~舟木さんと股旅もの~長谷川伸の世界をたどる その1「瞼の母」(上)のつづきです~
http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/69138988.html
(「さくら仁義」アルバム「渡世人~舟木一夫三度笠を歌う」の春日局ブログ↑ )
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さくら仁義 作詩:すずきじろう 作曲:幸田成夫 編曲:佐伯亮 (舟木さんの御自作です)
http://www.youtube.com/watch?v=ZLx3ezXDe_M (kazuyanさんの動画でお楽しみ下さい)
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さて、長谷川伸の股旅ものは、過去にも歌舞伎、新国劇、映画などにとりあげられ、多くの名優が、その登場人物(ヒーロー)を演じていらっしゃいます。「瞼の母」は映画では片岡千恵蔵(1931年)、若山富三郎(1955年)、中村錦之助(1962)などがありますが、その中の錦之助さんが演じた番場の忠太郎のストーリーをご紹介します。
キャスト
番場の忠太郎:萬屋錦之介 (当時中村錦之助)
金町の半次郎:松方弘樹
おはま:木暮実千代
あらすじ
番場の忠太郎は五歳の時に母親と生き別れになった。それから二十年、母恋いしさに旅から旅への渡り鳥。風の便りに母が江戸にいるらしいと知ったが、親しい半次郎の身が気がかりで、武州金町へ向った。親分笹川繁蔵の仇飯岡助五郎に手傷を負わせた半次郎は、飯岡一家の喜八らに追われる身である。金町には半次郎の母おむらと妹おぬいがいる。わが子を想う母の愛に心うたれた忠太郎は、喜八らを叩き斬って半次郎を常陸へ逃がした。
番場の忠太郎は五歳の時に母親と生き別れになった。それから二十年、母恋いしさに旅から旅への渡り鳥。風の便りに母が江戸にいるらしいと知ったが、親しい半次郎の身が気がかりで、武州金町へ向った。親分笹川繁蔵の仇飯岡助五郎に手傷を負わせた半次郎は、飯岡一家の喜八らに追われる身である。金町には半次郎の母おむらと妹おぬいがいる。わが子を想う母の愛に心うたれた忠太郎は、喜八らを叩き斬って半次郎を常陸へ逃がした。
その年の暮れ、母を尋ねる忠太郎は母への百両を懐中に、江戸を歩きまわった。一方、飯岡一家の七五郎らは忠太郎を追って、これも江戸へ出た。仙台屋という神田の貸元に助勢を断られた七五郎らに遊び人の素盲の金五郎が加勢を申し出た。鳥羽田要助という浪人もその一味だ。金五郎は軍資金捻出のため、チンピラ時代からの知り合いで、今は料亭「水熊」の女主人におさまっているおはまを訪ねた。おはまの娘お登世は木綿問屋の若旦那長二郎と近く祝言をあげることになっている。だから、おはまは昔の古傷にふれるような金五郎にいい顔をしない。おはまの昔馴染で夜鷹姿のおとらも来た。金五郎がおとらを表に突き出したとき、忠太郎が通りかかった。
おとらから、おはまが江州にいたことがあると聞いて、忠太郎は胸おどらせながら
「水熊」に入った。忠太郎の身の上話を聞き、おはまは顔色をかえたが「私の忠太郎は九つのとき流行病で死んだ」、と冷たく突き放した。娘を頼りの今の倖せな暮らしに、水をさして貰いたくないからだ。忠太郎はカッとなって飛び出した。暗い気持の忠太郎を、金五郎一味が取り囲んだ。
「てめえら親はあるか。ねえんだったら容赦しねえぜ」と、忠太郎は一人残らず斬り伏せた。一方、お登世と長二郎に諌められたおはまは、忠太郎の名を呼びながら探した。忠太郎はおはまたちから身を隠し耳をふさいだ。離れていくその後姿を拝んで、男泣きの忠太郎は風のように去っていった。 (Movie Walker サイトより)
中村錦之助(当時)さんとの初の対談(1966年)→
まだ「絶唱」の坊主刈りのなごりが見える舟木さんの髪型です。
では、舟木さんの番場の忠太郎「瞼の母」について、ご紹介します。(以下、パンフレットより抜粋)
舟木一夫特別公演 新橋演舞場(4月30日~5月24日)
原作:長谷川伸
監修:村上元三
演出:金子良次
監修:村上元三
演出:金子良次
演出にあたって 金子良次
長谷川伸の名作「瞼の母」は昭和五年に書かれ、翌年に初演されて以来、多くの俳優が番場の忠太郎を演じてきています。もちろん、舟木さんもすでに演じておられますが、今回は私が演出を担当することになりました。~中略~「瞼の母」は作者自身の体験を素材にした作品であることは有名な話です。長谷川伸にはこうした自身の体験を素材にしたものがたくさんあります。例えば、四歳の時に母と生き別れ、父とは死別した少年時代、品川遊郭で台屋(妓楼専門の料理仕出屋)に奉公して出前持ちをしていた頃、菓子や小銭をくれて可愛がってくれたある妓楼のお女郎さんを、後年作家になって「一本刀土俵入」のあびこ屋の酌婦お蔦に仕立てて登場させています。江州飯田の郡番場の生まれ忠太郎は架空の人物ですが、作品ゆかりの土地(中山道番場宿)にある蓮華寺本堂の裏山には「番場忠太郎地蔵」があります。これは昭和三十三年、長谷川伸が発願して建立した地蔵で、その台座には次のような文章が刻まれています。
親をたづぬる子には親を
子をたづぬる親には子を
めぐりあわせ給え
生き別れになった親子にはそれぞれの事情があってのことでしょうが、親子の思慕の情を想う時、この文章は胸にジワリと迫ってきます。まして、母を想う男の子の心情を思いやるとき、またいちだんとせつない感情が滲んできます。幸なことに、作者自身は「瞼の母」を書いて三年後の昭和八年、四十七年振りに生母と邂逅しています。
「瞼の母」を読むと、忠太郎は女々しいと思われるくらいに泣いています。三十過ぎの渡世人忠太郎は、きっと母を想うとき、別れた時の五歳の子どもに戻っているのでしょう。
番場の忠太郎は演ずる人によっては感傷的になりやすく、一筋縄ではいかない役柄です。しかし、浮き沈みの激しい芸能界を「赤い詰衿」を着る年齢まで走り続けてこられた舟木さんのことですから、男の強さと情への弱さを併せ持った忠太郎の微妙な陰影を、魅力いっぱに創造してくれるに違いありません。
~後略~。
「瞼の母」を読むと、忠太郎は女々しいと思われるくらいに泣いています。三十過ぎの渡世人忠太郎は、きっと母を想うとき、別れた時の五歳の子どもに戻っているのでしょう。
番場の忠太郎は演ずる人によっては感傷的になりやすく、一筋縄ではいかない役柄です。しかし、浮き沈みの激しい芸能界を「赤い詰衿」を着る年齢まで走り続けてこられた舟木さんのことですから、男の強さと情への弱さを併せ持った忠太郎の微妙な陰影を、魅力いっぱに創造してくれるに違いありません。
~後略~。
番場の忠太郎地蔵
蓮華寺:JR米原駅からバス「番場」(乗車時間・約10分)下車、徒歩約5分
1993年初演「博品館劇場」の忠太郎↑
同じく、パンフレットより「インタビュー (聞き手:ペリー荻野)」 抜粋
長谷川作品の三大名作といわれる「沓掛時次郎」「雪の渡り鳥」「瞼の母」、舞台でも演じている前二作品に比べて、「瞼の母」の主人公・番場の忠太郎には独特の難しさを感じているとか。
(舟木さん)
「沓掛時次郎」も「雪の渡り鳥」も、主人公の持つしがらみとか、人間関係とかがとても芝居っぽいというのかな、気持ちのぶつけどころがあるんですね。でも、「瞼の母」は、長谷川先生のほぼ自伝であるということもあってか、感情の出しどころが少ない。ほかの二作品には、相手役の女優さんがいて、それなりに色模様も出せるけど、忠太郎の相手はおっかさんだけでしょ。見せ場の水熊の居間の場面でも、おっかさんとすれ違って、気持ちをぶつけることもできない。難役といわれるわけですよ。
「沓掛時次郎」も「雪の渡り鳥」も、主人公の持つしがらみとか、人間関係とかがとても芝居っぽいというのかな、気持ちのぶつけどころがあるんですね。でも、「瞼の母」は、長谷川先生のほぼ自伝であるということもあってか、感情の出しどころが少ない。ほかの二作品には、相手役の女優さんがいて、それなりに色模様も出せるけど、忠太郎の相手はおっかさんだけでしょ。見せ場の水熊の居間の場面でも、おっかさんとすれ違って、気持ちをぶつけることもできない。難役といわれるわけですよ。
難しい、と言いつつ、ずっと笑顔なのは、何か秘策がある?
いや、そうなってくると、舞台の役者っていうのは面白いもんで、じゃあこの役をどこまで上げられるか、勝負だという気持ちになるんですよ。この役は、最初のヤクザの表情から、本当におっかさんだとわかって、逢えたうれしさ、純粋に喜ぶ少年のような表情が出てきます。そこでお客様をくすっとさせたり、ざわつかせちゃいけない。その少年っぽい顔から、愛想尽かしされて、またヤクザへと戻っていく、その芝居の薫り、においを大切にしたいんです。そのおっかさん役は十二年前(博品館劇場)にも共演した香川桂子さんです。
稽古に入る前、資料にと思って、前公演のVTRを見たら、香川さんのおはまのじっくりした間に、僕はどうしても少し間が速かった。稽古のときから、香川さんに合わせようとすごく意識していたはずだったのに、間に乗れてないんですよ。当時、僕はまだ四十代でしたからねえ。川口松太郎先生や村上元三先生が「舞台の役者は五十代にならないと、色気なんか出やしないよ」とおっしゃっていたのは、こういうことなのかと納得しました。
「瞼の母」の事実と”実” 袴田京二(演劇ライター)」 おなじくパンフレットより抜粋
別れて暮らしていた実母と再会したのは、昭和八年。この四十七年ぶりの出来事は当時、大きな話題となった。番場の忠太郎のように「縁があって邂逅(めぐりあっ)て、ゆたかに暮らしていればいいが、もしひょっと貧乏に苦しんでいるのなら・・」と心配したことは、幸いにもなかった。しかし、その時点で「瞼の母」はすでに初演(昭和六年明治座、主演は十三世守田勘弥)をすませていた。その現実との”結末”の違いから、作者の判断で、一時上演されなかったという話も伝わっている。また、大詰の演出も今行われているもののほかに、忠太郎が母と妹を追っていく、あるいは再会した三人が手を取り合おうとするところで幕になる脚本も実際に書かれ、上演されたことがある。
こうした作品への思い入れの深さは、例えば、番場の忠太郎、駒形茂兵衛、沓掛時次郎、鯉名の銀平といった長谷川戯曲の主人公をはじめとする、登場人物の名づけ方にも表れている気がする。それは「瞼の母」「一本刀土俵入」「雪の渡り鳥」といった、内容をふまえてみごとにつけられた題名と同様、ときにはそれ以上に日本人の心に浸透し、親しまれていると思う。歌舞伎や新国劇、大衆演劇のほかに映画、浪曲、講談、歌謡曲と広い分野で”彼ら”が活躍したこともその背景にあるだろう。
「荒木又右衛門」のような時代小説の大作も手掛け、歴史研究の分野でも造詣の深さで知られるが、長谷川戯曲の人気の深さを不動のものとした背景には、やはり「股旅物」の存在が大きい。
そこに描かれるのは、歴史に残る人物と言うより何かを背負って生きる、それこそ名もない「渡世人」の姿である。必ずしも、その姿や形が美しいというのでなく、堅気ではない(なかった)ことで悩み、苦労した結果あえて不利な役目にも回らなければならない、そんな「しがねえ姿・・」(駒形茂平衛)もきちんと描かれるところに、観客は共感するのだ。そして作者の温かな目はメインキャストにとどまらず、登場人物すべてにそそがれている。
↑忠太郎像:長浜から醒ヶ井の宿へ行く途中、国道21号線、番場交差点付近
「幼い時に別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴったり合わせ、思い出しゃあ絵で描くように見えてたものを・・・」「俺ぁ、こう上下の瞼を合わせ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおっかさんの俤(おもかげ)が出て来るんだ・・・」
「瞼を合わせる」有名なセリフを、忠太郎は水熊と荒川堤で二度語っている。そこに何の不自然さもなく、観客の心に余韻を残すのは脚本の力であり、役者によっても異なった味わいの出る名セリフだ。
自伝の書名である「*一市井の徒」(後日、拙ブログにて紹介します)とそのままに誠実な生涯を送り、昭和三十八年六月十一日、東京の聖路加病院その幕は閉じられた。享年七十八歳。~後略~
「瞼を合わせる」有名なセリフを、忠太郎は水熊と荒川堤で二度語っている。そこに何の不自然さもなく、観客の心に余韻を残すのは脚本の力であり、役者によっても異なった味わいの出る名セリフだ。
自伝の書名である「*一市井の徒」(後日、拙ブログにて紹介します)とそのままに誠実な生涯を送り、昭和三十八年六月十一日、東京の聖路加病院その幕は閉じられた。享年七十八歳。~後略~
~舟木さんと股旅もの~長谷川伸の世界をたどる その1「瞼の母」(下)につづきます~