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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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舟木さんと股旅もの~長谷川伸の世界をたどる その1「瞼の母」(上)

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5月31日に新橋演舞場でラストライブとなった「遠藤実スペシャル~決して散らない花々」で、舟木さんは、遠藤先生の股旅ものとして「天竜母恋笠」「旅鴉」を歌われました。
 
イメージ 1舟木さんの股旅歌謡の魅力は、若い頃のアルバム「渡世人」(1972年11月発売)でも発揮されていて、私も時々、レコードを聴いていますが、当時の若さで、股旅「渡世人」の世界を、見事に捉えて表現なさっていることに驚きます。また、お芝居の渡世人姿もセリフ回しも堂に入っていてカッコ好くウットリです。
 
私が舟木さんと再会できたのは、まだつい二年ほど前のことですので、お芝居とコンサートの二本立て長期公演をナマで拝見できたのは、2012年の大阪・新歌舞伎座「浮浪雲」と2013年の新橋演舞場「花の生涯」、同年の新・歌舞伎座の「いろは長屋の用心棒」の三作品だけです。ですから、残念ながら舟木さんの股旅もののナマの舞台はまだ拝見したことはありません。
 
イメージ 2ですから、オークションで手に入れたお芝居のパンフレットや、お借りしたものを拝見したりしてナマの舞台のイメージを描いています。
舟木さんが、本格的な復活を遂げてお芝居とコンサートの長期公演が始まったのは三十周年を迎えた1993年頃のことで、それ以来、数多くの演目を舞台にかけていらっしゃいます。中でも、私の目を引くのは「股旅もの」で渡世人(ヤクザ)を主人公にした長谷川伸作品です。
これらの股旅ものに登場する主人公たち、渡世人、ヤクザの世界をなぜ長谷川伸が描くことになったのか?また舟木さんが、舞台に長谷川作品をかけられる想いとは何なのか?・・・
そういう想いもあって、長谷川伸の戯曲集を読んだりしながら、私なりに感じたことを綴っていきたいと思います。「舟木さんと股旅もの~長谷川伸の世界をたどる」というテーマでの連載形式になりますが、まとめていくのに時間がかかりそうですので、とびとびの掲載になることと思います。

ただ、股旅物というと、渡世人~ヤクザ稼業・・・イメージとしては、ちょっと引いてしまうという方もいらっ
しゃるかも知れませんので、長谷川伸が描いた股旅の世界について、長くなりますが、予め以下の文章を引用させていただきます。

イメージ 3以下「長谷川伸論」
(佐藤忠男著 中央公論文庫 1978年版)より抜粋
<男であるということ>
一般に長谷川伸は股旅ものの作家とされている。じっさいには長谷川伸の全作品中、いわゆる股旅ものは何分の一かにすぎないが、それがもっともポピュラーであったという点からすれば、このレッテルづけは必ずしも当たっていないとはいえない。
じじつ、彼はこのジャンルの傑作をいくつか書いた。ただ長谷川伸の股旅ものを、単純に、やくざの世界の封建的な義理人情を礼賛するものというふうに誤解する人が多いが、それは違っていると言わなければならない。
長谷川伸は、やくざの封建的な義理人情を礼賛したことはなかった。彼はむしろ、封建的な親分子分関係から逃げようと努力するやくざを描きつづけたといっていい。
 
イメージ 4問題は逃げようとする動機である。長谷川伸は、やくざの世界が封建的で不合理で酷薄無我だからといって、そのヒ―ローをやくざの世界から逃げさせようとするのではないのである。~中略~長谷川伸のヒーローたちは、やくざの世界が封建的であるからそこから逃げようとするのではなくて、やくざでは女を仕合せにできないから足を洗おうか、と思うのである。たんに封建的ということなら、むかしはやくざの世界でなくてもどこだって封建的だったわけだ。~中略~長谷川伸の股旅もののヒーローたちが颯爽として見えるのは、たんに腕っぷしが強くて、いなせないい男であるというためだけではない。むしろ、それ以上に、自分は女一人すら仕合せにできないほどにやくざな男である、ということに、強烈な責任感と自責の念を持っている男だからである。女こどもの幸福に責任を持つということは、たしかに男らしさということの欠くべからざる要素であろう。~中略~
 
 
イメージ 5あるいは「一本刀土俵入」はこうだ。旅興行の途中で親方から先の見込みがないといわれて放り出された力士志願の駒形茂平衛が、一文なしになって通りかかった取手の宿で、お蔦という酌婦から、有り金そっくりめぐまれた上に「取り的さん、屹とだよ、立派なお角力さんになっておくれね。いいかい、そうしたら、あたし、どんな都合をしたって一度はお前さんの土俵入りを見に行くよ」・・とはげまされる。それから十年後、やくざになった茂平衛はもういちどこの近くを通りかかり、お蔦がその亭主や子どもともども、土地のやくざに迫害されているのを助けてやって逃がしてやる。
 
その幕切れの茂平衛のセリフは余りにも有名である。
「ああお蔦さん、棒っきれを振り廻してする茂平衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰った姐さんに、せめて、見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす。」
 
茂平衛は、自分の姉のような女をいくらかでも仕合せにしてやるために努力したあと、せめて、自分がほんとうの横綱で、つまり堅気で、彼女に堂々と幸福を与えることができたのだったらどんなに本望だったろうか、と思うのである。これらの作品に一貫して流れているのは、自分が、女こどもの仕合せに責任を負える立派な家父長であったらどんなに幸福であろうか、という思いである。しかし、自分という人間には、そういう家父長たるべき資格が欠けている、と思い、その思いにじっと堪えてみせるのである。そこが長谷川伸の股旅もののヒーローたちの”男らしさ”なのである。~中略~
 
ここからは<瞼の母>について記されています。
 
イメージ 6そういう思いのきわまるところで書かれたのが、戯曲「瞼の母」だと私は思う。この有名な作品では、主人公の番場の忠太郎は、自分がまだ幼い頃、自分を婚家において出て行って行方知れずになっている母親を訪ねて旅をしているやくざである。彼はいつも「顔も知らねぇ母親に、縁があって邂逅(めぐりあっ)て、ゆたかに暮らしていればいいが、もしひょっと貧乏に苦しんででもいるのだったら、手土産代わりと心がけて、何があっても手を付けずに」、百両という大金を懐に入れているのである。つまり、現在家庭は失われているが、もし自分に、本来そうあるべきであった家庭が見つかったら、そのとき、家父長として恥ずかしくないようにと、常に準備をととのえている男なのである。
 
ところが偶然のことで忠太郎が、立派な料亭の女主人となっている母親にめぐりあうと母親は、いくら実子でもやくざに家に出入りされては娘の縁談にも差し支えて困る、と考えて、私はお前の母親ではない、と、つっぱねる。つまり忠太郎は、自分の家族である女たちの幸福に責任のとれる一人前の立派な男でありたいと願ってその準備もちゃんとととのえているつもりであったのに、それには及ばないと言われてしまう男なのである。
 
 
イメージ 7「瞼の母」が長谷川伸の生い立ちにかかわる物語であることはよく知られている。長谷川伸の実母の「かう」は、彼が三歳のとき、夫の放蕩がもとで、伸とその兄を長谷川家に残して自分から求めて離婚して去っている。伸は七歳の時に、一度、兄と一緒に、母の再婚先の家まで線路づたいに歩いて行ったことがあるが、母の立場もあって。逢うことはできずに帰っている。いらい、消息は絶え、昭和八年に、長谷川伸が四十九歳のときに七十一歳の上流家庭の大奥様となっていた母に奇しくも再会できたのである。「瞼の母」を書いたのはそれに先立つ昭和五年であり、そこにはまだめぐり逢うことのできない母への想い描きこまれているとされている。長谷川自身、自伝や随筆やその感激の再会の記のなかに、自分がいかに母を恋いつづけてきたかを繰り返し書いているから、それはまったくたしかなことである。
 
しかし「瞼の母」が、もしたんに母を恋うる男のめんめんたる思いだけしか書かれていない作品だったとしたら、あれだけ伝説的な作品となり得たかどうかは疑わしい。たしかにそれはそういう作品に違いないのだが同時に、それ以上のものでもある作品なのである。
 
あの有名なセリフ、母から拒否されて憤然と廊下に出て忠太郎が独白する・・・
「おかみさんにゃ、娘さんがあるらしいが、一と目逢いてぇ・・それも愚痴か、自分ばっかりが勝手次第に、ああか、こうかと夢をかいて、母や妹を恋しがっても、そっちとこっちは立つ瀬が別っ個・・・考えてみりゃあ俺も馬鹿よ、幼い時に別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴったり合わせ、思いだしゃあ絵で描くように見えてたものをわざわざ骨を折って消してしまった。おかみさん、ご免なさんせ」
 
イメージ 8ここにこめられている思いは、単に母を恋慕うというだけのものではなく、男というものは家族に対して責任をとってこそ一人前であるのに、自分にはその機会が与えられていない。という嘆きである。瞼を閉じて瞑想すれば、自分が責任をとるべき世界というものがくっきりと見えているように思えたのに、いざ、目をはっきりと見開いて現実を見るならば、自分が責任をとるべき世界はどこかに消えてしまう、という嘆きである。
 
以上、長々と引用してしまいましたが・・・
長谷川伸の世界で描かれている「やくざ」は、現代の私たちがイメージする「ヤクザ」とは、一線を画しているのだろうな、ということを思わせる文章です。
「家父長」としての責任や、「女子ども」を仕合せにする・・・いわゆる「平成男子」が聞いたら「?」というような顔をするであろう古い倫理観、価値観かもしれませんが、今は、こういった「男らしさ」をほんの少しでもいいいので、取り戻してほしいような気がしています。
舞台芝居は勿論のこと、テレビでも映画でも、もうほとんど、長谷川伸の作品はとりあげられることがなくなりましたし、民放では「時代劇」そのものが新規に制作されてはいないようですから、せめて私たち世代が舟木さんの舞台作品を通して「時代劇」「股旅もの」を見なおしてみるのも悪くはないような気がしています。
 
 
イメージ 9長谷川 伸(はせがわ しん、1884年(明治17年)3月15日 - 1963年(昭和38年)6月11日)
~ウィキペディアほか参考~
「沓掛時次郎」などの作品をはじめ「股旅物」というジャンルを作り上げた長谷川伸は、本名長谷川伸二郎。明治十七年(一八八四年)、横浜に生まれる。実母は夫の放蕩が原因で伸が三歳のとき、家を出た。家が貧しく、小学校三年生で中退して船渠に勤めるようになる。住み込みの使い走りなどするうちに、港に落ちている新聞のルビを読んで漢字を覚えた。大工や石屋の見習いを経て、好きだった芝居の劇評を新聞に投稿し、それが縁で明治三十六年にその新聞社の雑用係として入社。その後、英字新聞ジャパン・ガゼットに移る。明治三十八年、徴兵され、除隊後横浜毎朝新報に入社。明治四十四年、都新聞の記者となり、演芸欄を担当する。
 
大正の初め、山野芋作の名前で小説を発表し、大正十三年(一九二四年)から長谷川伸として作品を描く。大正十四年、都新聞を退社、作家活動に専念し、脚本を手がけるようになる。そして「沓掛時次郎」などヒット作を手がけ、劇作家としての地位を築いた。昭和八年(一九三三年)には、名作「瞼の母」の主題となった実母と再会を果たした。
 
昭和十五年、村上元三、山岡荘八、山手樹一郎らと十五日会を結成。これがのちの勉強会「新鷹会」の母体となる。「新鷹会」の門下生には、長谷川幸延、戸川幸夫、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎、武田八洲満など俊英が名を連ね、多くの直木賞作家が輩出した。
                                
                                               1955年頃の長谷川伸↑
 
昭和二十年、B29の猛爆により、戦火は東京のほとんどすべてを焼きつくしたが、さいわい長谷川邸は消失をまぬがれた。そのかわり、他で罹災した人々20人内外がいつも同居することになる。
戦争中、まったく闇物資を買わなかったので、終戦ごろは栄養失調となり、すっかり体力を消耗していた。
終戦後、はじめて上演された芝居は、10月4日初日の新宿第一劇場「沓掛時次郎」(片岡仁左衛門・市川寿美蔵一座)であった。
 
昭和二十九年、3月15日、古希の祝いを新鷹会・二十六日会・二十一日会(いずれも門下生の勉強会)主催で、長谷川邸の庭に舞台を造り、大道具、小道具、衣裳、かつらなどを揃え盛大に行う。午後2時より昼夜2回の通しで、午後9時に終る。来会者約三百人。

イメージ 10昭和三十一年、2月、「日本捕虜志」によって、第四回菊池寛賞受賞。
3月15日、72歳の誕生日と菊池寛賞受賞を祝って、二本榎西町の長谷川邸で、新鷹会、二十六日会主催の古希の祝いと同じ趣旨の祝賀会がひらかれた。

昭和三十二年、1月10日、冬夏(とうか)会(勉強会)発足。出席者は、土師清二、山岡荘八、戸川幸夫、鹿島孝二、棟田博、玉川一郎、志賀双六、池波正太郎、邱永漢、赤江行夫、西川満。
このころは、健康状態があまりよくなかったにもかかわらず、二十六日会(戯曲)、新鷹会(小説)、冬夏会、八日会(ラジオドラマ)などの勉強会が自宅で行われ、後進の指導、相談相手などで、ゆっくり療養するひまもなかった。
2月初旬から風邪ぎみだったのが悪化し、2月28日、築地明石町聖路加病院に入院、治療の結果、3月23日退院した。

昭和三十八年、1月9日風邪をひき、その後しだいに悪化して肺炎を併発、1月22日危篤状態で聖路加病院に入院した。一時小康を得たが、ふたたび悪化し、2月19日再び危篤に陥る。この時は奇跡的に回復しその後、何度も危篤状態を迎えたが、そのたびに、持前の強い気力で蘇り、5月6日退院する。
自宅で療養中、再び風邪をひき、6月5日再入院。6月11日御前11時半ごろから心臓に異常があらわれ、12時38分、七保夫人にみとられつつ、ついに永眠した。79歳
 
←最晩年の長谷川伸(1963年1月撮影)

 
奇しくも、長谷川伸は、舟木さんがデビューなさった1963(昭和38)年6月に亡くなられました。舟木さんのデビューの6月5日から間もなくの6月11日が御命日でした。また、門下生としては、舟木さんともご縁の深い山岡荘八氏、村上元三氏もいらっしゃいます。昨年がちょうど没後50年ということで、御出身地の横浜では、追善のイベントが様々な形で開催されたそうです。

イメージ 11以下は、舟木さんが舞台にかけられた長谷川伸作品の発表年
『沓掛時次郎』騒人七月号掲載、1928年
『一本刀土俵入』書き下ろし、1931年
『雪の渡り鳥』 春陽堂(日本小説文庫)、1933年
『瞼の母』 新小説社、1936年

以下は、舟木さんが上記の作品を舞台にかけられた年表
「瞼の母」東京・博品館劇場:1993年9月1日~12日 芸能生活30周年記念       右がこの公演のポスター→

「瞼の母」東京・池袋サンシャイン劇場:1994年5月11日~15日
「瞼の母」全国31会場でツアー公演:1994年5月17日~6月19日
「沓掛時次郎」全国29会場でツアー公演:1999年5月14日~6月15日
「鯉名の銀平・雪の渡り鳥」大阪・新歌舞伎座:2001年6月3日~27日
「沓掛時次郎」東京・新橋演舞場:2001年8月2日~24日
「沓掛時次郎」京都・南座:2002年11月1日~24日
「鯉名の銀平・雪の渡り鳥」東京・新橋演舞場:2002年12月1日~25日
「瞼の母」東京・新橋演舞場:2005年4月30日~5月24日
「一本刀土俵入」名古屋・中日劇場:2005年7月2日~25日

~「舟木さんと股旅もの~長谷川伸の世界をたどる その1「瞼の母」(下)」につづきます~

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