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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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思い出の新歌舞伎座・舟木一夫初座長公演記録 完結 「雨月道成寺」&「若君風流」

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「思い出の新歌舞伎座・舟木一夫初座長公演記録 その2」のつづきです。

連載の最後は、パンフレット記載のお芝居のあらすじと、そして、パンフレットには舞台写真の掲載はありませんので私の手元にある「近代映画 」(1966年11月号)ほか写真集などからの舞台写真を併せてご紹介します。

先ずは「雨月道成寺」からですが、その前に原作者の安藤鶴夫さんのこのパンフレットへの寄稿文をご紹介します。

イメージ 1”雨月道成寺”開幕の前に    安藤鶴夫

舟木一夫は、いろいろなことが可能な若者である。
このごろの若いひとは、おそれというものがなくなって、なんだってやっちゃう、というそういう意味ではなくって、舟木一夫の場合の可能性は、一見せまいようでいてじつはたいへん広い可能性を持っているということである。
それに、わたしはなにかに対して、おそれというものを持たない人間はきらいだが、舟木一夫は勇気と一緒にちゃんと、おそれというものを持っている。
わたしは舟木一夫のうたも好きで、このごろあんまりうまくなりすぎて、あれでいいのか、と心配するぐらい、うまいと思って感心しているけれど、舟木一夫の、こんにちの若者にめずらしく、まれな、そういう人柄、人間の持ち味が、ひどく好きだ。
その舟木一夫が、大阪の誇るもっともすばらしい大劇場である新歌舞伎座で、本格的な二十八日間の公演を持つというめでたきチャンスの舞台に、わたしがひとつ脚本を書くことになって、いったい、どういう舟木一夫をみたいか、と、わたしはわたしに質問をしてみた。答えはたくさん出てきた。いろいろの舟木一夫が考えられるのである。つまり、舟木一夫の可能性である。
その中から、わたしがいちばんみたいと思ったのが、上田秋成の雨月物語の中の”蛇性の婬”の豊雄であった。秋成は古い中国の小説から、題材も文章もそのままとっているが、その美しい雅文調は、古今の名作にかぞえられる。
わたしは、舟木一夫という魅力のある人気歌手を通して、日本の、古く遠い時代のうつくしいロマンティックなものを、舟木一夫のファンの皆さんに味わってもらいたいと思った。製作のスタッフも、わたしのもっとも信頼する方々ばかりである。どんな舟木一夫が登場するか。さ、開幕である。

安藤鶴夫(あんどう つるお) ~ウィキペディアより~
1908年(明治41年)11月16日 - 1969年(昭和44年)9月9日。
小説家(直木賞受賞)、落語および歌舞伎分野を主な専門分野とする評論家、演芸プロデューサー。元々は歌舞伎担当の新聞記者だった。東京市浅草区向柳原町(現在の東京都台東区浅草橋)に、義太夫の8代目竹本都太夫の長男として生まれる。本名、花島鶴夫。法政大学文学部仏文科卒業の時に髪を切り、以後、死ぬまでイガグリ頭で通す。
1946年(昭和21年)に、『東宝』誌に「小さん・聞書」(4代目柳家小さんの芸談)、『苦楽』誌に聞書「落語鑑賞」(8代目桂文楽の噺、10話)を連載。1949年(昭和24年)、苦楽社からそれらをまとめて『落語鑑賞』として上梓し、寄席評論家としての評価を確立。特に、桂文楽の話芸を活字で再現して高く評価された。1950年(昭和25年)から三越名人会を、1953年(昭和28年)からは三越落語会を主宰。新作落語が人気を博していた戦後に古典落語を再評価して演芸評論の重鎮となった。それまで主に寄席で聞くものだった落語をホール落語という新しい形を定着させた功績は大きい。幅広い交友関係をもち、各種芸能に造詣が深かった。落語・講談等の寄席評論家としては*正岡容と双璧。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒であり、戦後の落語界に大きな影響を与えた。文化庁芸術祭賞実行委員。
*春日局補足:人間国宝桂米朝師匠が若き日に師事したのが正岡容氏です。
小説も手がけ、1963年(昭和38年)『巷談本牧亭』により、第50回直木賞受賞。日本の伝統芸能に関心を持つ若者に良い芸を紹介しようという意識は強く、写真家の金子桂三は他人に書庫を見せない安藤に伝統芸能関連の書籍を貸してもらい、のちに文楽や能・狂言の撮影を手掛けるきっかけになった。


☆雨月道成寺~秋成の”蛇性の婬”より  三幕十二場   安藤鶴夫 作

イメージ 2第一幕 秋・紀ノ国の巻
第一景 
一、朝  二、新宮のほとり・門  三、長廊下と客殿
第二景
一、花道 二、芒の道
第三景
一、花道 二、新宮のほとり・門  三、客殿

第二幕 春・大和の巻
第一景
石榴市・金忠の店
第二景
一、道行 二、吉野の瀧

第三幕 夏・芝の里の巻
第一景
一、庄司の広間 二、富子の閨室

あらすじ

それは、遠い、遠い昔の話でございます。紀の国の三輪が崎に大宅の竹助という大きな網元が住んでおりました。竹助には三人の子供がありまして長男は実業にはげみ、次の娘は大和の国石榴市(つばいち)に嫁いでおり、末の子が豊雄と申しまして、生れつき心ばえやさしく、詩を作り笛を吹き、まるで都の人のようにみやびなことに心を寄せる若者でした。


イメージ 3あれは、はげしい雷と雨のある秋の昼下がりのことでございました。豊雄がさる屋敷の門の下で雨宿りをしておりますと、庭の秋草の茂みの中から女の童(めのわらべ)が現れて、屋敷の中に手引きしました。古い庭には池や築山、松の大樹が茂り、長い廊下を渡って通された客殿には几帳が風にそよいでおりました。夢うつつのような気持ちで豊雄がぼんやりとしておりますと、いつの間にか、美しい女人が目の前で微笑んでいるのです。真女子(まなご)というその女は、まるで恋人にめぐり遭ったかのような喜びようで、若い豊雄の心をたちまち恋のとりこにしてしまいました。


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女の身の上話を聞きますと、もとは都の生まれで父母に早く死に別れ乳母の手で育てられたとのことで、ふとした縁で三年も前に新宮の国の司、縣の某に望まれて嫁いできましたが、夫はこの春のはじめにかりそめの病で世を去ったということでした。

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すすめられるままに真女子のもとで一夜をおくった豊雄は、今日の縁の固めのしるしにと、それはもう立派な金色の太刀を贈られました。おそろしいことに、この古太刀が豊雄の運命を狂わしてしまうのです。

イメージ 6父の竹助は立派な太刀を見て、きっと豊雄が盗んだものと思い込み、自ら国守の広之に訴え出たのでございます。取り調べを受けた豊雄の話から、不思議な女人のことを知った広之は部下の者を従えて縣の屋敷にまいりました。

イメージ 7ところがどうでしょう。そこにはみるかげもなく荒れ果てた屋敷があるばかりでした。里の翁がいうには、もと村の長が住んでいましたが、いまは人の気配もなく、いるとすれば妖怪に違いないとのこと。しかし、几帳の影にはたしかに真女子が坐っておりました。そうして、踏み込んだ国守の部下たちはどうしたことか血ヘドを吐いて死んでしまいました。

大宅の家では、豊雄を大和の国・石榴市の姉の家に逃れさせました。が、真女子はここにも豊雄を追ってまいりました。恋する女の一念を打ち明けられるにつけ、姉夫婦も真女子を信じてしまいます。真女子と豊雄にとって楽しい日々が続きました。

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しかし、それも束の間、或る日のこと、吉野の瀧のほとりで大倭神社の神官当麻の酒人に真女子はその本性を見破られてしまいました。それは年経たみだらな蛇性だったのでございます。

イメージ 10豊雄は真女子から逃れるため、こんどは芝の里の庄司の娘富子の聟に迎えられ、にぎやかな祝言の式が挙げられました。

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けれど、新枕の床でみた花嫁は富子ではなく、いつの間にか真女子にかわっていました。ほんとうに恋の執念のおそろしさと申しましょうか。豊雄も真女子に逢えば、その魔性のとりこになって恋の美酒に酔いしれるのでした。


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けれどこの夜も、祝いの席に連なった道成寺の法海和尚によって、花嫁の正体は見破られてしまったのです。観音経の法力に責められて真女子はついに松の木にかけ上り姿を消してしまいました。豊雄はその松の大樹に抱かれるようにして息絶えておりましたが、それはもう幸せそうな顔でございました。


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↓真女子役の葉山さんと舞のお稽古の様子                       舞台化粧の様子↓

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「近代映画」1966年11月号 綴じ込みの大型ポートレート

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イメージ 17☆若君風流~松平長七郎  二幕五場  村上元三 作

序幕
一、京都東山 清水寺の舞台  
二、淀の渡し伏見口

第二幕
一、長崎船大工町両国屋の二階  
二、唐人屋敷 朱水虎の住居  
三、唐人浜

あらすじ

生保四年の秋のはじめ。京都清水寺の舞台では紀伊大納言の息女由良姫の参詣とあって、役人たちが人払いをしている。その中に虚無僧の一夢、旅の薬売りに姿を変えた公儀隠密の一色七之助らがいた。由良姫のわがままぶりにお供や役人たちが手こづらされていると、これもお忍び姿の松平長七郎が家来二人を従えて現れる。

長七郎は姫のわがままを無視して、気安く京見物させようとするが、名うてのじゃじゃ馬姫、将軍の甥の長七郎にも喰ってかかる。このとき銃声一発。思わず長七郎は姫をかばって身を伏せる。犯人は虚無僧の一夢だった。

一夢役は近衛十四郎さん。松方弘樹さんのお父様で時代劇映画界きっての立回りのキレと美しさで定評の俳優さんだっとうかがっています。ちなみに舟木さんの清水一学も最高でしたが、近衛十四郎
さんの清水一学の殺陣は伝説ともなったときいています。当時のお顔は息子さんとそっくりですね。

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イメージ 19イメージ 20



















イメージ 18淀の渡しの伏見口の船宿、小料理屋の店先はまだ夜明け行燈に灯が入っている。西国屋の主人松右衛門が旅姿で現れ、一夢も姿をみせる。長崎奉行大久保助左衛門が船宿からなにか腹を立てて出てきた。同宿の江戸の旗本主従三人があやしいというのである。三人とは長七郎主従のこと。続いて船宿から出てきた長七郎らを捕えて詮議しようとするが、長七郎は長崎の貿易商松右衛門と江戸で面識があったので、松右衛門に名乗り出られて身分がわかってしまった。

イメージ 22長七郎も長崎へ行きたいと言い出して家来たちをあわてさせる。江戸の旗本と名乗る長七郎の素性を知って長崎奉行の大久保は平伏する。







長七郎は父の駿河大納言忠長が将軍の弟でありながら謀反の疑いを受けて上州高崎へ追放されて自害をしてから、母方の実家織田家に身を寄せ、学問や政治のこともいまはほとんど無縁にひとしい気楽な旅に出ていたのである。所持金がなくなったと知ると、早速松右衛門に五千両の無心をしたりするところはさすがに若君だ。

舟木さんは後年、駿河大納言忠長役も大河ドラマ「春の坂道」で演じていらっしゃいます、御曹司の品格は70歳の今も「若様」(「花の風来坊」の松平誠之助)として十二分に通用しているのですから永遠の若様ということなんですよね。私的には「若様」イコール「絶唱」の園田順吉さんですけど…


イメージ 23西国屋松右衛門にはお蘭という娘の連れがいた。長崎へ行く松右衛門と奉行大久保と松平長七郎。長七郎のあとを追う虚無僧の一夢は、長七郎の父忠長に手討ちになった甲田源五兵衛の忘れ形見源八でいまでは松平長七郎を父の仇と狙っているのだった。一色七之助がその一夢を追っている。公儀隠密の七之助の役目は長七郎の身辺護衛であった。

十一月のある夕ぐれ、長崎の西国屋では、女房のおそのが、実は明国人の娘であるお蘭の姉お金と、清に滅ぼされた明の国の再興のことを話し合っている。その計画を利用して松右衛門は貿易商としての利益を得ようとしていたが、お金も松右衛門らの知らない目的をもっているようだ。そしてまた、明国再興のために金三千両を出して後ろ盾になろうとしているのは、だれあろう紀伊家の由良姫だった。かつて昔、台湾から援軍を求めた国姓爺の鄭成功に紀伊家大納言は力になってやろうとしたが、将軍家のお許しがなく、そのうち国姓爺は滅んでしまったことがある。由良姫はいまその父の志をついで、第二の国姓爺である朱水虎と、お金こと紅金一味に力を貸そうとしているのだ。

松右衛門から明国再興の計画を聞かされた松平長七郎は、それを利用して一もうけしようとたくらむ松右衛門の心を見抜く。そして隠密の一色七之助の報せで紀州の由良姫も長崎に来ていることを知った長七郎は、何かを感じ取ったようだ。

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西国屋、一色七之助を引き連れて長七郎が乗り込む先は朱水虎一味のいる唐人屋敷。いよいよ長七郎若君にとって免許皆伝の柳生流水月の一手、正義の剣を振るう時がきたようだった。

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↓楽屋暖簾から…                              楽屋ではお母さんが奮闘↓

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「近代映画」1966年11月号 綴じ込みの大型ポートレート…脚線美は今も変わらず

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