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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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今さらですが~デビューの頃からの舟木さんをたどってみよう!その3

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イメージ 1別冊 近代映画 舟木一夫特集号 
~高校三年生/ステキなその魅力(1963年11月号)
 
この1963年11月号については、今回が最終です。この50年も昔の「近代映画」という雑誌を読んでいると本当に隔世の感があります。アイドルやスターとはいえリアルタイムの個人情報である、住所や一般人の関係者のお名前などが、そのまま記載されていることに驚かされます。「近代映画」イメージ 2では掲載されていませんが、思い出してみたらいろいろな雑誌に「ペンフレンド募集」欄などがあって、全くの一般人も実名や住所を平気で公表していたわけです。今は、ネット上のこういったブログなどで、自由に「日記」という形式で、それぞれの個人が発信したり、表現したり、またそれに呼応して、いわゆる「個人情報」を伏せたままでも、互いに「想い」のやりとりをすることができる時代になりました。半世紀という歳月は、過ぎてみれば早かったようですが、やはり決して短い時間ではなかったのかも知れないと、古い雑誌の記事を読んでいてあらためて気づかされたような思いがしています。
 
 
以下の記事類も、今という時代ならあり得ないですね。人気絶頂のアイドルの実家や現在の住いのことが、決して悪意では全くなく、どんな小さな情報でも知りたがっているファンのために「親切すぎるほど詳細に」報告されています。
私は、舟木さんが上京後、最初に住んでいらした青葉荘の部屋の窓からたくさんの少女たちが舟木さんの部屋を覗きこんでいる写真を初めて見たとき、合成写真?と思いました(笑)
覗かれている舟木さんもニコニコしてて、覗いている少女たちも少しも悪びれていないし・・・ホントにのど
かな時代だったんだと、驚きとともに感銘を受けました。
 
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周到に準備を重ねてアイドルやスターに「された」のではなく、いきなり「なってしまった」舟木さんだからこその、あの風景であって、最初から商品として創られたアイドルやスターなら、ああはいかなかったのかも知れないのですが・・・
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~優しい家族の声援いっぱい~ 

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僕の私生活ABC 一宮の巻
 
舟木君の生家は、愛知県一宮市萩原町栄町にあります。東海道線で一宮駅下車、それから尾西線の電車に乗ること約十分で萩原町に着きます。
~中略~
さて、舟木君の家をご紹介いたしましょう。~中略~次に二階をご紹介いたしましょう。トントンと階段を上がりますと、すぐに六畳の部屋。ここが舟木君のお部屋です。窓の側に舟木君の机がおかれています。そして窓の上のカモイのところに、舟木君のポートレート数枚が、額入りで飾られています。
~中略~
そして、舟木君のポートレートのお隣に賞状が飾られています。先ほどちょっとふれましたが、舟木君のお父さんが市長さんからもらった賞状なのです。
「ボクの父は、この町で、十年ばかり映画館を経営していたんですよ・・」舟木くんはポッツリと記者に教えてくれました。
「やっぱり芸能界とは縁があったというわけですね・・」
イメージ 9「まあ、そういうわけです。」
舟木君は静かな口調で言うのでした。そしてお父さんはいまも観光・宣伝・教育映画の製作を行っているのですから、芸能界とは縁が深いと申せましょう。
一方、窓際におかれた本箱には、本がギッシリと並んでいます。有名作家のベスト・セラーズものが多く、文学好きの一面が覗かれます。
「今はどんな本をお読みですか・・」記者の問いに
「それが・・最近、ぜんぜん忙しいでしょう、だから本を読む暇がないんです。ゆっくり読書をしたいのですが・・」
ちょっと淋しそうな舟木君の表情です。
 
 
~ファンレターの山 ”せまい二間暮し”も愉し!~

イメージ 10 僕の私生活ABC 東京の巻
 
舟木君の東京におけるお住まいは新宿区四谷若葉町ー青葉荘というアパートです。~中略~この四谷駅から新宿行の都電が走る大通りを新宿方面に向かって歩きます。約二百メートルほどのところを左へ曲がり、さらに五十メートルほど行きますと左側に二階建てのアパートが見えます。白ペンキの表札には”青葉荘”とあり、その下に横文字で”AOBASO”と書いてあります。ブロク塀に囲まれた門を入りますとすぐ右手が舟木君のお部屋。二畳敷きくらいの板の間には、洗面用具やアイス・ボックスがおかれ、コカコーラの大きな箱があります。
~中略~
しかし、ほんとうは舟木君が借りている部屋ではありません。ゲンミツに言いますと、この部屋舟木君の所属している堀プロの社員、阿部さんの部屋なのです。舟木君はつまり阿部さんの居候というわけ。
最初は三畳間だけを舟木君の部屋としていたのですが・・・押し寄せるファンレターの山にお株をとられて今は・・・~中略~三畳の部屋には外に面して約一間の窓があります。その窓には金網が張ってあるのでどういうわけか訊ねてみました。
「ここは入口に近い部屋なんで、朝早くからファンがドンドンと窓を叩くんです。そして「ああいるいる、舟木君の足がみえる」なんて大きな声で叫ぶので・・」
そのため、金網を張りめぐらしたというわけなのでした。人気者のつらさといったところでしょう。
 
 

 
~リサイタル・ワンマンショー・地方公演・・愉しみな今後~
 舟木一夫さんのスケジュール拝見
 
イメージ 11舟木君は「高校三年生」出演に先立ち、スチール写真を撮ったり衣裳その他、井上芳夫監督と慎重に打ち合わせをしました。そして主題歌をプレスコで吹き込みましたが九月十二日から本格的にクランクインしました。
~中略~
さらに十六日から十九日までの四日間、舟木君の故郷一宮市でロケしました。全市を上げての歓迎ぶりに舟木君は大感激です。二十四日には名古屋名鉄ホールで”歌うコロムビア・名古屋の集い”が開催され、舟木君ももちろん出演することになり、前日の二十三日は舞台稽古。堀プロでは舟木君の”白い魅力”を大いに売り出そうとハリきっています。”白い魅力”というのはクールな魅力とでも言いますか、舟木君の清潔な魅力を大いに強調しようという作戦なのです。~中略~さらに十月一日にはコロムビアの家族慰安大会が川崎の工場で行われることになっていますが、舟木君も新入社員として家族の人々にも初のお目見えをすることになっています。NHKのジェスチャー・クイズへの出演も決定しており、またレコード六社の有望な新人が各社から三人ずつ出演するレコード祭りにも出演することになる予定です。
十一月二十七日には故郷一宮市で初のリサイタルを行うことになっています。市の主催で後援会が発足することになっており、九月一日にこの旨を発表しました。それ以来、申込者が日増しに増え二週間で約六千名の申込みがあったそうです。~中略~堀プロの堀威夫社長は舟木君を”白い魅力”として売り出す方針を打ち出しましたが・・・同時に舟木君を"美空ひばり”の男性版として大いに売り出すといっています。テレビ、舞台では舟木君に歌だけ唄わせて、芝居はやらせない方針のようです。そして映画会社に舟木君を渡すときは「まっ白なスケジュールで映画会社に渡す」と明言しています。つまり・・いままで多くの歌手が映画に出演する時は、多忙なスケジュールを縫ってたいへん忙しい思いをするのが常のことでした。こういう状態では満足な映画にできるはずがありません。そこで舟木君にじっくりと腰を落ち着けて映画の仕事をやってもらいたいというのです。~中略~舟木君の本業はあくまで歌手です。しかし、映画出演のときは映画スタアに成りきるというスタイル。舟木君は幼年時代からチャンバラ映画が大好きでした。将来は現代劇にも、時代劇にも出演したいと舟木君は言っています。
来年の三月一日には浅草の国際劇場で一週間のワンマン・ショーを開催する予定。~中略~スケジュールの面をみただけでも、舟木君の前途はこのように洋々たるものがあります。
 
 
以下は5ページにわたる記事です。「舟木一夫」と名前が入っている記事ですが、舟木さんからの聞き書きなのか、実際書かれたものかは不明です。とにかく既に殺人的なスケジュールに突入している頃のことですから・・・。ただ内容については、御本人にしか表現できないようなニュアンスですから、当時の舟木さんの気持ちが、率直に、そのまま出ているような気がします。最後の言葉を「さようなら」で締めてるところが、なんとも少年ぽくて、微笑ましいですね。

大好きな歌を唄える喜び  舟木一夫  ~一部抜粋~

~子供の頃から歌が好き
 
イメージ 12歌は子どもの頃から大好きでした。ボクの生まれた家は一宮市のはずれにありますので、まだ都会化されておりません。付近には小川も流れておりますし、田や畑、野原があります。小川で魚を釣ったり、夏にはトンボを追いかけたり・・そして、暇さえあれば歌をうたっていました。
あの歌、この歌・・いろいろな歌が幼いボクの耳に入ります。すると、すぐにおぼえてしまって、それこそ唄いまくるといった有様。フランク永井さんの「夜霧の第二国道」などは愛唱歌中の愛唱歌でした。美空ひばりさん、三橋美智也さん、春日八郎さん、マヒナスターズの皆さんの歌・・・。どの人の歌も好きでした。ボクは表面、たいへん朗らかでしたが、心の底はやはり淋しかったのでしょうか。歌を唄っていると、孤独な心が自然になごやかになるのです。歌は心の故郷・・・。という言葉を何かで読んだことがありますが、ボクにとって歌はたしかに心の故郷でした。ああ、歌手になりたい・・・ボクは果たして歌手になれるだろうか・・・。
とても歌手にはなれないだろうか、しかし、どうしてもなりたい、と幼いときから夢を抱いていたのです。
 

 
 
イメージ 13~愉しかったアルバイトの思い出
 
ボクの父は映画館を十年ばかり経営していましたが、現在では宣伝や映画製作のプロダクションを経
営しています。そのため、家にはステレオやレコード、テープ・レコーダーなどもそろっています。これがボ
クにどんなにプラスしたことでしょう。ボクも好きなレコードを買ってきて家で勉強することができました。
しかし、高価なレコードを、それほどたくさん父にねだることはできません。そのためボクはアルバイトをしようと決心したのです。一宮駅の近くに大口屋というデパートがあります。そこで、アルバイトをしたこともあります。売り子になってお客様のお相手をすることは、たいへん人生勉強になることだと思いました。社会勉強をして、働いたお金でレコードを買い、また歌の勉強になるのですからアルバイトもありがたいものです。

 
~初吹き込みの日の感激を忘れずに  
 
イメージ 3転校の手続きも無事に済み、去年の五月にボクは阿部さんのアパートにご厄介になることになりました。~中略~
ここにボクはそれ以来一年四ヵ月の長い間ご厄介になっています。そして昼は学校に、夜は遠藤実先生の許へレッスンに通いました。明けてもくれても歌、歌、歌・・・。あんまり歌ばかり唄っているので阿部さんもびっくりしたことでしょう。年中、歌ばかり唄っているのですから、まったくボクは歌の虫かも知れません。
”梅の湯”が近くにありましたが、ここのお風呂にひたりながらも、いい気持ちになって唄っていました。
いろいろな方が、上京したこのボクを励まして下さいました。いま、お名前をあげたらきりがなさそうなのでお名前は申し上げませんが・・・。この紙上を借りて皆さまに厚くお礼を申し上げます。
~中略~
今年はボクにとってラッキーな年でした。三月には待望のデビュー盤「高校三年生」を吹き込むことが出来たのです。その日の感激を何んと申したらよいでしょうか・・。吹き込みが終わってボクは一瞬、ボーッとしてしまいました。この日の感激は一生忘れないでしょう。その喜びもつかの間、このデビュー盤が大ヒットになってしまったのです。生まれて初めてファンレターをいただいたのもそれから間もなくのことです。喜びは二度続きました。今度は、デビュー曲の映画化です。~中略~好きな歌をいつもいつも唄っていられる倖せなボク。これからも皆さまのご期待にそむかぬよう一生懸命にやるつもりでおります。それではみなさま、長々とお喋りしてしまいました。くれぐれもお身体に気をつけて頑張って下さい。ボクも一生懸命にやります。さようなら。
 
 
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下の写真も同じ号に掲載されていました。「歌謡評~順風満帆の船出に大きな期待を!」というタイトルがついた4ページの記事の中に挿入されていた写真ですが、文面に一切説明がなくどういった時に撮影されたものかはわからないのですが、私が少女時代に親しんだ少女雑誌の表紙やファッションのページでモデルをされていた松島トモ子さんと鰐淵晴子さんに挟まれている詰衿姿の舟木さんです。松島トモ子さんも鰐淵晴子さんもともに1945年の終戦の年にお生まれになっているので舟木さんよりは1歳下ということですね。彼女たちは子どもの時から芸能界にいらっしゃるので、舟木さんより年下というのがピンとこないので不思議な感じがしますが、なんだか私には嬉しいスリーショットです(笑)
 
 
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