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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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舟木さんを探すさんぽ径~京都・くろ谷(金戒光明寺)敦盛さんと忠長さんをたずねて

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  「れんげ草の咲くさんぽ径~舟木一夫の世界」(春日局)ブログスタート一周年です。
 
うっかりしてましたが、3月1日で拙ブログ「れんげ草の咲くさんぽ径~舟木一夫の世界」が一周年を迎えました。ご訪問いただきました皆さま、あたたかなコメントをお寄せくださった皆さま、また、貴重な資料をご提供くださった皆さまへ深く感謝申し上げます。舟木一夫という存在の大きさをこのブログを始めることであらためて知ることができた一年でした。これからも勝手気ままではありますが、私なりの「舟木一夫の世界」をもっともっと探検していきたいと思っています。何よりも舟木さんのご健康とご活躍を願って。
 
では、日記にうつらせていただきま~す
2月22日と23日の両日開催された京都・南座のシアターコンサートは、私の今年の上四半期の舟木さんのステージの中でも一番の楽しみにしていました。
今回は、桑名から近鉄の急行電車で四日市まで出て、四日市からは一時間に一本出ている高速バスを使いました。京都に入るまでの高速道路にあるバス停は三重県と滋賀県の県境の「土山インター」だけですから、1時間半ほどで京都駅に到着です。「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と古くから「鈴鹿馬子唄」に唄われているように、22日の朝、四日市を出発した時には、顔を見せていたお日様も、この唄のとおり鈴鹿あたりから雲が出てきて、土山ではなんと、チラチラと雨ならぬ風花が舞っていました。まだ山々の斜面の木々には雪が凍てついたように張り付いていました。でも山越えすると嘘のように晴れて、また暖かな日射しが注いできます。山が切り拓かれて高速道路が通るようになっても「鈴鹿馬子唄」ができた頃から地形そのものは変わっていないのかもしれません。
 
イメージ 1
 京都市内の最初のバス停の京阪五条で下車して、京阪電車の清水五条から三条へ。三条で地下鉄東西線に乗り換えてひとつめの東山で下車。歩いて10分ほどのホテルに荷物だけ預けにいきました。
ホテルは平安神宮の大鳥居前の仁王門通りを東向きにすこし入ったところで京都市美術館の建物が目の前に見えるなかなかいいシチュエーションです。実は、コンサートの日の一週間前までは初日が終わった日に一泊だけの予定で千秋楽は途中退席して高速バスの最終便で帰るつもりでしたが、やっぱり舟イメージ 2木さんを最後までお見送りしたいという気持ちとせっかくの京都なんだから「さんぽ」もしたいなぁ・・・と急遽、ネットで探しだしたのがこのホテルでした。たまたま偶然に見つかったホテルの「さんぽ圏内」に金戒光明寺がある場所だったことに「運命を感じました」(笑)これはキマリだ!舟木さんと再会してから京都でどこか舟木さんがらみの「さんぽ」ができたらいいなぁと思って以前から考えていたのがくろ谷と呼ばれている金戒光明寺です。
 
 
 
平安神宮の大鳥居をくぐって参道を挟んで向かい合っている京都市美術館と国立近代美術館の正面に平安神宮が見えています。つきあたりの平安神宮を右折れすると岡崎神社、さらに北に上がると「くろ谷」への案内版があります。もういちど突き当りを右折れすると・・・
 
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山門が見えてきて右側には大本山金戒光明寺、左側には京都守護職本陣と書かれた看板がかかっています。↓
 
イメージ 13さらに驚いたことに・・これは私が物知らずなだけなんだと思いますが(笑)・・なんと金戒光明寺の境内の敦盛さんの供養塔のすぐそばに、徳川忠長さんの供養塔があることも敦盛さんのことを調べようとネットの海を泳いでいるうちに判明しました。さらに、さらに、その供養塔を建てたのが、忠長さんを死に追いやったとも言えるあの春日局さんだったのです。私的にはあまりの奇遇に、ビックリ仰天!でした。
 
それにしても舟木さんは、どうしてこうも悲運の人ばかり演じていらっしゃるのでしょう。「似合うから」の一言ですみそうですが、なにか因縁めいたものを感じるのは私ばかりではないかもしれませんね。

イメージ 24金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである。
承安5年(1175年)春、法然が比叡山の黒谷を下った。その後岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。するとその石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然はここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされ、法然が最初に浄土宗を布教を行った地である。
(ウイキペディアより)

 
 
「京都守護職会津藩本陣」と大きな看板が山門に掲げられている映像が昨年の大河ドラマ「八重の桜」でも登場したので記憶に新しい方も多いと思います。
 
「金戒光明寺は徳川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められていた。会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせた。ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。 」(ウイキペディアより)
 
イメージ 26そして、会津藩士の墓所の手前の階段下にある法然上人の御廟の前に、向かい合うように立っているのが熊谷直実と平敦盛の供養塔です。

平敦盛 供養塔  
 
平敦盛(1169~1184年)
平安時代末の武将。美少年だったと伝わる。父は平経盛。平清盛は父の兄。官職にはついておらず、無官大夫と称された。十六歳で平家一門として参加した一ノ谷の戦いにおいて熊谷次郎直実により首を取られた。その時の様子は「平家物語」ばかりでなく能や謡曲、歌舞伎の題材として語り継がれている。須磨寺に首塚、高野山にも供養塔がある。戒名は「大夫敦盛空顔璘荘大居士」
 
イメージ 28
左上:敦盛供養塔
 
左下:敦盛供養塔のアップ
 
 
 
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右:熊谷直実供養塔から見た敦盛供養塔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 29以下は有名な「平家物語」の「平敦盛最期」の場面です・・・(ウイキペディアより)
~平氏が劣勢になり逃げようとした平敦盛を熊谷次郎直実が「卑怯者」と呼びとめたところ、敦盛は取って返す。その顔を見た直実は、息子と同じ年頃の美少年の首を打つのをためらい、名を尋ねるが敦盛は「すみやかに首を取れ」と潔く言う。涙ながらに直実は首を打った。敦盛は時に十六歳、笛の名手として知られ祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。先陣にも笛を持参した風流人だったという。これをきっかけに直実は法然上人を訪ね、金戒光明寺で出家したと伝わる。敦盛の供養塔は、直実のそれとほぼ同じ大きさの五輪塔で、法然廟を左右から守るかのように向かい合わせに建つ。端然と佇むその姿は少年武将の美学を映すかのようだ~
 
*他にも兵庫県の須磨寺に首塚、須磨浦公園には胴塚、高野山奥の院にもお墓があるそうです。
 
 
 
 
 
 
 
NHK大河ドラマ「源義経」  第二十二話 一ノ谷    1966年5月29日放映 
この回で「平家物語」の有名なシーンが放映されたのですね。この頃は一生懸命観てましたね。
 
敦盛哀歌      作詩:村上元三  作曲:古賀政男(1966年5月発売)
   
イメージ 30須磨の浜辺に 波白く
よせて返らぬ 十六の
花のいのちは 匂えども
俤あわれ 公達は
無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ
 
一の谷吹く 風さむく
吹けば悲しき 横笛の
月の調べは 流れても
名こそ残れる 公達は
無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ
 
ひよどり越えに 雲荒れて
弓鳴り渡る 戦いの
雲の流れは 消えたれど
まゆずみ薫る 公達は
無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ
 
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徳川忠長 供養塔 

イメージ 31徳川忠長の供養塔は、法然廟とは反対側で「会津藩士墓所」や忠長の父・徳川秀忠の供養として建てられた五重塔へ向かう石段の左手の墓地にあります。この一角の中央奥にひときわ立派な供養塔がありますが、それが忠長の生母であり父である秀忠の正室のお江の供養塔です。そしてこれらの供養塔を建てたのが忠長とその兄の家光の世継ぎ問題をめぐってお江と敵対していた春日局です。
 
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上の写真の左側はお江(崇源院)供養塔、右端に見えている小さめのが忠長の供養塔
 
イメージ 4ことのついでですが、私のHNを春日局としているのは特別に春日局を尊敬しているとか好きだとかいう意味合いはなくて、ただなんとなくです(笑)日本の歴史の中で悪女とか権力志向が強かったとか言われているイメージとして卑弥呼、北条政子、日野富子などがいます。歴史の表舞台に登場した女性へのバッシングへのささやかな抵抗というくらいな気持ちで「春日局」にしました。このHNは、このブログ様に考えたものではなくて、かなり以前にもブログを開設していた時も使っていましたから、その流れでそのまんま使っています。舟木さんに似合う愛らしいHNでなくてスミマセン
でも、「一心太助江戸っ子祭り」で舟木さんが二役で徳川家光を演じていらっしゃいますから、春日局も軽くひっかかってて、ちょっと嬉しいかも・・(笑)
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←忠長の供養塔
 
 
  徳川家光に扮した舟木さん→
 
 
 
 
 
 
 
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忠長供養塔の説明文→
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おふたりの供養塔からちょっと離れた場所に遠慮がちに?建っているのが春日局の供養塔と説明文↓
 
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春日局供養塔の説明文の末尾には~春日局はこの一件に関して責任の一端はあるとしてお江与の供養塔を建立したのを機会に忠長の供養塔も建立した~とありました。
 
閑話休題・・・
さてさて、実は私は、リアルタイムで舟木さんが演じられた徳川忠長さんについては全くかすりもしてません。大河ドラマ「春の坂道」の放映は1971年ですが、私は大学に入った頃だったでしょうか?ほとんど最初から観てませんでした。舟木さんが出演なさっていたことも知っていたのかいなかったのか全く記憶の範疇にないんです。その前年放映の吉永小百合さんが出演されていた「樅の木は残った」は観てましたから、その頃はもうすっかり舟木さん離れをしてたんでしょうね。
 
イメージ 8春の坂道 (ウイキペディアより)
「春の坂道」は、1971年1月3日から12月26日まで放送されたNHK大河ドラマ第9作。全52回。
山岡荘八の書き下ろし小説「春の坂道」(後に『柳生宗矩』と改題)、および小説「徳川家康」を原作として杉山義法が脚色。泰平の世を築くために遠くて険しい「春の坂道」を歩んでいく剣術家・柳生但馬守宗矩の生涯を、家康・秀忠・家光の徳川三代の時代を背景に、「一紙半銭も私せず」の剣禅一如の精神とともに描いた作品。
 
ここでまた、大倉明著「青春賛歌」の年表を参照させていただきます。
1971年
4月『あゝ名古屋城』(B面『金沢城』)
5月『日曜日には赤い薔薇』(B面『三本のローソク』)
5月15日東京サンケイホール「リサイタル 舟木一夫&サンケイ」開催
6月20日大阪サンケイホール「リサイタル 舟木一夫&サンケイ」開催
7月8日NKH大河ドラマ「春の坂道」徳川忠長役で出演
7月14日フジテレビ「銭形平次」(第271話「虚無僧絵図」)出演
8月『春の坂道』(B面『里の花ふぶき』)
8月1日明治座公演「忠臣蔵異聞・薄桜記」「新吾十番勝負・完結篇」開催(26日まで)
9月『初恋』(B面『あなたの故郷』)
10月アルバム「スター・ダブルデラックス 舟木一夫をあなたに」
10月24日大阪サンケイホール「リサイタル ふたつの秋」開催
12月アルバム「初恋 舟木一夫抒情歌謡を歌う」
12月31日第22回NHK紅白歌合戦に出場『初恋』歌唱(最後の紅白出場/1992年21年ぶりの出場を除く)
 

 
イメージ 9第40話 1971年10月3日  忠長卿始末 その一
第41話 1971年10月10日 忠長卿始末 その二
 
徳川忠長という人物については、「徳川もの」のドラマでは必ず、兄・家光との関係ということにスポットがあてられた形でよく出てきますから、少しくらいは知ってはいますが、今回、「舟木さんを探すさんぽ径」としてまとまった形にしてみるにあたり、私の手元にはまったく大河ドラマが放映された当時の資料もなければ、私自身の記憶すらありませんので、デビュー当時から今に至るまでずっと舟木さんとの旅路をともになさってこられた大先輩に、多大なご協力をいただきました。彼女のお力なくしては、掲載できなかったことばかりです。たくさんの写真と資料の文面は、すべてご提供いただいたものです。この場にて、あらためて心よりの御礼を申し上げます。ほんとうにありがとうございました。私の非力ゆえ、ご厚意に応えられるような記事になってはいないと存じますが御容赦いただきますようお願いします。

 
 
 
ご提供いただいた資料1
イメージ 10NHKテレビの歴史ドラマ山岡荘八先生原作の「春の坂道」はすでに八月八日放送で第三十二回を迎えた。全構成は五十二回である。ファンの方はとっくに御承知のとおり、このドラマは徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた柳生宗矩という男が、家康によって政治開眼し、秀忠、家光のかげにあって泰平の国づくりに生涯を費した物語。
脚本家の杉山義法さんもいっているとおり、家康が死ぬまでの二十九回は宗矩の眼を通して柳生新陰流で歴史を洗い流すことを狙い、三十回からは柳生宗矩の人間ドラマに発展している。出演者も宗矩の中村錦之助さんをはじめ、芥川比呂志、山村聡、市川海老蔵、司葉子、志村喬、片岡孝夫、島田正吾、高橋英樹、岸田今日子、京塚昌子、長門勇、倍賞美津子、田村高広さんなどの豪華メンバー。それに加えて舟木クンの出演が決定、すでにビデオ撮りがはじまっている。舟木クンが扮する徳川忠長は大御所秀忠の子で、将軍家光の弟。若い駿府城主である。寛永三年、参内するため秀忠、家光、忠長は上洛したが家光は修復された大坂城の城番制を定めた。秘かに大坂城主にと希っていた忠長は不服だった。父子三人が揃って参内し、家光が従一位、秀忠が左大臣、忠長は従二位権大納言に任ぜられた。ところが京都に滞在中、江戸では突然、母の浅井氏・阿江与(おえよ)の方が亡くなり、それを知った忠長は、父にも兄将軍にも告げすに単独で二条城を飛び出して、江戸へ帰るという気拙い事件を起こしてしまった。忠長にとっては母の御台所がいかに心の支えになっていたのかがわかるが、この子供じみた忠長の行為が、この後の大きなもつれの原因となった。忠長が秘かに希んでいた大坂城は城番制ときまり、その上、みんなの留守中に母が亡くなる・・或いは、忠長は自分が味方であったがために家中では不評であった
母が何者かのために毒飼いされたのでは?という疑いでも抱いたのかもしれない・・
 

イメージ 11忠長が抱いた疑惑について私の補足です↓(「崇源院」についての記述の一部 ウイキペディアより)
戦後、鈴木尚が中心となって行なわれた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。その調査報告は『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』にまとめられているが、それによると崇源院は火葬にされており、父・浅井長政、母・お市の方、長姉・淀殿らがおそらくは長身であったと推察されるのと異なり、江は生前は小柄で華奢な女性であったようである。ちなみに、増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけであった。秀忠・家光・忠長は上洛中で、江戸にいた有力者の中心は「明智」系の春日局だったことから、「浅井」・「織田」・「豊臣」色の強い江を病死に追い込み、証拠を隠滅するため火葬にしたという俗説もあるが、憶測の域を越えるものではない。
 

ご提供いただいた資料2                         家光役の当時市川海老蔵(故12代目團十郎)さんと
イメージ 12十月、浅井氏の葬儀が江戸で執行された。このころから忠長の乱行がはじまった。寛永七年九月、急速に老いこんだ秀忠に「日本一の加増(百万石)か然らずんば大坂城を預けられたい、その双方が拒絶されたら忠長にも覚悟がある」という強要書をつきつけた忠長は甲府に監禁された後に、上州高崎の安藤重長の許に預けられて幽居の身となった。父秀忠は、忠長の脅迫に屈すれば天下の仕置を曲げたことになる。それゆえ早々に切腹申付けてほしいと云い残し、亡くなった。忠長の処分で一番強硬なのは家康の落胤で大老格の土井利勝だった。兄弟愛にひかれて処分をちゅうちょしていた家光も、老臣どもに押しきられて忠長に切腹を命じる使者をたてねばならなかった。吹雪の夜、忠長はイメージ 14静かに一人で酒を楽しんだ後、寂容として自害して果てた・・「また悲劇の主人公ですか・・なんていわれそうだけど、悲劇のほうがドラマチックだし、この忠長という青年像にも魅力がありますね・・」と出演を前に舟木クンは話していた。忠長の事件を単に徳川家のお家騒動と見るのは早計で、徳川家安泰のための犠牲になったと言える忠長卿をどう舟木クンが演じてくれるのかがみものである。
 
イメージ 16
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「春の坂道」「里の花ふぶき」の曲の誕生にまつわるエピソードを画像付きでご提供いただきました。↓
 
 
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里の花ふぶき  
作詩:橋本比禎子 
作曲:古賀政男 
  
 
水ぐるま まわりまわりて 
柳生の里は
剣のひじりよ 祖先の在所
山坂こえて 草鞋ばき 
姿も浮かぶ 正木坂
 
縞小袖 里の娘は 
気立てのよさに
柳生なりゃこそ 四百年の
昔語りに 花が咲く 
ちらりはらりと 谷の春
 
願かけて 馬頭観音 
おがみます
春桃御前は 母ぎみさまよ
ひたすらにゆく もののふに 
春の坂道 花ふぶき
 
イメージ 21春の坂道 
作詩:泉漾太郎   作曲:古賀政男
 
照る日 曇る日 ふたつはあれど
ふたつとはない しあわせの道
繁る葵の 葉に吹く風も
雨もおさめる 剣禅一致
夢に夢追う 二蓋笠
 
春の坂道 悲願の鐘に
明ける日和は 新陰流の
抜かず 構えず 打込みもせず
戈を止める こころの剣
柳生神武の 無刀取り
 
徳川忠長の略歴
父:徳川秀忠、母:崇源院(浅井長政の娘お江与)徳川幕府第三代将軍徳川家光の同母弟。幼名は国松、国千代、門松丸。
慶長11(1606)年5月7日誕生。
元和6(1620)年元服。従四位下。参議兼右近衛中将。上野介。
元和9(1623)年従三位権中納言。
寛永元(1624)年駿河国・遠江国550000石を与えられる。
寛永3(1626)年8月従二位権大納言。9月15日、崇源院、死去。
寛永8(1631)年4月甲斐国に蟄居を命じられる。
寛永9(1632)年正月24日徳川秀忠死去。6月加藤忠広改易事件。10月上野国高崎へ移される。
寛永10(1633)年12月6日自刃。享年二十八。法名・峯巌院。
 
徳川忠長の墓所(ウイキペディアより)
墓は43回忌にあたる延宝3年(1675年)になって大信寺に建立され、現在では高崎市指定史跡となっており、硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されてる。
 
イメージ 17
 
 
崇源院(すうげんいん):忠長の母
天正元年〈1573年〉 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)
安土桃山時代から江戸時代初期の女性。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。
文禄4年(1595年)9月17日には伏見において徳川家康の嗣子である秀忠に再嫁する。秀忠は天正18年(1590年)に上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女である小姫と縁組をしていたが、小姫の死去により婚礼には至らなかった。秀忠との間には慶長2年(1597年)の千姫を頭に家光・忠長など二男五女を儲けた。
家光よりも忠長を可愛がったのは、忠長が伯父・織田信長によく似ていたためであるともいう。忠長の妻は信長
の次男・織田信雄の孫娘である。
 
 
イメージ 18忠長は、幼少の頃から才気走った利発な子どもだったといいますから、母のお江は、敬愛していた伯父の信長(信長の妹のお市の方はお江の母)のように天下人ともなれる資質を忠長に見ていたのかもしれません。忠長の名前も信長から一字とっていたのではないでしょうか。顔立ちも信長に似ていたと言われる忠長を寵愛したのも、織田の血を引くお江のプライドが根っ子にあってのことだったかもしれません。
忠長に関連した松平長七郎という架空の人物がいます。それが、舟木さんが1966年に大阪の新歌舞伎座で初座長公演をされた時の「若君風流」の主人公です。↓
後年、大河ドラマで忠長を演じることになったのも因縁深いことだと思われます。

松平長七郎   (ウイキペディアより)
江戸幕府の第3代将軍徳川家光の弟・徳川忠長の子とされる架空の人物。諱は長頼(ながより)。伝説上は徳川忠長の遺児で母親は鷹司家の出とされている。
 
 
その他、私がネット上から集めた資料です。あくまで参考ということでお読みいただければ幸いです。
 
 
・竹千代は乳母である福(のちの春日局)によって育てられ、国松は生母である江与が育てたことで、大きな確執が生まれることとなります。弟の忠長は眉目秀麗、才気煥発として父・秀忠と母・崇源院に愛されて育ちました
兄である竹千代は病弱で引っ込み思案、吃音との話もあり。秀忠夫妻の期待は二男である国松に向けられます。しかし、竹千代の乳母である福は不憫な竹千代を思い駿河の家康に「長幼の序をもって家光こそが三代目」と直談判しました。
 
・忠長の正室に迎えられたのは、江与の従兄弟に当たる織田信雄の孫娘です。ここにも江与の忠長に対する並々ならぬ思い入れが伺えます。さらに秀忠からも寵愛され、何よりも忠長自身が生まれつき聡明であったために幕府内外で「将軍職後継者は忠長である」との風評が流れた時期でもありました。また、忠長は大井川に船橋をかけたり、駿府城下の整備を行ったりとその才を遺憾なく発揮し領国経営に邁進しました。
 
・以下は新井白石著の「藩翰譜(はんかんふ)」での忠長最期の場面ということです。
寛永十年(1633年)十二月六日の朝、上州(長野地方)高崎に幽閉されていた忠長は、その日、自分の部屋の
前庭に、新しい垣が造られているのを見つけ、そばにいた警護の侍に尋ねます。「どうしてこんな事をするの
だ?」聞かれた侍は「上からの命令でしょうが、身分の低い私にはわかりません」
そのまま、部屋に入った忠長は、ピシャリと障子を閉め、二度と庭へは出ようとせず夕方になって女性を遠ざ
け、女童二人をそばに置き、お酒を飲みはじめました。やがてその一人にお酒を温めてくるように命じ、もう一
人には酒の肴を持ってくるようにと言い、部屋の外へ出した。
彼女たちが、お酒の支度を整えて部屋に戻ると、そこには真っ白な小袖の上に黒紋付を羽織った姿でうつぶせになった忠長の姿。その小袖が真っ赤に染まるほどの血を流しすでに息絶えていたのです。
享年二十八歳。切腹ではなく脇差でノドを突いての自殺。
 
イメージ 19

あまりにも忠長についての資料がなく、その波乱に富んだ運命であるにもかかわらず研究対象としても小説の主人公としても取り上げられている例がほとんどないのが不思議な気もします。以下のサイト「歴史くらぶ」に「悲劇の貴人」として忠長についての記述があります。そこには以下のようなトーンで忠長の突然の失脚と自決について書かれていましたので資料としてご紹介しておきます。↓
~幕府が編纂した「徳川実記」さえ、忠長処罰の不当を訴えている。~詳細は下記サイトをご参照ください。
http://rekishi-club.com/higeki/tadanaga.html
 
ちょっとばかりヘビーな「さんぽ径」になってしまいました(笑)舟木さんの演じられた敦盛も忠長もそれぞれの時代を象徴するような「悲劇的な生涯・・しかもあまりにも短い生涯」でしたが、確固たる己の美学に忠実に生きた潔い生涯であったと思います。舟木さんがこれらのお役に抜擢されたのは、舟木さんに備わっていた精神性の中に原作者や制作者のインスピレーションに訴えるスピリッツがあったからにほかならないと私には思えます。
 
敦盛さんと忠長さんの供養塔が目と鼻の先に建てられていることも何かのご縁なのかもしれません。
そこにグイッと絡んでいらっしゃる春日局さんの供養塔もまたご縁なのかもしれませんね(笑)
どなたかが、こんなことを書いていらっしゃいました。
~春日局が世継ぎ争いの敵だった江の墓を建てたのは一種のポーズとも考えられるが、後日造り上げられたイメージの外側にふたりの本当の関係があったのかもしれない~
お江さん(崇源院)は、春日局によって建てられた供養塔を喜んでいるのでしょうか?また「春日局さん」には、その真意をおたずねしてみたい気持ちがしています。
 
            三条白川の白川橋付近の疎水の白梅が可憐な花をつけていました↓
 
イメージ 25
 

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