舟木さん、70回目のお誕生日 おめでとうございます
本日は、4日の大阪に続いて、東京での「バースデー・ディナー・ショー」が開催されているようです。
ファンの皆さんと、楽しい時間を過ごされていることと思います。また、参加された舟友さんたちの感激のご報告など聴けるのを楽しみにしています。
ファンの皆さんと、楽しい時間を過ごされていることと思います。また、参加された舟友さんたちの感激のご報告など聴けるのを楽しみにしています。
さて、私事ですが、12月5日から、修理に出していたパソコンが、元気になって戻ってきました。購入して
から7年目で、サクサクとは動いてはくれないのですが、いつもお世話になっている電気屋さんも、まだ使えますよと言ってくださっていました。ところが、電源ボタン(押して電源を入れます)が、基盤の中に入り込んでしまいビクとも動かなくなってしまいました。電気屋さんがメーカーに問い合わせして下さってメーカーに送って診断してもらったところ、電源ボタン部分だけの物理的な破損ということでパソコンの機能そのものは問題なしでした。費用は送料等含めて2万円で済みましたから、新しく買い替えということにもならずホッとしてます。もうしばらくは、頑張って働いてくれるように祈るのみです(笑)
ちょうど、舟木さんのお誕生日に間に合うようにパソコンが還ってきてくれたので、せっかくですから何か関連する記事は、ないかな?と考えてみました。かなり古い資料ですが、1970年に発行された「写真集 Papyrus」の巻末に、舟木さんの生まれた日のことを「想い出」というタイトルで、お父様が書いていらっしゃる文がありますので、ご紹介します。舟木さんの誕生日は大雪だったこと、初めての「親子対面」の時のお父様の感想、小さな頃の成幸君の様子から、私たちが、今もなお、憧れと敬愛の念をもって見つめてしまわざるを得ない舟木一夫という存在が、その誕生の日から約束されていたようにさえ思われてしまうような文面です。
昭和19年12月12日午前1時きっかりそれは成幸が生まれた日時です。いまわしい戦争が遂に最悪の事態に発展し、大東亜戦争(*太平洋戦争)に突入!それからちょうど一年目に、妻の実家である名古屋市で「呱々の声」をあげるたのです。
この年は近年まれな寒い日で、大雪が前日より降り続き、成幸が生まれたころには、戸外は猛烈な吹雪で目もあけられないほどでした。~中略~かねて予定してあった産院へとんで行き、先生をお連れすると、ほとんど同時に「オギャァッ!」と元気いっぱいの声、たらいの中をのぞきこんだ私は驚いた。「俺は考えて、この世に出てきたのだぞ!」と言わんばかりの赤ん坊の顔。今でもはっきりと憶えています。
この年は近年まれな寒い日で、大雪が前日より降り続き、成幸が生まれたころには、戸外は猛烈な吹雪で目もあけられないほどでした。~中略~かねて予定してあった産院へとんで行き、先生をお連れすると、ほとんど同時に「オギャァッ!」と元気いっぱいの声、たらいの中をのぞきこんだ私は驚いた。「俺は考えて、この世に出てきたのだぞ!」と言わんばかりの赤ん坊の顔。今でもはっきりと憶えています。
赤ん坊をじっと見据えているうちに、成幸という名前が、私の頭に浮かんできた。楠公(楠木正成)のように
、幸村(真田幸村=信繁)のように、知恵たくましく、素直な人、そしてまた文字通り、幸せな人生を送るよ
うにと。親とは何んとも欲の深いものであることよ!
、幸村(真田幸村=信繁)のように、知恵たくましく、素直な人、そしてまた文字通り、幸せな人生を送るよ
うにと。親とは何んとも欲の深いものであることよ!
ほとんど毎日のように名古屋をはじめ、愛知、岐阜の各地へ来襲するB29の爆音と真っ暗な夜!ところがこの日ばかりは、大雪のせいというのでもないのでしょうが、敵機の来襲もなく、実に静かな日でしたので、成幸の生まれた夜は、お陰で煌々と電灯もついていましたし、実に明るいなごやかな第一回目の親子対面でした。
その成幸が、年とともに、私の経営していた萩原劇場の道具部屋から刀を持ち出して、剣劇ごっこをしたり、そしてまた、学校から選抜されて一宮市の公会堂で文化祭に出演したり……ともあれ、芸事が好きだったということは、ヨチヨチ歩きのころからだったようです。(後略)
~想い出 上田栄吉 舟木一夫写真集 1970 Papyrus (舟木一夫音楽事務所発行)より転載~
今日からの一年間も、また私たちに、たくさんの夢や感動や、生きていることの楽しみを与えてくださる舟木さんが、若々しく、パワフルにご活躍なさいますことを祈って、心からの「おめでとうございます」の言葉を
贈ります。
贈ります。
この画像は昨晩「木曜8時のコンサート」で、流れた映像です。もちろん「高校三年生」(笑)