数日前に散歩していたらアカシア(ミモザ)の花に遭遇しました。今の季節が花盛りなのかな
いつもお世話になっている舟友のkazuyanさんが、2月の新歌舞伎座公演の「思い出動画」として、千秋楽のスタンディングで歌われた「親不孝通り」をバックに作成して下さったものを感謝を込めてご紹介させていただきます。ステキな舟木さんをご堪能くださいね。
この曲は、1973年2月3日から22日まで渋谷・東横劇場で開催された「艶歌ミュージカル~愛する時も死する時も」の挿入歌として作られたものです。同じく劇中で舟木さんが唄った「俺が死ぬ日」と共に、その年の7月にシングルレコードとして発売されています。
(1973年7月発売 艶歌ミュージカル「愛する時も死する時も」挿入歌)
このお芝居については私の下記のhtmlをご参照ください。
艶歌ミュージカル・愛する時も死する時も~東横劇場1973年パンフレットより(上)
http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/68676232.html
http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/68676232.html
加筆しました~艶歌ミュージカル・愛する時も死する時も~東横劇場1973年パンフレットより(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/68676672.html
http://blogs.yahoo.co.jp/ycmay26/68676672.html
メロディーやリズムは、舟木さんの持ち歌としてはちょっと異質な感じを受けます。
作曲は、有名ないずみたくさん。言わずと知れた60年代から70年代にかけての昭和ポップス界のヒットメーカーです。作詩の山川啓介さんも同様に主に1970年代に入った頃のポップス系のヒットメーカーで、いずみたくさんとのコンビの作品もあります。
作曲は、有名ないずみたくさん。言わずと知れた60年代から70年代にかけての昭和ポップス界のヒットメーカーです。作詩の山川啓介さんも同様に主に1970年代に入った頃のポップス系のヒットメーカーで、いずみたくさんとのコンビの作品もあります。
1970年という時代は、ちょうど団塊の世代が学生運動をバックにして「壊して創る」という新しい時代の文化・芸術にエネルギーを向けていた頃です。終戦の1945年をまたいで生まれた世代の人たちが青春を迎えて、多くの才能がひしめきあっていた時代といってもいいでしょう。特に音楽や美術、演劇などの芸術分野でセンセーショナルにスポットライトを浴びた逸材が多く輩出した特殊な時代だったように思います。
今でこそお茶の間でにこやかにほほ笑んでいらっしゃる人気者の美輪明宏さんですが、子どもの頃の私はその強烈な個性に思わず、「ひいてしまった」記憶があります(笑)でも、舟木さんがすでに復活を遂げて活躍なさっていた20年ほど前は舟木さんの情報は全く気付かずにいたにもかかわらず美輪さんには関心が向いていてお芝居やコンサートに出かけて楽しむようになりましたし、CDもたくさん買いました。「愛する時も死する時も」は、その美輪さんがまだ芸名を丸山明宏から美輪明宏に改名して間もない頃の舞台での共演作品です。
山内賢さんも共演なさっています
ここで登場するのが松浦竹夫氏です。この公演は「松浦企画第一回公演」とパンフレットに記されています。松浦氏は、明治座公演の二年目の「坊ちゃん」の演出をされています。その後も1970年の明治座公演の「荒城の月」、1971年「忠臣蔵異聞・薄桜記」、1972年「あの海の果て」、1973年「われ永久に緑なる」と毎年のように演出を担当なさっています。舟木さんと美輪さんのコラボを松浦さんはどのようなイメージで企画なさったのかとても気になりますが、当時としてはかなり斬新で前衛的な舞台だったんだろうと想像します。
いずみたく(1930年1月20日 - 1992年5月11日)
日本の作曲家。元参議院議員(第二院クラブ)。
歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調はさまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲にのぼるという。1969年(昭和44年)には佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」が第11回日本レコード大賞を受賞した。また、「歌はドラマである」という自らのモットーに基づいて、「見上げてごらん夜の星を」「洪水の前」「おれたちは天使じゃない」「歌麿」「船長」「死神」など多数のミュージカルを手がた。ミュージカルの制作と共に、ミュージカル俳優の育成にも情熱を注ぎ、日本のミュージカル界で活躍する多くの俳優を育てた。その俳優養成がもととなり、ミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現・ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)を旗揚げ。客席数100席の劇場・アトリエフォンテーヌを作り、そこを拠点に数々の実験的な公演を行った。
歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調はさまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲にのぼるという。1969年(昭和44年)には佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」が第11回日本レコード大賞を受賞した。また、「歌はドラマである」という自らのモットーに基づいて、「見上げてごらん夜の星を」「洪水の前」「おれたちは天使じゃない」「歌麿」「船長」「死神」など多数のミュージカルを手がた。ミュージカルの制作と共に、ミュージカル俳優の育成にも情熱を注ぎ、日本のミュージカル界で活躍する多くの俳優を育てた。その俳優養成がもととなり、ミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現・ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)を旗揚げ。客席数100席の劇場・アトリエフォンテーヌを作り、そこを拠点に数々の実験的な公演を行った。
山川啓介(1944年10月26日 - )
作詞家・脚本家・音楽構成家・舞台構成家・訳詞家として活躍。
岩崎宏美「聖母たちのララバイ」、中村雅俊「ふれあい」、青い三角定規「太陽がくれた季節」ほか多数
野暮な野郎はどいていな
遊び知らずは帰りなよ
ここは俺らの縄張りだ
粋な男の来る町だ
酒持って来い 喧嘩しに来い
矢でも弾玉(たま)でも受けてやる
だけどよ だけどよ
こんな筈じゃあなかったぜ
どんなに酔っても騒いでも
心のどこかが ひえたまま
あ……よこはま 親不孝通り
遊び知らずは帰りなよ
ここは俺らの縄張りだ
粋な男の来る町だ
酒持って来い 喧嘩しに来い
矢でも弾玉(たま)でも受けてやる
だけどよ だけどよ
こんな筈じゃあなかったぜ
どんなに酔っても騒いでも
心のどこかが ひえたまま
あ……よこはま 親不孝通り
過ぎたことなど忘れなよ
明日のことなど思うなよ
どうせ一度の人生さ
今日が良ければそれでいい
夜はまだこれからだ
朝まで陽気に騒ごうぜ
だけどよ だけどよ
こんな筈じゃあなかったぜ
どんなに酔っても騒いでも
心のどこかが ひえたまま
あ……よこはま 親不孝通り
あ……よこはま 親不孝通り
明日のことなど思うなよ
どうせ一度の人生さ
今日が良ければそれでいい
夜はまだこれからだ
朝まで陽気に騒ごうぜ
だけどよ だけどよ
こんな筈じゃあなかったぜ
どんなに酔っても騒いでも
心のどこかが ひえたまま
あ……よこはま 親不孝通り
あ……よこはま 親不孝通り