本日、十二月十四日は「右衛門七討入り」の日
時は十二月、歌舞伎や歴史ものの時代劇の好きな私には、はずせないのが「忠臣蔵」です。
嬉しいことに舟木さんが、今回の公演の夜の部のコンサートでセットして下さったのが「右衛門七討入り」
新歌舞伎座公演のために二度目の大阪入りをしたのが11日、この日は昼の部だけの一回公演だったので終演後は、例によって「舟木さんを探すさんぽ径」という趣向で、舟友さんをお誘いしてお目当ての浄祐寺に足を延ばしました。
こちらの墓所には、右衛門七さんを顕彰する碑が、彼の父である矢頭長助の墓と並んで祀られています。
最寄駅は新福島(JR東西線)で、ビルの谷間にひっそりした小さなお寺があって、その墓所の一番奥に長助の墓があり、隣には寄り添うように右衛門七さんの顕彰碑が並んでいます。
もちろん本来の右衛門七さんのお墓は泉岳寺にあるのですが、浅野家がとりつぶしになり、浪士となって赤穂から大阪に出てきた矢頭一家、その家長である長助は、大阪で病に倒れたために、右衛門七は、わずか十七才でその父の代わりとなって「討入り」に連なることになりました。そのような経緯があって長助の墓が、浄祐寺に建てられているのでしょう。
ブログをはじめた頃の、記事もご参照下さい↓
~舟木さんの曲~昔の私のお気に入り/その1『右衛門七討入り』 ~
右衛門七討入り 作詩:西沢爽 作曲:遠藤実
ふりつむ雪を血に染めて
四十七士の鬨の声
矢頭右衛門七 散りゆく花か
恋も知らない 若い身で
討たれるものも 討つものも
ともにこの世は 夢の夢
赤穂浪士の 誉にかけて
ゆけととゞろく 陣太鼓
勝利のあとの 哀しみを
抱いて見返る 吉良屋敷
四十七士の 去りゆく影に
ふるははかなき 江戸の雪
矢頭 長助(やとう ちょうすけ)=右衛門七の父
万治元年(1658年) - 元禄15年8月15日(1702年9月6日)
江戸時代の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。赤穂浪士の一人・矢頭教兼の父親。名は教照(のりてる)。
矢頭権右衛門の子。妻は中根弥兵衛の娘。赤穂藩では国元で勘定方(25石5人扶持)をしていた。元禄14年3月14日(1701年4月21日)の主君・浅野長矩による吉良義央への刃傷事件の際にも赤穂におり、大石良雄に神文血判を提出して盟約に加わった。4月19日(5月26日)には赤穂城が開城されたが、長助は残務処理のために良雄とともに赤穂に残った。それらを終えた後、6月4日(7月9日)に赤穂を退去して大阪へ移ったが、ここで病に侵されて寝たきりになってしまう。同志との連絡はもっぱら息子の教兼を通じて行ったが、討ち入り前の翌15年8月15日(1702年9月6日)に病死。享年45。
矢頭 教兼(やとう のりかね)=右衛門七
貞享3年(1686年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日)
江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は右衛門七、一般には矢頭 右衛門七(やとう えもしち)として知られる。四十七士の中では大石良金に次いで若年であり、母妹の世話に苦難したことで知られる。『仮名手本忠臣蔵』の佐藤与茂七(さとう よもしち)のモデルとなった。
赤穂浅野家勘定方の矢頭長助の子として播磨国赤穂に生まれる。母は播磨国姫路藩松平家家臣の中根弥兵衛の女子。幼名は亀之丞(かめのじょう)といった。
元禄14年(1701年)3月浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ時、右衛門七はまだ家督前の部屋住みだった。4月19日には赤穂城が開城されたが、父はその後も大石内蔵助のもとで藩政残務処理にあたっている。これが終わった後、矢頭一家は6月4日に大坂 堂島へ移ったが、この頃から父は病に冒され寝たきりになってしまう。元禄15年(1702年)1月の山科会議や7月の円山会議にも右衛門七が父に代わって出席している。
元禄15年(1702年)8月15日、父が病床に右衛門七を呼び、くれぐれもその遺志を継いでくれるよう嘆願しつつこの世を去る。この時右衛門七は17歳だった。しかし義挙に加わらねばならない身の上なので、母と妹3人をどこかに預けなければならない。右衛門七は母と妹をつれて大坂を出ると、母の実家がある奥州白河藩(祖父の仕える松平家はこの地に転封となっていた)へと向かったが、旅慣れない少年のこと、女人通行手形を携えていなかったために荒井関所を通ることができず、仕方なしに大坂へ帰って知人に母たちを預けるしかなかった。
9月に千馬三郎兵衛・間十次郎らとともに江戸へ入り、南八丁堀で潜伏生活がはじまった。吉良屋敷討ち入りでは表門隊に属し奮戦、父の志を遂げた。その後、三河岡崎藩 水野監物の芝中屋敷にお預けとなり、元禄16年2月4日に水野家家臣・杉源助の介錯で切腹した。享年18。他の浪士とともに主君・浅野内匠頭と同じ芝泉岳寺に葬られた。法名は刃擲振劔信士。
母と妹3人は、この討入りの義挙で右衛門七やその家族の苦難が世間に知られるようになり、親族の矢頭庄左衛門に迎えられ奥州白河へ行くことができた。のちに長女が多賀谷致泰(奥州白河藩松平家家臣)、次女が多賀谷勝盛(奥州白河藩松平家家臣・致泰の男子)、三女が柳沢家の家臣山村氏にそれぞれ嫁いでいる。母も娘達の嫁ぎ先の多賀谷家で暮らした。 顕彰碑「矢頭教兼碑」↑
父長助亡きあとの一家は貧乏のどん底で先祖伝来の鎧を その後、遺児である教兼が父にかわって討ち入りに参加し
質にいれて父親の野辺送りをした。 本懐を遂げることとなった。
教兼(右衛門七)の辞世の句
出る日の ひかりも消えて 夕ぐれに いはなんことは かなしかりける
~ちょっと箸やすめ~「右衛門七討入り」にまつわるアレコレを(上)の続きは、後日~