タイトルに掲げた本は、例によってネットの海を泳いでいて見つけたものです。
「純愛の精神誌 昭和三十年代の青春を読む」(新潮選書)
目次を先ずご紹介しておきます。
舟木さんのデビュー曲「高校三年生」をはじめとする、青春歌謡を読み解いていく章もありますが、ほかにも昭和三十年代の若者たちの心を捉えその「精神誌(≒精神史)」に影響を与えた作品群や一連のブームなどがとりあげられています。「愛と死をみつめて」に代表される若い女性たちによる手記は、高校時代によく読みました。「生命ある日に」は「愛と死をみつめて」の中でこの本のことが書かれていて知り、この著者が名古屋在住の短大生であったこともわかって、彼女の在籍していた短大に憧れて受験もしたほど影響を受けました。合格はしたものの、父の転勤で結局、東京で進学することになったのですが…。また漱石の「こころ」や亀井勝一郎の人生論も、難しくて理解しきれないままでしたが、文章の手触りは好きだったので高校の図書館で借りて読んだものですから、どの章も、私的には興味深いもので私自身の青春時代の風景の中にあってとても身近に感じられました。
でも、ここでは、勿論、舟木さんに関連する章のみを抜き書きさせていただきつつ、少しだけ私自身の感想なども記してご紹介しようと思います。
舟木さんファンは、当然のことながら十人十色。最初の出逢いも、舟木さんとの旅の長さや、舟木さんへの想いの温度や形もそれぞれに違うことでしょう。そして、お気に入りの歌も、お気に入りの映画などもそれぞれにおありかと思いますが、私の場合は…ということで、この本に行き当たることになった経緯も含めてちょっとご説明させていただきます。
私の中の「舟木一夫というイメージ」の原点となっているキイワードが「純愛」なんですね。それは多分「まだ見ぬ君を恋うる歌」「あゝりんどうの花咲けど」「北国の街」「絶唱」という私が少女時代に強烈な印象を受けた舟木さんのヒット曲のテーマとなっているのが「純愛」だからなんだと思います。そして私が少女時代に夢見た「純愛」を体現させる具体的な「理想の初恋の人」もきっとぼんやりとではあるのですが、舟木さんのイメージと重なっていたのだと思います。
舟木さんがデビューした頃の時代背景を当時のサブカルチャーを紐解いていく中で、どうして、まだ子どもだった私が、舟木さんに対して「理想の初恋の人」という印象を抱いたのかを、探ってみたいと思い、なんとなく、あたりをつけて「舟木一夫 純愛」という二つのワードを並べて検索をかけてみてるうちに、やっと100項目あたりに出てきたのが、この本のタイトル「純愛の精神誌 昭和三十年代の青春を読む」だったというワケです。なんてヒマ人な私なんでしょう(笑)でも、ヒマがあったおかげで、とってもいい本にたどりつきました。
舟木さんが18才でデビューしたのが昭和三十八年。その年、私は11才の小学校五年生。当時はティーンエイジャーという言葉がよく使われてましたからちょうどそのティーンエイジャーの仲間入りをした年でもあったわけです。そろそろ思春期前期というお年頃ですね。
その頃の小学校高学年の女の子にとってのテレビというのは大人にとってと同じようにもっとも大きなサブカルチャーの情報源だったように思います。その次は、大人も今のようにネットで情報を得ることはできませんでしたから、大人には大人向けの雑誌、週刊誌が情報源でした。そして女の子に限定して特有の情報を与えたのが少女雑誌だったと言えるでしょう。
それまでにも芸能情報誌の「平凡」や「明星」などはありましたから、私も、お正月号に限ってはお年玉でスターたちの晴れ着姿が表紙を飾っている華やかな号を胸はずませて楽しみにして買っていました。付録に付いている歌本もお楽しみのひとつでした。
少年向きのマンガ週刊誌は既に先んじて創刊されていましたが、少女雑誌はまだその頃までは月刊誌のみでした。小学校にあがるかあがらないかの頃には毎月、発売日からちょっと遅れて貸本屋さんが届けてくれるのを楽しみに待っていました。私には母が「少女」(光文社)という雑誌を借りてくれていました。他にも時々「少女ブック」(集英社)が不定期に届いたような記憶があります。「りぼん」や「なかよし」との出会いは、もう少し後だったと思います。夏休みの時期には付録が欲しくて自分のお小遣いで買うようになりました。
舟木さんがデビューしたのと同じ昭和三十八年に、それまでは月刊誌のみだった少女雑誌に週刊誌ができました。少女フレンド(創刊:昭和38年1月1日号)です。週刊マーガレットの創刊は同じ年の4月でした。その週によって「少女フレンド」を買うこともあれば「マーガレット」を買うこともあったような気がします。いずれにしても、月刊誌から週刊誌という形態の進化が昭和三十年代終わり頃からの時代の流れの加速度を象徴的に表していると今になれば思い至ります。
舟木さんが表紙に登場している「少女フレンド」と「マーガレット」
さて、本題の「純愛の精神誌 昭和三十年代の青春を読む」からの舟木さんに関連する部分の紹介です。カバーに記載されている著者のプロフィールからです。1994年6月15日発行なので、もう20年余り前の情報ですが原文のまま転載させていただきます。
著者:藤井淑禎(ひでただ)
昭和25年豊橋生まれ。慶応義塾大学文学部卒。立教大学大学院博士課課程修了。近現代日本文学・文化論専攻。ノンフィクション、ミステリー、TVドラマ、流行歌等にも旺盛な関心を示すいっぽう、時代を丸ごと復元したなかで作品を生活読者の立場から捉えかえす試みを一貫して続けている。そうした方法を実践した著者として「不如帰の時代―水底の漱石と青年たち」(名古屋大学出版会)がある。現在、立教大学教授。
カバーの裏表紙の推薦文 ねじめ正一氏の文面
カバーの帯の表、本書のコピーという感じの文面
カバーの帯の裏、著者による本書内容の主旨紹介の文面
以下は 「プロローグ 波勝岬慕情」から抜粋させていただきました。 「舟木歌謡」という言葉がキイワードとなっています。
波勝岬
群青色のドロリとした工業用印刷インクをあたり一面に流したかのような海が、際限もなく広がっていた。本当にこんな色だったのか、という、いわくいいがたい思いがぼくのなかでじわじわとわきあがってきていた。
―南伊豆の妻良から、野猿の楽園として名高い波勝岬に渡る遊覧船上でのことである。
―南伊豆の妻良から、野猿の楽園として名高い波勝岬に渡る遊覧船上でのことである。
ここを訪ねようとしたキッカケは、この岬が、ぼくが前々から気にしていたひと昔も前の流行歌に歌われているからであった。歌ったのは、今はむしろ作詞家として知られている、かつての東映映画を代表する青春スターの本間千代子さんで、作詞は丘灯至夫、作曲は山路進一。タイトルは「愛しあうには早すぎて」てという、今となっては何とも奇抜な題の昭和三十九年三月発売の歌だ。
憎くはないのに 憎まれ口を
きいて悔やんだ 日もあった
愛しあうのは 早いのね
コバルト色の
波も散る
波勝岬は 純情岬
きいて悔やんだ 日もあった
愛しあうのは 早いのね
コバルト色の
波も散る
波勝岬は 純情岬
ひとりになったら 口惜しいけれど
涙ほろりと こぼしてた
愛しあうのは 早いのね
南の伊豆の 春の夢
波勝岬は 青春岬
涙ほろりと こぼしてた
愛しあうのは 早いのね
南の伊豆の 春の夢
波勝岬は 青春岬
青春時代は かえってこない
みんな大事に
しましょうよ
愛しあうのは 早いのね
鴎の歌も しおなりも
波勝岬は 思い出岬
みんな大事に
しましょうよ
愛しあうのは 早いのね
鴎の歌も しおなりも
波勝岬は 思い出岬
この歌が気になりだした経緯というのが、そもそもこの書物全体のモチーフとも重なってくるのだが、実は当初この歌は、最近のなつメロブームで復活の兆しいちじるしい舟木一夫の一連の青春歌謡の意味を自分なりに考えていく過程で付随的に引き出されてきたものに過ぎなかった。
―ぼくは舟木歌謡を昭和三十年代にブームをまきおこした手記や人生論等のさまざまな「表現」と並んで、その時代の青春の風景を描き出す際の重要なキイのひとつと考えているのだが、いったいなぜ、その手がかりがいわゆる「文学」にではなく、手記や流行歌に求められなくてはならないのか。
「青春」といえば、切っても切れない関係にあるのが「愛」とそして「性」の問題だが、石原慎太郎の「太陽の季節」(昭30)や谷崎潤一郎の「鍵」(昭31)、さらには伊藤整訳の「チャタレー夫人の恋人」(昭25)や澁澤龍彦訳の「悪徳の栄え」(昭34)等の文壇史上を賑わした問題作にひっぱられる格好で、戦後の文学が「愛」や「性」の領域を果敢にきりひらいてきたことはよく知られている。そうした性表現の冒険は映画など他のメディアにも及び、昭和三十年代も後半に入ると、婦人雑誌や週刊誌を中心としてむしろ性の氾濫、過剰が取り沙汰されるようにすらなってくる。
舟木歌謡の向こうに
さて、そこで肝腎の「愛しあうには早すぎて」に戻ると、この歌になぜ注目したかといえば、ほかでもない、この歌は時代精神解明の手がかりとなるべきはずの一連の舟木歌謡と遥かに呼び交わして、それらを補完する役目を果たしてくれるのではないかと期待したというわけなのだった。
もっとも、ある意味ではそれは当然で、この歌の作詞者の丘灯至夫は「高校三年生」「修学旅行」「君たちがいて僕がいた」「まだ見ぬ君を恋うる歌」「北国の街」「東京は恋する」などの舟木一夫の初期の一連のヒット曲の作詞者でもあったのだし、何よりも、この「愛しあうには早すぎて」という歌自体が、舟木一夫主演の東映の青春歌謡映画「君たちがいて僕がいた」(原作=富島健夫、脚本=池田一朗、山本英明、監督=鷹森立一、昭和39)の挿入歌としてつくられたものだったのである。
「キネマ旬報」による紹介を借用すると、この映画の中身は「観光地・小田原を舞台に、大学受験という大難事に挑む高校生の心理の葛藤、若い教師への淡い慕情、高校生同士の初恋、それに大人たちの恋愛や醜い争いを織り込んで、高校生という"社会"に目覚めようとする世代を描くもの」という「青い山脈」顔負けの「教育的」な内容だった。そして、そこで舟木一夫によって歌われる、
(セリフ)
清らかな青春 爽やかな青春
大きな夢があり かぎりないよろこびがあった
はかない希みがあり つらい別れもあった
そんな時はいつも… 母にも似た 優しい 目差しの
君たちがいて そして 僕がいた
清らかな青春 爽やかな青春
大きな夢があり かぎりないよろこびがあった
はかない希みがあり つらい別れもあった
そんな時はいつも… 母にも似た 優しい 目差しの
君たちがいて そして 僕がいた
心の悩みを うちあけ合って
眺めたはるかな 山や海
言葉はつきても 去りかねた
そんなときには いつの日も
ああ 君たちがいて僕がいた
涙をこぶして ぬぐっていたら
遠くでこっそり 見つめてた
あの娘の瞳も ぬれていた
そんな日昏れも あったけど
ああ 君たちがいて 僕がいた
遠くでこっそり 見つめてた
あの娘の瞳も ぬれていた
そんな日昏れも あったけど
ああ 君たちがいて 僕がいた
さよならする日は 肩くみあって
しあわせ信じて うたおうよ
大人になるのは こわいけど
そんなときにも 離れずに
ああ 君たちがいて 僕がいた
しあわせ信じて うたおうよ
大人になるのは こわいけど
そんなときにも 離れずに
ああ 君たちがいて 僕がいた
という、あたかもグループ交際を推奨しているかのような同題の主題歌と「愛しあうには早すぎて」なる挿入歌とが、一種のハーモニーをかなでるような仕掛けとなっていた。
あるいは「高校三年生」の、
泣いた日もある 怨んだことも
思い出すだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら
フォークダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が
思い出すだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら
フォークダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が
という、いわば男女の接近の限界線の提示と、「愛しあうのは 早いのね」という自己抑制の論理とは、確かに共鳴しあってもいたのだった。つまり、若い男女のありうべき恋のかたち、愛のかたちの提示であり、当代の男女交際の指針とも規範ともいうべきものを掲げていた、とみなすことができるのである。
丘先生が語る、舟木さんとの心あたたまるエピソードも記されています。
昭和四十七年のマーガレット・ラインの開通により、波勝岬は観光バスがひっきりなしに往来する大型観光地化してしまったとはいえ、遊覧船上から見上げる絶勝奇勝の数々は依然として壮大なものだった。陸路からの秘境性は失われてしまったけれども、海路からのそれはまだまだ健在であったわけで、不十分ながらもそのメタファー性を体感できた以上、今回の波勝岬行きの目的はまがりなりにも果たせたことになる。そして何よりも驚かされた、ドロリとした青い印刷インクのような海の色…「愛しあうには早すぎて」にいう「コバルト色の波も散る」を、どうせ流行歌にありがちなオーバーな表現だろうと、高をくくっていただけに、胸をつかれたような思いがしたのだ。畏怖すべき「リアリズム」、と大げさにいってみてもいいが、あるいはこれなども、昭和三十年代精神の現れのひとつとみなすこともできるかもしれない。ひとつの仕事に全身全霊を打ちこむ職人芸の世界がそこにあるとしたら、それもまた、もはや現代においてはなかなか見出だしがたくなってしまった精神のありようだからである。
ここで思い出しておきたいエピソードがひとつある。
何年か前に神田の古書店で手に入れた「舟木一夫大全集」(昭和45・9)なるLPレコード五枚セットの分厚い付録冊子に収められた丘灯至夫のエッセイが教えてくれる、途方もない一種の人情話だ。
―「高校三年生」でデビューして二年目、超売れっ子、超多忙のスケジュールをこなす舟木一夫が、福島県の山奥で開かれた丘氏の生涯の記念ともいうべき「郷土訪問リサイタル」に、万難を排して、ゲストとしてはるばる駆けつけてくれたというエピソードである。
~たいへん辺鄙な土地であり、すでに若いながら、スター歌手となっている舟木君には、とても来て貰えないだろうと思ったが打診してみた。ところが舟木君は二つ返事で、「ぜひ行かせてください。スケジュールはなんとか都合します。」心良く承知してくれた。(中略)それだけではない。舟木君は私とともに、私の菩提寺を訪ねてくれて、すでに世にない私の父母の墓詣でをしてくれた。(中略)しかも、あとから知ったことだが、舟木君はこのとき、足の親指のなま爪をはがしていての旅であった。舟木君はそれでも、最後まで足指の痛みなど、おくびにも出さず、終日、笑顔で、私の郷里の人たちの歓迎に答えていてくれたのである。~(「舟木君と私の七年間」)
「純愛の精神誌 昭和三十年代の青春を読む」より~その2 エピローグ「高校三年生」―ひとつの時代の終わり― に続きます