8月1日の梅田芸術劇場でのコンサートを舟友さんたちと一緒に昼夜楽しんで、出待ちまでみっちり満喫して、夜の部で幸運にもゲットさせていただいたグリーンのサインボールとサイン色紙を失くさないようにとバッグにしまって梅田から河原町まで阪急電車で戻り、もう一泊京都で夜を過ごして、翌朝は7時前に河原町三条から市バスに乗って京都駅に到着。駅前の馴染みのカフェで朝食をゆっくりとって近鉄電車で奈良に向かいました。約40分ちょっとで奈良に到着。タイトルは「舟木さんを探すさんぽ径」ですが果たして奈良で舟木さんがみつかるのかな?
先ずは奈良の1日目です。ホテルに荷物を預けて身軽になってから向かったのは春日大社です。奈良に来たのは3年ぶりくらいかな?
それも、落語会が一回と野村萬斎さんの東大寺の奉納狂言の会に一回、足を運んだというだけで、あまり時間がなかったので散策するヒマもなくとんぼ返りでしたから実質的に観光っぽい目的で来たのは、もう10年ほど前かも・・・。考えてみたら末娘が高校時代にメール交換していたアメリカの女子高校生が日本に観光を兼ねた短期留学でやって来て数日間ホームステイしていた時に奈良観光に私も付き合って以来のようです。その時も真夏だったので暑かったことだけは記憶にあります。でも、その彼女は京都よりも奈良の方が気に入って喜んでくれたのが印象的でした。都会的で洗練された京都より、自然がそのまま残っている雄大な景色の奈良に魅力を感じる気持ちはなんとなくわかりますね。
国立博物館の手前から、鹿がたくさん歩いていて、「わぁ、奈良に来た!」っていう感じです。子鹿の姿が目立ちました。必ず母鹿がそばにいて、子鹿の動きに絶えず目を配っているように寄り添って歩いているんですね。
春日大社への参道入口から続く杜の小径は、まだ朝のひんやりした空気に包まれていて、しばらくは汗もかかずに歩けましたが、萬葉植物園に入る頃には急にカンカン照りになってきて、大汗をかきながら歩きました。
ちょっと舟木さんが見つかりにくいので、助け船を出していただくことに・・(笑)
舟友のkazuyanさんの奈良を背景にした動画 舟木さんの歌唱で『鈴懸の径(すずかけのみち)』を
http://www.youtube.com/watch?v=lnFhsCldJpM
http://www.youtube.com/watch?v=lnFhsCldJpM
映画『高原のお穣さん』で挿入歌として歌われていますね。
http://v.youku.com/v_show/id_XMjkyMzE5MDYw.html
http://v.youku.com/v_show/id_XMjkyMzE5MDYw.html
友と語らん 鈴懸の径
通いなれたる 学舎(まなびや)の街
通いなれたる 学舎(まなびや)の街
やさしの小鈴 葉かげに鳴れば
夢はかえるよ 鈴懸の径
夢はかえるよ 鈴懸の径
音源はデビュー45周年記念の6枚組CD「思い出アルバム」より
萩を歌った万葉集の歌
わが衣摺れるにはあらず高松の野辺行きしかば萩の摺れるぞ
今は萩の花の季節には早くて画像は萬葉植物園関連のサイトからお借りしましたが、萩の木はもちろん萬葉植物園で確認してきました。
そして、舟木さんの出身地の萩原にも萬葉公園があるんです。一宮市萩原町高松にある萬葉公園は、地元萩原の詩人佐藤一英氏が『万葉集』巻十で歌われた萩の歌が、この地で詠まれたと提唱したことにちなんで造られた公園です。そして奇しくも佐藤一英氏は舟木さんの母校である萩原中学校の校歌を作詩されています。
佐藤一英(さとう いちえい、1899年(明治32年) - 1979年(昭和54年))は、詩人。1899年、愛知県一宮市萩原町に生まれる。
早稲田大学英語科中退。市内の小・中学校、木曽川高校の校歌の作詞もしていた
早稲田大学英語科中退。市内の小・中学校、木曽川高校の校歌の作詞もしていた
萩原中学校校歌
作詞:佐藤一英 作曲:森一也
その名もゆかし 萩原の
土にわれらは 産まれけり
照る日のめぐみ 身に浴びて
群れ咲く花の「生」を識る
あヽわれら 萩原の子よ
中島宮の あとどころ
伝えいかしき 石文に
いにしえ人の 心読み
みなもと遠き「生」を識る
あヽわれら 萩原の子よ
伝えいかしき 石文に
いにしえ人の 心読み
みなもと遠き「生」を識る
あヽわれら 萩原の子よ
伊吹の風に よみがえる
土のいのちの 尊さよ
そのことわりを 胸に彫り
こころ根深き「生」を識る
あヽわれら 萩原の子よ
世界遺産の春日大社本殿と春日山原始林。右は多賀神社の延命長寿祈願奉納絵馬。
「春日局を探す・・・」ではなかったですね(笑) スミマセン・・・
コンサートの翌日の8月3日は、真面目に舟木さんを探しに歩き続けましたよ・・・春日大社から西北へと進路をとっていくと、旧柳生街道へと入っていきます。ウフフフ・・・もうおわかりですよね
野あざみの君に 作詩:喜多条正 作曲:服部きよし
この街で
もしも君に逢えたなら
僕はあげよう
野あざみの花を
とげが痛いとノートを破り
いつか手と手が触れあった
もしも君に逢えたなら
僕はあげよう
野あざみの花を
とげが痛いとノートを破り
いつか手と手が触れあった
あれは幼い恋
この街で もういちど君に逢いたい
この街で
もしも君に逢えたなら
僕はあげよう
野あざみの花を
汽車を見ようと野道を歩き
いつか日暮れて泣き出した
もしも君に逢えたなら
僕はあげよう
野あざみの花を
汽車を見ようと野道を歩き
いつか日暮れて泣き出した
あれは幼い恋
この街で もいちど君に逢いたい
この街で もいちど君に逢いたい
(アルバム『愛はまぼろし』収録)
里の花ふぶき 作詩:橋本比禎子 作曲:古賀政男
水ぐるま まわりまわりて 柳生の里は
剣のひじりよ 祖先の在所
山坂こえて 草鞋ばき
姿も浮かぶ 正木坂
縞小袖 里の娘は 気立てのよさに
柳生なりゃこそ 四百年の
昔語りに 花が咲く
ちらりはらりと 谷の春
願かけて 馬頭観音 おがみます
春桃御前は 母ぎみさまよ
ひたすらにゆく もののふに
春の坂道 花ふぶき
この先へ進むと滝坂の道へ・・ あ~ぁ、本当によく歩きました。京都と奈良としっかりウォーキングしました。
舟木さんを探していると、どんどん歩けちゃいま~す
春の坂道
作詩:泉漾太郎 作曲:古賀政男
照る日 曇る日 ふたつはあれど
ふたつとはない しあわせの道
繁る葵の 葉に吹く風も
雨もおさめる 剣禅一致
夢に夢追う 二蓋笠
照る日 曇る日 ふたつはあれど
ふたつとはない しあわせの道
繁る葵の 葉に吹く風も
雨もおさめる 剣禅一致
夢に夢追う 二蓋笠
春の坂道 悲願の鐘に
明ける日和は 新陰流の
抜かず 構えず 打込みもせず
戈を止める こころの剣
柳生神武の 無刀取り
明ける日和は 新陰流の
抜かず 構えず 打込みもせず
戈を止める こころの剣
柳生神武の 無刀取り
大河ドラマ『春の坂道』
山岡荘八の書き下ろし小説「春の坂道」、および小説「徳川家康」を原作として杉山義法が脚色。泰平の世を築くために遠くて険しい「春の坂道」を歩んでいく剣術家・柳生但馬守宗矩の生涯を、家康・秀忠・家光の徳川三代の時代を背景に、「一紙半銭も私せず」の剣禅一如の精神とともに描いた作品。
父の秀忠や母の江は、病弱で吃音であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたとされ、それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったとされる。この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代派(家光)の勝利で終わる。
忠長の場合は改易に至る過程として、江戸と駿府の両方に将軍がいるといわれるほどであった幕府・将軍家に対する不遜とも取れる言動もその一因としてあげられ、さらに家光との間に確執があり、それが改易のみならず自刃という過酷な処分の一因となったとする説もある。
なお、従来より流布されている家臣や領民への無差別な殺害や、殺生が禁じられていた静岡浅間神社での猿狩り、その後の度を超えた狂乱ぶりが幕府に咎められたとする説は、そのほとんどが信憑性の低い伝聞や伝承が元となっており、従来からあるステレオタイプな暗君像を忠長に当てはめたものと考えられている。猿狩りについても、猿による農作物被害に悩まされていた領民のために行ったという側面があり、暗君像をより強調するため不正確な伝聞や伝承が物語的に後付けされたものとされる。
舟木さんは、歌の『春の坂道』では柳生宗矩について歌っていますが、大河ドラマへの出演は徳川忠長役としてでした。ってことは春日局とは敵対関係なワケになりますね
同じく大河ドラマ『赤穂浪士』『源義経』でも悲劇の若者でしたが、『春の坂道』でも波乱の人生を余儀なくされる悲運の人を演じられたんですね。どうしても当時のイメージが、そういった儚げな雰囲気でしたから、そういう役どころを期待されたのでしょうね。私はこの頃、ほとんどテレビ自体を観ていなかったので大河ドラマに出演されていることも全く知りませんでした。これは拝見したかったです。
残念ながら、この時の忠長の映像・写真などはネットなど探してもみつかりませんでしたから忠長の肖像画で。
帰り道は、志賀直哉旧邸を回って、春日公園の中を通り、鹿がしかげ(日かげ)で昼寝してるのを眺めながら・・・(笑)
興福寺を通り抜けて近鉄駅前へ・・・
この究極の駄洒落は、奈良のコンサートのトークで舟木さんがおっしゃったんですが、地元のファンの方への、サービス精神だった・・・と思うことにしましょう
下の写真は「しかげ」で昼寝してるオス鹿たち(笑)