年明け、三ヶ日に雪は降ったものの、本格的な雨は久しぶりです。突風がたまに吹いてきたりして、荒れ模様ですが、たまには雨も天の恵みですね。このところ寒いので、どうしても運動不足がち、昨日の午後に、ちょっと長めの散歩をしておいて良かったです。空はどんより気味ですが、この風景は好きです。
「七里の渡し」、今年は鳥居の「お木曳き」の年にあたります。
本題に…
先日、「成人の日」にちなみ…というタイトルで掲載した記事の中で、舟木さんが二十歳の頃に記した文をご紹介しました。その中の一節。
「朝、目をさますと、さっそくレコードを一曲聞くのである。寝床の中でぼんやり聞いていると、次第に目がはっきりしてくる。ぼくにとってレコードは”おめざ”であった。いまでもぼくは、これと似た生活を送っている。おめざに聞くことはないが…。さいきん吹き込んだ「花咲く乙女たち」をひまなときに、たてつづけに六回も聞くことがある。」 (http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/70057046.html 参照)
「花咲く乙女たち」の発売は1964年9月。この文章が掲載されたのは翌年1965年2月号の近代映画ですから、1964年の秋頃の時点での文面だと推測されます。そして、「花咲く乙女」たちといえば、西條八十が初めて舟木さんのために提供した「歌謡曲の詩」です。
西條八十は、1892年(明治25年)1月15日に誕生しました。本日が、八十のお誕生日です。今年は、生誕123年です。偶然ですがきれいに数字が並びました(笑)
そこで、八十と舟木さんが初めて対面した時のエピソードを以下にご紹介します。舟木さんがまだ19才、八十が72才の時のことになります。舟木さんから見れば、この時、八十はちょうど「おじいちゃん」の年代にあたります。
~流行歌(はやりうた)西條八十物語 吉川潮著 ちくま文庫~ より抜粋
この年、歌謡界は新人歌手の豊作だった。女性歌手では「島のブルース」の三沢あけみと「こんにちは赤
ちゃん」の梓みちよ、男性歌手ではコロムビアの「高校三年生」の舟木一夫である。舟木は高校を卒業していたが、まだ学生服が似合う十九歳の若者だ。「高校三年生」のレコード売り上げは一年足らずのうちに百万枚を突破した。作詩は門下生の丘灯至夫とあって八十も鼻が高い。その後も「学園広場」「修学旅
行」「仲間たち」など、歌う歌全てヒットして、舟木はスターダムにのし上がった。暮にはレコード大賞最優秀新人賞に輝き、紅白歌合戦に初出場した。次の歌は、大御所の八十に作ってもらい、さらに箔をつけようというのがコロムビアの狙いであった。
ちゃん」の梓みちよ、男性歌手ではコロムビアの「高校三年生」の舟木一夫である。舟木は高校を卒業していたが、まだ学生服が似合う十九歳の若者だ。「高校三年生」のレコード売り上げは一年足らずのうちに百万枚を突破した。作詩は門下生の丘灯至夫とあって八十も鼻が高い。その後も「学園広場」「修学旅
行」「仲間たち」など、歌う歌全てヒットして、舟木はスターダムにのし上がった。暮にはレコード大賞最優秀新人賞に輝き、紅白歌合戦に初出場した。次の歌は、大御所の八十に作ってもらい、さらに箔をつけようというのがコロムビアの狙いであった。
昭和三十九年五月、舟木が担当ディレクターに伴われて西條家へ挨拶に来た。屈託のない若者は、いきなりこう尋ねた。
「先生はこの数年、ほんの数曲しか歌をお書きになっていませんね。どうしてなんですか」
側でディレクターがはらはらしているが、八十はそんな舟木に好感を抱いて率直に答えた。
「それはね、一夫君。仕事をしてお金を稼いでも、それを使ってくれる人がいなくなっちゃったんだよ」
「どういうことですか」
「僕の奥さんは大変な浪費家でね。こんな大きな家を買ったり、アメリカの大きな外車を買ったり、稼いだお金をジャンジャン使ってくれたんだ。ところが、その人が亡くなってしまい、仕事をしてもお金の使い道がない。使わないお金をむきになって稼ぐことはないだろ」
舟木は納得したようで、微笑みながらうなずいた。八重歯が愛らしい。この若者のためにいい歌を作ってやろうと思った。
「先生はこの数年、ほんの数曲しか歌をお書きになっていませんね。どうしてなんですか」
側でディレクターがはらはらしているが、八十はそんな舟木に好感を抱いて率直に答えた。
「それはね、一夫君。仕事をしてお金を稼いでも、それを使ってくれる人がいなくなっちゃったんだよ」
「どういうことですか」
「僕の奥さんは大変な浪費家でね。こんな大きな家を買ったり、アメリカの大きな外車を買ったり、稼いだお金をジャンジャン使ってくれたんだ。ところが、その人が亡くなってしまい、仕事をしてもお金の使い道がない。使わないお金をむきになって稼ぐことはないだろ」
舟木は納得したようで、微笑みながらうなずいた。八重歯が愛らしい。この若者のためにいい歌を作ってやろうと思った。
打ち合わせにコロムビア本社へ出かけると、玄関前で舟木が大勢の女性ファンに囲まれていた。
かつては、自分にもそんな時代があった。女性読者が憧れる人気詩人で、書斎は愛読者の乙女たちから贈られた花であふれていたものだ。しかし、美しい花が必ず散ってしまうように、乙女たちもいつしか周囲
から消えてしまった。花も乙女も、いつまでもそのままの姿でないから余計に愛おしく思えるのかも知れない。女性ファンを花にたとえ、こんな歌ができた。
かつては、自分にもそんな時代があった。女性読者が憧れる人気詩人で、書斎は愛読者の乙女たちから贈られた花であふれていたものだ。しかし、美しい花が必ず散ってしまうように、乙女たちもいつしか周囲
から消えてしまった。花も乙女も、いつまでもそのままの姿でないから余計に愛おしく思えるのかも知れない。女性ファンを花にたとえ、こんな歌ができた。
カトレアのように 派手なひと
鈴蘭のように 愛らしく
また忘れな草の 花に似て
気弱でさみしい 眼をした子
みんなみんな どこへゆく
街に花咲く乙女たちよ
みんなみんな どこへゆく
街に花咲く乙女たちよ
カトレアのように 派手なひと
鈴蘭のように 愛らしく
また忘れな草の 花に似て
気弱でさみしい 眼をした子
みんなみんな どこへゆく
街に花咲く乙女たちよ
みんなみんな どこへゆく
街に花咲く乙女たちよ
あの道の角で すれちがい
高原の旅で 歌うたい
また月夜の 銀の波の上
ならんでボートを 漕いだひと
みんなみんな 今はない
高原の旅で 歌うたい
また月夜の 銀の波の上
ならんでボートを 漕いだひと
みんなみんな 今はない
街に花咲く乙女たちよ
みんなみんな 今はない
みんなみんな 今はない
街に花咲く乙女たちよ
黒髪を長く なびかせて
春風のように 笑う君
ああだれもが いつか恋をして
はなれて嫁いで ゆくひとか
みんなみんな 咲いて散る
街に花咲く乙女たちよ
みんなみんな 咲いて散る
街に花咲く乙女たちよ
春風のように 笑う君
ああだれもが いつか恋をして
はなれて嫁いで ゆくひとか
みんなみんな 咲いて散る
街に花咲く乙女たちよ
みんなみんな 咲いて散る
街に花咲く乙女たちよ
吉川潮氏は、演芸評論家、小説家、コラムニストと、ウイキペディアにありますが、さらに「妻は、粋曲(色物)の柳家小菊」とあり、嬉しい驚き!
東京の寄席に、三味線の弾き語りで小唄・端唄を楽しませて下さるとってもチャーミングなお師匠さんが出ていらして、彼女が舞台に登場するとパァ~ッ!と一挙に寄席の空気が華やかになって、私は、大ファンなのですが、なんとその柳家小菊さんのお連れ合いが吉川氏だったとは……
東京の寄席に、三味線の弾き語りで小唄・端唄を楽しませて下さるとってもチャーミングなお師匠さんが出ていらして、彼女が舞台に登場するとパァ~ッ!と一挙に寄席の空気が華やかになって、私は、大ファンなのですが、なんとその柳家小菊さんのお連れ合いが吉川氏だったとは……
以下にご紹介するのは、この「流行歌 西條八十物語」のあとがきです。
吉川潮氏と、八十とのご縁について記していらっしゃいます。
~西條八十という名前は、幼い頃から知っていた。両親が敬愛の念を込めて「西條先生」と呼んでいたからだ。「お前の潮という名前は、西條先生がつけて下さったんだよ。若葉(姉)も芙蓉(妹)も、うちの子は三人とも先生が名づけ親なんだからな」父は自慢げに言ったものだ。
私の父は、この小説に登場する長唄の師匠、岡安喜三四郎である。私は父に、西條先生がどんなに偉大な詩人で学者で、また作詞家であるかを聞かされて育った。小学校の音楽の時間には先生が作った童謡を歌い、ラジオからは先生が作詞した流行歌が流れる。「本当に偉い先生なんだ」と子供心に尊敬するのは当然であった。小学生の頃、父に連れられて成城の西條家に伺ったことがある。立派な門構えで、驚くほど広い邸宅だった。応接間に現れた先生は「ロバのおじさん」というあだ名がピッタリの優しげな目で私を見て「君が潮君か」と頭を撫でてくださった。奥様は父を「お師匠(おしょさん)」と呼んで、心から歓待してくれているのがよくわかった。~
私の父は、この小説に登場する長唄の師匠、岡安喜三四郎である。私は父に、西條先生がどんなに偉大な詩人で学者で、また作詞家であるかを聞かされて育った。小学校の音楽の時間には先生が作った童謡を歌い、ラジオからは先生が作詞した流行歌が流れる。「本当に偉い先生なんだ」と子供心に尊敬するのは当然であった。小学生の頃、父に連れられて成城の西條家に伺ったことがある。立派な門構えで、驚くほど広い邸宅だった。応接間に現れた先生は「ロバのおじさん」というあだ名がピッタリの優しげな目で私を見て「君が潮君か」と頭を撫でてくださった。奥様は父を「お師匠(おしょさん)」と呼んで、心から歓待してくれているのがよくわかった。~
「花咲く乙女」たちと並んで、コンサートで必ず唄われるのが、西條八十から提供された代表作「絶唱」と「夕笛」です。他に「若き旅情」「銀色の恋」。そして最後の作品が「京の恋唄」また、歌謡組曲アルバム「雪のものがたり」と「日本の四季」も八十の詩の世界を舟木さんならではの表現力で描いた作品として忘れてはならないものでしょう。純粋詩と流行歌、童謡、野口雨情の提唱した「新民謡」創作にも参加するなど、その創作活動のフィールドは幅広く多岐にわたっていた八十。
若い日に八十と出逢えたことは舟木さんに大きな影響を与えたことでしょう。そして、「芸事の世界」で生きていく上でも、とてつもなく大きな財産となったことは間違いありません。
吉川氏の「流行歌 西條八十物語」の文中に「大御所の八十に作ってもらい、さらに箔をつけようというのがコロムビアの狙いであった」とありますが、舟木さんと八十との出逢いは「コロムビアの狙い」などという卑俗的な発想を大きく超えた地平に至ってしまったと云っても過言ではないでしょう。
元々、舟木さんに備わっていた資質、感受性が、八十の創作の底流にある根源的な世界と見事に合流する結果になったということなのだと思えます。「花咲く乙女たち」も、その後に続く「絶唱」「夕笛」も舟木一夫という素材を目の当たりにしたからこそ、この世に生みだされたのではないかと思います。
「夕笛」~「絶唱」~「花咲く乙女たち」 (2014年3月BS放送「昭和の歌人たち」より)
https://www.youtube.com/watch?v=mp5gSX9m3oo
https://www.youtube.com/watch?v=mp5gSX9m3oo