寒波の襲来、豪雪、高潮など、各地で人命にも関わるような、自然災害が発生しています。被害に遭われた皆様に心からのお見舞いを申し上げます。
私の住む、三重県の北部、地理的には愛知県よりなのですが、6日には、初雪がほんの短い間、舞ったのですが、一昨日の夜中から降り始めた雪が、昨日の朝には、屋根に15cmほども積っていました。道路脇にも10cmほど積雪があり、ほぼ一日中降り続いていました。雪国に住む皆さんのご苦労を思うと雪の風情を楽しむような気持ちになれない、昨今の猛々しい雪の降り方だという想いがします。
わが家の庭も雪化粧。雪がうれしい犬の亀次郎クン。ちなみに猫の名前が鶴松クン。ふたり併せて鶴次郎(笑)
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さざんかに積もった雪
でも、寒さもいくらかやわらいできたようですから、20日と21日の大阪・新歌舞伎座でのBIG3のコンサートにお出かけになる方もホッとなさっているのではないでしょうか。2014年のBIG3ファイナルは、早くからチケットも完売してましたから、きっと盛り上がる事でしょう。行かれた皆さまの報告を楽しみにしています。
さて、本題に……
中野サンプラザ・2014年ファイナルコンサートが開催された12月14日(旧歴では1月30日)は、赤穂浪士の吉良邸討入りの日でした。
中野サンプラザ・2014年ファイナルコンサートが開催された12月14日(旧歴では1月30日)は、赤穂浪士の吉良邸討入りの日でした。
赤穂浪士、あるいは忠臣蔵は、舟木さんとはゆかりが深く、先ずは、あの初々しい矢頭右衛門七の姿が真っ先に思い浮かびます。
右衛門七討入り (NHKドラマ「赤穂浪士」映像付)
https://www.youtube.com/watch?v=-FxY-6ZWvos
https://www.youtube.com/watch?v=-FxY-6ZWvos
続いては、20代の前半に明治座の座長公演で演じられて以来、四十代の頃、そして復活後も何度か演じられている「忠臣蔵異聞・薄桜記」の丹下典膳。同じく舞台公演での「喧嘩安兵衛」の中山安兵衛、その二年ほど後には、タイトルに掲げたように、清水一学をテレビの時代劇で演じていらっしゃいます。
その中から、今回は、舟友さんのご厚意で、拝見することができた1999年の1月2日放映されたお正月番組「12時間超ワイドドラマ/「赤穂浪士」(テレビ東京系列)で舟木さんが演じられた清水一学について少し記してみます。
主なキャスト
大石内蔵助:松方弘樹/千坂兵部:里見浩太朗
吉良上野介:田村高廣/四方庵宗偏:森繁久彌など
里見さん演ずる千坂兵部は、「忠臣蔵異聞・薄桜記」に登場しているので名前に聴き覚えのある方も多いかと思います。上杉家江戸家老で、片腕を切り落とされた典膳を自宅で介抱し、騒ぎが大きくならないよう尽力した典膳の恩人ともいえる人物。典膳に上野介の警護役になってくれるよう依頼したのも千坂兵部でしたね。
ホームビデオのダビング映像のため画像が不鮮明ですが
上が里見さんと舟木さん、右が田村さんと舟木さんです。
また、9月の演舞場で、徳川吉宗を演じた田村亮さんのお兄さんの田村高廣さんが上野介を演じていらっしゃいます。「時代劇の代表的悪役」を、高廣さんが演じておられたのには驚きました。残念ながら、このテレビドラマは全六部の12時間という大長編なので、私が拝見させていただいたのは舟木・一学の出演場面のみでしたから松の廊下の刃傷事件にいたるまでの経緯や、このドラマでの上野介の描かれ方は、わからないのですが、高廣さんの上野介であるなら、ステレオタイプの吉良像ではなかったのではないかと想像します。ドラマの終盤で舟木・一学は、常に上野介の側近くに控えて警護をしており、上野介を「ご隠居」と呼び、寝所番もして心底から忠義を尽くす家臣としての精彩を放っています。
その、清水一学とは、どのような人物だったのか、いつものようにウイキペディアに助けてもらいます。
清水一学(しみず いちがく)
延宝6年(1678年)~元禄15年(1703年)12月15日。江戸時代前期の武士。
高家吉良義央の所領である三河国幡豆郡宮迫村(現・愛知県西尾市吉良町宮迫)の農家に生まれる。幼名は藤作。武芸を好み兄・藤兵衛が吉良家の陣屋のひとつ岡山陣屋に勤めていたため、一学も幼少より剣術を習いに同陣屋に通ったという。二刀流だったと伝わる。
元禄5年(1692年)、吉良義央の妻・富子(梅嶺院)の目に止まり、士分取立てのうえ吉良家家臣として召抱えられ、江戸呉服橋の吉良邸で中小姓7両3人扶持で義央に勤仕するようになった。取り立てられた理由は一学が義央の子で夭折した吉良三郎に似ていたためといわれる。元禄15年(1703年)、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際に討ち死にした。享年25。
高家吉良義央の所領である三河国幡豆郡宮迫村(現・愛知県西尾市吉良町宮迫)の農家に生まれる。幼名は藤作。武芸を好み兄・藤兵衛が吉良家の陣屋のひとつ岡山陣屋に勤めていたため、一学も幼少より剣術を習いに同陣屋に通ったという。二刀流だったと伝わる。
元禄5年(1692年)、吉良義央の妻・富子(梅嶺院)の目に止まり、士分取立てのうえ吉良家家臣として召抱えられ、江戸呉服橋の吉良邸で中小姓7両3人扶持で義央に勤仕するようになった。取り立てられた理由は一学が義央の子で夭折した吉良三郎に似ていたためといわれる。元禄15年(1703年)、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際に討ち死にした。享年25。
←五代目菊五郎演ずる清水一学(豊原国周画)
ネットで「清水一学」「赤穂浪士」「忠臣蔵」というキイワードで、色々検索してみたところ、舟木さんの一学は、舟木さんファンというのではない方で、いわゆる時代劇ファンの評価がとても高く「舟木一夫の清水一学は秀逸だ」と数人の方が名前をあげていたのが、我が意を得たりと、嬉しく思いました。
一学は二刀流の遣い手として知られています。清水一学といえばこのポーズ!
また、映画やテレビなどの「忠臣蔵」に関連する作品で、過去に清水一学役を演じられた当時の俳優の年齢が記載されているサイトを見たところ、舟木さんの55歳というのが最年長でした。実際の一学は、享年25歳となっています。舟友さんにお借りした「赤穂浪士」の映像は、ホームビデオからのダビングですから、鮮明な画像ではありませんが、舟木さんはとても55歳には見えません。
十四、五歳で、家臣として取り立てられ剣の腕前を磨きながら吉良義央の側近くに仕えていたのですから、視点を変えれば、一学もまた吉良家の「忠臣」であったわけです。命に代えても主人を守ろうという気概は、泰平の世と言われた元禄時代にあっても人並優れてあった武士でした。映像を観ていて、舟木さん演じる一学の眼光の鋭さは、恐いほどで、おそらく先にあげた、「舟木一夫の清水一学は秀逸だ」という評価は、舟木さんが放っている気魄というか存在感が強烈だったことからくるものだったのではないかと思います。また、舟木さんの殺陣が、映像というメディアでは、他の俳優と比べて大げさに感じたけれど、それが良かった。という感想もネット上にありました。おそらくリアルさよりも型として美しく決める、古き良き時代の殺陣、歌舞伎の様式美を思わせるそれまでの舞台経験で得たのであろう舟木さんの太刀さばきに、私も、映像を観ていて魅了されましたから、そういった感想が出てきたのだろうと感じました。最近の時代劇の殺陣をみているとあまりに生々しく、私的には目をそむけたくなります。そこまでリアルにする必要はないのではないかと感じています。舟木さんの立ち回りには、リアルを超えた「芸」の力、剣舞のような美意識が感じられます。
もちろん、剣術の達人と言われた清水一学も、周到に計画された不意討ちという手段で、赤穂浪士によって殺害されるのですが、その闘いぶりは、凄まじさの中に舟木さん特有の美しい殺陣の型を十分に盛り込み、私のような舟木さんファンでなくとも、見応えのある場面として強い印象を観る側に残したのではないかと思います。
舟木さんの清水一学を観たあと、「忠臣蔵」において、というか時代劇における吉良上野介という最強のヒール役の側から見た「忠臣蔵」とは、どうだったのか?ということが、とても気になりました。
以前から、上野介は、領民からは名君として尊敬されていた、むしろ浅野内匠頭は生来短気であったと言われそういう例が書物に記されている資料が残っているとも言われているので、吉良方からの視点の小説などがないかを市民図書館で検索をかけて調べてみたら「上野介の忠臣蔵」(清水義範著)というものが、ありました。初版本が発行されたのは、奇しくも上記で紹介したテレビドラマ「赤穂浪士」放映とほぼ同時期です。
以前から、上野介は、領民からは名君として尊敬されていた、むしろ浅野内匠頭は生来短気であったと言われそういう例が書物に記されている資料が残っているとも言われているので、吉良方からの視点の小説などがないかを市民図書館で検索をかけて調べてみたら「上野介の忠臣蔵」(清水義範著)というものが、ありました。初版本が発行されたのは、奇しくも上記で紹介したテレビドラマ「赤穂浪士」放映とほぼ同時期です。
以下が、簡単な物語の内容紹介です。(書評やamazonサイトなどから引用してまとめています)
「上野介の忠臣蔵」(清水義範著) 1999年2月20日第一刷発行 (文芸春秋社)
好漢・清水一学が恋を捨て赤穂浪士と対決!
清水一学を主人公に、赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件を吉良側の視点で描いた歴史小説。
清水一学を主人公に、赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件を吉良側の視点で描いた歴史小説。
剣の腕を見込まれて百姓の伜から江戸詰めへと取り立てられた清水一学にとって、上野介は領民から「赤馬のお殿様」と慕われる名君であった。その上野介は隠居の日を楽しみに高家の激務をこなしていたが、時折ひとの名前を失念することがあって…。
清水一学の中で、大石内蔵助、という名前が、次第に大きくなっていく。どんな顔の男なのかも知らないのに、おかしな話だ。ましてやほかの赤穂浪士たちなど、顔も名も、何も知らない。討入ってくるかもしれない凶徒の集団―いわば、顔のない暴力である。おそらく、むこうもまた吉良上野介の顔を知らない。互いに相手を知らず、ただ世間の噂に動かされているのだ。吉良家小姓、好漢・清水一学が恋を捨て赤穂浪士に立ち向かう。
清水一学の中で、大石内蔵助、という名前が、次第に大きくなっていく。どんな顔の男なのかも知らないのに、おかしな話だ。ましてやほかの赤穂浪士たちなど、顔も名も、何も知らない。討入ってくるかもしれない凶徒の集団―いわば、顔のない暴力である。おそらく、むこうもまた吉良上野介の顔を知らない。互いに相手を知らず、ただ世間の噂に動かされているのだ。吉良家小姓、好漢・清水一学が恋を捨て赤穂浪士に立ち向かう。
一学が吉良家・家臣として取り立てられる頃から、元禄・赤穂事件に至る経緯等が時系列で、わかりやすいキイワードをタイトルに掲げて、描かれているので、小説のようでもあり、事実に基づいた記録のようでもあり、またボリューム的にも重くはない作品なので、興味があればぜひお読みになってくださいね。
目次
第一章 一学
第二章 上杉家
第三章 高家
第四章 饗庭塩
第五章 呉服橋屋敷
第六章 元禄十四年
第七章 刃傷
第八章 隠居
第九章 元禄十五年
第十章 襲撃
第十一章 その後
第二章 上杉家
第三章 高家
第四章 饗庭塩
第五章 呉服橋屋敷
第六章 元禄十四年
第七章 刃傷
第八章 隠居
第九章 元禄十五年
第十章 襲撃
第十一章 その後
「上野介の忠臣蔵」 第十一章その後 より一部抜粋
~将軍綱吉は、討入りのことを報告されて、次のように言ったという。
「その忠誠義烈のさま、世も末の近頃には珍しき程のことにて、彼等そのまま助け置きたく思えども、政道のことを思えば腹切らせねばならぬ定めなり」
その忠誠は賞賛に値するものだと言っているのである。
何を考えているのかよくわからない将軍である。自分が以前に下した裁定とは矛盾することを平気で言っている。一度は、浅野はけしからんから切腹で、吉良は抵抗しなかったからと褒めておいて、二度目にはそれと全く逆の反応を見せるのだ。筋を通すなら、浅野の残党は前の件での余の裁定を不服として一度無罪となったものを討ったのだから、余に反逆したことになる、と考えるべきであろう。なのに、その忠誠は立派だ。と言ってしまう。気分次第の独裁者は、前のいきさつとは関係なく、今度の事件に感動しているのだ。そして、将軍だけではなく、幕府全体がこの事件をそんなふうに捉えた。
大石らは、武士の鑑である、という受け止め方をするのだ。儒者の荻生徂徠は幕府に意見を求められて次のような論を述べた。
大石らは忠義ではあるが、法的には公儀の許可なく騒動を起こしたのだから有罪である。無罪放免としたのでは法が崩れる。ただし、名誉ある切腹という処罰にするのがよい。
「その忠誠義烈のさま、世も末の近頃には珍しき程のことにて、彼等そのまま助け置きたく思えども、政道のことを思えば腹切らせねばならぬ定めなり」
その忠誠は賞賛に値するものだと言っているのである。
何を考えているのかよくわからない将軍である。自分が以前に下した裁定とは矛盾することを平気で言っている。一度は、浅野はけしからんから切腹で、吉良は抵抗しなかったからと褒めておいて、二度目にはそれと全く逆の反応を見せるのだ。筋を通すなら、浅野の残党は前の件での余の裁定を不服として一度無罪となったものを討ったのだから、余に反逆したことになる、と考えるべきであろう。なのに、その忠誠は立派だ。と言ってしまう。気分次第の独裁者は、前のいきさつとは関係なく、今度の事件に感動しているのだ。そして、将軍だけではなく、幕府全体がこの事件をそんなふうに捉えた。
大石らは、武士の鑑である、という受け止め方をするのだ。儒者の荻生徂徠は幕府に意見を求められて次のような論を述べた。
大石らは忠義ではあるが、法的には公儀の許可なく騒動を起こしたのだから有罪である。無罪放免としたのでは法が崩れる。ただし、名誉ある切腹という処罰にするのがよい。
これが、幕府のこの事件に関する評価になっていった。綱吉の言っていることも、これと同じ内容である。
幕府は、世論にすり寄っているのである。
吉良は悪党で浅野はついに我慢しきれず刃傷に及んだのに、浅野ばかりが罪とされ切腹させられた。あまりに理不尽である。それに対して大石らはついに主人の無念を晴らしたのであり、立派である。
それが世間の論調であった。庶民は、大石たちを英雄と見てしまっている。
もしここで、大石たちに厳しい処置をすれば、世間の幕府への風当たりはものすごいものになってしまうだろう。将軍綱吉への批判もふき出してくるだろう。だから、大石らは立派だ、立派だが切腹だ、という裁定になるのである。以前の裁定と矛盾していることには目をつぶったのだ。
そういう意味では、赤穂「義士」というのは、世間が必要とし、世論が生んだと言ってよいかもしれない。~
~以下は「上野介の忠臣蔵」を読んでの私の個人的感想です~
浅野内匠頭が吉良上野介に松之廊下で刃傷に及んだ時、上野介の年齢は満61歳。当時としては十分に高齢で、少し頑固で、ややボケも進んできたけれど、刃傷に及ばれるほどのうらみを買うようなことはしてなかったという見解もあるようです。上野介の側から言えば、なぜこのような目に遭わねばならないのかという気持ちだったかも知れません。吉良家の家臣ももちろん、そう思っていたのではないでしょうか。物語の中で、一学は、もちろん、自分にとって大切な主人を逆恨みして襲い、大怪我をさせた内匠頭に激怒しています。
ただ、名門の家柄の生まれであり、幕府と天皇家の間の使者職に任ぜられ、長年「高家」としての役目を果たしてきた上野介ですから公家のような少し人を見下したような態度や、武家らしくないところがあって赤穂とう田舎の大名であり、質実剛健をもって誇りとするような内匠頭とは相容れず、お互いにムシが好かないという部分があったというのもまた、事実でしょう。
賄賂を強要する強欲な上野介というイメージが、一般には浸透していますが、指南役なのですからなんらかの御礼(音物=いんもつ)をしたりすることが、あっても当時の武家社会の上下関係の中では当然だったともいえるように思います。
また、上野介は勅使饗応役の責任者であり、無事にその役目を務めることで、自分の体面も保てるわけです。逆に、自分が指南した内匠頭の失敗は、自分自身の失態になるのですから、わざと間違った事を教えるなどという子どもじみた意地悪をするとは考えにくいのではないでしょうか。
いずれにしても、「忠臣蔵」は、浅野家と吉良家とのトラブルという単純なことから起こった事件ではなく、
「松之廊下の刃傷」の時点での幕府(将軍綱吉と柳沢吉保)の裁定が、適切ではなかったことや、その頃の幕府の事情として将軍綱吉の評判の悪さ、また側近の柳沢吉保の影響力等も複合的に絡み合った中での「吉良邸討入り容認」という結果になったような気がしました。
「松之廊下の刃傷」の時点での幕府(将軍綱吉と柳沢吉保)の裁定が、適切ではなかったことや、その頃の幕府の事情として将軍綱吉の評判の悪さ、また側近の柳沢吉保の影響力等も複合的に絡み合った中での「吉良邸討入り容認」という結果になったような気がしました。
魅力的な舟木さんの清水一学を拝見したことによって、「知ってるつもりの忠臣蔵」を、あらためて裏側から眺める機会にもなり、「十二月・忠臣蔵月間」のひと時を楽しむことができました。
清水一学を演じた頃の舟木さん
~最後に、おさらい~
吉良上野介・義央(よしなか)~ 「松之廊下の刃傷」事件から「赤穂浪士討入り」までの経緯
(ウイキペディアより抜粋、春日局まとめ)
(ウイキペディアより抜粋、春日局まとめ)
矢を放たれ、致命傷を受けてもなお立ち向かう一学、しかし終に絶命…
江戸時代前期の高家旗本。高家肝煎。元禄赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品「忠臣蔵」では敵役として描かれる。吉良上野介と呼ばれることが多い。
元禄14年(1701年)2月4日、赤穂藩主・浅野長矩と伊予吉田藩主・伊達村豊両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの御馳走人を命じられた。上野介はその両名の指南役という立場であった。
義央は高家肝煎の筆頭だったが、その頃は朝廷への年賀の使者として京都におり、江戸に帰着したのは2月29日だった。そして、長矩は過去に一度、勅使御馳走人を経験していたのだが、以前とは変更になっている点も少なくなかったこともあって手違いを生じていた。ここに事件の発端となる擦れ違いが生じたと見る向きもある。
3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられ、義央は高家・品川伊氏、畠山義寧らによって別室へ運ばれた。
外医・栗崎道有の治療もあって命は助かったものの、額の傷は残った。その後、目付・大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、長矩を取り調べた目付多門重共の「多門筆記」によると、義央は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えている。(*多門筆記は事件のだいぶ後に書かれたもので、他者の作も考えられる)。
長矩は即日切腹を命ぜられた。
義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命。受領は9月3日であった。当時の本所は江戸の場末で発展途上の地であった。
この本所移転は、幕府によって計画的に行われたという説が有力となっている。理由のひとつは表門の移設である。松平登之助の屋敷だったときは屋敷の正面は南であったが、吉良屋敷になって東に変わった。これは元禄14年前後の江戸の地図を見比べると明らかに変更がなされており、松平登之助の屋敷の正面が南であったことは昭和43年に公開された幕府普請奉行の役所用資料「御府内往還場末其外沿革図書」にも記されている。
また、吉良邸の絵図面を見ると東に表門がありながら、表玄関の正面が南になっている。表門を入ってから左に回りこまなければ玄関に入れない。元禄15年(1702年)12月13日付で大石良雄が赤穂の3人の僧に宛てた書簡には「若老中(若年寄)もご存知のようでうまくいくと思う」という意味のことが書かれている。
この屋敷替えに合わせるように、8月21日、大目付の庄田安利、高家肝煎の大友義孝、書院番士の東条冬重など義央に近いと見られた人物が「勤めがよくない」として罷免されて小普請編入となっている。
12月11日、義央は隠居願いを提出した。これは依願退職のようなもので、即座に受理された。養嗣子・義周が家督を相続した。
元禄15年(1702年)7月に浅野長矩の弟・長広が浅野本家に預かりとなった。
これと前後して茶人・山田宗偏は本所に茶室を構えていたので、義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。12月14日に茶会があるとの情報が宗偏を通じて、宗偏の弟子・脇屋新兵衛(その正体は47士の1人大高忠雄=大高源吾)につかまれていた。元赤穂藩筆頭家老・大石良雄はこの日を討ち入り日に決定した。
清水一学を演じた頃の舟木さん