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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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舟木君と私の七年間 丘灯至夫  舟木一夫大全集 寄稿文(1970年10月)その2

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川中島古戦場のりんご農家から取り寄せた「シナノスイート」と、オマケで入っていた「ヒメリンゴ」

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シナノスイートで娘が焼いたアップルパイ風ケーキ

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ヒメリンゴは、丸ごとコンポートにしてバニラアイスと一緒に…

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舟木君と私の七年間 丘灯至夫  舟木一夫大全集 寄稿文(1970年10月)その1~のつづきです



日本コロムビア創立60周年記念 舟木一夫大全集 別冊解説書

舟木君と私の七年間  私の覚え書メモから  丘灯至夫

この年、「高校三年生」は大映で映画化され、舟木君は姿美千子君や倉石功君と共演し、映画への初進出、新宿コマ劇場の「花咲く学園」では、初舞台を踏んだ。と同時に、NHKテレビの大河ドラマ「赤穂浪士」では、矢頭右衛門七の役で、大抜てきをうけたものである。

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翌三十九年に入ると、三月には浅草の国際劇場で、初の「舟木一夫ワンマンショー」を開き、あの大劇場に、故郷、一宮市の後援会の団体をはじめ、あふれかえるほどの客を集めた。無口でテレ屋の舟木君が、堂々たる舞台姿ぶりを見せ、満員の客を大いに堪能させてくれたものである。
「涙の敗戦投手」は、この年の春に、売り出されたレコードである。この詩は、私が前年、前に述べた病後静養のため、福島県の温泉へ赴く途中、列車の中でまとめたものである。戸塚三博氏の作曲を得て、私にとっては好きな歌のひとつだが、あまりひろくは歌われなかった。ちかごろになって、青森県三沢高校の太田投手(現在・近鉄)が、甲子園で敗れた直後、「あの歌を、ここで出したらきっと流行したでしょうね。」といってくれた人がいる。あるいは、そうかもしれない。流行歌というものは、発表する時期のタイミングも大いにあるということである。

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つづいて、この年の五月には、「君たちがいて僕がいた」が発売された。この歌は、東映映画主題歌としてこしらえたものである。舟木君は、この映画で、本間千代子君や千葉真一君と共演した。この歌には、前奏に、舟木君の歌としては珍しいセリフが入っている。このセリフがまたファンには、たいへん喜ばれたようであった。しかし、このセリフを作るのに、私は歌を作るより難渋した。こうか、ああか……と苦しんでいる私のかたわらで「そんなものはワケないでしょう…。」と万年筆でさらさらと手を加えてくれたのは、担当の、栗山ディレクターであった。だから、厳密に言えば、このセリフのくだりだけは、栗山ディレクター作といったほうがよいのである。この若いディレクターは文才もある器用な人であった。とにかく、この「君たちがいて僕がいた」は、軽快な遠藤実氏の曲で、大いに売れ、また映画もヒットした。私にとっても、この歌は「高校三年生」とともに、舟木君の歌の中で、好きな歌のひとつになっている。

夏、八月には、やはり東映映画「夢のハワイで盆踊り」出演で、舟木君は、はじめての海外ロケを果たしている。
秋には、明るい「花咲く乙女たち」の歌が発売され、そして「まだ見ぬ君を恋うる歌」も世に出た。「花咲く乙女たち」は、私の恩師、西條八十先生が、舟木君のためにはじめて書いた詩。芸術院会員という、肩書を持つ詩壇の重鎮である西條先生が、「舟木君の清潔なイメージを頭において書いたものだよ。」と私にいわれたことがあるが、誠に若さに溢れた、しかも気品ある美しさに満ちた作品であった。

「まだ見ぬ君を恋うる歌」は、私の詩に、新進気鋭の作曲家、山路進一氏が作曲してくれたものである。この歌を作るころ、私もディレクターも「学園ムードものを脱皮して、さてどんなものを舟木君に歌わせたらよいだろうか。」と悩んでいたものである。そういう話し合いを毎晩のようにつづけていたある夜、私の家で、私の古い詩のスクラップを読み返していた栗山ディレクターが、「これ、これ、これでいきましょう。」指をさしたのが、若いころ、私が作っておいた「まだ見ぬ君を恋うるかな」という詩だった。
私が、十七、八歳のころにこしらえた詩で、古傷をさらすようなものだけれど、その原詩の一番を、いま、ここに掲せてみよう。

裏切り多き 人の世に
まこと頼れる 人欲しや
更けて 時雨を 聴きつつに
まだ見ぬ君を 恋うるかな

この詩の題名はそのまま、内容をレコード吹込みをした歌詩のように、まるっきり変えたものである。目で読む詩と、耳できく詩の相違を、ここで読みくらべていただければ幸いである。舟木君は、どうやらこの歌あたりから、大人っぽい歌を歌う歌手の仲間入りができたようで、つづいて、四十年一月に発売した、やはり私の詩に、遠藤実氏が曲づけした、成人式記念の「成人のブルース」で舟木君は、立派な大人の歌唱力を、披露してくれたものである。

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「北国の街」は、四十年三月、舟木君が山内賢君や和泉雅子君と共演した、日活映画の主題歌としてこしらえたものだった。この歌は、意外に苦労した。詩ははじめ、「アカシアの街」という題でこしらえたものだったが、ディレクターの注文で三度ほど書き改めたと記憶している。だから、ひとつの歌として出来上がるまでに、一ヶ月近くの日数を費やしている。私たちの仕事としては、たいへん長い時間をかけた作品だった。しかし、ここまでは、私たちの仕事では、よくあることである。このあとが、大変だった。編曲が完成し、フル・バンドを使ってオト入れをした。(舟木君の歌は、アト入れが多いので、一応、音楽だけを先取りする)。これが、ディレクターの気に入らず、また編曲のし直し。さて、吹込みをして、これでOKが出るものと期待したところが、これもダメ。結局、このオト取りも三回やり直して、ようやく、ディレクターがにっこり、「これでいいものができましたよ。」ということになった。二十何人ものバンド演奏録音を、三回やり直したというのは珍しい。費用もバカにならないが、それだけ、ディレクターも、この一作に情熱を傾けたといっていい。お蔭で歌もヒットしたが、映画もヒットした。

「東京は恋する」もこの年の夏に発売され、九月には、やはり舟木君が、和田浩二君や伊藤ルリ子君と共演して、日活で映画化されたものだが、この詩は五月、伊豆の河津町「踊り子の碑」のある湯ケ野温泉に滞在中こしらえた。たしか、二、三十分でまとめあげてしまったことをおぼえている。わずかな時間でまとめたからといって力を抜いている訳ではない。うんうん唸りながら苦吟しても、なかなかペンが進まないこともあれば、興が載って、五、六分で骨組みができあがることもある。
私の場合などは、構想がひらめけば、早い時間でまとめあげたもののほうが、心楽しい作品になることが多いようだ。「高校三年生」なども、わずかな時間でまとめあげた作品のひとつである。

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この年の、七月五日、舟木君は、私の生涯で忘れることのできない美しい思い出を残してくれた。私がコロムビア専属となって二十年近いということで、私の郷里からの希望があり、「郷土訪問リサイタル」を開くことになった。私の生家は、福島県の郡山市から磐越東線というローカル列車に乗り換えて、平市へ向かう途中の小野町という、小さな町にある。たいへん辺鄙な土地であり、すでに若いながら、スター歌手となっている舟木君には、とても来て貰えないだろうと思ったが打診してみた。ところが、舟木君は二つ返事で、「ぜひ、行かせてください。スケジュールはなんとか都合します。」心良く承知してくれた。当日は、町をあげての歓迎で迎えてくれた。花火があがり、小学生の鼓笛隊を先頭に大パレードがつづいた。考えてみれば、小学生から老人にまでファンを持つ舟木君であればこそ、私の「郷土訪問リサイタル」も、一層、光芒を放ったことであった。それだけではない。舟木君は、私とともに、私の菩提寺を訪ねてくれて、すでに世にない私の父母の墓詣でをしてくれた。テレやである舟木君が、ともすればそれが突っけんどん、不愛想ととられ、マスコミ関係からなにやかやと突きあげられたことがあったが、まことに心やさしい青年であることを、私だけは、このときも、しみじみと感じ入ったことであった。しかも、あとから知ったことだが、舟木君はこのとき、足の親指のなま爪をはがしていての旅であった。舟木君はそれでも、最後まで足指の痛みなど、おくびにも出さず、終日、笑顔で、私の郷里の人たちの歓迎に応えてくれていたのである。


以下の2枚の写真は「近代映画」より

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「郷土訪問リサイタル」では、詰襟で思い出深い「高校三年生」も披露

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舟木君と私の七年間 丘灯至夫  舟木一夫大全集 寄稿文(1970年10月)その3につづく


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