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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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新橋演舞場・特別公演 第一部「天一坊秘聞~八百万石に挑む男」その2

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    舟木一夫特別公演~新橋演舞場 2014年9月2日~9月24日
 
第一部「天一坊秘聞~八百万石に挑む男」その1 からのつづきです
http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/69727742.html                 
                       
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「その2」では第四場、第五場、第六場をご紹介します。伊賀之亮のセリフ部分はピンク文字
 
第四場 江戸城、柳の間(一月後、晩秋)
それから一ヶ月ほど後、伊賀之亮は江戸城に呼び出され、伊豆守と対面します。先ず、天一坊の出生についてその母親と部屋住み時代の吉宗の関わりについて述べ、天一坊が宝永二年に伊勢国佐野村で生まれたのだと事の経緯を堂々と示します。
 
しかし、伊豆守は、当初から不審顔であったので、伊賀之亮は、なぜそのように疑うのかと詰め寄ります。すると伊豆守は、「もし天一坊殿が御落胤に相違ないとなれば、その位(官位)なにほどなるや」と尋ねます。伊賀之亮は「宰相にござると答えます。
 
さらに、伊豆守は、天一坊の乗ってきた駕籠について身分不相応だとばかり不快の念を表し「飴色網代蹴出の乗りものは東叡山御門主に限る乗り物である」と、先ほどの伊賀之亮の「宰相にござる」との答えの上げ足をとってきたのです。このあたりの問答が「網代問答」と言われるものです。伊賀之亮は、伊豆守の追及に微塵も怯むことなく滔々と論駁します。舟木・伊賀之亮の見事な長ゼリフ、ナマの舞台でごまかしのきかない日本語の中でも最大級に難しい「言い立て」を、一日に二公演もやってのけるのですから、凄すぎます。講談や歌舞伎でも、もちろんナマですが、舟木さんは歌い手が本業。子どもの頃からその道一筋でやってこられた歌舞伎役者さん、持ちネタとして繰り返し演じていらっしゃる講釈師の先生方とは、同じ条件とは言えないのに、素晴らしい集中力、瞬発力で、成し遂げてしまう力量とパワーに感服します。
 
~細かな、セリフの端々は難しくて全部は聴き取りきれませんでしたが、だいたいこのような内容です~
 
そもそも飴色網代は、むかし一品准三(いっぽんじゅんごう)の宮様が関東あずまに下りたまいし身ながら
やがては都に帰らせたもうや、また関東あずまにありて御一生、東叡山御門主にあらせたもうや定めなき
御身上なれば、日輪の雲にかかりし姿をあらわし飴色網代の乗り物を用いたことに始まる。今、天一坊様の御身も御親子(ごしんし)御対面のうえは西ノ丸に御直りか、御三家御同格なるか定めない御身分ゆえ朱塗りの上に黒漆をかけて飴色網代に仕立ててある。これぞこの伊賀之亮の故実にのっての計らいでござる。
 
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伊豆守と伊賀之亮の激しい応酬を、襖の奥で聞いていた吉宗は、大岡越前守に命じて止めに行かせます。伊賀之亮は、名奉行と名高い越前守と認めると「卒爾ながら・・」と越前守と初対面の挨拶を交わします。そして、その場を立ち去ろうとしますが、襖の奥に将軍吉宗が居ることに気づいています。
 
舟木・伊賀之亮は、花道の七三のあたりまで歩いてから、襖の方向を振り返り、その場に座し威儀を正して「おそれながら、奥の御方に申し上げまする。不肖、山内伊賀之亮、御親子御対面の儀、相調いますまで御手助け申し上げます。この上は我らが夢、我らが夢の成就、しかとお見届け下さるよう、御願い申し上げまする。・・・方々ご免。」

伊賀之亮が去ったあと、襖が開いて、吉宗が登場します。吉宗に伊賀之亮をどのような人物とみるか訊ねられた越前守は、吉宗に向かって「不思議なお方ですな。理が立つようで情に厚く、野心の塊ように見えて言葉に嘘がござりませぬ。善悪定め難くまことにやっかいな御人とお見受け申し上げます。」それを聞いた吉宗は、「事の善悪など歯牙にもかけず己の心のままに生きる者、わしはあの男こそ倒さねばならぬのかも知れぬ。伊賀之亮が『我らが夢』と言った、我らとはのう、あの伊賀之亮とこのわしのことじゃ」
そして、吉宗の回想の場面、第五場となります。
 
 
イメージ 1「網代問答」
 
天一坊事件は,大岡越前守と結びつけられ、講談師・初代神田伯山が「天一坊大岡政談」として連夜読みつぎ大ヒットしました。
中でも天一坊が乗っていた網代の駕籠の詮議から、越前守と伊賀亮が弁舌をたたかわす「網代問答」が最大のやま場で,伯山は「では、明晩は網代問答を」といって,幾晩も客をつり、ついにはその大入りで川柳で「伯山は天一坊で蔵をたて」という句まで詠まれたそうです。
この伯山のヒットに刺激されて歌舞伎でも四世中村歌右衛門、四世市川小団次らの名優が〈天日坊〉の名で劇化を試みたといいます。歌舞伎で「大岡政談」と言えば、「天一坊大岡政談」のことだそうです。
河竹黙阿弥が神田伯山の講談から脚色したもので、初演は1875年(明治8年)でした。
 
 
 
三代神田伯山の門下が、初代神田山陽。二代山陽の「大岡政談」のCDを聞いてみました。斎藤雅文氏脚本では、「網代問答」は、伊賀之亮と老中伊豆守との間で行われていますが、講談、歌舞伎では、大岡越前と伊賀之亮との火花散る弁舌を競い合う問答として知られています。

 
東叡山の宮様について
東叡大王(とうえいだいおう)は、三山管領宮の敬称の一つ。江戸時代の漢文の教養のある人々の間で、漢文風にこう呼ばれた。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意味である。
江戸時代の宮門跡の一つ、上野東叡山寛永寺貫主は、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあり、全て宮家出身者または皇子が就任したため、三山管領宮とも称された。
 
 
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第五場は、若き日の伊賀之亮と吉宗(徳太郎)のみが登場します。俳優さんも、若い方が演じます。
この場面のみ、パンフレットのあらすじそのままでご紹介します。この場面が、斎藤雅文版の「天一坊秘聞~八百万石に挑む男」の創作上、最も重要な入れ事になっています。伊賀之亮、吉宗を演じた俳優さんたちの好演にご注目下さいね。
 
 
五場 回想、紀州城下(三十年程前、夏の午後)
 
 
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吉宗と伊賀之亮は、三十年ほど前、ともに和歌山で暮らしていた。二人とも十歳くらいの少年であった頃、
加納家に預けられて将来に希望が持てなかった部屋住みの吉宗(当時徳太郎)と加納家の近くに住んでいた足軽の子伊賀之亮。伊賀之亮は、南蛮に行きたいと語り、徳太郎は血筋などはどうでもよい、力があるものが政治をやればよいと語る。二人は意気投合し、義兄弟の契りを結んだのだった。

 
第六場 八つ山御殿(初冬の昼過ぎ)
 
伊賀之亮は、天一坊に、若き日の吉宗と自分が、血筋にとらわれずに夢を抱いて生きることのできる新しい国を創ろうと誓い合ったことを話します。そして吉宗の運の強さを天一坊に説きます。そして天一坊に「血筋など気にせず、力のあるものがこの国の政(まつりごと)をする、そのさきがけとなって悪しき風習を覆すのだ」と励まします。
 
しかし、そこへ現れたのが、秀沢でした。そして天一坊が、まことの御落胤であると秘密を明かします。秀沢は、無垢な赤ん坊だった天一坊の顔を見ると、御落胤として世継ぎ争いの渦の中に置く事をしのびなく思い仏の慈悲におすがりして穏やかに暮らさせたい一心から、本当の事を隠していたのだと懺悔します。
 
 
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自分自身の出生の事実が詳らかになり混乱する天一坊、そして、伊賀之亮もまた、内心は天一坊以上に動揺するのです。血筋などクソくらえ!という少年時代の一途な想いをずっと胸に抱いて生きてきた伊賀之亮にとって、天一坊がまことの御落胤であっては、これまで自分のやってきたことが何の意味もないことになるのですから・・・
「ゆるせ、天一、もはや、この謀(はかりごと)は、何人にも止められぬ、そなたが、まこと吉宗殿の御落
胤であったとは、不覚、なんたる不覚・・・」
二人の心の内を象徴するかのような激しい雷鳴が轟きます。
そして、伊賀之亮は、ある決意と覚悟をするのでした。
 

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