6月の新橋演舞場公演の千穐楽の翌日に開催された「サンクスコンサート」で舟木さんがセレクトされたのが第一部が西條八十氏の作品、第二部が船村徹氏の作品でした。
~以下西條八十または八十とします(敬称略)~
~以下西條八十または八十とします(敬称略)~
西條八十と言えば舟木さんにとってとても大切な存在…というより日本の流行歌史の中で「西條八十と舟木一夫が造り上げた抒情歌の世界」は今も色褪せることなく、むしろ今だからこそ輝きを増して「日本の名曲群」の中にしっかりと座しているように思います。
そういう想いもあって、私はいつか舟木さんと西條八十をテーマにして私なりにまとめてみたいと思っていました。奇しくも最近オークションで入手したアルバム「ひとりぼっち第3集 舟木一夫懐かしの歌」(1969年発売)には八十作詩の昭和の名曲であり大ヒット曲でもある作品が4曲収録されていました。
八十が舟木さんのために書かれた作品と併せて少しまとめてブログに掲載してみようと手元にある「西條八十」(中公文庫)を読み直していたら去る8月12日が八十の御命日であることに気付きました。少し御命日を過ぎてしまいましたが、この機会にあらためて舟木さんと関わりの深い八十の詩の世界と成し遂げられた偉業の一端を偲ぶことができればと思います。
西條八十は明治25年(1892)1月15日東京生まれ。明治時代に幼少期から成人までの多感な時期を過ごし、続く大正、昭和という激動の日本を見つめその類稀なる幅広い才能で数々の文芸詩や流行歌を生み、長きにわたって第一線で活躍されました。昭和45年(1970)8月12日死去。
~以下加筆します。(舟友さんから貴重な情報をいただきましたので加筆させていただきます。8月17日)~
「西条八十先生、昭和45年(1970)8月12日死去。この時舟木さん(25才)は明治座公演中(夜の部・荒城の月→夏祭り“唄の浜町”ヒットパレード)で訃報を聞き舞台で号泣されていました。」
八十は、日本人の暮らしや心映えから生まれた言葉や唄(各地の民謡なども)を、掘り起こし、あるいは掬い上げて広く世に送り出し、光を当て、「普遍的な日本の心」として私たちの胸に今なお染み透る名曲を数多く残しました。その中で舟木さんの歌唱で音源化されている作品を取り上げてみたいと思います。
長くなるので、とりあえず「その1」としてスタートします。
~参考資料~
「西條八十」筒井清忠著(中公文庫)
「西條八十」筒井清忠著(中公文庫)
西條八十(さいじょう やそ)
1892年(明治25年)1月15日 ~1970年(昭和45年)8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者。
長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。
1892年(明治25年)1月15日 ~1970年(昭和45年)8月12日)は、日本の詩人、作詞家、仏文学者。
長男の西條八束は陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。
(漢字表記は旧字体の西條が正しいが、現在では新字体の西条も多く見られる。)
東京府出身。1898年(明治31年)旧制早稲田中学(現早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919年(大正8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。後にフランスへ留学しソルボンヌ大学でポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早大仏文学科教授。戦後は日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年、日本芸術院会員。
象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき「東京行進曲」、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした「青い山脈」、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー「蘇州夜曲」、古賀政男の故郷風景ともいえる「誰か故郷を想わざる」「ゲイシャ・ワルツ」、村田英雄の男の演歌、船村メロディーの傑作「王将」など無数のヒットを放った。
また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。
三百六十五夜 作曲:古賀政男 舟木さんの歌唱はこちらで↓
みどりの風に おくれ毛が
やさしくゆれた 恋の夜
初めて逢(お)うた あの夜の君が
今は生命(いのち)を 賭ける君
気づよく無理に 別れたが
想い出の道 恋の街
背広に残る 移り香(が)かなし
雨の銀座を ひとりゆく
想い出の道 恋の街
背広に残る 移り香(が)かなし
雨の銀座を ひとりゆく
鈴蘭匂う 春の夜
灯(ともしび)うるむ 秋の夜
泣いた 三百六十五夜の
灯(ともしび)うるむ 秋の夜
泣いた 三百六十五夜の
愛の二人に 朝が来る
1946年(昭和21年)に創刊された娯楽読物雑誌『ロマンス』の3号、1946年8月号から小島政二郎の長編恋愛小説『三百六十五夜』が連載され、岩田専太郎の挿絵も相まって人気を呼び、連載終了と同時に1948年に映画化され、東京篇と大阪篇が制作された。この映画と主題歌の人気は『ロマンス』の売り上げに拍車をかけ、1948年には発行部数82万部にまでなった。その後も映画・テレビドラマなどでリメークされている。
~生い立ち~「西條八十」筒井清忠著(中公文庫)より 八十の父は養子に入った先の質屋を明治13年にやめ、石鹸製造業を始めた。仕事は順調で八十が少年時代には数十人もの職工を雇っていたので職工と一緒に広い台所で食事をして育った。八十の庶民的根性はこの時代から培われている。周囲はほとんど士族だったので「お坊ちゃんたちは仲間に入れてくれなかった」ことも八十の庶民魂をかためることになった。このように八十は「山の手の庶民」なのであった。
彼の残した童謡や抒情詩ばかりから彼の性格を類推するとその人柄を見誤ることになる。八十は「根性」「魂」という言葉を好む非常に気性の激しい一面をもっていたがそれは先に揚げた孤寂感によって培われていたのだった。当時西條家で八十を育てていた「おきんさん」という女性は落語家・談州楼燕枝の実母だった。彼女は江戸末期の手鞠唄や数え唄を毎晩添い寝しながら八十に聞かせた。八十は晩年になってもこれらの歌詞をそらんじては涙したという。おきんさんはしばしば八十を燕枝の家に連れていき八十は寄席に親しみ円生、円遊、小さん、円右など当時の落語家の話をよく聞いた。また盲目の新内語り紫朝の「蘭蝶」を目を閉じ、耳を澄ませて聴き入ったという。
また父の弟夫婦の家でもしばらく育てられたが、この夫婦も芝居や寄席を愛好していたので八十は、五代目菊五郎、左団次などの芸に接する子こととなった。八十はほとんど毎日のように俗曲、俗舞の世界の中で暮らし続けたようなものであったという。
また父の弟夫婦の家でもしばらく育てられたが、この夫婦も芝居や寄席を愛好していたので八十は、五代目菊五郎、左団次などの芸に接する子こととなった。八十はほとんど毎日のように俗曲、俗舞の世界の中で暮らし続けたようなものであったという。
八十は後年「そういう永く潜在意識の中にあったものがその後外国文学に陶酔しきっていた私の心の殻を破っていまようやく芽をさし伸ばしきったのであったと分析している。
以下は私が調べたことの補足です・・・
~ここに出てくる落語家。談州楼燕枝は二代目と思われます。二代目燕枝は東京の下谷、西町に住んでいたことから「西町の御前」と呼ばれていたとのこと。ここで八十は「師匠の燕枝から落語の稽古をうける弟子たち」を見たと書いています。(西條八十『唄の自叙傳』昭和31年より)
サーカスの唄 作曲:古賀政男 http://www.youtube.com/watch?v=-Vo5ZzQEVUw 舟木さん歌唱
旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た
あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ
朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町で
~補足~
昭和8年(1933)3月28日、東京・芝浦で開かれた「万国婦人子供博覧会」を記念して、ドイツのハーゲンベック・サーカスが来日しました。団員総勢約150人、動物182頭。日本人が初めて見る本格的なサーカスでした。このサーカスの宣伝のために作られたのが、『サーカスの唄』です。
では、ここで八十が舟木さんのために最初に書いた作品『花咲く乙女たち』について、ちょっとふれておきます。
「西條八十」の著者の筒井氏は『花咲く乙女たち』へと繋がる八十の「喪失への悲哀感」を八十の記した文を紐解き次のように解説していらっしゃいます。↓
~神楽坂の通りでふと赤児を負った若い女にあった。彩りもない装いで寒そうに罐工場の前に立っていた。私は驚いた。かつて私が牛込教会に通っていた当時、大巾の真紅のリボンをつけて黒髪をおさげに波打たせて矢がすりの美しい着物でやってきた華やかな女子学院の生徒のひとりだ。あゝ、あの人も嫁いでしまったと思うと、限りない哀愁と寂寥とが私の胸に湧いた。~
ここには八十の後年の「少女(乙女)讃歌」的詩文の基本的モチーフの萌芽がうかがえる。それは結婚による姉の「少女性」の喪失感によって裏打ちされ、晩年の『花咲く乙女たち』の「みんなみんな咲いて散る」という「哀しい歌詞」にもつながっていく。
花咲く乙女たち 作曲:遠藤実
カトレアのように 派手なひと
鈴蘭のように 愛らしく
また忘れな草の 花に似て
気弱でさみしい 眼をした子
みんなみんな どこへゆく
街に花咲く 乙女たちよ
鈴蘭のように 愛らしく
また忘れな草の 花に似て
気弱でさみしい 眼をした子
みんなみんな どこへゆく
街に花咲く 乙女たちよ
みんなみんな どこへゆく
街に花咲く 乙女たちよ
街に花咲く 乙女たちよ
黒髪をながく なびかせて
春風のように 笑う君
ああだれもが いつか恋をして
はなれて嫁いで ゆくひとか
みんなみんな 咲いて散る
街に花咲く 乙女たちよ
みんなみんな 咲いて散る
春風のように 笑う君
ああだれもが いつか恋をして
はなれて嫁いで ゆくひとか
みんなみんな 咲いて散る
街に花咲く 乙女たちよ
みんなみんな 咲いて散る
街に花咲く 乙女たちよ
そして『花咲く乙女たち』のB面の『若き旅情』も八十の作詩ですが、ここでも八十は筒井氏の解説を裏付けるような「喪失感」を舟木さんに歌わせているのですね。
~「その2」へとつづきます~