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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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島崎藤村~8月22日は藤村忌 舟木さんのナレーションでたどる藤村の生涯その2

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舟木さんのナレーションでたどる藤村の生涯 その2 
~舟木さんのナレーション部分ともとにしている部分はピンクの文字です。~
 
イメージ 1明治32年(1899)、藤村は、仙台を離れ、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任しました、(以後6年が小諸時代)。小諸時代には『落梅集』で「椰子の實」を発表、また写生文「千曲川のスケッチ」などを書きました。秦冬子と結婚し、翌年には長女が生れ、次々に恵まれた三人の娘との静かな暮らしが送っていましたが、ある事件をきっかけにその生活は一変します。それは妻の冬子が昔好きだった男にあてた恋文を見てしまったからです。藤村は妻に昔好きな男がいたことが許せなかったのです。なぜ藤村がそこまでこだわったのか・・その理由は「父母の問題」が影を落としていました。父の正樹は旧家の弊で、イメージ 2異母妹と近親相姦を犯し、そのことに衝撃を受けた母もまた不倫をして父の子ではない、藤村のすぐ上の兄である友弥を産んでいたのです。そのことが、藤村の女性恐怖に繋がり、女性コンプレックスとなっていました。また女性への復讐という感情を生んだのです。 そして母の過ちで生まれた兄の友弥は放蕩の限りを尽くし、後に藤村を苦しめることになります。藤村にとっては母の不貞と先に掲げた父の精神の病などがその作品にも大きな影響を与えました。
左の画像は小諸市の「懐古園」
 
 
イメージ 3藤村一家は、明治38年(1905)に小諸を離れ、上京しますが暮らしは貧しく三人の娘を次々に栄養失調で失くします。「人生へのわだかまり」が藤村を衝き動かして小説家への道を歩み出しました。『破戒』の主人公である青年教師丑松を自分自身とダブらせたその小説は夏目漱石はじめ当時の文壇から賞賛されます。
明治39年、三人の娘を亡くした藤村は浅草へ転居し、ここで二人の男の子を得ます。そして、明治41年、藤村は夏目漱石、二葉亭四迷に続き、朝日新聞の新聞小説として北村透谷、佐藤輔子を主人公とした『春』を執筆。その後、三男も生まれますが、妻の冬子は四女を出産後に亡くなります。
 
明治44年 子ども四人(長男、次男、三男 四女)を抱えた藤村。再婚を拒む藤村の元へ兄が自分の娘ふたりをよこしました。藤村と姪ふたりと四人の子どもたちと暮らす藤村。しばらく後に、年上の姪は嫁いでいき、下の姪こま子が残りました。そして、しばらくたったある日、突然藤村はひとりでフランスへ旅立ちました。
その後、姪のこま子は藤村の兄の家でひっそりと藤村の子である男の子を産みます。
藤村は自分と父の正樹をダブらせ、二度と日本には帰らぬ決意でパリで暮らし始めるのですが、第一次世界大戦勃発により大正5年帰国。東京では姪のこま子が待っていました。帰国した藤村はこま子との関係を復活させてしまうのです。そして、醜い自分に父の狂気を感じるのでした。
藤村は、この時、初めて自分の中の地獄を正面から見つめ、こま子の承諾を得て、新聞小説に「新生」というタイトルで小説を連載。文壇は騒然となりました。大正8年、藤村は飯倉片町に居を移し、里子に出していた二人の子どもたちも呼び寄せ、家族5人(藤村と4人の子ども)とでひっそりと暮らし始め、自分の魂の救いを求めたのです。
 
下の画像は写真は藤村の童話集です。「幼きものに」「ふるさと」「おさなものがたり」「力餅」の全4巻
そして、なんと、挿絵は竹久夢二です。ここでも夢二と繋がりました。舟木さん繋がりでとっても嬉しい! 
 
イメージ 4
 
 
妻の死、姪との秘め事、フランス滞在という出来事は、藤村の子どたちに大きな犠牲を強いることのになりました。フランスから帰国した藤村は、自分自身のためにも安らげる家庭をとり戻そうとしたようです。そして、その「家庭再建」の過程で書いた童話集が藤村の作品群の中に遺されました。この中の『ふるさと』 の序文には、以下のように書かれています。
*太郎、次郎・・というのは実名ではなく童話の中の仮名ですが、実の子どもたちに向けて書かれた言葉です。
 
~早いものですね。あの本を作った時から、三年の月日がたちます。太郎は十六歳、次郎は十四歳にもなります。父さんの家には、今、太郎に、次郎に、末子の三人がいます。末子は母さんが亡くなると間もなく常陸(ひたち)のほうの乳母(うば)の家に預けられて、七年もその乳母のところにいましたが、今では父さんの家のほうに帰ってきています。三郎はもう長いこと信州木曾(きそ)のおじさんの家に養われていまして、兄の太郎や次郎のところへ時々お手紙なぞをよこすようになりました。三郎はことし十三歳、末子がもう十一歳にもなりますよ。(中略)人はいくつになっても子供の時分に食べた物の味を忘れないように、自分の生まれた土地のことを忘れないものです。たとえその土地が、どんな山の中でありましても。そこでこんど、父さんは自分のちいさい時分のことや、その子供の時分に遊び回った山や林のお話を一冊の小さな本に作ろうと思いたちました。・・・・~

藤村の父親としての想いが、晩年にこうして文学に生涯を捧げた藤村らしい形で、遺されていることに安堵の想いがします。子どもたちへの情愛の証としてもさることながら、誰より藤村自身が、苦しみ続けた両親への複雑な相克から解放されて、自身の血脈を肯定し、子どもたちへの深い想いを書き遺すことができたのですね。このことは藤村が文学とは離れてひとりの人間として幸せを得たことを示しているのだと感じます。そして、その解放感によってこそ藤村は真の意味で生涯を全うできたのだと思います。
 
イメージ 9しかし、この頃、藤村は脳溢血欠で倒れ。これを機に藤村は父のことを書こうと決意する。自分の心の中の闇への挑戦であった。「木曽路はすべて、山の中である・・」という、名作『夜明け前』を書き始めたのである。
それは人間として生きた父を肯定しようとする作業であった。この『夜明け前』の中で藤村は「一切は、神の心であろうでござる」と書いた。書きあげた時は、藤村は初めて声高らかに笑ったという。
昭和12年 その頃、終の棲家となる大磯に住まいをしていた藤村は『東方の門』を書き始めたが、これは49枚目で終わった。昭和18年8月22日 藤村は71歳の生涯を閉じた。藤村は生涯、ひとりの作家として心の中の自分を見つめ、いのち果てるまで書き続けた。藤村は晩年に書いた童話の中で、自分のことをこのように書いている

「私としたところで、最初からこんなにひとすじにつながるものではなかった。ずいぶん手放しで彷徨ったものだ。しかし、私はまだ ゆけるところまでゆこうとしている。毎日のように歩いている。毎日のように進んでいる」
  ~舟木さんの歌声で『初恋』が流れ、エンディングとなります~
 
この最後の結びの言葉を聴いて、私はまるで舟木さんが御自身のことをおっしゃっているかのような錯覚を覚えました。この放映は今から20年近く前なのですが、今も舟木さんはステージでこのような言葉をおっしゃっていますから・・・
 
藤村の『初恋』のモデルになった女性について・・・
 
「島崎藤村は佐藤輔子の名字の佐藤から「藤」という字をとったといわれています。」
ナレーションの中で舟木さんは明確にこう云われていました。

イメージ 6イメージ 5藤村は、輔子への秘めた愛も打ち明けることがなく成就しなかった恋であることを思えば、『初恋』のモデルはこの佐藤輔子であったことも十分に考えられると私は思いました。藤村は、女学校を退職し、洗礼を受けた教会からも退籍しています。そして、このあと2年間、北村透谷が自殺、また同じ年兄が事業の失敗から屋敷を売却、藤村は島崎家の負担を一身にひきうけることになった藤村。さらに、翌28年8月、初恋の人輔子が札幌で病死。郷里の大火で、藤村の屋敷は焼失という凶事が続きます。
翌29年仙台の東北学院へ赴任したちょうどこの時期に編まれた『若菜集』。ここで発表された『初恋』です。
以下、このような研究があるとのことを知って、私としては「初恋」のモデルがいよいよ佐藤輔子ではないだろうか・・という印象が深まりました。その研究の内容を下記に引用させていただきます。
 
イメージ 7~これまで研究者は、この詩の背後には旧約聖書のアダムとイヴの物語があると見てきた。その理由は、藤村がクリスチャンだった時期を持っていたからである。当時の日本では、若い男女が恋に陥ることはまだタブー視されていました。そういう時代、恋は人目を忍ぶ、秘密めかした行為であって、おのずから罪の意識が伴ってしまう。「やさしく白き手をのべて/林檎をわれにあたへ」るという表現は、「禁断の恋の象徴」と言える。それは藤村たち『文学界』のロマンティシズムに通じる見方であり、藤村がクリイメージ 8スチャンだった事実と結びつき、先のような解釈が生まれた。~
 
 
 
 
 
考えてみれば「林檎を手渡す」行為に象徴的な意味を見出したとういうことは、藤村が「やさしく白き手をのべて 林檎をわれに与へしは」と詠ったのは、単に即物的な行為を詠ったものではないと、想像されます。「逢瀬を重ねて、おのずから恋の通い路が出来てしまった」という発想も、また、実際にそのような「人目をはばかる逢瀬」を重ねていたという思い出を詠ったものというより、藤村の叶わぬ恋を詩歌の世界で夢想として実現させたものであったとも考えられます。現実では、打ち破れなかったキリスト教的な禁欲からの解放を、憧れと若き日の成就し得なかった恋への悔恨の想いで藤村が切なく詠ったものであるように私には思えてきます。そうなると、「初恋」のモデルは、佐藤輔子なのではないかという想いが、さらに強くなってくるのです。
 
(舟木さんのナレーションでたどる藤村の生涯 完結)
【藤村忌】~大磯町ホームページより~
毎年藤村の命日である8月22日、墓参・献花を行います。 藤村が眠るのは大磯駅より徒歩5分のところ
にある地福寺。藤村は生前、静寂で趣があり海も街道の彼方にちらりと見えて、潮風も吹き通ってくるような地福寺の境内を好みよく散歩の時に立ち寄られて、自身の墓地も此処に選びたいと言われていたらしいです。
日  時: 平成25年8月22日(木曜日) 10時00分 ~ 11時00分
場  所: 地福寺
内  容: 地福寺住職による回向後、参列者による献花・献香
参加方法: 当日地福寺に直接お越しください。

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