12日までは、まだ2日ありますが、明日から二度目の新歌舞伎座詣でに出かけますので、私の都合で恐縮ですが、ちょっと早めの「プレ&プレお誕生日特集」を掲載させていただきます。
♪はっぴーばーすでぃ とぅ ゆぅ♪↓
http://www.youtube.com/watch?v=gtKscJTJbEI
http://www.youtube.com/watch?v=gtKscJTJbEI
舟木さん、お誕生日 おめでとうごさいます!
「60代のファイナル・イヤーのスタート」を 心からお祝い申し上げます
これからの一年が舟木さんにとって、
これからの一年が舟木さんにとって、
また、舟木さんを愛する私たちファンにとって
幸多き年になりますように
~以下は大倉明著「青春賛歌」から転載させていただきました~
「歌よりも時代劇が好きだった幼少時代」より
昭和19(1944)年12月7日午後1時36分ごろ、紀伊半島南東沖を震源とするM7.9の東南海地震が発生。静岡県御前崎市、三重県津市などで震度6を観測し、死者・行方不明者は1223人にのぼった。また、6日後の13日には、米軍のB29爆撃機90機が名古屋市千種区の三菱発動機大幸工場(のちの三菱重工名古屋工場、現在は跡地がナゴヤドーム)を空撃、工場を破壊した。
ごく近くで発生した2件の大地震と大空襲の影響をどれほど受けたのかは定かではないが、舟木一夫が愛知県一宮市萩原町串作1015番地の時代劇に出てくるような長屋で、劇場を経営していた父・上田栄吉、母・雅子の長男として誕生したのは、そんな大きな出来事にはさまれた12日午前1時ちょうどだった。
萩原町一帯では当日、空襲警報こそ鳴りをひそめていたものの、10日から大雪が降り続き、積雪は30センチを超えていた。栄吉が1キロほど離れた助産婦の家へ自転車で呼びに行ったが、なかなか起きてもらえず困ったという。「考え込んだような顔をして生まれてきた。」という長男を、栄吉は自分が尊敬する2人の智将、楠木正成と真田幸村から一字ずつとって成幸と名付けた。
大倉明さんは今回の新歌舞伎座公演のパンフレットで、舟木さんにインタビューなさっていらっしゃいます。→
大倉さんならではの中身の濃い記事になっています。
チラリと見える舟木さん・・・
どうです、このお洒落のセンス!
なんてステキなんでしょう。
69才ですよ・・・こんなカッコイイ69才なんて信じられません(笑)
歌への情熱と、こんな素晴らしいお洒落心がおありだから、55周年は、かる~くクリアなさることだろうと確信できますね。
さて、舟木さんの誕生花(12月12日)・・・ちょっとお遊びで調べてみたら「紫のヒヤシンス」
そして、花言葉は「初恋のひたむきさ」だそうです!・・・・できすぎですね(笑)
どれだけたくさんの乙女たちが、舟木さんに「初恋」をささげたことでしょう。
私たちファンにとっては、まさに、この花言葉は舟木さんに捧げる花言葉のようですよね。
そして、花言葉は「初恋のひたむきさ」だそうです!・・・・できすぎですね(笑)
どれだけたくさんの乙女たちが、舟木さんに「初恋」をささげたことでしょう。
私たちファンにとっては、まさに、この花言葉は舟木さんに捧げる花言葉のようですよね。
風信子(ひやしんす)だより 作詩:吉岡治 作曲:服部きよし
アルバム「花もよう」収録(1976年6月)
http://www.youtube.com/watch?v=i71fBdFSTfA
http://www.youtube.com/watch?v=i71fBdFSTfA
風信子の花がかおるむこうで
とりとめのない雨のおしゃべり
僕は僕でそんな窓辺の景色
飽かず眺める此頃です
とりとめのない雨のおしゃべり
僕は僕でそんな窓辺の景色
飽かず眺める此頃です
君と逢った夏から秋
ひとりすごす冬から春
そして明日は誰のために
季節は移ろい逝くのですか
ひとりすごす冬から春
そして明日は誰のために
季節は移ろい逝くのですか
君のことを想うばかりで
やりばのない日々のいらだち
なにをしても生きる意味さえなくて
そんな自分にあきれています
やりばのない日々のいらだち
なにをしても生きる意味さえなくて
そんな自分にあきれています
お元気ですか 君はいまも
愛の日々を 信じてますか
淋しすぎて眩しすぎて
信じてないのは僕だけです
愛の日々を 信じてますか
淋しすぎて眩しすぎて
信じてないのは僕だけです
君と逢った夏から秋
ひとりすごす冬から春
そして書いた青い手紙
宛名がないから迷うでしょう
ひとりすごす冬から春
そして書いた青い手紙
宛名がないから迷うでしょう
舟木さんのアルバム (写真は古い「近代映画」「明星」より)
取り壊す直前頃の生家。白いスレートが張ってある真ん中の家。右側の写真には生家跡看板が立ってます
生家が取り壊されてからしばらくの間はお向かい側の鉄工所のような敷地の中に大切に置かれていました。↓
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公開されている写真で一番
小さい時のものかもしれませんね。こんな小さな時から「笑顔千両」の舟木さん。
かわい~い!
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5才くらいの時、「健康優良児」
という感じですね。
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萩原小学校。左は裏門のようです。
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自宅から萩原小学校への通学路。私はこの道を実際に歩いてみましたが、今もまだ当時の面影が残っている感じでした。
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萩原小学校正門側の校庭だと思います。今は老朽化して撤去されてしまったそうですが、舟木さんが寄贈なさった「がんばりの像」があった場所のようです。
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小学校三年生の遠足。
健脚だった舟木さんはどんどん川の奥の方(上流?)まで歩いていって、先生を心配させて大目玉をくらったそうです。
当時から「チャレンジャー」の素質があったんですね(笑)
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小学校5年生の時。
もう今の舟木さんのお顔になってきてますね。
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萩原中学校。
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舟木さんが寄贈なさった時計が今も時を刻んでいるのですね。
中学生になりました。もう今の舟木さんそのまんまですよね。 ↓部活動が終わった音楽室で・・・
満面の笑みに下駄ばき・・・坊主頭が「絶唱」大好きな私には中学時代の「順吉若様」に見えます
時は流れていよいよ高校生です。テレ屋さんといえども、「歌手」を目指すようになった頃ですから、カメラの前に立つと、やっぱりどこかキメてますよね(笑)ぼちぼちスターのオーラが感じられる写真になってきてるように感じます。
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これらは、まだまだデビューまで時間があるころのスナップですが、もうプロマイドになっても十分じゃないですか・・
そしてきわめつけ!高校の修学旅行の時のスナップ。おそらく上京後、自由ヶ丘学園高校時代のものかと思われます。
旅行先は北海道。青函連絡船の中でのものだそうです。「もの想う、この憂いを帯びた横顔・・・」なかなか並の高校生ではこんなショットは撮れませんよね。おそれいりました(笑)
そして、テレ屋さんなれど、チャッカリと美人バスガイドさんとのツーショットも残ってます・・・
でも、距離感がビミョーで、やっぱりかなりテレてますよね(笑)むふふふ
そして、デビュー・・・見事に「故郷に錦を飾った」舟木さん
そして デビューから50年の長い旅路を経た今も
なお 大きくきらめき 輝き続ける 私たちの星なのですね