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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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「鶴八鶴次郎」平成二十年 新橋演舞場 川口松太郎の描く芸人の世界~舟木一夫特別公演資料ほかより

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いきなり「ぐんまちゃん」登場でスミマセ~ン 歌舞伎座の前の群馬県アンテナショップ「ぐんまちゃん家」
 
中日劇場・舟木一夫特別公演の千秋楽の翌々日、新橋演舞場で開催されている「十一月新派特別公演」観劇のために上京しました。この公演は、十月に歌舞伎座で開催された十七世中村勘三郎二十七回忌、十八世中村勘三郎三回忌追善公演に続いての興行です。歌舞伎のみではなく、新派にもゆかりの深かったお二人への追善ということで選ばれた演目のひとつが川口松太郎作の「鶴八鶴次郎」です。ちなみに、もう一作は「京舞」という作品で、京都祇園の井上流、三世井上八千代とその内弟子から四世八千代となられた二人の女性をモデルにしたお芝居でした。現在の新派の二枚看板である。二代目八重子さん、舟木さんの舞台「おやじの背中」「宵待草・夢二恋歌」にも出演なさった波野久里子さんの円熟した芸も堪能させていただきました。
 
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舟木さんファンは、ご周知の通りだと思いますが、2008年に舟木さんが新橋演舞場で鶴次郎を演じられました。今回の新派公演は、それ以降、6年ぶりの「鶴八鶴次郎」の舞台化ということになります。
今回の鶴次郎は六代目勘九郎さんが演じています。六代目勘九郎さんは、歌舞伎の花形の中でも、勘太郎時代から私が一番お気に入りの若手俳優さんで、彼の舞台は、歌舞伎以外の舞台も含めてこの十年ほどは、ほぼ全て拝見してきました。ということで舟木さんが演じられた鶴次郎を、勘九郎さんが、初役で演じらたということで、とっても嬉しく思います。
 
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 十八世中村勘三郎さんのこと
 
私が歌舞伎の楽しさを知ることに大きな影響を与えてくれたのは、十八世中村勘三郎さんです。まだ勘九郎時代に立ちあげた平成中村座公演を関西に住んでいた時、初めて観劇して、目からうろこでした。歌舞伎座などの大劇場で観る歌舞伎もいいのですが、なんといっても江戸時代の芝居小屋を再現した「平成中村座」で観るとテンションがさらに上がって心躍るのです。「平成中村座」のお楽しみのひとつに「桜席」というのがあります。一等席、二等席・・とは呼ばずに、松席、梅席と呼びます。「桜席」は、いわゆる三等席にあたりますが、これが、私のお気に入りで、なんとか桜席のチケットをゲットしようといつも頑張ってました(笑)
まず値段が安いことが嬉しいのですが、このお席は、二階席ですがなんと舞台の幕内の中に設けられているのです。真上から舞台を見おろすことになるので、決して見易いお席ではありませんが、舞台の幕がおりている間も、舞台の様子を見ることができます。大道具さん、小道具さん、役者さんたちが、幕の開くまで準備をして、スタンバイするプロセスも見せてくださるわけです。演目によっては楽屋ではなく幕内で顔を造ったり着替えたりするものもあります。
十八世勘三郎さんの最後の平成中村座の舞台(2012年5月)も桜席で拝見しました。公演が終わり、幕が降りてからも、二階の桜席に向かってほんのすぐそばの真下の舞台から手を振ってくださった勘三郎さんの人なつっこい笑顔を忘れることができません。この時が、お近くでお顔を拝見した最後になりました。
私にとっての歌舞伎が身近なものになったのは、勘三郎さんのおかげだと今も感謝の気持ちでいっぱいです。勘三郎さんへの追善と、成長著しいご子息の勘九郎さんの鶴次郎を拝見したくて、演舞場に足を運びました。今回はこの公演だけのために上京したので、17日の夜、18日の昼と、二回「鶴八鶴次郎」のお芝居を堪能しました。
明治座公演の頃の舟木さん
 
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舟木さんが二十代の時に、明治座で年一回の座長公演を7年間続けられましたが、当時の明治座や新派と深く関わっていらした川口松太郎氏や、新派の大看板だった初代水谷八重子さん、伊志井寛さんなどから舟木さんが新派へのお誘いを受けていらしたことは、広く知られています。川口氏の代表作「新吾十番勝負」は、当時明治座公演で舟木さんが葵新吾を演じられ、先日の中日劇場公演千秋楽のコンサートでも「葵の剣」を唄われました。
 
何かと舟木さんとご縁の深い「新派」の中でも「鶴八鶴次郎」は、代表的な作品で、劇団新派の公式サイトでは「昭和10年の第一回直木賞を受賞した作品を13年1月に明治座で初演。*川口新派劇の傑作としイメージ 6て評価を上げた作品」と紹介されています。

*川口松太郎(1899年(明治32年)10月1日 - 1985年(昭和60年)6月9日)
日本の小説家、劇作家、日本芸術院会員、戦後の大映映画の専務。松田昌一の名で映画脚本も手がける。東京市浅草区浅草今戸町(現在の東京都台東区今戸)出身。
洋服屋や、警察署の給仕、1915年(大正4年)の夏から約1年間、栃木県芳賀郡にあった祖母井郵便局に電信技士として勤務などした後、久保田万太郎に師事する。1915年小山内薫門下の脚本研究会員1923年(大正12年)の関東大震災の後、大阪のプラトン社に勤め、直木三十五と共に働き、『苦楽』の編集に当たる。劇団新生新派主事1938年(昭和12年)、大映監査役専務1947年(昭和21年)、同取締役1960年(昭和34年)、明治座取締役制作部長、浪花楽天地監査役。
1935年(昭和10年)、『鶴八鶴次郎』などで第1回直木賞を受賞。代表作の『愛染かつら』(1937~1938)は、1938年(昭和13年)に映画化され、田中絹代・上原謙の主演で人気を博した。1964年(昭和39年)、文京区小石川水道町(現在の春日)へ移住、ここから亡くなるまで約20年間暮らすこととなる。1966年(昭和41年)、日本芸術院会員(第三部・演劇)。1973年(昭和48年)、文化功労者。
 
 
原作の「鶴八鶴次郎」で、鶴次郎の年齢設定は29歳となっています。勘九郎さんは33歳になったばかりですから、ほぼ、お芝居の鶴次郎に近い実年齢です。舞台芝居の世界では、役者さんは、いくつ何歳になっても、若いお役を演じるものですから、実年齢がどうであろうとかまわないわけですが、やはり、年齢設定に近い役者さんが演じることのメリットもあるといっていいと私は思います。勘九郎さんの鶴次郎は前半のやんちゃで子どもっぽい感情表現しかできない鶴次郎の描き方が秀逸でした。終盤の、酒でお豊(鶴八)への思いをまぎらそうとするやるせない鶴次郎は、きっともう少し歳を重ねていくと、進化していくのだろうなぁと思いながら拝見していました。鶴八の七之助さんを見てると玉三郎さんと重なります。キレのいいセリフ回しでベタつかないのに艶っぽい女形としての資質はどこまでも伸びていきそうで、お二人とも本当に楽しみな花形です。
 
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今回のパンフレットの巻末に「上演記録」が掲載されています。昭和13年の初演から、通算49回上演されています。舟木さんの鶴次郎は、48回目の舞台化だったことになります。6年前の舟木さんの年齢は63歳ですね。長谷川一夫さんが、映画「鶴八鶴次郎」で、鶴次郎を演じたのが31歳の時、調べてみたら、その長谷川一夫さんが、舞台で初めて鶴次郎を演じたのが1970年の歌舞伎座で、舟木さんと同じ62、3歳です。でも、長谷川一夫さんは、若い頃に鶴次郎を演じていらっしゃいますが、舟木さんは全くの初役ですから、また違った御苦労もおありだったかと思います。しかも、若イメージ 8い頃から深い縁のある新派の名作、その上、上演された2008年は「新派120年」という節目の年だったということですし、舟木さんにとって重責を感じる舞台ではなかったかと、今さらながら推測しています。
 
上演記録を見ると、鶴次郎には、初演の時の花柳章太郎はじめ、長谷川一夫、十七代目中村勘三郎、、大川橋蔵という名前が、連なっています。鶴八も、初代水谷八重子、山田五十鈴、坂東玉三郎という名優がズラリ…
 
 

平成20年 新橋演舞場 舟木一夫特別公演 10月3日~10月26日 「鶴八鶴次郎」
~以下、パンフレットから舟木さんの言葉を抜粋させていただきます~
 
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イメージ 9「大いに躊躇しました。『婦系図』『風流深川唄』などとともに新派で熟成されてきた、現代の中の古典になっている。新派で培われた型、決まり事というものを僕らがきちんとなぞれる訳がない。新派育ちでもないし熟成されるのを見てきた人間でもない。新派の方以外は触れてはいけないものと思っていました。でも、昨年の演舞場公演後に、今年の演目の話になっていくつかの作品が候補になり、しばらくして「鶴八鶴次郎」でどうかという話になった。新派百二十年ということも関係があったのかもしれませんね。僕としてひと筋の明かりは舟木一夫公演の中の演目としてやるというところにある。そう明かりを絞ってやらないと、とてもできません。畏敬の念をはらいながらも、意識することは失敗につながると思うので、僕らは僕らの「鶴八鶴次郎」ができればと思います」
 
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「川口先生(松太郎氏)に、『君の空気や雰囲気は新派だよ。十年後を新派でのスタートと思ってやってくれよ。』と言われました。水谷先生(初代八重子さん)も、自宅マンションに呼ばれて麻雀してる時に『私もあなたが新派に合うと思うわよ。今の芝居の力はともかく、姿、形は新派向きだと思うから、都合がつくならきたらいいわよ』とおっしゃって下さいました。川口先生は『十年の時間をやる。五年間で徐々に歌い手の仕事を減らして、その間、けいこ事でもしながら、新派に慣れてくれればいい楽屋内のことは私が全部するから』とまで言って下さって、僕も七割方はそうしようと傾いていたんです。でも、そうなったら、歌のスタッフたちが騒ぎ出した。俺たちはどうなるんだということで、僕も若いから、押され負けしてしまった。新派でやれるか不安もあったし、立ち消えになりました」

 
 
 
 
イメージ 13新派へのお誘いがしきりにあったのは、舟木さんが二十三歳頃とのことです。明治座座長公演を始めた頃、また事務所を設立して独立した頃ですね。デビューから5年目あたりで、周囲の状況や、将来のことなど、社長としてもスタッフを抱える責任者としても考えなくてはいけないことが様々に押し寄せてきた頃と云ってもいいのかも知れません。
 
舟木さんは、初代八重子と十七世勘三郎、二代目八重子さんと十八世勘三郎さんの舞台を御覧になったと、このパンフレットには書かれています。ということは、おそらく昭和50年の初代八重子さんと十七世勘三郎さんの舞台を二十代後半に既に御覧になっていたということになるのでしょう。二十代半ばの明治座公演の経験から新派の空気に馴染んでいらしたのですから、新派は舟木さんにとって親しみのあるものだったはずです。
 
 十七世勘三郎と初代八重子
 
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           十八世勘三郎さんと二代目水谷八重子さん
 
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いずれにしても、新派の世界と舟木さんとのご縁は、ずっと途絶えることなく続いてきたからこその「鶴八鶴次郎」上演だったのだと思います。私は、わずか2年前に戻ってきたばかりの遅れてきた復活組ですから舟木さんの鶴次郎をオンタイムで拝見できませんでしたが、舟友さんのご厚意で資料をお借りして舟木・鶴次郎を拝見することができましたが、やはり、後半の「かわいいおんな」に芸人としてよりも立派な大店のお内儀として生涯を送る女としての出世、幸せをイメージ 15掴んでほしいと願いながらも、男の意地とやせ我慢のはざまのわびしさが漂う居酒屋の場面が印象に残りました。この場面では、役者としてのキャリアと人として円熟の域に入った年輪の強みを見せていらしたと思います。

舞台役者さんは、同じ役を、生涯にわたって何度も何度も演じ続けますが、その年令、その年令で、しどころ、みせどころが変化していくのだと思います。ですから、同じ演目の同じ役を、同じ役者さんが、演じ続けていく歳月を、観る側も、ともに年齢を重ねていくうちに、違った角度や、感じ方で観ていくので、名作と言われるものは、何度観ても、飽きることなく味わえるのでしょう。歌い手としての舟木さんのコンサートのステージにも同じことが云えるのかも知れません。
 
 

「鶴八鶴次郎」あらすじ (劇団新派公式サイトより)
                                                                                             花柳章太郎の鶴次郎と初代八重子の鶴八
 
イメージ 16大正時代の東京に鶴賀鶴八、鶴次郎という新内の名コンビがいた。二人は心の中ではお互いを尊敬し憎からず思っていたが、芸のこととなると譲らないのでいつも喧嘩していた。
大正8年正月も大入りの舞台を終え、部屋へ帰ってきた二人は上機嫌でお互いに褒め合っていたが、鶴次郎が三味線の手について一ヶ所注文を出すと鶴八はカチンときて喧嘩になり、支配人の竹野に諭される始末。鶴八は自分のあまりの気の強さから鶴次郎に嫌われているのではないかと女心に案じていた。彼女には料理店伊豫善の主人・松崎という贔屓があり、求婚されているのだ。鶴八は鶴次郎を慕いつつも、鶴次郎の頑固さからいっそ伊豫善の申し込みを受けようかと考えることもあった。その年の4月、鶴八は大阪の名人会が済むと高野山に亡き母・先代鶴八の遺骨を納めに行く予定を果たそうと鶴次郎と出かけた。そこで鶴八は思い切って伊豫善へ嫁に入ろうかと思うと明かす。鶴次郎が愕然とし、嫁に行くなら私の所に来てくれと泣くのを見て、鶴八は胸をときめかし、二人は意地を忘れてお互いの恋心を打ち明け、夫婦の誓いを交わすのだった。
それから1ヵ月後、鶴八は亡き母の願いだった鶴賀の名のついた寄席を伊豫善の資金援助で経営することになった。その打ち合わせで伊豫善が鶴八の自宅へ来て話し合っていると、嫉妬にかられた鶴次郎が血相を変えて飛び込んできた。鶴八も伊豫善も色気抜きの後援だと宥めたが鶴次郎はいきり立つばかり。ついに鶴八も頭にきて強い言葉を返すと、鶴次郎はお前との仲もこれきりだと言い放って飛び出してしまった。それから二年。場末のうらびれた寄席にいる鶴次郎の元に、伊豫善の妻となった鶴八が訪ねて来る。鶴次郎の事が忘れられず、彼をもう一度晴れの舞台に復活させたいと迎えに来たのだ。鶴次郎は、夫の許しを得た鶴八と二人で再び名人会に出演した。昔以上に芸が上がっていると絶賛を博した2人だったが、楽屋へ引き揚げてきたところで鶴次郎は鶴八の三味線に難癖をつけ始めた。鶴八は烈火の如く怒り、鶴次郎も引かないので二人は再びもの別れになってしまった。その夜、鶴八の番頭・佐平が居酒屋で酔いつぶれている鶴次郎を発見し短慮を諌めると、鶴次郎は、鶴八を心から愛していて、だからこそ芸道に引き戻して今の幸せを損ねたくなかったと本心を明かす。佐平は何も言わずに盃をさし、鶴次郎は再び酔いつぶれるのだった。

映画「鶴八鶴次郎」 1938年公開  鶴次郎:長谷川一夫 鶴八:山田五十鈴
youtubeで全編が見られます。舞台と異なる部分もありますが、貴重な映像ですので御覧下さい。
                                                          ~映画解説より~
 
イメージ 12江戸時代に「座敷浄瑠璃」として発展した「新内語り」の文化の伝統を守る、一組の男と女がいた。鶴八鶴次郎である。鶴八は先代の一人娘で、鶴次郎は先代の直弟子。
浄瑠璃を語る太夫の鶴次郎と、三味線弾きの鶴八の若いコンビの人気は、大衆の娯楽が限定的であった時代下の文化を賑わすほどの持て囃(はや)され方だったと言えるだろう。
若くして「名人会」の高座に出演する二人だったが、お互いに男女の感情を意識しながらも、芸に対する深い思いの故に、それぞれの芸に対する把握の内実が微妙な差異を見せていて、事あるごとに衝突してしまうのである。
二人の芸を後援する贔屓(ひいき)筋の松崎の存在が、それでなくとも意地っ張りな二人の関係に常に一定の緊張感を運んできて、少なくとも、鶴次郎の主観的立場から見ると、鶴八に横恋慕しているようにしか見えない、パトロンとしての男が放つ「御為ごかしの親切」は、二人の関係にとって障壁以外の何ものでもなかった。
贔屓筋の松崎の資金援助の事実を知った鶴次郎が、抑え切れない怒りを鶴八に爆発させ二人は別れてしまう。鶴八と別れた鶴次郎が、どさ回りの芸人に身を持ち崩してしまうが、番頭の佐平らの尽力によって、再び名人会の場に戻って来た二人は、2年間のブランクを感じさせない巧みな芸によって大喝采を浴びる。そして鶴八は、再び芸一筋に生きたいと、夫と別れる覚悟をも鶴次郎に告げる。
しかし、どさ回りですっかり疲弊した鶴次は困惑し惚れた女のためにひと芝居を打ち……
 
*新内節(しんないぶし)とは
鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。浄瑠璃の豊後節から派生したが、舞台から離れ、花街などの流しとして発展していったのが特徴。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちにいに受け、隆盛を極めた。
江戸浄瑠璃の例に漏れず、初期には歌舞伎の伴奏音楽として用いられたこともあるが、早く素浄瑠璃に変化し、さらに「流し」と呼ばれる独特の形式を生むにいたった。吉原を中心に街頭を一枚一挺で流す新内節は、その情緒纏綿たる語り口、遊女の心情をきめこまかに描いた曲の内容から、江戸情緒を代表する庶民的な音楽として知られるところである。その芸風は豊後節の影響をつよくうけ、また二代目鶴賀新内が美声によって知れた太夫であったこともあって、きわめて歌う要素のつよい浄瑠璃である。
曲目には、義太夫節から借りた段物、遊里の情景や心中を描いた端物、滑稽を中心とするチャリ物があるが、新内として特に有名なのは端物である。「蘭蝶」や「明烏夢泡雪」はその代表曲といっていい。
 
お芝居の中のセリフでも出てくる「蘭蝶」です~鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)師による新内
映画でも鶴八の山田五十鈴さんが、サワリ部分の三味線を弾いていらっしゃいます。
http://www.youtube.com/watch?v=ZWADx2f_-gE  (youtube)
 

天一坊の尾上松也さんのお祖父様も新派の俳優さんで「鶴八鶴次郎」の佐平役者さんでした

9月の演舞場公演で天一坊を演じられた歌舞伎界の花形・尾上松也さん、お父様が尾上松助さんであることは、よく知られていますが、お祖父様も役者さんでした。そして晩年は春本泰男という芸名で新派でご活躍なさっています。「鶴八鶴次郎」の舞台では、主役である鶴八、鶴次郎についで重要なお役である、鶴次郎の番頭(今でいうマネージャー)の佐平は、当たり役だったそうです。上演記録によれば昭和47年に、故・市川團十郎(当時海老蔵)の鶴次郎、初代八重子の鶴八での佐平以来、平成9年に同じく團十郎の鶴次郎、波野久里子さんの鶴八の佐平までの間に7回も佐平を演じ続けられています。そういった意味でも、舟木さんとの松也さんとのご縁もまた浅からぬものがあったのだと思えます。
 
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春本泰男(1912年6月2日~2001年2月19日)
日本の新派俳優。本名は井上喜吉(いのうえ よしきち)。子役時代は市川小蝦(いちかわこえび)、井上 潔(いのうえ きよし)、青年時代はマキノ 潔(まきの きよし)、のちに春本 喜好(はるもと きよし)春本富士夫(はるもと ふじお)と改名を重ねた。子役時代から120本以上の映画に出演し、映画俳優としても活躍した。名脇役として、新派狂言の要のひとりとして晩年まで活躍を続けた。新派以外の商業演劇へも多数出演している。88歳没。子に六代目尾上松助と大谷桂三が、孫に二代目尾上松也がいる。
 
 
~「鶴八鶴次郎」 私の個人的感想~
 
イメージ 24鶴次郎「あれはやっぱり、先代のようにやらなきゃいけないね」
鶴八「そんなことはありませんよ。あれでいいんですよ」
鶴次郎「どんな芸だって太夫が亭主で、三味線弾きが女房って昔から決まっているんだぜ。女房が亭主の言うことを聞くのは当たりめえでぇ。そいつをいちいち楯を突いていられちゃ、一緒に高座がなりたたねぇや」
 
鶴次郎のあくまで先代の芸を継承するべきと主張する考え方、一方、鶴八が、母である先代の芸から抜け出す独自性を追求したいという想いが、お芝居のセリフに端的に描かれています。
このお芝居の時代背景は、明治から大正に時代が変わろうとする頃です。「伝統と創造」は、今の時代にも「伝統芸」に携わる方たちの想いに通じるところがあって、伝統芸の継承の困難さは今も昔も、変わることがないのだと想像します。おそらく様々な葛藤の中で、伝統芸の灯を絶やさず、より一層の進化を目指して日々ご精進なさっていらっしゃるのだと、その世界の皆さんの舞台を拝見する度に感服する私です。
 
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そして、また、「女性の幸せ」とは何か・・・というテーマも合わせて考えさせられます。少なくとも今現在の時点で、観客としての私が、感じたことは、鶴次郎が、鶴八の思う「人としての真の幸せな生き方」を理解できていなかったことの「不幸」を作者である川口松太郎氏は、念頭に置いていらしたのかどうか・・・ということです。
 
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イメージ 21お芝居の終盤で、落ちぶれてしまった鶴次郎のために、ともに名人会の舞台にあがり、客席の賞賛を受けた鶴八は、やっぱり自分は鶴次郎の隣で三味線を弾いているべき人間なのだと、再び、芸一筋に生きようという決意を鶴次郎に告げます。そして、夫と離縁しても…という覚悟をも見せる鶴八に、鶴次郎は、怯んでしまうです。どさ回りに落ちぶれ「芸人の哀しさ」を経験した鶴次郎は、この先、お豊には同じようなおもいをさせたくないという気持ちに駆られ彼女のためにと、ひと芝居を打つのです。
「自分が惚れた たったひとりのかわいい女」の「幸福」を願うばかりに、心にもない悪口をふっかけてしまった鶴次郎の純粋な想い、そして、その後にやってくる虚しい悲哀を酒でまぎらそうとする居酒屋での場面。これを、観ていると、守ってやるべきなのは女ではなく男のように思えてきます。
 
イメージ 22物語の展開を観ていくと、鶴八は、鼻ッ柱の強い、芸人肌の強情な娘であることがわかりますが、とてもしっかりした自分の意志というものを持っています。常に、周囲とのバランスや自分の将来を考えている賢明さのある女性です。それに対して、舞台でも映画(長谷川一夫/山田五十鈴)でも鶴次郎は、自分の感情を整理できずに、なにかと誤解を招く態度をとってしまう「男の子」です(笑)

お芝居の幕切れは、鶴次郎と佐平が冷たい木枯らしが吹き込んでくる場末の居酒屋で、うちひしがれた風情で酒を飲むというものです。いかにも「新派」らしい幕切れだという感じです。
 
お芝居が終わったあと、現実にかえってみると、鶴次郎は、その後、どうなっちゃったんだろう?という心配が、頭をよぎります。不思議と、鶴八のことは心配になりません(笑)しっかり者ですから、この後日譚があるとしたら、きっと鶴八(お豊)は、再び鶴次郎を何かの形で、助けてくれる存在になるような気がします。
 
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鶴次郎は、鶴八の三味線の腕が、長い舞台のブランクを経ても衰えるどころか、より上がっていることを認めています。同じ芸人として「張り合う」気持ちも、我知らずあったことでしょう。相方であっても好いた女でも芸人同士のライバル意識がなかったとは言い切れません。鶴次郎がお豊と別れようとした気持ちの核に「惚れた女の幸せを願う」という純な男心があったことは嘘ではないのだと思いますが、一方で妙な「男の意地」がかけらもなかったとは言い切れないような気が私的にはするのですね。
 
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2008年 新橋演舞場・舟木一夫特別公演 パンフレット
より再び抜粋掲載させていただきます。
 
「鶴八鶴次郎」の永遠性  藤田洋(演劇評論家)
 
イメージ 25川口松太郎は人間のあたたかみを描くすぐれた大衆的な作家であった。「鶴八鶴次郎」は「風流深川唄」と共にその作品価値が高く認められて、昭和十年第一回直木賞を受賞した。記念すべき小説である。自身が劇化して、芝居に上演されたのが昭和十三年一月明治座。~中略~
時代は明治も終わりを告げた新時代の東京。序幕は大正八年頃の有楽座。支配人の竹野が、「講釈が典山、伯山、落語(はなしか)が小さん、円右、義太夫が綾之助、当代の名人と言われる芸人ばかりの中へまだ二十代のお前がた二人が特に選ばれて出た晴れの舞台」だと言う。九十年も昔の演芸界の様子を想像していただきたいと思う。
 
高野山の場で、鶴八はこう云う「今度の旅は、お互いに芸の話は一切しないという約束なんですもの。私たちの喧嘩はいつだって芸の事よ。芸がなけりゃ、喧嘩なんかはじまりゃしないんですもの。」その鶴八が鶴次郎と喧嘩別れをしたあと、東京でも指折りの料理屋の内儀におさまり、新内を諦める。場末の寄席に落ちぶれている鶴次郎を助けようと、鶴八はコンビを復活させて再び名人会に出る。そこで鶴次郎は喧嘩を仕掛けて別れる。女にとって芸人に戻るのが幸せか、料理屋の内儀のほうがよいのか。
 
幕切れの鶴次郎のセリフを最後に・・・
「つまらねえ口喧嘩から、別れ別れになってはいても、俺はお豊に惚れている。今日、芸がまずいと言って仕掛けた喧嘩も、覚悟の上で仕組んだ事だ。あの人はもう、生涯高座へは、出なかろう。今のままで倖せに一生を送るだろう。それが何よりだ。何よりの出世だ。そうは思わねえか……そう思ってはくれねぇか、佐平」

御自作の「鶴八鶴次郎」の歌もご紹介しておきます。二十代の終わり頃に既にこの歌を作られていたようです。初めて「鶴八鶴次郎」の舞台を御覧になった(1975年)頃あたりのお作なのでしょうか・・・
舟木さんのこの詩を見ていただければ、お芝居を実際に御覧になっていない方にもその雰囲気や物語の展開がなんとなく伝わるのではないかと思われる、素晴らしい作品だと思います。
2008年の演舞場「鶴八鶴次郎」公演の後の、サンクスコンサートで唄っていらっしゃいます。
それ以前にも、後援会主催のコンサートでは、唄われていると思います。
是非、現在の舟木さんの歌唱で、音源化され、多くの方に聴いていただけることを心から願っています。
 

イメージ 26鶴八鶴次郎  作詩・作曲:舟木一夫
 
 
水におしどり 月には桜
幼なじみは つがい鶴
生まれついての 芸人気質(かたぎ)
糸とバチとが 好かれて好いて
流す浮名も 江戸育ち
 
意志と意地とが からんで燃える
ひのき舞台の 三味の音
今日も今日とて ねじめの陰に
泣いて身をもむ おもいのたけを
知らぬふりする 馬鹿どうし
 
芸が荒れては その身の恥と
さとす心の すきま風
やぶれ障子の どぶ板長屋
徳利枕の ごろ寝の夢に
今日も他人の 花を見る
 
冴えて悲しい 鶴八月夜
酒の苦さを またさそう
流す新内 未練じゃないか
惚れて乱れの 鶴次郎さんの
情けの切れ間に 棹をさす
 
「鶴八鶴次郎」のお芝居の中でのキメぜりふです。
 
鶴次郎「お客があって芸が生まれる」
鶴八「聴く人があればこその名人上手」
 
舟木さんと私たちとの関係も、こうありたいなぁとしみじみ思わせる珠玉の言葉だと思います。
 
 

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