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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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ちょっと箸やすめ~舟木一夫の魅力を支えるダンディズム「いき」の世界観

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舟木さんの魅力はとても一口では、言えないのですが、少なくとも私にとっての「舟木一夫」は、もう現代では、めったにお目にかかれない「いき」という空気を体現できる稀有な存在であるということです。
 
明治座公演「喧嘩鳶-野狐三次」
 
イメージ 3

 
そこで、あらためて「いき」ってどう説明したらいいのかな?と思って、何気に「いき」とパソコンのキイを叩いてみたら、最初にいつもお世話になっている「Wikipedia」のサイトが出てきました。そこで、ビックリ!なんと、舟木さんの「火消し若衆」で「いき」が、説明されているのです。そして、「いき」と併せて「いなせ」という言葉も好きなのですが、「いき」が火消しで、「いなせ」は魚屋?という記載もありました。「火消し若衆」と「一心太助江戸っ子祭り」、見事に「いきといなせ」という「江戸の美意識の世界観」を舟木さんは二十代の初めに既に歌やお芝居という表現形態の中でシンボリックに表出していらしたことになるのですね。
 
映画「一心太助江戸っ子祭り」
 
イメージ 4
 
以下がWikipedia版の「いき」の説明からの抜粋です。

いきまたは意気とは、江戸における美意識(美的観念)のひとつであった。江戸時代後期に、江戸深川の芸者(辰巳芸者)についていったのがはじまりとされる。身なりや振る舞いが洗練されていて、かっこうよいと感じられること。また、人情に通じていること、遊び方を知っていることなどの意味も含む。カタカナでイキと記すこともある。
「いき」は、単純美への志向であり、「庶民の生活」から生まれてきた美意識である。また、「いき」は親しみやすく明快で、意味は拡大されているが、現在の日常生活でも広く使われる言葉である。
「いきでいなせ」という言葉がある。舟木一夫の「火消し若衆」において、「火事とけんか」や「男っぷり」と歌われており、喧嘩っ早い火消しの江戸っ子を表現している。この語をわけて「いき」は火消しの事で「いなせ」は魚屋の事、という説もあるが、これは定かとなっていない。江戸っ子は地味な服を好むがいきなオシャレを楽しんだとされる。
 
九鬼周造『「いき」の構造』(1930)では、「いき」という江戸特有の美意識が初めて哲学的に考察された。九鬼周造は『「いき」の構造』において、いきを「他の言語に全く同義の語句が見られない」ことから日本独自の美意識として位置付けた。外国語で意味が近いものに「coquetterie」「esprit」などを挙げたが、形式を抽象化することによって導き出される類似・共通点をもって文化の理解としてはならないとし、経験的具体的に意識できることをもっていきという文化を理解するべきであると唱えた。
*九鬼周造『「いき」の構造』については後述します
 
 
先ずは「いき」な「火消し」の曲から
 
火消し若衆  作詩:安部幸子 作曲:遠藤実
http://www.dailymotion.com/video/x24xixl_%E7%81%AB%E6%B6%88%E3%81%97%E8%8B%A5%E8%A1%86-%E8%88%9F%E6%9C%A8%E4%B8%80%E5%A4%AB_music
(1965年1月発売)
 
イメージ 1火事とけんかと 一番まとい
そいつはおいらに
まかせておきな まかせておきな
白に黒文字 め組のとび衆
いきでいなせで 男っぷりなら
エー日本一
エンヤラヤレコノ 日本一
 
火の子恋の子 どちらがこわい
火消し若衆に
はっぴを着せりゃ はっぴを着せりゃ
何んの火事とて こわくはないに
恋の火となりゃ いつもにげごし
エー弱くなる
エンヤラヤレコノ 弱くなる
  
江戸の自慢は とび衆の木やり          
火の見やぐらの
上から聞かそ 上から聞かそ
えりの黒じゅす 恋風乗せて
茶屋のむすめが 通りすがりに
エー聞きほれる
エンヤラヤレコノ 聞きほれる
 

喧嘩鳶-野狐三次  作詩:村上元三  作曲:山路進一
http://www.dailymotion.com/video/x26popo_%E8%88%9F%E6%9C%A8%E4%B8%80%E5%A4%AB-%E5%96%A7%E5%98%A9%E9%B3%B6-%E9%87%8E%E7%8B%90%E4%B8%89%E6%AC%A1_music
(1968年6月発売 デビュー5周年記念明治座公演・主題歌)
 
イメージ 2さっとかつぐは に組の梯子
神田日本橋 花が咲く
そおれ 火事は近けえぞ 
 さあ 繰り出せ 繰り出せ
腰の鳶口 伊達には差さぬ
おいら に組の野狐三次
江戸の名物 喧嘩鳶
 さあ どいた どいた
 
どんと打つのは に組の太鼓
響く雷 夏の雨
そおれ 火事は近けえぞ 
 さあ 繰り出せ 繰り出せ
可愛いあの子を 濡らしちゃならぬ
おいらに組の野狐三次
江戸の名物 喧嘩鳶
 さあ どいた どいた
 
ひょいと振るのは に組の幟
背中の薄と 野狐と
そおれ 火事は近けえぞ 
 さあ 繰り出せ 繰り出せ
母の情が 男のいのち
おいら に組の野狐三次
江戸の名物 喧嘩鳶
 さあ どいた どいた
 
ジャンと鳴ったら に組の纏
雪が降ろうと 一番乗りだ
そおれ 火事は近けえぞ 
 さあ 繰り出せ 繰り出せ
渡すもんけえ この消口は
おいら に組の野狐三次
江戸の名物 喧嘩鳶
 さあ どいた どいた
 
次に「いなせ」な「魚屋」
 
一心太助江戸っ子祭り  作詩:関沢新一 作曲:山路進一
https://www.youtube.com/watch?v=Jdu8EXYjvMI
(1967年1月発売 映画主題歌)
 
イメージ 6
(セリフ)
さあさあさあ
どいたどいたどいたどいた
邪魔するねえ てやンでい
二本差しが こわくって
田楽が食えるかってンだ!
 
生まれついての 勇肌
足の先から 頭まで
意気と張りとが ピンピンしてらあ
おどし無理押し 横車
通しちゃならねえ べらんめえ!
通しちゃ男の オット 名がすたる
*
恋は深川八幡宮 何も湯島は天神で
腹はちょっぴり 数寄屋河岸
銭が内藤新宿で 恐れ入谷の鬼子母神
ぴいぴい どんどん神楽坂
酔うて 九段の坂の下
あの娘 ハラハラ駿河台

江戸の雀も まねをする
ここが天下の 一大事
人のためなら 一心太助
野暮であろうと なかろうと
一肌ぬいだら べらんめえ!
とことん男を オット かけてやる
*くり返し

肩に担いだ 天秤に
咲いたうれしい 恋の花
散るか散らぬか オット 気にかかる
*くり返し
 
 
哲学者・九鬼周造著『いき」の構造』という、なんとも難解な著作があります。九鬼という珍しい名前と「ユニークな著書名はインパクトがあるので学生時代から知ってはいましたが、堅そうで全く読む気はしませんでした。
でも「小唄」「端唄」「都々逸」など大好きでCDも何枚か持っていますし寄席やライブでナマで聴いて「あぁ、いきだなぁ…」などといい気持になったりもしますから、「いき」という言葉の持つ意味合いに学術的な切り口からアプローチした著作ということなのでずっと気にはなっていました。
 
舟木さんと、つい2年半ほど前に「再会」して、「絶唱」の頃までのイメージしかなかった私が、たった一回のステージでグイッ!と心をわしづかみにされたのは、昔の繊細で清潔な魅力が少しも損なわれていなかったことも大きな理由ですが、多分、それだけではなく、というか、それと同時に私が抱いていた昔の舟木さん像にプラスされていた雰囲気が思いがけず「いき」という空気だったからかもしれません。大人になっていく過程で「いき」という日本特有の文化・芸能に触れてきた経緯があったので、舟木さんと「再会」した時に、そういった匂いを感じたのかもしれません。私が古い記憶として持っていた舟木一夫像ではない「垢ぬけた感じ」「いい意味の玄人っぽさ」「非日常の香り」「ほどの良さ」などを纏った嬉しい舞台人を新たに「見ぃ~つけた!」という衝撃でした。
 
舞台芸術、芸能が好きな私ですが、それは、板の上(舞台)にいる側と、それを見る側との距離感がなん
ともいえず好きだということでもあるのかもしれません。それは単に物理的な距離感ではなく「うん、やっぱり私とは違う特別な世界に住む人だ」という憧れと賞賛の気持ちを覚えさせてくれるだけの舞台人としての力量やオーラがあることです。
そして、板の上にいる側にも、どこかに「芸人」であるといういい意味での積極的な自負を持っていることを求めてしまいます。「芸事」を生業(なりわい)としている人には、見る側との間に凛とした線引きをしていることがとても大切なことなのだと思っています。
 
舟木さんは、若い頃からそこがとても明快で、「お客さま」をとても大切しつつ、一方で、しっかりその「線引き」の自覚を持って来られたのであろうことを「再会」して以来、舟木さんの旅路を追体験していく中で痛切に感じたのです。その在り様自体が、とても「いき」であるとも感じていますし、舟木さんの「芸人」としての美意識ではないかという気がしています。

「いき」な舟木さんの在り様の根源を私なりに探ってみたいと思い、難解な『「いき」の構造』を、ちょっと齧ってみました。なんとなく私の心に響いてきた部分を抜き書きしてご紹介しておきます。
下記の太字にした部分が、なにやら舟木一夫的なるものと重なるような気がしています。
 
あくまで、感覚的ですが、下記に掲げた『「いき」の構造』で述べられている言葉や単語で表わすなら…
「婀娜っぽい、かろらかな微笑」「真摯な熱い涙のほのかな痕跡」「流転」「無常」「空無」「涅槃」「諦め」「静観」…こうしたものが舟木さんの周囲に漂っていて「いき」という佇まいとしてのダンディズムを感じさせるのかもしれません。

イメージ 5~九鬼周造著『「いき」の構造」』より抜粋~
 
要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界(くがい)」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛(せちがら)い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍(てんたんむげ)の心である。
 
「野暮は揉(も)まれて粋となる」というのはこの謂(いい)にほかならない。婀娜(あだ)っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯(しんし)な熱い涙のほのかな痕跡(こんせき)を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握(はあく)し得たのである。
 
 
 
「いき」の「諦め」は爛熟頽廃(らんじゅくたいはい)の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否(いな)み得ない事実性を示している。
 
そうしてまた、流転(るてん)、無常を差別相の形式と見、空無(くうむ)、涅槃(ねはん)を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない。
 
わかったような…わからないような…さっぱり、わからない?(笑)トホホなブログで、すみませ~ん

*「浮かみもやらぬ 流れのうき身」とは、「長唄 高尾懺悔」からの引用だそうです
 
鉦鼓の音も澄みわたり 名もなつかしき宮戸川 都鳥も声添へて 
南無阿弥陀仏みだ仏 浅茅が原のさうさうと 風冷やかに身にぞしむ 
不思議や紅葉の影添ひて 塚のうしろにすごすごと 高尾が姿あらはれて 
もみぢ葉の 青葉に茂る夏木立 春は昔になりけらし 
世渡る中の品々に 我は親同胞の為に沈みし恋の淵 浮びもやらぬ流れのうき身 
憂いぞつらいぞ勤めの習ひ 煙草呑んでも煙管より 咽喉が通らぬ薄煙 
泣いて明かさぬ夜半とてもなし 人の眺めとなる身はほんに 
辛苦万苦の苦の世界 四季の紋日は小車や 
 
・高尾とは、いわゆる「苦界」に生きる女性のシンボルである有名な傾城(遊女)です
高尾太夫(たかおだゆう)は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名。高尾太夫は、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。
 
着流し姿は、なんたって360度どこから見ても「いき」です
 
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