金子市之丞は実在の人物?~千葉県の流山市にお墓があるそうです
今日の散歩道~流山市~流山のねずみ小僧 金子市之丞 より
流山のねずみ小僧 金子市之丞
江戸時代、安政4年(1857)に初演され一斉をした歌舞伎『鼠小紋東君新形』(ねずみこもんはるのしんかた)。 主人公は、ご存じねずみ小僧次郎吉(1795~1832)。
町火消しの鳶人足(とびにんそく)から義賊(ぎぞく)へと身を転じ、江戸市中の大名屋敷を荒らしては金を盗み、酒色とに使い果たして斬首となった大泥棒である。のちに、歌舞伎や講談で盗んだ金を貧民に分け与えた〈義賊〉として脚色されたことから、多くの観客の心をとらえ、一躍有名となった。
その少し前の時代、東葛飾の地にも、同じように義賊と呼ばれた一人の男がいた。
明和6年(1769)流山の酒造家金子屋の一人息子として生まれた、金子市之丞(かねこいちのじょう)である。 幼くして父を亡し、母との貧しい生活に耐えかねて、任侠の世界へ。あげくの果てに盗賊にまで身を落とした市之丞だが、盗みに入るのは金持ちの屋敷ばかり。盗んだ金を貧しい家にばらまいて歩き、天明の大飢饉の折りにはその金で飢えた人々を救ったという。そんな市之丞を、地元の人々はいつしか〈ビン小僧の金市(かねいち)〉と呼ぶようになった。
ところが、やがて金市は捕らえられ、処刑されてしまう。
金市を慕う人々はその亡骸(なきがら)をこっそり引き取り、彼の義行を偲んでふるさと流山の墓地に手厚く葬ったということである。
武流山電鉄流山駅から県道を越え、近藤勇の陣屋跡を通り過ぎると、閻魔堂(えんまどう)と書かれた大きな看板が目に写る。
入り口を入るとすぐ、右手に焔魔(閻魔)堂が。中には、220年以上も前に造られたという閻魔さまの半座像が鎮座している。
境内には36軒の先祖代々の墓が並び、最も古いものは元禄時代にまでさかのぼると、墓地を管理している寺田屋のご主人、栄一さんが教えてくれた。
![金子市之丞、三千歳の墓]()
その焔魔堂の正面に、金子市之丞の墓が建っていた。右側には、金市と恋仲だったといわれる遊女 三千歳(みちとせ)の墓がある。こちらは、離れていてはさびしかろうと、明治に入ってから地元の人々によって建てられたもので、金市の墓に寄り添うようにたたずんでいる。
さて、本当のところ、金市が義賊であったかどうかは定かでない。が、ねずみ小僧同様、「義賊・金市」を題材に江戸の終わりから明治にかけて講談の『天保六花撰』、歌舞伎の『天衣粉上野初花』(こもにまごううえのはつはな)などが創作、上演され、大好評を得たと地元では語り継がれている。
江戸時代、安政4年(1857)に初演され一斉をした歌舞伎『鼠小紋東君新形』(ねずみこもんはるのしんかた)。 主人公は、ご存じねずみ小僧次郎吉(1795~1832)。
町火消しの鳶人足(とびにんそく)から義賊(ぎぞく)へと身を転じ、江戸市中の大名屋敷を荒らしては金を盗み、酒色とに使い果たして斬首となった大泥棒である。のちに、歌舞伎や講談で盗んだ金を貧民に分け与えた〈義賊〉として脚色されたことから、多くの観客の心をとらえ、一躍有名となった。
![■閻魔堂入り口■ 商店や住宅が建ち並ぶ町中にに、ひっそりと歴史に取り残されたような一角。懐かしい井戸の姿も・・・](http://members.jcom.home.ne.jp/cherry-f/nagareyama_01.jpg)
明和6年(1769)流山の酒造家金子屋の一人息子として生まれた、金子市之丞(かねこいちのじょう)である。 幼くして父を亡し、母との貧しい生活に耐えかねて、任侠の世界へ。あげくの果てに盗賊にまで身を落とした市之丞だが、盗みに入るのは金持ちの屋敷ばかり。盗んだ金を貧しい家にばらまいて歩き、天明の大飢饉の折りにはその金で飢えた人々を救ったという。そんな市之丞を、地元の人々はいつしか〈ビン小僧の金市(かねいち)〉と呼ぶようになった。
ところが、やがて金市は捕らえられ、処刑されてしまう。
金市を慕う人々はその亡骸(なきがら)をこっそり引き取り、彼の義行を偲んでふるさと流山の墓地に手厚く葬ったということである。
武流山電鉄流山駅から県道を越え、近藤勇の陣屋跡を通り過ぎると、閻魔堂(えんまどう)と書かれた大きな看板が目に写る。
入り口を入るとすぐ、右手に焔魔(閻魔)堂が。中には、220年以上も前に造られたという閻魔さまの半座像が鎮座している。
境内には36軒の先祖代々の墓が並び、最も古いものは元禄時代にまでさかのぼると、墓地を管理している寺田屋のご主人、栄一さんが教えてくれた。
![金子市之丞、三千歳の墓](http://members.jcom.home.ne.jp/cherry-f/nagareyama_02.jpg)
その焔魔堂の正面に、金子市之丞の墓が建っていた。右側には、金市と恋仲だったといわれる遊女 三千歳(みちとせ)の墓がある。こちらは、離れていてはさびしかろうと、明治に入ってから地元の人々によって建てられたもので、金市の墓に寄り添うようにたたずんでいる。
さて、本当のところ、金市が義賊であったかどうかは定かでない。が、ねずみ小僧同様、「義賊・金市」を題材に江戸の終わりから明治にかけて講談の『天保六花撰』、歌舞伎の『天衣粉上野初花』(こもにまごううえのはつはな)などが創作、上演され、大好評を得たと地元では語り継がれている。
流山市観光協会 HP その他の史跡ページ
http://nagareyamakankou.com/sonotanosiseki/kenntyouato.html
http://nagareyamakankou.com/sonotanosiseki/kenntyouato.html
金子市之丞と三千歳の墓 (流山市流山2丁目)流山駅から徒歩4分
閻魔堂は、その名の通り、閻魔大王を祀り、安永5年(1776年)銘の座像が安置されている。境内には、如意輪観音や宝篋印塔などの石造物があり、また、天保六花撰のひとり義賊 金子市之丞と遊女三千歳の墓がある。昔からこの墓に詣でると、頭の病気が治るとか犯罪者の刑が軽くなるなどと言われている。
金子市之丞とは?
江戸時代、金子屋という裕福な店の一人息子として生まれた市之丞(いちのじょう)は何不自由することなく育ちました。しかし、市之丞が7~8歳の頃に父親が事業に失敗しそれがもとで亡くなってしまいました。一転貧乏生活を強いられた市之丞は、それに耐えられず悪の道に走ってしまい、さらには盗賊になってしまいました。しかし、金持ちばかりを狙い、そのうえ奪った金品を貧しい町民にばらまいたことから陰では『ビン小僧市之丞様』と、ありがたがられました。やがて、役人に捕らえられ、処刑されてしまいましたが、町民は亡骸をこそっと引き取り閻魔堂の脇に葬りました。後にかの有名なねずみ小僧次郎吉もその儀行をまねたと言われています。
流山市は、千葉県の西部で野田市の南、松戸市の北に位置しています。
お近くの方はぜひお墓参りにお出かけくださいね。
大川橋蔵さんの金子市之丞と里見浩太朗さんの金子市之丞