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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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上村以和於公式サイトより/林与一さんの上野介評に同感!

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演劇評論家 上村以和於公式サイト 随談第602回 歳末あらかると
http://iwaokamimura.jp/

新橋演舞場の舟木一夫公演で「忠臣蔵」を昼夜通しという、相当の意気込みが感じられる舞台を見せている。映画や舞台で昭和の初期から演じ継がれてきた「時代劇」というジャンルと、それが培い、伝承してきた芝居作りのメソッドは、新国劇などともに、歌舞伎の周辺演劇・芸能としての観点からも私などには大いに興味深いものがあるが、次第に南風競わなくなりつつある中で、総員とは言うまいが、時代劇の演技の骨法を体得していると思われる俳優を、能うる限りといってもいいほど集めている中でも、林与一の吉良上野介が出色であった。ちょいとした立ち居、物腰、あれは誰にでもマネできるという訳にはいかない。つまり、歌舞伎が隠し味になっているのだ

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映画、テレビドラマ、商業演劇、そして歌舞伎…内蔵助を演じた俳優と同様、吉良上野介を演じた俳優も数多ある中で、舟木さんの内蔵助の清新さと並んで、私が心を掴まれたのは林与一さんのイキイキした上野介像でした。

~12月6日のブログ記事より

花の巻     三、松の廊下

場面二の、のどかな赤穂の浜の風景から暗転。重苦しいBGMの後、松の廊下の場面へ。

イメージ 3林与一さん扮する吉良上野介、いよいよ登場。この場面で上野介は、勅使供応役の面々を集めて、自分への進物は不要と申し渡している。内匠頭はひとり遅れて殿中に入った。
勅使のひとりが、上野介に、なぜ浅野殿には厳しくされるのか…と尋ねると。
××××…(この問いへの返答は重要な部分ですが、ネタバレになるので伏せておきますね)
この後、内匠頭が「刃傷」に及ぶ場面になりますが、このプロセスがまたとってもリアルです。
脚本の説得力、そしてもしかしたらある意味、一番ムツカシイお役の上野介を演じる与一さんの、佇まいやセリフまわし、高家旗本の品位を保ちつつ人間臭さも併せて表現。
やはり、年輪というのでしょうか。脚本の新鮮味も、もちろんありますが、とても新鮮な上野介。
舟木さんとの直接のからみは、「雪の巻」での仇討ち本懐の場面のみですが、五十数年にわたる舟木さんとのお仕事を通じての親交の奥深さを痛感させられ、感動しました。
単なる敵役に甘んじることのない人間・吉良上野介を見せていただいた思いでした。


イメージ 4~12月9日のブログ記事より

雪の巻     二、秋深い吉良邸の庭先

ここで、千坂兵部(里見浩太朗さん)、吉良上野介(林与一さん)、上杉綱憲(田村亮さん)の豪華なスリーショット。兵部と綱憲の会話の中で、大石内蔵助という人物像があぶり出される演出。
上野介の与一さんが「茶の湯」について語るが、ここも奥行きのある上野介像が示唆されている。


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上記は、私が12月6日と9日に、「覚書」として、拙ブログで記したものですが、今回のお芝居のパンフレットにも寄稿なさっている演劇評論家の上村氏の公式サイトで、やはり与一さんの上野介を高く評価されています。今まで観た上野介には感じられなかった共感を与一さん演じる上野介に覚えました。世代間ギャップ、また生まれ、育ちの違いでリクツではなく、「虫が好かない」という、単純な思い。当時としては、結構な老人だった上野介と内匠頭との感覚的なズレ、案外そんな些細ともいうところが、あの赤穂事件を生んだ要因だったのかもしれないと、思わせる与一さんのリアルな演技でした。
「忠臣蔵」が「物語」として興味深いものであるのか否か、そのカギを握る人物像が吉良上野介かも…と、あらためて思った今回のお芝居でした。私の感想では与一さんが、今回のMVP。
ブラボー!!でした。


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今さらですが、林与一さんのこと…。そして戦死なさったお父上のこと。

林与一
曾祖父は大阪の歌舞伎役者初代中村鴈治郎、祖父も歌舞伎役者の二代目林又一郎で、父の林敏夫(1915年 - 1945年)は、四代目坂田藤十郎や中村玉緒とは従兄弟の関係にあたり一時は歌舞伎役者として活動していた。母は映画女優の北見禮子(1915年 - 2007年)また女優の樋田慶子は母方の従姉である。また戦前・戦後を通じ「稀代の二枚目俳優」として人気だった長谷川一夫(林長二郎)は義理の大叔父にあたり、一時弟子入りしていた。
1958年、大阪歌舞伎座初舞台。映画やテレビでは、緒形拳とW主演を果たし、美空ひばりの相手役を10作品以上こなすなど時代劇スターとして様々な作品で活躍。その見事な殺陣と甘いマスクを活かし、主人公を追い詰める敵役や女心を弄ぶ色悪を演じる場合も少なくない。

さすが、与一さんのお父上、たいへんな美形

イメージ 7林敏夫
1915年(大正4年)5月14日、大阪府大阪市南区玉屋町(現在の同府同市中央区東心斎橋付近)に生まれる。祖父が初代中村鴈治郎、父が二代目林又一郎、叔父が二代目中村鴈治郎という歌舞伎一家に生まれた。
1921年(大正10年)、数え年7歳にして大阪・中座で初舞台を踏む。作品は『菅原伝授手習鑑』四段目『寺小屋』、菅丞相の子「菅秀才」役であった。以来、鴈治郎一座で歌舞伎役者として活動する。役者としての活動の傍ら、旧制・浪速中学校(現在の浪速高等学校)に進学、同校を卒業したのち、満18歳を迎える1933年(昭和8年)、京都の松竹下加茂撮影所に入社する。同年11月1日に公開された冬島泰三監督のサウンド版『初陣』で映画界にデビューした。同作は、白虎隊を主題にし、「新スター林敏夫」をプロモーションする意図のあった作品で、同社は林長二郎(のちの長谷川一夫)、坂東好太郎、高田浩吉といったスターをそろえて、敏夫の「初陣」を飾った。翌1934年(昭和9年)3月8日に公開された同監督の『夜襲本能寺』に、林長二郎演じる明智光秀に助演して、森蘭丸を演じた。
1937年(昭和12年)10月1日に公開された秋山耕作監督の『蒙古襲来 敵国降伏』を最後に映画界を去り、舞台に復帰した。満26歳になる1941年(昭和16年)、同年に松竹下加茂撮影所を退社した、同い年の女優の北見礼子(1915年 - 2007年)と結婚、1942年(昭和17年)2月14日には、長男の与一が誕生した。
1944年(昭和19年)、召集を受けて出征、1945年(昭和20年)8月13日、北満州(現在のロシア・沿海地方あたり)で戦死した。満30歳没。戦死の2日後に第二次世界大戦は終結し、妻の北見礼子は戦後、映画界に復帰、長男の与一は1957年(昭和32年)に初舞台を踏んだ。


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