Quantcast
Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1510

「天一坊秘聞~八百万石に挑む男」舟木さん演じる山内伊賀之亮とは~「徳川太平記 吉宗と天一坊」その2

$
0
0
「徳川太平記 吉宗と天一坊」(柴田錬三郎作)で描かれている山内伊賀之亮(伊賀亮)像を、物語の中で追っていくと、私としては、自然と舟木さんの山内伊賀之亮のイメージに重ねることができるので、私の苦手な長編ですが、気を良くしてぼちぼちと読み進んでいます。
 
「天一坊秘聞~八百万石に挑む男」舟木さん演じる山内伊賀之亮とは~「徳川太平記 吉宗と天一坊」その1」
 
タイトルに掲げたテーマで、毎回、少しずつ、この作品の抜き書きを連載でアップしていこうと思いますが、
その前に、九月の演舞場公演「八百万石に挑む男~天一坊秘聞」は、1961年に公開された映画「八百万石に挑む男」の脚本をもとに、斎藤雅文氏が、あらたに今回の舞台作品として脚色されたものであるとのことですので、映画についても、少しだけ調べてみました。写真は下記の書籍より転載させていただきました。

イメージ 1~ムービーウォーカーより~
八百万石に挑む男 (東映 1961年9月13日公開)
http://movie.walkerplus.com/mv20258/

スタッフ
監督:中川信夫
脚本:橋本忍
音楽:渡辺宙明
 
キャスト
山内伊賀之亮:市川右太衛門
天一坊:中村嘉葎雄
大岡越前守:河原崎長十郎
松平伊豆守:山村聡
吉宗:徳大寺伸 
 
イメージ 2
 
 
 
 
あらすじ
東海道は金谷の宿場。賭場で負け続けの若者が懐中から短刀を出した。用人棒の赤川大膳の眼が光ったのも道理、紀州家に伝わる家宝の品である。大膳は仲間の藤井左京とその出所を追求するが、若者はさらにお墨付を出して将軍吉宗の落胤だといった。本人の真疑はさておき、短刀とお墨付は本物と睨んだ左京は、美濃の国常楽院の伯父天忠の許へ若者を伴った。
 
 
イメージ 3話はこの若者宝沢が紀州の永寿寺にいた昔に遡る。当時十三歳の宝沢は幼い頃、祖母から短刀と手紙を見せられた記憶がある。それを聞いた友の柳沢は、本堂の須弥壇の中でそのを見たと告げた。深夜、宝沢はそれを盗み出したが手燭が床に落ち、本堂は焼け落ちた……。常楽院の大忠宝沢、すなわちこの若者に天一坊の尊号を与えた。折も折、天忠の友で元は九条関白家にその人ありといわた山内伊賀之亮が訪ねて来た。天一坊と対座した伊賀之亮は、彼が贋物なら天下の徳川相手に乗るか反るかの大勝負を挑むべきだといい放った。天一坊の腹は決った。伊賀之亮はただちに土地の豪農豪商に働きかけて資金を集め、天一坊を儀式に慣れさせると同時に、案山子同然の大阪奉行、京都所司代らを相手に御落胤を名乗り出て、天下の耳目を驚かそうという巧妙な作戦を立てた。
 
イメージ 4大阪に発つ前夜、天一坊は強欲な商人武州屋が夜伽に差し出した娘ぬいに、一夜の情をかけた。伊賀之亮の計画は見事に当り、天一坊の美々しい行列は大阪、京都を経て、江戸は八ツ山に入った。すでにわが事成れりと喜ぶ天忠らにひきかえ、伊賀之亮は真の勝負はこれからだと思う。というのも、知恵袋といわれる老中松平伊豆守と名奉行大岡越前守の実力を知っているからであった。果して伊豆守は、その真疑に拘らず天下騒動の基因ともなりかねない天一坊を、贋物として処断する腹なのだ。伊豆守の役宅で越前守と会った伊賀之亮は二人の心底を見抜き、すでに敗れたことを知った。その夜、天一坊の宿舎に幼馴染の柳沢が訪ねて来たが、事の露見を恐れて左京が斬り伏せた。苦しい息の下から柳沢は、天一坊こそ本当の落胤だと告げた。しかし、このとき江戸周辺は、越前守の采配によって蟻一匹這い出す隙もなく固められているのだった。伊賀之亮は最後のはなむけとして、天一坊に乾坤一擲の智恵を授けた。天一坊はわが子を宿して尋ねて来たぬいを冷たく振り切り、死の親子対面に向うのだった。
 
イメージ 5
 
 
この映画も私は、観ていませんので、原作、あるいは映画を御覧になった方がいらしたら、また感想など教えていただけたら嬉しいです。

この映画で山内伊賀之亮を演じられたのが市川右太衛門さんです。

市川右太衛門(いちかわ うたえもん、1907年2月25日 - 1999年9月16日)
歌舞伎役者、映画俳優。本名は淺井善之助(あさいぜんのすけ)。戦前・戦後を通して、時代劇映画スターとして活躍し、映画主演総数は300本を超える。愛称は「右太さん」。息子は俳優の北大路欣也である。
1907年(明治40年)2月25日、大阪府大阪市西区に生まれる(香川県丸亀市生まれの説もある)。祖父が坂出市の旧家の出で、生家は鉄工所を経営していた。5歳のときから日本舞踊上方舞の山村流を習い始める。6歳の時、子役として中村扇雀(初代)一座に借り出され、『菅原伝授手習鑑』に菅秀才の役で出演し、初舞台を踏む。
小学校卒業後、上方歌舞伎「所作事」の第一人者・2代目市川右團次の門に移り、市川 右一(いちかわ ういち)の名をもらう。のち中村扇雀が座頭の関西青年歌舞伎の一員となる。屋号は「高島屋」で、主役を張って人気を集めた。ちんこ芝居と呼ばれた関西青年歌舞伎では、いずれものちに映画界に移る市川百々之助、林長丸(長谷川一夫)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)とともに、四人そろって腰元役で舞台を踏んだこともあった。やがて『勧進帳』の武蔵坊弁慶など大役も任せられるようになったが、門閥出身ではないため出世には限界があった。
1925年(大正14年)、歌舞伎界の若手俳優を、自ら主宰する映画会社マキノ・プロダクションに迎えようと考えていた牧野省三が右一の評判を聞き、「主演者」として映画入りを誘う。18歳の右一はこれを受け、阪東妻三郎が去った後のマキノ・プロダクションへ入社。名前も市川右太衛門と改名して『黒髪地獄』(沼田紅緑監督)で映画デビュー。翌1926年(大正15年)にかけて、『快傑夜叉王 前・後篇』『孔雀の光』『春日山の月』などの沼田監督作品に出演し、阪妻に次ぐ人気俳優となり、月形龍之介と合わせて「マキノを担う両星」と謳われた。
 
 
では、私の独断と偏見で切り取った、伊賀之亮が登場する場面を少しずつですが、ご紹介します。
伊賀之亮登場は、下巻の冒頭からです。ひとつ前の日記で、字の違う「伊賀之介」について掲載していますが、こちらの伊賀之介は、主に上巻で、「天一坊事件」を引き起こす謀の発端となる人物として登場します。ちょっと複雑な展開ではありますが、上巻、下巻、それぞれで、描かれたふたりの「いがのすけ」という人間の対比もまた、この「徳川太平記 吉宗と天一坊」という小説の面白さの大きな要素となっていると思います。「舟木・伊賀之亮」として、イメージできる下巻の伊賀之亮を描いた部分を抜き書きします。
では、上巻、下巻の脈絡をわかりやすくするために、下巻の「伊賀之亮」が、登場する直前の、上巻のラストシーンを、まずは、掲載します。
 
~「徳川太平記 吉宗と天一坊」(柴田錬三郎作) 集英社文庫より~抜き書き(春日局)
上巻の最後の部分 ここは、まだ、悪党の「伊賀之介」ですよ(笑)
 
イメージ 12

伊賀之介が、天下の豪商、紀伊国屋文左衛門に、その養育を託した赤児は少年期に入る年令に成長していた。その間に、伊賀之介の野望と企みを知った、大岡忠助が、紀文(紀伊国屋文左衛門*以下紀文)のもとに向かいことの真相は隠したままで、伊賀之介の手に天一坊を渡さないために、どこか遠くに送って育ててもらえないかと申し入れた、しかし、その時、すでに、天一坊は伊賀之介に拉致されて連れ去られてしまっていたのだ。それから一ヶ月後、吉宗は、紀州入りすべく千二百人の行列を連ねて、箱根を越え、大井川を渡って行った。蓮台に乗っていく吉宗の姿を遠くから眺めている群衆の中に、ひとりの浪人者とかの少年の二人連れがいた。
 
イメージ 6

父子薄縁
 
伊賀之介「お前が、あの大名の落胤であるという証拠の品をおれは持って居る」
天一坊「………?」
伊賀之介「お前は、まぎれもなく、あの大名の子だ!」
天一坊「本当ですか、小父どの?」
伊賀之介「本当だ!あの大名を、よく見おぼえておいて、忘れるな」
天一坊「………小父どの、もし本当なら、今でも、会うてもろうてもいいのですか?」
伊賀之介「今は、いかぬ。今、名のり出ても対手にはされぬ。対面を願い出るには、願い出るように、こちらも、それ相応の格式を備えねばならぬ。……五年、いや十年先のことになろうか」
伊賀之介は、その時の光景を思い描きながら、対岸へ渡りついた吉宗の姿を、なおも、じっと見戍っていた。
 
 
 
 
~続いて、下巻の冒頭部分より~抜き書き(春日局)
 
イメージ 10
 
イメージ 9

貞女誘拐
 
豪商・紀文のもとから浪人、山内伊賀之介によって連れ去られた天一坊は、京都、醍醐の真言宗本山である山伏寺に預けられ、十五歳を迎えていた。五月五日の端午の節句に、上加茂では、その年元服した十五歳の少年を選んで「競い馬」を催す。この騎手に選ばれるのはたった二人。天一坊も名乗りをあげ、二人のうちの一人に選ばれた。もう一人は、京都所司代与力筆頭の子息・蒔屋参之助である。山伏寺の大僧都に、「競い馬」の許しを願う天一坊だったが、大僧都は首をたてに振らない。互いに譲り合わない二人だったが、とうとう「競い馬に出るからには、勝たねばならぬ!」と言ってしまう大僧都であった。天一坊は、その大僧都の言葉を逆手にとり、「勝利を得るためには、その手段を選ばずとも、かまいませぬか?」と詰め寄る。十五歳の少年に、堂々と言いたてられ、大僧都は返答にとまどう。そして「後日の悔いとせず、おのが身を滅ぼす因(もと)とならぬのであれば、勝つべき手段を講じるのはやむを得まい」と答えてしまう。
天一坊の「手段を選ばぬ」という画策は、蒔屋参之助の姉である春菜を、「競い馬」の前夜、拉致し、参之助の心に動揺を与えるという「卑劣な手段」であった。
 
 
競馬無情   この項で、いよいよ、のちの「伊賀之亮」こと神矢主膳の登場です。

この日、五月五日早朝。木津の巽三十町ばかりにある瓶原(みかのはら)、ここから加茂渡し口に至る清美川原には、人々が集まってきていた。加茂神社の「競い馬」はここで催される。
陽が射し染めた頃、天一坊が現れた。天一坊は、白袴を脱ぎ、白衣を捨てて社前の井戸の釣瓶を把ると「南無……」と唱えて頭から無造作に汲み上げた水を被った。七度繰返し、からだを拭こうと視線を祠に向けると人の気配が、そこのあった。いかにも尾羽打ち枯らしたという風体の浪人者であった。祠の中で寝ていたのを、水垢離の音で、目を覚まされたに相違ない。天一坊は浪人者の視線が、おのれの裸身に鋭く刺さるのを覚えた。
 
イメージ 7
 
天一坊「なんだ?」
主膳「いや、ただ、お主を眺めているだけだ」
浪人者は答えた。無精髭のせいか、年の頃ははっきりせぬが、声音は若く爽やかであった。
天一坊「ただ、眺めているだけにしては、目つきが尋常ではないぞ」
主膳「尋常でないのは、そちらだろう。まるで、神経が、琵琶の弦のように、張り詰めて居る」
天一坊「わかるか?」
主膳「それほど露骨に四肢のはしばしにまで見せて居ればな」
浪人者は、ゆっくりと降りてくると、天一坊の前に立った。
主膳「これから果たしあいでもするのか?」
天一坊「清美川原の競い馬に出る」
天一坊は昂然と、頭を立ててこたえた。
主膳「競い馬?なんだそれは?」
天一坊「加茂神社の競い馬を知らぬのか、お前は?」
主膳「知らんな、そんなものは…」
天一坊「世事にうとすぎる」
主膳「丹波の山奥から、降りてきたばかりだ」
天一坊「お手前は、兵法者か?」
主膳「そんなところだ。……競い馬に出るのに、なぜそのように…果たしあいでもするように、緊張せねばならんのだ?」
天一坊「ただの競い馬ではない」
天一坊は説明した。
主膳「自信ありげに見えるが、対手(あいて)に尋常の心得さえあれば、お主を仆すのに、なんの造作もない」
浪人者は、笑いながら、言ってのけた。
天一坊「なに!」
天一坊は、浪人者を睨みつけた。浪人者は、天一坊のあふらせた殺気など、歯牙にもかけぬ様子で「あゝ、腹がへったなぁ…水でも飲むか」と井戸へ寄った。天一坊は、浪人者が身をこごめて水を汲み上げた釣瓶へ口をつけるのを見戍るうちに、一瞬、凶暴な衝動にかられて、かたわらの百日紅の樹へ立てかけておいた刀をそっと把った。「えいっ!」満身からの気合いを発して浪人者の背中へ一太刀あびせた。
いや、あびせかけようと、大上段から振り下ろした刹那、浪人者が、その姿勢のまま、釣瓶の水を、おのが頭上を越えて天一坊にあびせる方が、間一髪の差で速かった。天一坊は、顔面へしたたか水をくらって棒倒しに地べたに五体をひびかせた。
 
浪人者は、はね起きた天一坊へにやにやしながら
主膳「わかったか、若いの。お主は、おのが殺気の凄まじさで、おのれに敗れたのだ。鳥やけものは、敵を警戒する本能の敏感さにおいて、人間にまさって居る。それを獲るのは人間の狡猾な知恵だ。こっちも、獲ろうとする本能をむき出して、襲って行けば、鳥やけものは、なんの造作もなく逃げてしまうの。お主が、もし競い馬の対手に勝とうと思えば、勝とうとする気持ちをすてることだな」
 
~中略、以降は、「競い馬」の場面~       画像は「源氏物語手鑑」  
 
イメージ 8
 
~古式競馬について~
その歴史を大宝元年(701年)に遡れるという。続日本書紀にその記載がある。平城京遷都後の奈良時代では史料が見つからないが、平安時代に入ってからは、藤原道長の日記である”御堂関白記”などに具体的な記述があり、五月五日の端午の節句の際、宮中でくらべ馬が開催された。また、宮中だけではなく、摂関家がくらべ馬の大会を催し、天皇が行幸されたらしい。とくに道長は相当な競馬好きだったらしく、自邸で開催していた。

二騎は、しばらく馬首をそろえて疾駆した。参之助も天一坊も、容易には的に一撃をくれなかった。やがて参之助が、隙でも発見したか、誘われたか、手槍を、突きくれた。天一坊はそれを、はねかえした。白刃の閃きに群衆は熱狂して叫んだり、はねあがったり、押しあったりした。参之助が馬上に躍りあがるようにして突く天一坊が、これを払う、この闘いが数度繰返された。天一坊は反撃しなかった。
もし、あの浪人者に出逢っていなければ、天一坊は、はやく勝利をわがものにしようと躍起な攻撃をしかけたに相違なかった。天一坊は、落ち着いて無表情の顔を、対手に向けたまま、攻撃を待っているだけであった。
 
---------------------------------------------------------------------------------------

結局、天一坊は、対手である蒔屋参之助の姉を、かどわかし一夜拉致することで、参之助に精神的な打撃を与えるという卑劣な手段を用いたのですが、結果としては、神矢主膳に勝負の直前に出逢ったことで、「競い馬」に勝つことができたという筋運びになっています。
 
この後、神矢主膳は、天一坊から、打ち明けられた策謀の後始末のために、参之助の姉・春菜が拉致されている瓶原の西方、鹿背山のふもとの草堂に向かい、春菜を救い出します。しかし、参之助は、天一坊に敗れた上、姉を拉致したのは自分であると、聞かされて衝撃を受け、恥辱にまみれた身では将来への望みはないとはやまり、切腹をして果てます。参之助は、将来を嘱望され出世の道を約束された若者で、ことに姉・春菜は、父母の亡き後、蒔屋の家を盛り立ててくれるであろう参之助だけを生きがいにして24歳の年まで親代わりとなってきたのです。自分の命に代えても弟の仇討をしようと覚悟を決め、主膳に「一太刀で敵を仆すすべ」を指南してほしいと懇願するのでした。
 
イメージ 11
 
こういう展開になってくると、もう、神矢主膳(=後の山内伊賀之亮)は、どうしても舟木さんのイメージと
重なってしまいます。
この後も、舟木・伊賀之亮のイメージを、さらに膨らませてくれる場面や描写を、抜き書きしていきたいと思います。
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1510

Trending Articles