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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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三十代の舟木さんが出演されたふたつの舞台芝居「あゝ野麦峠」と「伊豆の踊子」について その1

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暑いですね~  

母は、まだ当分入院治療が必要で、私は、朝と晩の2回、着替えを持っていったりして病院通いをしています。高齢になると熱中症といえどもなかなか体力が回復しないようです。この時期は、高齢者の入院も多くが室内熱中症というお話しを看護師さんや先生からお聞きしています。私は就寝時はエアコンは全く使用してませんが、昨晩は全く風がなくて蒸し暑くてマイりました。室内熱中症、要注意!ですね。

また、マイPCのおいてある部屋は日中はうだるような暑さ、なかなかPCの前に座る気になれず、ブログ更新もままならずです。…といっても今の私のPCはノートパソコンなので移動はできるのですが、ただPCをあちこち移動させることさえ面倒くさいというズボラな私です(笑)


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今回は、数か月前から、どういうタイミングでどういう風に記事にしたものか、迷って「ねかせていた」資料を、ご紹介することにします。

お世話になっている大先輩の舟友さんからお借りしていたもので、舟木さんが三十代半ばの頃の舞台出演作品の「あゝ野麦峠」と「伊豆の踊子」のパンフレットからの資料です。どちらも内容が深い作品ということと、私自身が全く拝見していない舞台なので、中途半端なご紹介の仕方になるかもしれませんし、いずれの作品も、ちょっと堅い内容ですが、しばらくおつきあいいただけたら嬉しいです。


先ずは「その1」では「あゝ野麦峠」について

イメージ 3「あゝ野麦峠」(ああのむぎとうげ) 作品と映画

山本茂実が1968年に発表したノンフィクション文学。副題は「ある製糸工女哀史」
初版は朝日新聞社刊。1972年に新版が刊行されている。

戦前に飛騨の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出た。吹雪の中を危険な峠雪道を越え、また劣悪な環境の元で命を削りながら、当時の富国強兵の国策において有力な貿易品であった生糸の生産を支えた女性工員たちの姿を伝えた。山本は10数年におよび飛騨・信州一円を取材し数百人の女工、工場関係者からの聞き取りを行ったという。

映画では、飛騨からの出稼ぎ女工の悲惨な面を強調して描かれているが、原作では、工女の賃金にばらつきがあったことや、「我が家は貧乏だったので工女に行けなかった」、「実家の農家で働いていた方がきつかった」といった複雑な背景も描かれている。糸値に翻弄される製糸家の厳しい実情などにも言及し、詳細な聞き取り調査のもと、日本の貧しく苦しい時代を懸命に生き抜いた人々を、その時代背景と共に浮き彫りにするように描かれている点が、多くの読者に評価されている。




イメージ 4東宝映画「あゝ野麦峠」  
1979年6月30日(土)公開

テレビドラマ「あゝ野麦峠」1980年4月1日~5月27日(TBS系列で放送)
 
私が、「あゝ野麦峠」の原作を読んだのは、東宝映画として封切られることになった頃だったと思います。もちろん、映画もリアルタイムで観に行き、大変印象深く記憶しています。

東宝での映画化が決まった頃に、吉永小百合さんが、二十代の頃からずっとこの作品を映画化したいと望み、1969年には宇野重吉さんのプロデュースで内田吐夢監督、小百合さん主演という企画もあったそうですが、諸般の事情で頓挫してしまったというエピソードも初めて知りました。

小百合さんの夢であった映画化は実現しなかったものの、「野麦峠」という語りと歌のレコードは映画化の企画があった1969年に吹き込まれて発売されています。こちらは、残念ながら当時高校生だった私の記憶にはなくて、1979年に東宝映画を観た頃にその存在を知りました。音楽劇仕立てのレコード化です。つい数か月前まではyoutubeにアップされていたのですがいつの間にか削除されていました。内容のみご紹介します。

イメージ 5吉永小百合  野麦峠 (語り ) 
作詩/作曲:曽我部博士  
(1969年10月発売)
 
野麦峠 飛騨の山なみの中でも
ひときわ高い乗鞍岳と御岳の深い山あいを縫うけわしい峠道
明治から大正にかけて昔の飛騨の女子衆は、みんなこの峠を越えて糸ひきに行きました。

野麦 野麦峠 越えて
あねさどこ行く あねさ 
あねさ 糸ひきさ
あねさ信州のキカヤで
糸ひき一年 はたらいて
いとしいかかさの顔みたや
とんと とんと えーえ えーえ
顔みたや

「辛抱せにゃだちかんよ」かかさまの声が
まだ耳に残っています。寒さと飢えと恐ろしさで泣き泣き歩くまだほんの十二、三のちいさな糸ひきさもいました。雪に足を滑らせて目もくらむような谷底に落ちていった糸ひきさもいます。
女子衆は皆の帯を解いて何本も結び合わせ、助け綱にしてやっと助けあげました。
でもどうにも助からなかった糸ひきさもいます。
だんだん細くなっていく泣き声がいつまでも野麦峠の山あいに響いていきました。

東宝映画で主役として登場した政井みねさんの供養碑
この供養碑建立の資金を小百合さんが贈られたのだそうです

イメージ 6山は 山は吹雪 吹雪
ふりかえれば 飛騨は
雪にけむる
お高祖頭巾に手甲脚絆
つまかけ草軽をきりりとしめて
雪は野麦の峠みち
山よ 山よ えーえ えーえ
荒れるなよ
野麦 野麦峠 越えて
あねさどこ行く あねさ
あねさ ふるさとさ
飛騨ブリャ 山越え 越中から
糸ひき あねさは 信州から
年とりまでに 早うもどれ
あねさ あねさ えーえ えーえ
早うもどれ
あねさ あねさ えーえ えーえ
糸ひきさ

いまも峠の道には名も知らぬ白い野の花が
いつかこの野麦峠を越えていった
糸ひきさのこころのように
遠い 遠い空を みつめています。  


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前置きが長くなりましたが、本題へ…

イメージ 8お借りしたパンフレットには舞台写真は掲載されていませんでした。幸運にも、私の手元にある別のパンフレットに、一枚だけ、小さな舞台写真が掲載されてるのを見つけましたのでご紹介します。

          あい役の亜湖さんと菊次役の舟木さん

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             右下に舟木さんのサインがあります↑

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東宝映画も原作の「あゝ野麦峠」を、脚色していますし、舞台作品もまた脚本・演出とも新たな色合いのものになっていると思いますから、舟木さんが演じられた製糸工場(キカヤ)の主人の息子という役柄もこの舞台作品独自の登場人物だと想像します。ただ、あらすじにある「キカヤの主人梅太郎は、今年も大勢の新工たちを迎えて喜んでいたが、息子の菊次は、工場を継ぐ気になれないでいた。」という説明から推測する限り、過酷な労働を強いるキカヤのあり様を跡継ぎとして当然のごとく受け容れるということができず煩悶する誠実な青年であるという人物像が浮かんできます。物語のあらすじは、途中までしか掲載されていませんので物語の全容は、私にはわからないので、もし当時、ご覧になられた方がいらっしゃるなら、教えていただければと願っています。

以下の広報写真は当時、後援会から発信されたもの

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あゝ野麦峠 南座 1980年4月12日~26日

南座公演”あゝ野麦峠”に期待する   山本茂實 (パンフレットより)

「あゝ野麦峠」が朝日新聞社から出版されたのは、昭和四十三年九月でしたが、あれから早いもので十二年になります。北アルプスの中を細々と続く野麦峠、熊笹におおわれたこの古い峠道を明治から大正にかけて、幾千幾万とも知れない糸ひきの大群が、まるで渡り鳥のように越えて行き、そこに幾多の悲しい女の物語が生まれました。
この工女たちのひいた糸が、実は明治の文明開化になくてはならない大事な金でした。この野麦峠をこんどKKショウビジネスさんの手で京都の南座で公演すると聞いたがその豪華なメンバーと意表をつく異色の配役にまずびっくり。今までの劇団民芸や東京芸術座の野麦峠を観てきたものには、目をみはるに十分なものでした。しかし、考えてみると、この物語は女工哀史として暗いイメージに印象付けられているようですが、実際はよほど違ったもので、黎明期の日本を支えた明治の青春は、決してめそめそしたものでなく、今、我々が想像する以上に明るかったようです。また、そうでなくては、あれだけの仕事ができるはずはありません。
ただ問題は、工場法も健康保険もなかった明治の工場では、幾多の犠牲者が生まれましたが、それでも彼女らは「野麦峠はたてには越さぬ、一ツぁ身のため親のため」と、その犠牲を乗り越えて続いたのです。この物語を竹内先生がどう演出するか楽しみです。


この舞台の演出を担当された竹内伸光氏は1968(昭和43)年、大阪梅田コマで「センチメンタルボーイ」が舞台化された時に脚本・演出を担当されています。舟木さんが舞台劇「あゝ野麦峠」に出演なさったというのもこの頃からのご縁ということなのかな?と想像しています。

*大阪梅田コマ「センチメンタルボーイ」
<松山善三原作/竹内伸光脚本・演出/河端茂作詞・脚本>

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イメージ 14あゝ野麦峠
原作:山本茂實
脚本:逢坂勉
演出:竹内伸光/関矢幸雄
音楽:渡辺岳夫 
提供:KKショウビジネス

あらすじ

明治三十年、冬……野麦峠を越える娘たちの群れ……当時、日本の貿易の大半を占めていた生糸んお需要を支えたのはこの若い工女たちの細腕だったといえる。彼女たちの多くは、貧しい飛騨の村から口減らし同然で、岡谷の製糸工場へと働きに出かけるのだが、少女たちの幼い胸は、早く腕を磨いて”百円工女”になって親たちを喜ばせてやろうと夢と希望でふくらんでいた。新工のあいもそのひとりだったが、厳しい冬の峠越えに足をすべらせて谷底へ落ちてしまう。病弱の妹を送りに来ていた辰次に助けられ、ようやく一命をとりとめて、さて一行は、峠のお助け茶屋へ…
そこには鬼婆さと呼ばれる婆さまがいて、毎年毎年野麦峠を越えてやってくる工女たちに、あたたかい甘酒をふるまってくれるのだった。言葉遣いは荒くても、根はやさしい婆さまを頼って、三人の家出娘も舞い込んできていた。あいは、そこで辰次から、妹のみねを頼まれるのだった。

そして、いよいよ製糸工場(キカヤ)での生活が始まる。キカヤの主人梅太郎は、今年も大勢の新工たちを迎えて喜んでいたが、息子の菊次は、工場を継ぐ気になれないでいた。その菊次に、あいは仄かな想いを寄せるのだった。

しかし、、起床!のかけ声とともに明けるキカヤの毎日は、少女たちにとって、決して楽しい事ばかりではなかった。新工の一人、すみは成績の悪いペケ工女として、検番ににらまれていたが、糸目検査を軽くしてやる交換条件に、検番に身体を求められるのだった。一方、みねは疲労から重い病気にかかった。
 ♪工場づとめは監獄づとめ  金のくさりがないばかり

少女たちは、キカヤでさまざまな苦労を乗り越えて、一人前の女へと成長していくのだったが、ある日、製糸相場の大暴落が起きる。そして、その頃、あいのお腹の中には菊次の子どもが……。

ミュージカル仕立ての社会派演劇という作品だったようですね

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イメージ 15~パンフレット掲載  出演者のプロフィール~  舟木一夫

  ←パンフ掲載の写真

歌謡界に於いて、御三家と言えば、皆さんご承知の通り舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦の三人である。シャボン玉のように、出ては消えてる歌謡界の中で、いまだに確固たる地位を保ち続けているという事だけでも驚異である。
最近は大人の歌手というか、自分の年令にふさわしい歌が歌えるような歌手になりたいとか…
そのためには、お客さんの反応が直接伝わってくるステージで歌い、お客さんの心を理解し、吸収しようと心がけている。
今回は「あゝ野麦峠」で歌と芝居に挑戦し念願のステージシンガーへの階段を一歩一歩昇り続けている。


この当時の舟木さん…こちらも資料として舟友さんが提供して下さいました。

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