Quantcast
Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1510

舟木さんを探すさんぽ径~上野/湯島/神田から四ツ谷若葉町へ(下) 

$
0
0
~舟木さんを探すさんぽ径~上野/湯島/神田から四ツ谷若葉町へ(中)のつづき~
 
いきなり、たいやきの登場で、恐縮ですが・・・上野、湯島、神田からお茶ノ水を経て、四ツ谷へと、ずんずん歩きまわってお腹もすいてきたので、有名なたいやき屋さんの「わかば」で評判のたいやきをイートインしてきました。
 
イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
末娘からの情報によれば、東京のたいやきの「御三家」というののひとつが、この「わかばのたいやき」だそうです。あとのふたつは、麻布十番の「浪花家総本店」、人形町の「柳屋」とのこと。舟木さんのデビュー当時の応援団のおひとり安藤鶴夫さんもお薦めと発言なさったたいやきだったそうで、評判になったそうです。皮はパリっと薄く、あんこは尻尾までビッシリ、塩味と甘味といずれも濃厚で、男の人にも人気があるようです。お店の前で
並んでるお客さんは女性よりなぜか男性の方が多かったです。
 
 
若葉町付近の地図を再度アップします。
 
イメージ 3
 
 
イメージ 4舟木さんが、若葉町に来て、一番最初に住んだのが「青葉荘」古い雑誌には、「青葉荘」の写真は、よく載っていますね。  この2枚は「青葉荘」時代の写真です。
でも、あっという間に人気アイドルになった舟木さんなので、すぐに手狭になったのでしょう。翌年には、同じ若葉町内で引っ越しをなさっているようです。
その二番目のお住いだったアパートが、嬉しいことにまだ残っているとお聞きしたので行ってみました。
 
イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
        現在も残っている(お住いになっている方がいらっしゃるようです)
     四階建てのアパート「若葉荘」
    舟木さんは三階に住んでいらしたそうです。
     (1964(昭和39)年当時の画像↓)
 
イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
地図をご参照下さい。位置的には「たいやきのわかば」
のちょうど裏側あたりにありました。
(2004年当時の画像↓)
 
 
イメージ 7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                          1964年、住んでいらした頃の画像(三階の窓)
                 
イメージ 8
 
私の撮影した現在の建物の写真。
窓の手すりのフォルムを見比べてください。
 
イメージ 9 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
全景です。玄関口は道路に面してなくて、この手前に一軒、新しい家が建っていて、そこの脇を、中に入っていくと玄関口(フェンスの向こうが玄関口への通路)に入れます。右は左手の路地からの写真です。
 
イメージ 10
イメージ 11
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
以下は、安藤鶴夫さんと舟木さんとの関わりについてのネット上からの情報です。
抜粋させていただきました。

イメージ 13「安藤鶴夫さんがラジオで話したことをまとめた本「昔・東京の町の売り声」(旺文社文庫 昭和53年発行)に舟木一夫のデビュー当時のエピソードが載っています。
安藤鶴夫さんの玄関に、小太りの男の人と、つめえりの清潔でかわいい学生服の青年が訪ねてきました。太った人は、当時の巨人軍の応援団長だった、関矢文栄さんと、青年は舟木一夫でした。

この舟木一夫という青年が、レコードを出したから、ぜひ聞いてほしいということで、「高校3年生」のレコードをかけたのです。「美しい、抒情性にみちているようなうたいぶりに、感動した」と安藤鶴夫さんは書いています。この巨人軍の応援団長関矢さんと舟木一夫との出会いは、四谷から赤坂にぬける、上智大学の前の土手ぞいの外堀公園でした。その下は、もと江戸城のお堀で、グランドになっています。

イメージ 12応援団長の関矢さんは、応援の声を鍛えるため、その外堀公園に来たのです。
そこに、一人の青年がいて、フランク永井の歌を歌っていました。デビュー前の舟木一夫で、そこで歌のレッスンをしていたのです。
その話を聞いて、「がんばれよ」と声をかけ、別れましたが、次に逢ったのは、関矢さんの近所の風呂屋でした。そこのしまい風呂の湯ぶねに顔だけのせて、舟木一夫青年は、やはりフランク永井の歌を歌っていました。舟木一夫は、その近くに間借りしていて、その風呂屋にきては、歌を歌っていたのです。そこで、その風呂屋の主人も奥さんも、そこのお客さんも、みんなが、舟木一夫青年を応援していたのです。そういう縁で、そこ、若葉町というのですが、その若葉町界隈の住人がこぞって、舟木一夫を応援するようになりました。町ぐるみの応援団です。
安藤鶴夫さんは、昔は、例えば自分の育った浅草などでは、よくあった話だが、と次にように書いています。「みんな、自分のことしか考えないこの頃の御時世にあって、これは、まことに、心あたたまる人情話ではないか。」
 
私は、この話がとても好きで、それに住まいが近いこともあって、舟木一夫というとすぐこの話を思い出します。私は、外堀公園はよく散歩します。若葉町へも時々買い物に行きます。昨日書いた、舟木一夫後援会の事務所は四谷よりです。
安藤鶴夫さんは、その当時担当していた、ニッポン放送の「ラジオエッセイ」に関矢文栄さんと舟木一夫を呼んで、このことをお話したのです。昭和38年の8月20日です。
その後、舟木一夫は、とんでもなく忙しくなります。それでも、時間をみては、その風呂屋に行って、そのしまい風呂で歌を歌いました。今度は、フランク永井の歌ではなく、自分の歌を歌いました。 」
 
最後に、ミーハー的には、とっても気になるスポットです(笑)
 
イメージ 14
イメージ 15
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 16
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 17
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
既に、47年も前の雑誌の記事ですが、なんだか気になる初公開「ぼくの3つの秘密!」です(笑)
 
上の記事の「そのとき、お菓子を包んでくれた・・・」の後にも、記事は続きます。もちろん文中では和菓子屋さんを坂本屋さんと特定しているわけではありません(笑)でも当時、18才の舟木さんの淡い恋の思い出・・・真偽のほどはいかばかりか知る由もありませが・・・もし、こういった思い出があるなら、さらに若葉町への親しみが増すように思います。
 
 
 
坂本屋さんの、お菓子は、今回は買わずでしたが、四ツ谷のこのあたりは、都会ながら、緑も多くてこの日は風も爽やかでした。ぜひ、一度おでかけになってはいかがでしょう。
 
梅の湯さんの跡地は、私は、ちょっと特定できませんでしたが、地図にもあるように、元の後援会の事務所などもあったそうですから、古くからのファンの方には馴染みの深い場所なのですね。
 
それにしても、舟木さんが50年も前に、お住いになっていた建物がまだ残っていて、住居として使われていることは、本当に驚きでした。我ながら決定版「舟木さんを探すさんぽ径」というところです(笑)
 
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1510

Trending Articles