能関係者という経験豊かな大人たちの目から見れば、そういった人生の「暗い裏街」の世界を歌うには、まだまだ本当の意味での大人としての経験もなく、むしろ若木のような繊細さが魅力の若い歌い手である・・これから人としての経験と歌い手としての勉強を積んでいけば、君が考えているような歌も歌えるようになり、聴く人をその歌の世界にひきこめるようになるんだよ・・とそんな温かさの感じられる「忠告」の文面もまた、今の私から見れば的を射ていると納得できます。
「あたえられた作品を解釈できる深い理解力、研究心、うれいのある声、繊細な表現力、楽器のような感受性」・・・本当に、ひとつひとつの言葉に舟木一夫という若い歌い手への真っ当な評価と愛情が感じられます。そして、私たちが、今感じている舟木一夫という歌い手の力量と魅力の全てを言い尽して下さっていること、舟木一夫という歌い手は、弱冠二十歳の頃から、このような輝かしい資質を備えていたのだということも、この文面からしっかりと伝わってきて、心から嬉しく、思わず「そうそう、そうなんですよ!」と叫びそうになります。
1966年デビュー3周年前後の舟木さんの歩み(『青春賛歌』大倉明著より)
3月22日 NHK大河ドラマ「源義経」に平敦盛役で出演
3月27日 日活映画『哀愁の夜』公開
4月27日 大阪梅田コマ劇場公演「舟木一夫ショー」開催。(5月1日まで)
5月3日 東京浅草国際公演「舟木一夫ショー」開催。(9日まで)共演和泉雅子
1966年5月 -伊豆の山奥でー 舟木一夫 (上記にご紹介した文はこの頃に書かれたものですね)
6月4日 東京ヒルトンホテル「紅真珠の間」でデビュー満3周年記念パーティー開催
6月25日 日活映画『友を送る歌』公開
7月1日 東京サンケイホールで「デビュー3周年記念リサイタル」開催(3日まで)
9月17日 日活映画『絶唱』公開
3月27日 日活映画『哀愁の夜』公開
4月27日 大阪梅田コマ劇場公演「舟木一夫ショー」開催。(5月1日まで)
5月3日 東京浅草国際公演「舟木一夫ショー」開催。(9日まで)共演和泉雅子
1966年5月 -伊豆の山奥でー 舟木一夫 (上記にご紹介した文はこの頃に書かれたものですね)
6月4日 東京ヒルトンホテル「紅真珠の間」でデビュー満3周年記念パーティー開催
6月25日 日活映画『友を送る歌』公開
7月1日 東京サンケイホールで「デビュー3周年記念リサイタル」開催(3日まで)
9月17日 日活映画『絶唱』公開
舟木さんが歌い手への道を歩み始める以前の、中学生時代から、明るく心弾むような流行歌ではなく、哀愁を帯びた曲調の流行歌に心惹かれていらしたことがわかる資料があります。小中学校で親しかったご友人の言葉です。
資料2
別冊近代映画 舟木一夫特集号 1963年11月号掲載
~舟木一夫さんへ言葉の花束より~
~舟木一夫さんへ言葉の花束より~
デビュー当時の所属プロダクション社長・堀威夫氏、遠藤実氏など数人の身近な方からのメッセージが掲載されています。その中から、小・中学時代の友人の方のものを・・・
女学生にモテるし、ケンカもいけます! 青山博夫
シゲちゃんとは、小学校からずっと一緒でした。家がお互いにすぐ近くだったので、誘い合わせて学校に行ったものです。~中略~中学は、一宮市立萩原中学校でした。シゲちゃんも僕も、歌が大好きでした。そのために気心が合ったのかも知れません。彼はいつも朗らかで、その上、たいへん意志の強い少年でした。どこの学校にもボスがいるものですが、僕たちの学校にもボスがいました。このボスがまたたいへん強い。ところが、シゲちゃんは、負けるのを承知で向かってゆく、といったところのある少年でした。喧嘩も人並み以上に強かったのですが、あまりしない方でした。時々、ボスに向かってゆくくらいでした。そして、勉強の方は・・・良くもなく、悪くもなし、まあ普通でしたが、国語は強かったように思います。僕はゴツイ方でしたが、シゲちゃんは御存知のように、甘い雰囲気を持った少年なので、女の子には、妙に人気があったものです。一宮は田舎です。しかしこんな田舎でも、シゲちゃんはアカぬけてしていたといえましょう。~中略~当時のシゲちゃんは、三橋美智也や春日八郎の歌を好んで唄っていたようです。マヒナ・スターズも好きだった時期があったように思います。
さっきも云いましたように、彼は朗らかでしたが、歌も朗らかな歌が好きなようにみえて、渋い歌を好いていたように思います。孤独な陰を持った歌を愛していたように思います。学校へ行く以外は、ステレオを聞いたり、レコードを買って聞いたり、またテープに声を入れてみたりしていました。
さっきも云いましたように、彼は朗らかでしたが、歌も朗らかな歌が好きなようにみえて、渋い歌を好いていたように思います。孤独な陰を持った歌を愛していたように思います。学校へ行く以外は、ステレオを聞いたり、レコードを買って聞いたり、またテープに声を入れてみたりしていました。
「孤独な陰を持った歌を愛していたように思います」・・・まだ、中学生だった頃から、舟木さんは、このような「ブルーストーン」の歌に心惹かれる感受性をお持ちだったことがよくわかります。
舟木さんがずっとステージのトークでも毎回のようにおっしゃっている「僕は、ブルースが歌いたくて歌い手になった」ということを、公に向けて発表したのは、デビュー5周年を前に、「舟木一夫音楽事務所」開設披露パーティーでの挨拶文の中でのようです。「高校三年生」で「清潔さと爽やかさ」をセールスポントとして彗星のごとく歌謡界にデビューし、またたく間にスター歌手としての地位を得た舟木さんだからこそ、こうした「宣言」をするという手続きを踏んで、次のステップに進む必要があったのかもしれません。
「ブルースに挑戦した舟木一夫」というタイトルで、日本コロムビア宣伝部の森谷氏が、「ブルースを歌える歌手になりたい」という舟木さんの想いを受けて、以下のような一文をよせていらっしゃいます。
資料3
別冊近代映画 舟木一夫特別号 1968年9月号掲載
~ブルースに挑戦した舟木一夫~
ブルースをうたう歌手になりたい
ブルースを歌える歌手になりたい
ブルースを歌える歌手になりたい
歌 歌 歌の世界にあって
彼の信念はますます強く
あくまでも固い
息の長い歌手でありたい
人気におぼれぬ
実力の歌手でありたい
かれは 栄光に酔わない
かれは どこまでも謙虚に
ただ 自分の信ずる道を歩く・・・
彼の信念はますます強く
あくまでも固い
息の長い歌手でありたい
人気におぼれぬ
実力の歌手でありたい
かれは 栄光に酔わない
かれは どこまでも謙虚に
ただ 自分の信ずる道を歩く・・・
現実としては、この「舟木一夫音楽事務所」設立のあたりから、スター歌手・舟木一夫の人気としては下降線をたどることになり、その後も様々な人生の荒波が舟木さんの旅路の行く手を阻むことになります。決して順調だったとは言えない、それからの旅路ではあったのだと思いますが、舟木さんが「流行歌というものは 暗い、裏街にたゞよう血のぬくもりを感じさせるようなもの」という認識を年若い頃から既にお持ちだったことが、今となっては幸いしていたのだと思わせる、現在の舟木さんのステージでの歌唱です。
時代の生んだ申し子というような爆発的な人気を博し、熱狂の中で迎え入れられたアイドル、あるいはスター歌手・・そういう幸運に舞い上がることができなかったのは、舟木さんが少年時代から自分の心を捉えていた歌の中に「暗い」もの「人間の悲哀」「きれいごとではない生身の人間の血の温度」を感じ、歌とは表面の華やかさを求め、快楽を満足させるだけのものではないということが理屈ではなく身に沁みてわかっていらしたからだろうと推測します。「悲しさや切なさ」を歌と言う表現手段で外に向けること、またその歌を聞いて共感の涙を流すことにこそ「流行歌」の存在する大きな意味があることを、子ども心にも実感なさっていたのだろうと思います。
ブルースをうたう歌手になりたい。
ブルースを歌える歌手になりたい。
ブルースを歌える歌手になりたい。
子どもの頃に、自分の心を癒し、心の友とも言えるように感じた歌というのは、おそらく明るく楽しい陽気な曲ではなく、哀愁や、人の心の裏側にひそむ欲望など含めた、魂の発露を感じるような歌ではなかったのかと思います。幼かった上田少年の心に秘めた哀しみや諦めなど外に出すことの出来ない苦しい想いなどのシンボルとしての「ブルース」だったのだと・・・
歌は楽しく、心弾み、元気が出るために歌うもの、聴くもの・・・そういう捉え方もある一方で、自分の心の内に秘めた、抑圧された感情を、そのまま表現してくれている歌というのも逆に心を癒してくれるものだと思います。明るく元気の出る応援歌が「歌の表の顔」であるなら「ブルース」とは、聴けば切なく哀しみが迫ってくるのですが、共感の涙で、そんな苦しみを洗い流してくれるというもうひとつ別の癒しを得ることができる歌ではないでしょうか。舟木一夫という歌い手は、やはり後者のタイプで癒しを与えてくれる歌い手と言えるのでしょう。
凡人が経験することのない「絶頂」と「どん底」の季節のどちらも経験された舟木さんが、今なお「ブルース」
にこだわる想い・・・それを、なんとかしてほんの少しでもわかりたいという気持ちがずっとありました。
にこだわる想い・・・それを、なんとかしてほんの少しでもわかりたいという気持ちがずっとありました。
もう、こんなにたくさんのジャンルの歌を、思う存分にステージで歌っていらっしゃるのだから・・・と思って
いる私なのですが、ご自身を「もったいなかった歌い手」・・・・「行きたい方向に行けなかった・・」という舟木さんの言葉に、ついつい心をからめとらてしまいぐだぐだと、勝手な想いを述べてしまったわけですが・・舟木さんは、やはり心の奥深くでは、「歌たかった方向の歌」で「舟木一夫」という歌い手の真価を問うてみたかったのだと思い続けていらっしゃる・・・でも、そんな若き日の情熱を未だに失わずにいらっしゃるからこそ、こんなにも魅力的なのだと私には感じられます。
いる私なのですが、ご自身を「もったいなかった歌い手」・・・・「行きたい方向に行けなかった・・」という舟木さんの言葉に、ついつい心をからめとらてしまいぐだぐだと、勝手な想いを述べてしまったわけですが・・舟木さんは、やはり心の奥深くでは、「歌たかった方向の歌」で「舟木一夫」という歌い手の真価を問うてみたかったのだと思い続けていらっしゃる・・・でも、そんな若き日の情熱を未だに失わずにいらっしゃるからこそ、こんなにも魅力的なのだと私には感じられます。
舟木さんご自身のオリジナル曲の中のブルースらしいブルースです。
追憶のブルース 作詩:万里村ゆき子 作曲:戸塚三博
(1969年5月発売)
(1969年5月発売)
15周年記念再録音盤(1977年)でお聴きください。
http://www.youtube.com/watch?v=_X-fHAR5raQ
http://www.youtube.com/watch?v=_X-fHAR5raQ
おまえは泣いてた 青ざめた霧に
だかれて泣いてた わかれの夜
信じていたのと 目をあげて
おれをみつめた いとしさを
忘れられなくて 悲しくて
色あせたこの町 ひとり歩くよ
だかれて泣いてた わかれの夜
信じていたのと 目をあげて
おれをみつめた いとしさを
忘れられなくて 悲しくて
色あせたこの町 ひとり歩くよ
涙にかくれた 虹色の夢は
こわれてくずれた 愛の夢さ
はるかなおまえに 逢えた日に
こわれてくずれた 愛の夢さ
はるかなおまえに 逢えた日に
はなれはしないと ちかいあう
そんな夢だけが きえのこる
見も知らぬこの町 夜は更けるよ
そんな夢だけが きえのこる
見も知らぬこの町 夜は更けるよ
ふたつの心は むすびあわせても
かなしくもつれる 絹の糸さ
わかっていながら きずつけた
あの日のおまえを さよならを
歩いて歩いて 忘れよう
思い出ははかなく 夜はつめたい
かなしくもつれる 絹の糸さ
わかっていながら きずつけた
あの日のおまえを さよならを
歩いて歩いて 忘れよう
思い出ははかなく 夜はつめたい