12日の相模女子大・大ホールから5日空けての通常コンサートです。当日のコンサートのトークの中で、堺市民会館が建て替えのために今月末でいったん閉館になり、5年後の平成31年度に新たにオープンするということ、またこの会館のオープンが昭和40年(1965)1月で、その年の8月に開館記念イベントとして「舟木一夫ショー」が開催されたこと、そういったご縁から、今回の閉館にあたって舟木さんにオファーがあったことなどを知りました。後ほど、コンサートのご報告の中で舟木さんのトーク内容として詳細をご紹介します。
私事ですが、長い間関西に暮らしていたのですが、堺へは二度ほど落語会に足を運んだ折に行ったことがあるだけで、実質は街中を歩いたのは、今回が初めてでした。以前から堺という町は、与謝野晶子が生まれ育ったということですから一度歌碑めぐり(市内だけでも23基)をしたいと思っていたので、これも何かのご縁かと思って、朝一番の近鉄特急に乗って、堺へは朝の9時半ごろに到着しました。小雨模様でしたが、本降りにはならずラッキーでした。
与謝野晶子(正字:與謝野晶子、よさのあきこ)
1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
本名は与謝野志よう(よさのしょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、三人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると「源氏物語」などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、十二、三のころから、「柵草紙」(後には「めざまし草」)「文学界」や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみであった。1904年(明治37年)9月「君死にたまふことなかれ」を「明星」に発表。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌「青鞜」創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。子だくさん(12人出産)だったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。「源氏物語」の現代語訳「新新源氏」、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
本名は与謝野志よう(よさのしょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、三人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると「源氏物語」などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、十二、三のころから、「柵草紙」(後には「めざまし草」)「文学界」や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみであった。1904年(明治37年)9月「君死にたまふことなかれ」を「明星」に発表。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌「青鞜」創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。子だくさん(12人出産)だったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。「源氏物語」の現代語訳「新新源氏」、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
堺市には一番西の海際に、南海本線の「堺」という駅があり、その東側に南海高野線の「堺東」という駅があり、さらにその東側に、JR「堺市」という三つの鉄道の駅があることをネットで地図を調べていて知りました。コンサートの会場の市民会館の最寄り駅は「堺東」ですが、先ずは、街歩きをするので南海本線で難波から10分ほどの「堺」で下車して、駅の西口にある与謝野晶子像とご対面。その後は、晶子の生家跡に向かいました。
堺市内には晶子の歌碑は20箇所以上あります。もちろん全部は回れませんが、他にも、堺市女性センターや、コンサート会場の市民会館前にもありました。
市民会館玄関正面の庭の晶子歌碑→
市民会館の場所と晶子の歌碑を確認してから「堺東」駅に向かっていると舟木さんの「入り待ち」に向かうファンの方たちが三々五々、市民会館方面に歩いていらっしゃるのに遭遇しました。後で「入り待ち」の時の舟木さんのご様子を舟友さんからお聞きしたところ、雨が降っていたので傘をさしかけられていた舟木さんは、ファンの方たちにお顔がみえるように皆さんの方に向いて2、3分顔を上げて下さったとのことです。雨の中「入り待ち」をなさったファンへの心遣いに皆さん喜んでらしたとのこと。いいお写真が撮れた方が、ブログなどで公開して下さるかも知れませんから楽しみにすることにしましょう。
私は、その後、南海高野線とJR線をそれぞれ一駅ずつ乗り継いで「堺市」で下車。堺市文化会館内の与謝野晶子文芸館を見学して「晶子をめぐる街歩き」は終了。再び同じ経路で「堺東」駅に戻って舟友さんと合流。お茶しながら舟木さん談義に花を咲かせてから市民会館に向かいました。
←文芸館のショップで買った一筆箋と絵ハガキセット
では、この日の舟木さんのトークを交えたコンサートのレポです。昼夜とりまぜてます。
(ピンクの文字が舟木さんのトーク部分)
(ピンクの文字が舟木さんのトーク部分)
オープニング
~立ち話
どうやら春らしくなってきましたが、そうなるとアレルギーの方は花粉症になったりと・・私なんか原始人ですからそういうことはなくて・・子どもの頃、田舎で乱暴に育ってるから。まぁ、複合汚染ですかね、お持ち(アレルギーを)の方はご愁傷様です。今日は、なにかとお忙しい中ありがとうございます。50年のキャリアの中からステージ栄えのする歌を・・
~プレゼントタイム・メドレー~
東京は恋する
くちなしのバラード
花咲く乙女たち
友を送る歌
東京は恋する
くちなしのバラード
花咲く乙女たち
友を送る歌
「夢を育てた 青春の日よ」この歌詩を歌うならふつうは30代に入ってからなんでしょうけど・・この会館は昭和40年にできたそうです。ぼくが、20才ですから、22年前です。客席がザワザワと笑い声になるのをきいて・・ほっといて下さい!(笑)ちょうど、この頃は「東京は恋する」が出たあたりですね。多分「花咲く乙女たち」とかでエンディングしていたんでしょう。今こうして舞台を見てもたいへん立派な会館(当時としても)だったわけですよね。1月に開館して、その8月に「舟木一夫ショー」を1日3回やったんですが・・建て替えで閉館になって5年後は2000人のキャパシティで新しく開館だそうですが、5年後というとこっちの方が間に合わない(笑)48年前は1日3回、今はトシのせいで1日2回ですが・・
ステージに残っている歌というのは作品に力があるんですね。単独でお聞かせするのはレコード・ドラマのアルバム・・全部やると42分以上かかるので、「テーマ」だけを・・
その人は昔のテーマ
昭和41年、松山善三さんという人の詩、というより台本ですね。宇野重吉さんにナレーションをやっていただいて・・美しい映画でしたね。いや、私のことじゃなくて(笑)当時の北海道は本当に美しい原野があった。
今は、BSとか、あのなんていうんですか?お金がいるチャンネル(笑)日活映画を1年ぐらい流してくれるとか・・はずかしいったらありゃしない・・・昭和41年以降のデビューになるとかなり違ってくる、そういう意味でも幸せな時代にデビューして皆さんに出逢った。流行歌は時間が経って古くなっていかないのはかえって気持ち悪い。例えば、「およげたいやきくん」なんかは流行歌の部類には入らない。昭和の流行歌は素晴らしいと、昭和の時代に流行歌手になって良かったと・・カラオケが大流行りしたらプロの側がカラオケ向きで作ってしまうようになった。ここはカラオケで歌うと素人の人には難しいからこうしようと・・そうなると本末転倒になってしまう。ここで3曲並べたのは、20代前半に歌った時代の風景を切り取ったような歌。
今は、BSとか、あのなんていうんですか?お金がいるチャンネル(笑)日活映画を1年ぐらい流してくれるとか・・はずかしいったらありゃしない・・・昭和41年以降のデビューになるとかなり違ってくる、そういう意味でも幸せな時代にデビューして皆さんに出逢った。流行歌は時間が経って古くなっていかないのはかえって気持ち悪い。例えば、「およげたいやきくん」なんかは流行歌の部類には入らない。昭和の流行歌は素晴らしいと、昭和の時代に流行歌手になって良かったと・・カラオケが大流行りしたらプロの側がカラオケ向きで作ってしまうようになった。ここはカラオケで歌うと素人の人には難しいからこうしようと・・そうなると本末転倒になってしまう。ここで3曲並べたのは、20代前半に歌った時代の風景を切り取ったような歌。
三曲ともマコちゃんとの共演で映画も大ヒット
北国の街
哀愁の夜
高原のお嬢さん
哀愁の夜
高原のお嬢さん
北国の街、高原のお嬢さんは当時の流行歌としては時代の先端のほうでしょう。真ん中の哀愁の夜は流行歌の王道でしょう。古くは「湯の町エレジー・・♪ルルルルル♪」バンドがないとヘタでしょ(笑)僕のデビュー前は「♪ルルルル♪・・赤いハンカチ」、デビューしてからは「♪ルルルルル♪・・霧にむせぶ夜」なんか、昭和の流行歌は分厚い。平成になってからの歌とは世界観が違いますよね。「夫婦なんとか」「なんとか海峡」「なんとか岬」・・とかの詩を見てると今、こういう世界ってあるのかって?・・男と女が煮詰まって、お金もないし、ふたりで手をつないで「あなたさえいれば 何もいらない・・」こんなのを今聴かされてもウソっぽい感じがして・・決してヒハンしてるんじゃなくてちょっとくい違いがあると・・・「日本の名曲」・・ひとつは古典・・荒城の月、花、船頭小唄、波浮の港など、ひとつは僕自身がリアルタイムで聴いてた流行歌。昭和25年以降、その頃から間に合っているわけですから、その頃から風がわかる。自分が歌えなかった歌に名曲が山ほどある。そんなところからかいつまんで、ちょっとここから先は、流行歌手になった楽しみを・・タイトルは申し上げるまでもない・・舟木さんのハミングで余分に三曲もオマケで聴けちゃいました。ラッキー!
このダリアの名前は「大正浪漫」
宵待草
ゴンドラの唄
浮世まかせ
ゴンドラの唄
浮世まかせ
宵待草なんていうのは、簡単な言葉でいつの世も変わらない若い恋を思いっきり伝えてくれるわけですけれど、西條八十という人がこの歌(詩)をとっても好きで、ツーコーラス目を作った。さっきみたいなアレンジにすれば、こんな歌になるんですね。本当にいいところに目をつけてくださったと思います。宵待草もゴンドラの唄も、何しろ、言葉やメロディーに色気がありますよね。三つ目の浮世まかせ、これは、私が40周年に作った曲ですから・・・クシャクシャと手で丸めて、床にポイっと投げて足で踏みつける仕草をするテレ屋の舟木さんでした。流行歌の宝物の山の中で育ったんだから、私も、そろそろ楽しんで歌う・・・今年の12月がくると70ですから・・これも仕草で「70」と大きく書いてみるお茶目な舟木さん。宵待草のインストゥルメンタルの時のシルエットの舟木さんが美しすぎる!歌とビジュアルに微塵も齟齬がない完璧な宵待草という作品と歌い手の佇まいの合致、一体化に酔いしれたひとときです。
「宵待草」については、その優美さと力強さのバランスの妙が今の舟木一夫ならではだと思いました。やはり若い頃の音源と聴き比べてみて、テクニック、人間力というものを舟木さんがこの50年の旅路でいかにしっかりと獲得なさったかを思い知ることができます。「ゴンドラの唄」は、今の時代に聴いても驚くほど大胆で解放的な詩であることにあらためて衝撃を受けています。堺の生んだ歌人・与謝野晶子の短歌にも通じる奔放さと熱。この時代の日本人のエネルギーや人間の根本に宿るエロスの世界を思い出させます。そして、これらの文芸作品には、いずれにも気品という揺るぎない精神性の高みがしっかりと内在されているのですから脱帽です。「ゴンドラの唄」ほど、大正という時代の光の強さと温かさを感じさせる旋律はないのではないかと舟木さんの歌唱を聴きながらずっと感じていました。「いのち短し 恋せよ乙女♪ あかき唇 あせぬ間に♪」今も耳に響く舟木さんのあたたかな声
ここで、衣装替えです。ジャケットの右身ごろの裾の方をつまんでぷらぷらと揺らしながら、69(才)の男が着替えたところで・・・なんてもったいぶりながら、遊興費に使ってお金がないんで、上着だけ替えます(笑)・・遊興費ってパチンコ?(笑)・・ここから後半です。同じ風景を見て、同じニュースを聴いてきた同世代。ここで、思いっきりデビュー当時にジャンプして・・入口は50周年記念曲、当時の曲ぜんぶの受皿になる明日咲くつぼみにから・・
明日咲くつぼみに
あゝ青春の胸の血は
君たちがいて僕がいた
高校三年生
学園広場
君たちがいて僕がいた
高校三年生
学園広場
歌い終わって・・こういう瞬間につくづく流行歌手になって良かったと思います。言葉は何にもいらない。歌を歌うだけでスコーンと青春時代に戻れる。30代、40代の時は子どもの歌と思えて離れたかった。でも、ここまできますとつくづく良かったと・・どうせ私は死ぬまで「高校三年生」なんだから(笑)
この頃、お金で買えないものがあることがつくづくわかってきた「金が敵の世の中」でも、どうしたって金で買えないものがあると、例えばお客様、金で買うどころか、お金を払って聴きにきて下さってるのだから・・・昔は、子ども心にも食べものの四季っていうのがとても楽しみだった、とうもろこし・・夏だなぁ・・お正月にしか出てこないものとか・・そういう季節、季節のふくらみが昔はしっかりしていた。
この頃、お金で買えないものがあることがつくづくわかってきた「金が敵の世の中」でも、どうしたって金で買えないものがあると、例えばお客様、金で買うどころか、お金を払って聴きにきて下さってるのだから・・・昔は、子ども心にも食べものの四季っていうのがとても楽しみだった、とうもろこし・・夏だなぁ・・お正月にしか出てこないものとか・・そういう季節、季節のふくらみが昔はしっかりしていた。
若い日の純な恋心・・・「初恋」から・・
初恋
夕笛
吉野木挽唄~絶唱
夕笛
吉野木挽唄~絶唱
カーン、カーンという木を打つような音、シャンシャンという鈴音などの雄大な自然の風景に溶け込んだような懐かしい響きが効果的に組み込まれていて、映画「絶唱」で映し出された緑濃い山林の風景がひんやりとした空気感とともに目の前に広がりました。
「吉野木挽唄」は終始、美しいうしろ姿のシルエットで歌いながらゆっくりとステップを上がる舟木さん。白いライトの光線が天上界から包み込むように降り注いで亡き小雪への鎮魂のようで、吉野杉の木漏れ日の映像を思い浮かべている私でした。そして、「絶唱」のイントロ・・・。くるりとこちら向きになって舟木さんのお顔がライトアップされます。どんなアレンジでも「絶唱」のイントロが始まると胸が締め付けられるようですが、同時に順吉と小雪の無垢な魂の触れ合いと「永遠の愛、永遠のいのち」という厳粛さに心が洗われるのです。子どもの頃に感じていた、ただ、ただ悲しい歌ではない「絶唱」を今の、たっぷりと大らかな舟木さんの歌唱に見ることができます。
「吉野木挽唄」は終始、美しいうしろ姿のシルエットで歌いながらゆっくりとステップを上がる舟木さん。白いライトの光線が天上界から包み込むように降り注いで亡き小雪への鎮魂のようで、吉野杉の木漏れ日の映像を思い浮かべている私でした。そして、「絶唱」のイントロ・・・。くるりとこちら向きになって舟木さんのお顔がライトアップされます。どんなアレンジでも「絶唱」のイントロが始まると胸が締め付けられるようですが、同時に順吉と小雪の無垢な魂の触れ合いと「永遠の愛、永遠のいのち」という厳粛さに心が洗われるのです。子どもの頃に感じていた、ただ、ただ悲しい歌ではない「絶唱」を今の、たっぷりと大らかな舟木さんの歌唱に見ることができます。
「絶唱」という歌が背負った「光と影」のすべてを、舟木さんの今のステージで噛みしめる感動もまた相俟って私の中で、中学生の時に聴いた「絶唱」は、幾回りも、幾回りもスケールの大きな歌に成長しています。舟木さんご自身の歌い手としての旅路があり、そして私自身の心の成長も少し・・・そんなふうに同じ歌でも、心が柔らかく、純粋だった時代に強く心に沁みた歌は、どんどん育っていくものなんだという実感がしています。2014年の通常コンサートでラストに「吉野木挽唄~絶唱」をおいて下さったことに心からの感謝です。合掌
アンコール
~君よ振りむくな
スタンディング(サインボール)
~君よ振りむくな
スタンディング(サインボール)
2014年上半期の通常コンサートの開催は三箇所。私は幸運にもそのすべてのステージを計6回楽しませていただくことができました。今回の堺市民会館は、当初は、昼だけ拝見する予定でしたが、最初の2月6日の大宮で、強い衝撃を受け、これはどうしても一回たりとも聴き逃せないと決めて、堺市民会館の夜のチケットも急遽購入しました。結果は「行けて良かった。感謝!」です。ステージの構成すべてが素晴らしかったのですが、私の好みではありますが、なんといっても「日本の名曲の古典」と「吉野木挽唄から絶唱」というこれまでステージでは聴くことができなかったアレンジや趣向のものを新鮮な想いで、また懐かしい想いで聴かせていただきました。
以下、特に印象深く感動させていただいた曲についてあらためて私なりの感想です。
舟友さんの動画です
(いずれも1963年発売 4曲EP盤「真白き富士の根」に収録)
手元にある過去に舟木さんが歌った「抒情歌」のジャンルの曲がまとめられている「舟木一夫 抒情曲を唄う」という普及版のCDの中にも収録されているのですが、やはり、今回のコンサートでこの2曲が大きな位置を占めていることを思えば、当時リリースされたオリジナル盤のアナログ音源のレコードで聴いてみたくなってタイミングよくオークションに出品されていた上記の4曲収録盤EPレコード「真白き富士の根」を手に入れました。あとの一曲は「琵琶湖周航の歌」です。発売が1963年ですから、舟木さんがデビューしたその年にすでにこれらの曲を吹き込んで歌っていらしたわけですが、クラシックの基礎を勉強なさっていたのですから、むしろ「流行歌」よりもこういったジャンルの歌の方が当時の舟木さんの声や歌唱にはムリがなかったのかも知れません。でも、今の舟木さんがステージで聴かせて下さると、「舟木歌謡」として独自の響きと趣が再構築されていて「歌謡歌曲」という新鮮な感覚で酔いしれます。若い頃のアルバム「東京の空の下で~その人は昔」や「雪のものがたり」などは「歌謡組曲」と冠されていますが、こういった曲調に代表されるように舟木さんは、歌曲の匂いを歌謡曲に、歌謡曲の匂いを歌曲にかぶせて、それぞれの音楽のジャンルを行き来することができる独特の幅広い世界をあの魅力的な声と佇まいで50余年の歌い手としての旅路の中で確立なさったのではないかと私には思えます。これこそが「唯一無二の舟木一夫の世界」だと断言できるのではないでしょうか。
最後に、私のナンバーワンである「絶唱」について、しつっこく(笑)
特に吉野木挽唄のアカペラから入るという完全版のスタイルで聴かせていただいた「絶唱」の持つ力というかオーラは、やはり他の歌にはない特別なものを感じました。舟木一夫という歌い手が「高校三年生」でデビューしなければファンとの出逢いはなかったことは揺るぎない事実ですが、私にとっては、たとえ「高校三年生」があったとしても「絶唱」がなければ、舟木一夫という歌い手と私との出逢いはなかったと思っています。「絶唱」にまつわる、舟木さんの複雑な想いも含めて、この歌はおそらく舟木さんにとっても特別な歌ではないかと思います。「絶唱」で獲得したもの、また失ったもの・・・まさに舟木一夫の歌い手としての旅路の「光と影」「栄光と挫折」の象徴のような「絶唱」を、これほど見事に浄化させて珠玉の作品に育て上げた舟木さんの魂の力強さや歌い手としての矜持に深い敬意と驚きを感じています。「絶唱」との闘いは、決して短いものでも浅いものでもなかったのではないかと思いますが、今の舟木さんは、まぎれもなくその闘いに打ち勝ったのですね。このコンサートのラストシーンで高らかに「絶唱」を謳いあげる舟木さんに歌い手としての魂の崇高な美しさを見ました。
以下は、再掲載になりますが「歌手生活30周年記念 舟木一夫大全集 陽射し・旅人 10枚組CD」の歌詩集冊子に掲載されている舟木さんご自身による「舟木一夫 思い出の曲 寄稿集」から「絶唱」の項をご紹介します。
以前にも拙ブログで掲載しているものの再掲載です。舟木さんの偽らざるお気持ちがよく現れた文面です。
~これは、珍しいケースで、映画の企画が先でした。この企画は日活に僕が持ち込んだのですけれど、日活側としては、こんなに内容の暗いものではダメだと言われてしまいましたが、僕としては、どうしてもやってみたかった。だから、4ヵ月かけて日活側を説得しました。ところが今度は主題歌がなかなかできませんでした。最悪は主題歌無しでやろうかと半分あきらめていたのですが、映画のアップ、ギリギリに作品が出来上がってきました。そいういった事で、この「絶唱」に関しては、映画化、レコード化、共に難産したおぼえがあります。そして、レコーディングに入って歌った時、「これはヒットするな」と直感しました。実はこの曲は、最初3コーラスしかなかった作品なのですが、聴いていてどうも物足りないと感じ、カラオケのテープを編集して、3ハーフに長くしたものなんです。それと、一番「まいったなぁ」と思った事は、レコード大賞の歌唱賞をこの作品でもらってしまった事でした。しばらくの間、気分が落ち込みました。なぜなら、歌唱賞は「歌がうまいからこの賞を与える」という賞なわけです。しかし、当時自分の回りを見まわすと、歌のうまい先輩がたくさんいました。その先輩を差し置いて、自分がこの賞を与えられたということで、歌の対してのプレッシャーが、ものすごく重く自分にのしかかってきました。賞に恥じないように歌おうと思う気持ちが、逆に歌をうまくまとめて歌ってしまう形になり、しばらくの間、歌がグチャグチャになってしまいました。ですからこの曲はヒットしてよかったという気持ちと、自分の歌がくずれ始めたキカッケになった作品ということで、当時大変複雑な気持ちだったことが思い出されます~
もうひとつ、最近読んで、舟木さんはこういうイメージトレーニングをして歌に臨んでいらっしゃるのか!と
感嘆するやら、得心するやらしたのでご紹介します。
月間カラオケONGAKU 2005年6月号の「赤詰コンサート」の時期の巻頭インタビューより抜粋。
小見出しは「歌い手の”つもり”は必要。押しつけじゃなくてね」
小見出しは「歌い手の”つもり”は必要。押しつけじゃなくてね」
~気持ちの置き場所として、「絶唱」はドーム状に上から降り注いでいく。サイドからの「哀愁の夜」なんかは上が空いててもいい。風景で言えば星空が見えていても構わない。雨が落ちてきても。ただ「絶唱」の場合は、上からくるむ歌だから、星が見えるとしても、透明の天井がなければいけない。という事だよね。あくまでも”つもり”だけどさ。唄う時には必要なケースが多いよ。~中略~「絶唱」というのは悲しい歌だけど、お客様に涙を流して貰えば正解なのかと?というと、そんな単純な話ではない訳で。むしろ、あったかい気持ちになって貰えるように唄う方が、遥かに「絶唱」らしいという言い方もあるよね。今年の(2005年当時)ツアーでいえば、なぜあのアレンジにしているか。それは「絶唱」の大きさを味わっていただきましょうと。だから悲しいとか・・それは聴いて下さる人それぞれのもので。いろんな思いがあって当たり前だし。ただこちらのつもりとしては、コマゴマとした事じゃなくて。ただ、デカさをね、出していきたいなという話で~
他にも「恋唄」の”つもり”などについてもおっしゃっていました。それはまたの機会に・・
蛇足・・・プチ「舟木さんを探すさんぽ径」です。与謝野晶子の文学散歩をしていたら、見つけました。晶子の第十六歌集のタイトルが「火の鳥」でした。(大正八年発刊 装丁・挿絵:中沢弘光)
火の鳥 舟木一夫:作詩・作曲 (1975年1月発売ライブ盤「ゴールデンコンサート」収録曲)
ふるえる心に つばさを広げて
明日にはばたく 不死身の火の鳥
燃える瞳に 愛をかざして あなたと生きる
おそれるものは何もない 何もない
ふるえる心に つばさを広げて
明日にはばたく 不死身の火の鳥
燃える瞳に 愛をかざして あなたと生きる
おそれるものは何もない 何もない
はるかに聞こえる夜明けの歌声
目指して旅立つ希望の世界へ
恋する心に つばさを広げて
明日にはばたく 不死身の火の鳥
目指して旅立つ希望の世界へ
恋する心に つばさを広げて
明日にはばたく 不死身の火の鳥
つきることない 炎の海に 身体をまかせ
微笑みかわす愛の中 愛の中
微笑みかわす愛の中 愛の中
あなたに見つけた たしかな真心
はげしく抱きしめ 飛び立つ大空
はげしく抱きしめ 飛び立つ大空
誰もじゃまなど できはしないさ 二人の胸に
永遠に寄りそう 火の鳥を 火の鳥を
永遠に寄りそう 火の鳥を 火の鳥を
嵐に傷つき つばさは 折れても
終わりを 知らない 不死身のこの愛
終わりを 知らない 不死身のこの愛