タイトルから、外れますが、忘れないうちに……
お見逃しなく!12月2日に収録された「NHK総合 歌謡コンサート」
12月23日(火・祝) 午後8時~8時43分放送
~「歌謡コンサート」HPより~
「作曲家・遠藤実の世界」
今年、七回忌を迎える作曲家・遠藤実が生み出した5000を超える楽曲から選りすぐりの名曲をとどけます。「高校三年生」 「中学三年生」 「ソーラン渡り鳥」 「一週間に十日来い」 「灯りが欲しい」 「北国の春」
など、人々の心に今も残る名曲を舟木一夫、森昌子、こまどり姉妹、五月みどり、五木ひろし、千昌夫、など人気歌手が情感たっぷりに歌いあげます。
また、全50曲中7曲が遠藤実作品であった昭和38年の紅白歌合戦から貴重な映像の数々をお届けします。名曲たっぷりの歌謡コンサートをお楽しみに!
など、人々の心に今も残る名曲を舟木一夫、森昌子、こまどり姉妹、五月みどり、五木ひろし、千昌夫、など人気歌手が情感たっぷりに歌いあげます。
また、全50曲中7曲が遠藤実作品であった昭和38年の紅白歌合戦から貴重な映像の数々をお届けします。名曲たっぷりの歌謡コンサートをお楽しみに!
~歌謡コンサート・ブログのサイトより~
いつもNHK歌謡コンサートをご覧いただき誠にありがとうございます。制作統括のひとり、シゲPこと茂山です。2014年最後の歌謡コンサートは作曲家・遠藤実さんの特集です。
今月12月6日に七回忌をむかえた昭和を代表する作曲家、遠藤実さん。昭和31年にデビュー、亡くなられるまでになんと五千曲以上を作曲、数多くのヒット曲を世に送り出しました。遠藤実さんにゆかりの歌手の方による名曲の数々をNHKの貴重な映像を交えご覧いただきます。
遠藤実さんの作品を今回のように特集して聴くと、その「暖かさ」「優しさ」にあふれている音楽が人々の心にしみこみ、ヒット曲につながったのだなと思いました。遠藤さんはいつも歌い手のことを第一に考え作曲されていたそうです。歌い手もその思いを感じ取り心をこめて丁寧に歌い継いできました。舟木一夫さんは「(遠藤さんの歌は)聴き心地の良い歌」とおっしゃられてました。まさに遠藤メロディーは”私たちの心のメロディー”です。珠玉のヒット曲の数々をぜひご覧下さい。
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閑話休題……
私の住む地域では、年を越さないうちに雪が積もることは、まずないのですが、今年は暖冬と予想されていたにもかかわらず、早々と雪景色を見ることになりました。
北国の方には、生活上の支障にもなりかねない雪だと思いますが、雪の珍しい地方では、子どもたちは大喜びですし、大人もまた見なれた風景が雪化粧を施すのは、「日本の冬」らしくて風情があると感じるものです。
雪というのはもともとロマンチックなイメージをもたらしますが、思春期の頃に観た映画「北国の街」は、そ
ういった「雪」のイメージを私の中で、より大きく育てたような気がします。
ういった「雪」のイメージを私の中で、より大きく育てたような気がします。
ブログでも再々記していますが、「高校三年生」「学園広場」などの「学園ソング」を唄っていた舟木さんの
印象は私の場合、残念ながら、強烈な記憶としてはなくて、私が舟木さんの詰襟の学生服姿の記憶がはっきりとあるのは、映画「北国の街」の中での小島海彦さんなのです。「詰襟を着た舟木さん」というのはは、私にとっては「雪を背景にした海彦さん」なんですね。ですから、こんなタイトルになってしまいました。
印象は私の場合、残念ながら、強烈な記憶としてはなくて、私が舟木さんの詰襟の学生服姿の記憶がはっきりとあるのは、映画「北国の街」の中での小島海彦さんなのです。「詰襟を着た舟木さん」というのはは、私にとっては「雪を背景にした海彦さん」なんですね。ですから、こんなタイトルになってしまいました。
北国の街 丘灯至夫:作詩 山路進一:作曲
(舟友のkazuyanさんの動画でお楽しみください)
(1965年3月発売)
(1965年3月発売)
名残が燃える 心が残る
ふたりでかえるアカシアの道
今夜だけでも そばにいて
眺めていたい ひとつ星
ぼくたちだけの よろこびが住む
北国の街
ちいさな花を ひろった指と
ほのかに 恥じらい 見あげた顔に
たとえ別れが あろうとも
心はいつも 変わらぬと
誓ってくれた 夜更けの恋よ
北国の街
ふたりでかえるアカシアの道
今夜だけでも そばにいて
眺めていたい ひとつ星
ぼくたちだけの よろこびが住む
北国の街
ちいさな花を ひろった指と
ほのかに 恥じらい 見あげた顔に
たとえ別れが あろうとも
心はいつも 変わらぬと
誓ってくれた 夜更けの恋よ
北国の街
夜風がゆれる 灯りがうるむ
肩よせあるく アカシアの道
ここでさよなら するけれど
明日もいい娘で いて欲しい
ぼくたちだけの しあわせがある
北国の街
肩よせあるく アカシアの道
ここでさよなら するけれど
明日もいい娘で いて欲しい
ぼくたちだけの しあわせがある
北国の街
「北国の街」は、当時、私が愛読していた「女学生の友」に掲載されていた、純愛小説に類する世界のようで、舟木さんの佇まいは、そういった小説に登場するヒロインが心惹かれる男子像に重なる部分があったのではないかと思います。少女小説の中に出てくる「清潔で誠実で寡黙で正義感あふれる」理想の男子。少なくとも、私にはそんな雰囲気を舟木さんに感じていたのだと思います。
映画「北国の街」は、一面の雪景色の映像が印象的でした。そして、その雪景色の白が、青春の熱い想いを象徴するような紅の感覚とのコントラストになって、思春期の私の心に焼き付いて、鮮烈な記憶となって深く刻まれていたのだと、後に、DVDを何度か見直してみてわかったように思いました。
当時の私が観ても特に印象的だったのは通学列車がトンネルに入った場面です。車内が暗くなると、窓ガラスに映るお互いの顔をまわりの乗客たちに気づかれないようにそっと見つめあう海彦と雪子。今の子どもたちの感覚だと、このナイーブさ奥ゆかしさに共感してもらえないのかも…と思ったりします。
当時の私が観ても特に印象的だったのは通学列車がトンネルに入った場面です。車内が暗くなると、窓ガラスに映るお互いの顔をまわりの乗客たちに気づかれないようにそっと見つめあう海彦と雪子。今の子どもたちの感覚だと、このナイーブさ奥ゆかしさに共感してもらえないのかも…と思ったりします。
当時、中学生が映画を観るには「保護者同伴」でなければなりませんでしたから、「北国の街」を観に行った時は、叔母が一緒でした。海彦と雪子がふたりっきりになった海彦の家で、見つめ合い、雪子から海彦の肩に手をおいて、その手を海彦がそっと自分の手で包み込み頬をよせていく、そして次に雪子が海彦の手をとって同じように頬をよせていき、ふたりの顔と顔が限りなく近づいていく・・・という透明で美しいシーンをドキドキしながらも、同伴した大人の存在を意識して「多分息を殺して」観ていたのだと思います。
映画の設定は原作の富島健夫さんの「雪の記憶」を借りているのだそうですが、主人公の海彦は「舟木さんのイメージに添った海彦」に脚色されていたようです。「北国の街」の海彦は倉本聡さんと柳瀬監督と舟木さんとで生みだした海彦だったということなのかなと思っています。このあと紹介している「近代映画」掲載記事の中にもあるように、原作を大幅に脚色した台本になっているようです。主人公を演じる舟木さんにオーバーラップさせた海彦像が、撮影を進める中で造形されていったのは間違いないような気がします。素材としての舟木さんの個性が青春純愛映画「北国の街」を成功させたと言ってもいいのではないかと思います。
映画の挿入歌として使われている曲に「初恋の駅」があります。北国の街」公開の1年以上前にシングルレコードのB面として発売されていますが、歌詩が「北国の街」のシチュエーションを思わせたから使われたのでしょうか?明るく可愛い曲調で、全体としてはシリアスな展開の物語の中で、ここはホッとします。
https://www.youtube.com/watch?v=te9iDmUWSEQ
(1964年1月 「叱られたんだね」のB面)
いつも電車に 乗ってくる
赤いマフラーの おさげ髪
北風つめたい 駅だった
赤いマフラーの おさげ髪
北風つめたい 駅だった
いつもホームで 待っていた
白いマフラーの 男の子
小さなちいさな 恋だった
白いマフラーの 男の子
小さなちいさな 恋だった
なにも言わずに 歩く道
枯木ばかりの 並木道
それでも楽しい 道だった
枯木ばかりの 並木道
それでも楽しい 道だった
白いマフラーが 泣いていた
赤いマフラーは 三日まえ
独りでみやこへ 行っちゃった
赤いマフラーは 三日まえ
独りでみやこへ 行っちゃった
恋は咲かずに 散ったけど
春が来たなら 咲くだろう
誰かと誰かの 思い出に
春が来たなら 咲くだろう
誰かと誰かの 思い出に
赤いマフラーの ような花
白いマフラーの ような花
電車の小駅に 咲くだろう…
白いマフラーの ような花
電車の小駅に 咲くだろう…
「北国の街」が撮影されていた頃のことを、舟木さんが語るという感じで、「別冊・近代映画」に「撮影だより」として、掲載されています。舟木さんは、この時、19歳になったばかりの頃ということになりますね。
~北国の街 撮影だより 舟木一夫 (別冊・近代映画 昭和40年4月陽春号)~ から一部抜粋
この話は、手織り縮(ちぢみ)で有名な新潟県十日町を背景に、来春高校卒業を控えた高校三年生の淡い恋と友情を謳いあげた青春ドラマ。
僕の役は、機械織りの陰にかすんでしまった貧しい手織り職人の息子。病身の父から伝統の手織り技術を受け継げといわれながら、よそから転校してきたマコちゃん(和泉雅子さん)と 知り合い、彼女が東京の大学に進学するということに刺激され、伝統に生きるか、彼女と一緒に東京で楽しい青春を送るかとまよう秀才タイプの高校三年生。賢ちゃん(山内賢さん)の役は、県会議員の息子でクラスの番長。人一倍の親分肌で、学校一の不良から僕をまもったり、僕とマコちゃんの仲をとりもってくれたりする無二の親友。いつもの僕と賢ちゃんの役が今回は入れ替わったわけだ。~中略~賢ちゃんは、「舟木君が二枚目の秀才なら、僕は多少三枚目でやるか」と……。
柳瀬監督に「これから本を大々的に書きなおすから、セリフは全部現場でおぼえるようになると思う。君たちは若くて柔軟性があるから安心だけど」と言われ、三人で顔を見合わせ「ギョッ!」~中略~書きなおされた台本は、なるほど大まかな動きだけしか書いてなく、セリフは全部ワラ半紙にペンで走り書きしたものばかり。このロケは九日間だが、主な芝居はほとんどロケでこなしてしまうので、毎日が緊張の連続だ。
~中略~賢ちゃんが、「クラスのことは全部この俺が仕切ってるんだ。喧嘩ならいつでも相手になってやるぜ!」と大見栄を切って不良たちを追っ払ったあと、僕がマコちゃんのことでいいがかりをつけられたということをなかなか賢ちゃんに話さなかったことから、彼が怒っていきなり殴りかかり、痛いほほをさすりながらこんどは僕が猛烈な反撃を喰わすというシーン。
秀才という設定だけでもテレてしまうのに番長と互角に殴り合える腕ももっているときたら、もうテレテレだ。これを機会に賢ちゃんと僕の友情が生まれるというここは大事なシーンだ。一見秀才は、ただのひよわな学生にみえながら鋭いパンチの持ち主という意外性が狙いらしいが、はじめてのアクションシーンは本当に相手を殴ってしまいそうで思いきり腕が伸びきらない。賢ちゃんが、「本気でやってよ。僕は上手く殴られたように見せるから」と励ましてくれたので、やっとのびのびと腕をふるうことが出来た。
学生服を脱ぎ、最近は背広や着物で歌を唄い、また今度の「北国の街」では、歌手としては珍しく完全な主役を演じたりしている僕をみて、”曲がり角に来た舟木”などと言っている人もあるらしいけど僕の見方はちがう。つまり学生服を着たのはデビュー曲が「高校三年生」だったからであり、背広や着物を着出した理由も、そのような歌を唄っているから当然の話。曲がり角という見方をするならば、僕は人生の毎日毎日が曲がり角だと思う。つまり人生とは一つの点から出発して、こまかい渦巻きを描きながら、徐々に大きな円になっていくということで、一直線に突き進もうとすれば、どうしても急角度の曲がり角にきてストップせざるを得なくなるのではないかと思う。
~中略~こんどのフラッシュを見てつくづく思ったことは、目の芝居がいかにむづかしいかということと、僕はあくまでも歌手なので、感情を顔だけで表しがちだったのが、映画ではからだ全体で表現しなければならないこと。この体験を生かしてこんどはもっとすばらしい一歩前進した作品を作りたいと思っている。
当時の「別冊・近代映画」の舟木一夫特集の誌面には、舟木さんご自身のお名前でたくさんの文章が掲載されています。人気絶頂期で寝る時間もないほどの忙しさだった舟木さんですから、ご自身の手で書かれた文章であるのか「聴き取り」記事であるのかはわからないのですが、今の舟木さんのおっしゃっていることのルーツそのままに、きちんと語られていると感じますのでそのまま舟木さんの想いや言葉であるものとして、私は受け取っています。
私自身がリアルタイムでこの映画を観た時には、ただ、ただ物語の世界にひきこまれ、思春期でもありましたから、海彦と雪子が、見つめってあっているだけの場面ですら、気恥しく、まして、互いの手をとって頬にあてたり、手の甲にくちづけしたりするシーンなどは、うっとりとしつつもその場から逃げだしたくなるような感じがしたことだけは、くっきりと記憶に残っています。「純愛小説」なら、ひとりの世界でこっそりドキド
キして読むことができますが、身内の大人と一緒に映画を観ているのですから、「う~ん、ひとりで観たかったぁ!」というのがホンネでした。今は、もちろん独りで観てますが、残念ながら13歳の頃のドキドキ感と
は雲泥の差で、当時まだ十代だった舟木さんとマコちゃんの表情は、いったいどんなだったかな?とまじまじと画面をみつめてしまいます(笑)13歳の頃、あのスクリーンを観ていた自分自身の表情もできることならタイムスリップして、こっそり眺めてみたいものです(笑)
キして読むことができますが、身内の大人と一緒に映画を観ているのですから、「う~ん、ひとりで観たかったぁ!」というのがホンネでした。今は、もちろん独りで観てますが、残念ながら13歳の頃のドキドキ感と
は雲泥の差で、当時まだ十代だった舟木さんとマコちゃんの表情は、いったいどんなだったかな?とまじまじと画面をみつめてしまいます(笑)13歳の頃、あのスクリーンを観ていた自分自身の表情もできることならタイムスリップして、こっそり眺めてみたいものです(笑)
ラストシーン