「純愛の精神誌 昭和三十年代の青春を読む」より ~その1 舟木歌謡の向こうに
上記の記事からのつづきです
「その1」では、本作の「プロローグ 波勝岬慕情」という章をご紹介しました。著者は「高校三年生」をはじめとする舟木さんの学園ソングを「時代精神解明の手がかりとなるべきはずの一連の舟木歌謡」と位置づけ、「愛と死をみつめて」や、漱石の「こころ」、「石坂洋次郎作品」ほかの、いくつかのキイワードと並べて「昭和三十年代の青春を読む」ことを試みたわけです。
そして、著書の冒頭では、「波勝岬」をモチーフにした丘灯至夫作詩の「愛し合うには早すぎて」と、その歌を挿入歌として使った、東映青春映画「君たちがいて僕がいた」の同名の主題歌をピックアップし、同時に「高校三年生」の歌詩をも引き寄せて、これらの歌が「男女の接近の限界線の提示、つまり、若い男女のありうべき恋のかたち、愛のかたちの提示であり、当代の男女交際の指針とも規範ともいうべきものを掲げていた。」と紐解いていったわけです。
「舟木歌謡」に触れているのは、その1で紹介させていただいた「プロローグ」と今からご紹介する「エピローグ」なのですが、「舟木歌謡」がこの著書の最初と最後に置かれているということに注目したいと思います。、「昭和三十年代の青春」というのは、やはり「高校三年生」をはじめとする一連の学園ソングに集約され、また象徴されるひとつの「貌(かたち)と精神」に貫かれていたのだと確信できるのではないでしょうか。
今夜の「木曜8時のコンサート~名曲!にっぽんの歌」では、またまた「高校三年生」が流れました。
舟木一夫といえば「高校三年生」……「高校三年生」という歌は、もう舟木さんの勲章のようなものなのかもしれません。流行歌は、時代を背負っている…という言葉がこれほど説得力をもって迫ってくるという意味では「高校三年生」の右に出るものはないのかもしれませんね。
ここで、皆さんご周知のことだと思いますが、舟木さんが語る「高校三年生」もご紹介しておきます。
(1992年「歌手生活30周年記念 舟木一夫大全集―陽射し・旅人―」別冊解説書)より
この曲は僕のデビュー曲ということもあって、いろいろな思い出があります。まず、デビュー曲決定にあたって、詩を10編つくり、どれをAB面にするか、制作スタッフ、そして作家の先生方と、何回も会議を重ねました。そして最終的に「高校三年生」と「水色のひと」に決定したのですが、ここで一つおもしろいエピソードがあります。実を言うと、この「高校三年生」は、御蔵になりかかった作品なのです。当時のコロムビアの会議で、「この作品は流行歌ではなく、学芸部のジャンルに入るのではないか。だから舟木一夫のデビュー曲は他の作品にしたらどうか」という意見が数多くありました。しかし、その時の僕のプロデューサーが、どうしても舟木一夫のデビュー曲は「高校三年生」であるという強い信念で押し通してくれて日の目を見ることができた作品です。
又、この作品の録音は、僕の記憶では、コロムビアでの最後の同時録音だったと思います。
そして、月日が流れた今、この「高校三年生」は、もう舟木一夫個人の歌ではなく、日本の歌になっていると思います。そういう歌に出会えた僕は、本当に幸せだと、今つくづく感じています。
「純愛の精神誌 昭和三十年代の青春を読む」(藤井淑禎著/新潮選書)より
エピローグ「高校三年生」―ひとつの時代の終わり―
*ここで掲載したジャケット等の写真は私が補足編集したものです。本書掲載のものではありませんのでご了承ください。
赤い夕陽が校舎をそめて…
「高校三年生」の大ヒットぶりはもはや伝説化しているけれども、波勝岬の章でも引いた丘灯至夫の「舟木君と私の七年間」によると、実際その売れゆきは「私が(丘氏―引用者注)レコード会社の専属となって以来、はじめて見るハイピッチの記録的数字だった」という。
丘氏のメモによると、六月五日に発売して七月二十日には十一万五千七百五十二枚、八月三日には十六万一千六百十三枚、九月十六日には四十一万一千四百九十四枚と数字を飛躍的に伸ばし、年末には百万枚の大台にまでのせている。
結局舟木は当然のことながらこの年の日本レコード大賞新人賞を受賞、暮れのNHK「紅白歌合戦」にも初出場を果たし、さらに翌年三月には浅草・国際劇場で初のワンマンショーを開くなど、驚異的な躍進ぶりをみせることになる。デビュー曲の「高校三年生」の売上げも最終的にはシングル盤だけで二百二十万枚にも達し、「修学旅行」(昭38・8)、「学園広場」(昭38・10)、「仲間たち」(昭38・11)などの後続の学園ソングも幅広い支持を集めた。
ところで舟木歌謡の特色として、しばしば〈哀愁〉〈哀調〉ということがいわれる。これを、かりに、歌い手や作詞・作曲者の個性に帰する、という安易な考え方に与しないとすれば、いったいその根っこは何だったのか。
――学園ソングあるいは青春歌謡というと、ただちに、たとえば「青い山脈」のような青春を謳歌する雰囲気の歌を思い浮かべがちだけれども、一連の舟木一夫の歌は実はそれとは裏腹な方向性をもっていたのだった。すなわち、〈別れ〉こそは一連の舟木歌謡を貫く最大のモチーフだったのである。
具体的に、それを確かめてみよう。
具体的に、それを確かめてみよう。
赤い夕陽が 校舎をそめて
ニレの木蔭に 弾む声
ああ 高校三年生 ぼくら
離れ離れに なろうとも
クラス仲間は いつまでも
泣いた日もある 怨んだことも
思い出すだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら
フォークダンスの 手をとれば
思い出すだろ なつかしく
ああ 高校三年生 ぼくら
フォークダンスの 手をとれば
甘く匂うよ 黒髪が
残り少ない 日数を胸に
夢がはばたく 遠い空
ああ 高校三年生 ぼくら
道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を
ああ 高校三年生 ぼくら
道はそれぞれ 別れても
越えて歌おう この歌を
ここにあるのは現在の謳歌などではなくして、身近に迫った別れの予感なのである。歌の時点はまちがいなく高校三年次の現在にあるにもかかわらず、遠くない将来にくるであろう別れの時が歌われているのだ。基点は現在であるにもかかわらず、いわば未来のある時点を仮設して、そこから現在を振り返る=「思い出すだろ」というものだったのである。やがて近い将来、この今を「なつかしく」思い出すだろう、というわけだ。このように「高校三年生」という歌は、意外にも、哀切な別れの予感ないしは懐旧のトーンに色濃く縁取られた青春歌だったのである。
こうした特徴は先にあげた後続する学園ソングにも共通してみられるものであった。たとえば第二作「修学旅行」はどうか。
二度とかえらぬ 思い出乗せて
クラス友達 肩よせあえば
ベルが鳴る鳴る プラットホーム
ラララ…
汽車はゆく 汽車はゆく
はるばると はるばると
若いぼくらの 修学旅行
地図をひろげて 夢見た町を
僕のカメラで 撮した君を
思い出すだろ いついつまでも
ラララ…
汽車はゆく…汽車はゆく
ひとすじに ひとすじに
若いぼくらの 修学旅行
僕のカメラで 撮した君を
思い出すだろ いついつまでも
ラララ…
汽車はゆく…汽車はゆく
ひとすじに ひとすじに
若いぼくらの 修学旅行
霧の港に 湖畔の宿に
名残りつきない 手と手を振れば
あとを追うよな 小鳥の群よ
ラララ…
汽車はゆく 汽車はゆく
さようなら さようなら
若いぼくらの 修学旅行
名残りつきない 手と手を振れば
あとを追うよな 小鳥の群よ
ラララ…
汽車はゆく 汽車はゆく
さようなら さようなら
若いぼくらの 修学旅行
ここでも「高校三年生」と同じく未来の仮設点からの懐旧となっている。ばかりでなく「二度とかえらぬ 思い出」であるとか「手と手を振れば」とか「さようなら さようなら」とかいったように、およそ充実した現在の謳歌とはほど遠い情感の世界が繰りひろげられているのである。
四作目の「仲間たち」になると、現在時点自体が、すでに卒業して離郷後の時点に移行してしまっている。
歌をうたっていたあいつ
下駄を鳴らしていたあいつ
思い出すのは 故郷の道を
みんな一緒に はなれずに
ゆこうといった仲間たち
下駄を鳴らしていたあいつ
思い出すのは 故郷の道を
みんな一緒に はなれずに
ゆこうといった仲間たち
帽子まるめているあいつ
リンゴかじっているあいつ
記念写真は とぼけていても
肩をならべた ツメエリにゃ
夢をだいてた仲間たち
リンゴかじっているあいつ
記念写真は とぼけていても
肩をならべた ツメエリにゃ
夢をだいてた仲間たち
手紙よこせというあいつ
あばよあばよというあいつ
口じゃ元気に どなったくせに
ぼくが故郷を たつ朝は
涙ぐんでた仲間たち
あばよあばよというあいつ
口じゃ元気に どなったくせに
ぼくが故郷を たつ朝は
涙ぐんでた仲間たち
「ぼく」が現在いるのが東京かどうか、それはわからないが、いずれにしても仲間たちはもはや記念写真のなかの存分でしかない。「ぼく」を見送る彼らは「涙ぐんでた」というが、その涙は当時の、そしてその当時を想い起こしている現在の「ぼく」のものであったかもしれないのである。ともかく、懐旧一色に染めあげられた世界が、ここにはある。
そうだとしたら、みてきたような別れの予感と懐旧というトーンこそが、舟木歌謡を特徴づける〈哀愁〉の源泉だったのではないか。作中の現在時と未来の仮設時点とのあいだにあるのは「高校三年生」「修学旅行」、あるいは離郷後の現在時と故郷にあった過去の時点とのあいだにあるのは「仲間たち」、いうまでもなく〈別れ〉の時である。高校進学率七〇%という世相を背景として大多数の若者たちにとって人生最初の節目として受け止められるようになった高校卒業であり、高校時代というひとつの時代の終わりである。しかし、そこにはもうひとつの時代の終わりが重ね合わされていたのではなかったか。そんなふうに仮定すると、確かに「修学旅行」で繰り返される「さようなら さようなら」というフレーズにしても、あるいは「仲間たち」の「あばよあばよ」にしても、単に学生時代との別れを懐かしむにしては、あまりにも重すぎるという気がしないでもない。
青春の謳歌ならぬ哀切な別れの予感、あるいは仮設点からの懐旧・哀惜のトーンは単にひとつの青春とか学生時代に対してのものであったと考えるよりは、むしろ、ある時代の終焉に捧げられていたととったほうが、よりふさわしい。―ひとつの時代が終わろうとしている。そしてそれを悼む役割を担って登場してきたのが舟木歌謡だとして、それでは、その始まりはいったいいつだったのか。ヒントは歌自体のなかにいくらでも埋め込まれていたはずだった。たとえば、赤い夕陽に染まった「校舎」(当然、木造の)であり「フォークダンス」であり、「汽車」であり、「下駄」であり、丸めた「帽子」(当然、学生帽)であり、「ツメエリ」であり、といった具合に。おそらく高度経済成長以降の眼からみればレトロ調としかみえないそれらの道具立てが明らかにするのは「フォークダンス」に結晶させられている戦後的理念の時代との連続性にほかならなかった。
しかも、「音階」という側面に着目して戦後の流行歌を分析した小泉文夫の「歌謡曲の構造」(昭和59・5)によると、日本の大衆歌謡のほとんどは五音音階の長調か短調であるのに対して、この歌は「学校で習う」「純西洋的」な七音の「和声的短音階」でできているという。詞・曲ともに理念的な色合いの濃い、生粋の戦後的なものであったことになるが、そういう意味では「戦後的理念の時代との連続性」は「青い山脈」との連続性といいかえてもよいかもしれない。「青い山脈」に始まり、「高校三年生」に終わるひとつの時代。
「青い山脈」が昭和三十年代末くらいまでは同時代の文学としての生命力を保っていたことは、石坂洋次郎の章で紹介した圧倒的な支持率からもわかるが、より卑近な例としては、吉永小百合が主演した何度目かの映画化が昭和三十八年であったという事実をあげてもいい。これ以降ももちろん映画化されることはあったが「青い山脈」がレトロではなく同時代の映画として受け止められたのはおそらくこれが最後だったのではあるまいか。その意味でも、ここでひとつの区切りが打たれたと考えなくてはならないのである。もうひとついえば「高校三年生」の作詞者である丘灯至夫が「青い山脈」の作詞者西條八十の愛弟子であったということも、ふたつの作品の連続性のささやかな証ではあるだろう。いずれにしても、この時代の出発点に位置する「青い山脈」が現在を謳歌し、帰結点に位置する「高校三年生」が過去を哀惜していたというのも、こんなふうに考えれば、きわめて自然なことであったといわなくてはならないのである。