私事ですが、1月22日と23日に京都、大阪に行ってきました。
一日目は、京都をどっぷり堪能しました。今回の散歩のメインエリアは奥嵯峨です。
一日目は、京都をどっぷり堪能しました。今回の散歩のメインエリアは奥嵯峨です。
私が、京都に行く時は、地元の近鉄桑名駅から近鉄四日市に出て、四日市-京都間を走る高速バス利用です。所要時間は1時間半ほどです。安くて早くて便利なのが嬉しいコース。
宿泊するのは、大抵は、京都住まいの時に住んでいた家のすぐ近くのホテルで京阪・清水五条のバス停から徒歩5分。先ず、荷物を預けておいて身軽になってから活動開始です。
京都の街歩きで携帯で撮ってきたヘボな写真ですが、舟友のkazuyanさんの動画「嵯峨野雪草紙」に助けていただきつつアップします。
嵯峨野雪草紙 作詩:吉田旺 作曲:古関裕而
https://www.youtube.com/watch?v=U39m-nUhc5E
https://www.youtube.com/watch?v=U39m-nUhc5E
(1975年 アルバム「暦/12カ月の愛の歌」より1月の詩)
雪見障子の そのむこう
音もたてずに 降る雪は
おんなごころの みがわりか
嵯峨野 尼寺 墨絵いろ
音もたてずに 降る雪は
おんなごころの みがわりか
嵯峨野 尼寺 墨絵いろ
長い黒髪 断ち切った
わけは恋路の 果てなのか
誰も知らないほつれうた
嵯峨野 尼寺 細雪(ささめゆき)
わけは恋路の 果てなのか
誰も知らないほつれうた
嵯峨野 尼寺 細雪(ささめゆき)
雪の枝折り戸 おしあけて
七分びらきの 蛇の目傘
色はむらさき おんな傘
嵯峨野 尼寺 雪草紙
七分びらきの 蛇の目傘
色はむらさき おんな傘
嵯峨野 尼寺 雪草紙
祇王寺のシンボルのような寒牡丹、まだ蕾がしっかり固く閉じています
「嵯峨野雪草紙」の歌詩に登場する尼寺と云うと「祇王寺」。これまでも何度か嵯峨野散策の折に出かけ
てはいましたが、「嵯峨野雪草紙」を聴いてから、雪景色の祇王寺を見てみたいと思っていました。
てはいましたが、「嵯峨野雪草紙」を聴いてから、雪景色の祇王寺を見てみたいと思っていました。
風花が舞い散る奥嵯峨の散策は数年前の京都在住の頃には経験がありますが、kazuyanさんが、素晴らしい動画作品にして下さって、その動画を見ているうちに、がぜん、この冬には嵯峨野に行きたいとムズムズしていました。
あいにく私が訪れた日は家を出る時から雪ではなくて、雨が降っていました。あ~ぁ……雨か・・・
京都に着いてどしゃ降りなら嵯峨野散策は断念するつもりでしたが京都の中心の河原町界隈は、傘なしでも歩くことができるビミョーな天候だったので、ちょっと迷いましたがせっかく京都まできたのだからと決行!行きは、河原町から大宮までは阪急電車、四条大宮から嵐電(京福電鉄)で終点の嵐山まで乗車。
京都に着いてどしゃ降りなら嵯峨野散策は断念するつもりでしたが京都の中心の河原町界隈は、傘なしでも歩くことができるビミョーな天候だったので、ちょっと迷いましたがせっかく京都まできたのだからと決行!行きは、河原町から大宮までは阪急電車、四条大宮から嵐電(京福電鉄)で終点の嵐山まで乗車。
以下に嵯峨嵐山散策の道順に沿って撮影してきた写真を並べてみます。
嵐山駅のホームには足湯があります。お一人様 150円(タオル付き)
画像でたどる奥嵯峨野案内~春日局版
嵐電・嵐山駅
嵐山駅を背にして右へすぐ 天龍寺 天龍寺からさらに進むとオルゴール博物館の建物
オルゴール博物館を直進、丸太町通りの交差点を渡ってさらに直進
嵯峨小学校の建物もさすが古式ゆかしく→
飛び出し注意!の看板もユニークです
嵯峨小学校を右に見てさらに直進すると大きな山門が見えてきます。通称、嵯峨釈迦堂といわれる清涼寺
嵯峨釈迦堂境内の豊臣秀頼の首塚
昭和55年(1980)に行われた大坂城三の丸跡の学術調査で、発掘現場から豊臣秀吉の三男の豊臣秀頼公のものと思われる頭蓋骨が出土しました。その後の調査でこの骨が人為的に丁寧に埋葬されていることや、介錯の跡、周囲からの出土品などから考察して秀頼公のものと断定されました。 http://www.kyotok.net/tera120.html
嵯峨釈迦堂の西門から奥嵯峨、あだし野につながる小径に入っていくと「夕ぎり大夫遺跡」という石碑があります。
かの有名な遊女夕霧は、嵯峨釈迦堂の近くで生まれたといわれているそうです。
夕霧(?~1676)は京都島原の遊女。本名は「てる」といい,この地に生まれ,島原扇屋の遊女となるが,のち遊女屋主人とともに大坂新町の遊郭に移った。夕霧の墓は大阪市天王寺区下寺町の浄国寺にあるが,生家が清涼寺塔頭地蔵院の檀家であったことから,地蔵院墓地にも墓がつくられた。のち地蔵院は廃寺となり,現在,墓は大覚寺塔頭覚勝院の管理となっている。この石標は夕霧大夫の墓を示すものである。
近松門左衛門の書いた歌舞伎”廓文章”の「夕霧」とは大坂新町の夕霧太夫のことである。
さらに、ゆるやかな坂道をのぼって進んでいくと石碑と立て看板があって「厭離庵」に入っていくさらに細い路地があります。
*厭離庵
この場所は、元々藤原定家山荘跡で長く荒廃したが、後に冷泉家が修復し臨済宗天龍寺派となった。再び荒廃したが1910(明治43)年に復興、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の娘が住職となり尼寺となった。境内には、茶室時雨亭、藤原定家塚、定家が筆洗いに使った柳の井がある。紅葉の名所として知られ、紅葉の時期にのみ拝観が出来ます。
竹垣の小径をたどっていくと
厭離庵門前。今はこんな感じです。中には入れません
紅葉の美しい時期の厭離庵、一見の価値あり!です。私の紅葉おすすめスポット
奥嵯峨の散策に便利な地図が、二尊院に入っていく道の脇にありました。
「案内板に祇王寺へは石畳の道へ入る」 とありました。
久しぶりに来たのでちょっと迷いましたが案内板のおかげで助かりました。
「檀林時」という→の看板があって、石畳になっています。
無事に着きましたが、この頃から雨が本降りになってきました
拝観料300円也。お庭の中に入ります
様々な種類の苔が、よく手入れされて美しく、雨がかえって幸いして緑が鮮やかで心も洗われるよう
冬の嵯峨野は観光客が少ない上に、この日は天気がイマイチでしかも平日でしたから静寂そのもの
ちょうど私が入るのと行き違いに女性がお二人出てこられて、その後は誰もいなかったのでこの空間をひとり占め!
桜や紅葉の季節もいいのですが、ものさびしい無常観漂う歴史が息づく嵯峨野には、ひと気のない冬が似合います
祇王(上村松篁画)
「祇王寺のしおり」より
~平家物語 巻第一 祇王~
「平家物語」の巻頭に「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし……」美しく書き出してあるが、さらに読み進むと祇王祇女のことが出てくる。これは平氏全盛のこと、平清盛りと二人の女性の哀れな物語である。このころ、都に聞こえた白拍子の上手に祇王、祇女という姉妹があった。姉の祇王が清盛の寵愛を得て、妹祇女も有名となり、安穏に暮らしていた。ところが、仏御前と呼ばれた白拍子が清盛の屋敷に現れて、舞をお目に掛けたいと申し出た。清盛は門前払いをしようとしたが、祇王が優しくとりなしたので、今様を歌わせることにした。
仏御前は、声も節もすこぶる上手だったため、清盛は、たちまち心動かして仏御前に心を移した。昨日までの寵愛はどこへやら、祇王は館を追いだされることとなった。せめてもの忘れ形見にと、
萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはではつべき
と障子に書き残して去ってゆく。
祇王、祇女、母刃自の三人、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入る。母子三人念仏しているところへ、竹の編戸をほとほととたたく者がある、出てみると、思いもかけぬ仏御前であった。「祇王の不幸を思うにつれ、無常を感じ、今朝、館をまぎれて出でて、かくなりてこそ参りたれ」と被っていた衣を打ちのけるのを見れば、剃髪した尼の姿であった。わずかに十七にこそなる人の浄土を願わんと深く思い入り給うこそと、四人一緒に籠もって朝夕の仏前に香華を供えてみな往生の本懐を遂げた。
と障子に書き残して去ってゆく。
祇王、祇女、母刃自の三人、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入る。母子三人念仏しているところへ、竹の編戸をほとほととたたく者がある、出てみると、思いもかけぬ仏御前であった。「祇王の不幸を思うにつれ、無常を感じ、今朝、館をまぎれて出でて、かくなりてこそ参りたれ」と被っていた衣を打ちのけるのを見れば、剃髪した尼の姿であった。わずかに十七にこそなる人の浄土を願わんと深く思い入り給うこそと、四人一緒に籠もって朝夕の仏前に香華を供えてみな往生の本懐を遂げた。
帰りは、たどってきた道を戻り、嵯峨小学校前から市バス28に乗って、嵐山渡月橋を経由して松尾大社から西大路方面廻りでJR京都駅まで約45分ほどのバスの旅。この系統バスには今回、たまたま気まぐれで初めて乗りましたが、行きの「嵐電」から見る京都の町の景色とはまた気分が変わって楽しい時間で
した。
した。