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Channel: 舟木一夫の世界~れんげ草の咲くさんぽ径~
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島崎藤村~8月22日は藤村忌 舟木さんのナレーションでたどる藤村の生涯 その1

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八月二十二日は藤村忌 ~島崎藤村 1943年(昭和18年)8月22日死去~
今年は藤村が亡くなってちょうど70年にあたります。
 
1994年4月17日 放映 「知ってるつもり?!」 島崎藤村   ナレーション舟木一夫
 
1989年10月8日から2002年3月24日まで日本テレビ系列局で毎週日曜日 21:00 - 21:54 (JST) に放送されていた人物系教養番組「知ってるつもり?!」の「島崎藤村」を取り上げた回で舟木さんがナレーションを担当なさいました。その時の内容をもとに、私なりにまとめてみました。この時期はデビュー30周年を機に、舟木さんが「復活」への快進撃をスタートなさった頃と言えます。私は、この頃もほとんどテレビを見ていなかったので番組名は憶えていますが、あまり観たことはなくてこの「島崎藤村」の回も観ていません。舟友さんから、私が「初恋」を大好きであることから、音源のみですが聴く機会を得る幸運に恵まれました。舟木さんの素敵なお声でのナレーションをもとにして、島崎藤村の生涯と「初恋」の周辺についての記事をまとめてみました。
 
~以下はウィキペディアより抜粋~
イメージ 1島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年)8月22日)
本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。
父は正樹、母は縫。四男だった。生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる地方名家で、祖は三浦半島の津久井の出。父の正樹は十七代当主で国学者だった。
1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通った。さらに三田英学校、共立学校など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)入学。キリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁った。明治学院普通部本科の第一期卒業生で、校歌も作詞してい
る。この間、1886年(明治19年)に父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵の
モデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。
卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子(さとうすけこ)を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後関西に遊び、吉村家に戻る。1894年(明治27年)、女学校に復職したが、透谷が自殺。翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職。この頃のことは後に『春』で描かれる。
1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場した。『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称された。これら4冊の詩集を出した後、詩作から離れていく。
1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。秦冬子と結婚し、翌年には長女・みどりが生れた。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905年(明治38年)、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃栄養失調により3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。
1908年(明治41年)『春』を発表、1910年(明治43年)には「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来ていたが、1912年(明治45年/大正元年)半ば頃からこま子と事実上の愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。翌年から留学という名目で3年間パリで過ごしたのち、帰国するもこま子との関係が再燃してしまう。1917年(大正6年)に慶應義塾大学文学科講師となる。1918年(大正7年)、『新生』を発表し、この関係を清算しようとした。このためこま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った(こま子は後に日本に戻り、1978年6月に東京の病院で85歳で死去)。
なお、この頃の作品には『幼きものに』『ふるさと』『幸福』などの童話もある。1927年(昭和2年)、「嵐」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで『中央公論』にて連載された。
1943年(昭和18年)、「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。
 
イメージ 7第二詩集となる「一葉舟」は舟木さんの歌唱曲のタイトルにもなっていますね。
詩集                        
若菜集(1897年8月、春陽堂)
一葉舟(1898年6月、春陽堂)
夏草(1898年12月、春陽堂)
落梅集(1901年8月、春陽堂)
藤村詩集(1904年9月、春陽堂)
 
小説
旧主人(1902年11月、『明星』)
破戒(1906年3月、自費出版)
春(1908年10月、自費出版)
家(1911年11月、自費出版)
桜の実の熟する時(1919年1月、春陽堂)
新生(1919年1、12月、春陽堂)
ある女の生涯(1921年7月、『新潮』)イメージ 8
嵐(1926年9月、『改造』)
夜明け前(1929年1月、1935年11月、新潮社)
 
童話
眼鏡(1913年2月、実業之日本社)
ふるさと(1920年12月、実業之日本社)
おさなものがたり(1924年1月、研究社)
幸福(1924年5月、弘文館)
 


舟木さんのナレーションでたどる藤村の生涯   その1
 
冒頭、舟木さんによる椰子の実の一節から始まりました。 以下舟木さんのナレーションを元にした部分はピンク

イメージ 2椰子の實     作曲:大中寅二
 
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
 
舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ
 
イメージ 3
實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ
 
この「椰子の實」の詩は、明治33年6月号の「新小説」に発表され、明治34年8刊行の『落梅集』に収められました。

 
島崎藤村は日本語の美しい響きでロマン溢れる詩情を詠った詩人であり、『夜明け前』の作家としても広く知られています。明治、大正、昭和の三つの時代を詩人として小説家としてまた歴史小説家として生きた文豪です。
本名の春樹という名前は生家の庭にあった椿の花から父の正樹が名づけたものです。幕府公認の宿屋を営む旧家 父は学問好きでした。国の将来を憂うあまり、明治7年10月17日 天皇の行列に扇を投げ込むなど政府の批判をした情熱の持ち主でした。
明治14年9才で上京し泰明小学校に入学。飛び級で一年落第していた兄と同じクラスに。明治19年 父の病状が進み、村の寺に放火。幽閉状態となる。その後、父は55才で死去。
昭和41年に島崎藤村の姪の長男、日本における精神病理学の草分け的存在である西丸四方が「島崎藤村の秘密」を発表しています。藤村は父の姿と自分を重ね合わせ発病の恐怖に苛まれていました。このことは藤村に「孤独感」と「非社交的」な性癖となって影響を及ぼしたようです。
明治学院入学後、藤村は、その自由な校風により、積極的に行動するようになります。この頃、北村透谷との出会いがあり、文学の道へと目覚めていきます。
明治24年9月に卒業。二十歳で同校の教師となりますが、受け持ったのは一歳年上のクラスでした。そして、教え子で既に当時いいなずけのあった身の佐藤輔子(一歳年長)に恋をするのです。
イメージ 5藤村は、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職して関西へ向かいます。この時のことを 「文学界」創刊号で「恋に浮かれて嘲笑い」と書いています。東京に戻った藤村を待っていたのは透谷の死の知らせでした。藤村の衝撃は大きく「孤独の影」は再び深まっていくのです。
さらに追い討ちをかけるかのように初恋の人・佐藤輔子が嫁いだ後に病死したという悲報が藤村に届きます。
東北に向かい、東北学院教師となった藤村。この職は1年で辞したのですが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』を発表して文壇に登場したのです。
 
この『若菜集』 の中の「初恋の人を偲ぶ」詩歌 『初恋』は後にメロディーがつけられ、舟木さんが歌唱。
舟木さんの曲の中で、『絶唱』と並ぶ私の大好きな曲でもあります。(四番は音源では歌唱されていません)
 
イメージ 4
 
 
初恋  作曲:若松甲
 
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな
 
林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
 
一般的には、「まだあげそめし前髪の・・」という詩から、そのモデルは「幼なじみ」である「おゆふ(う)さん」という馬籠宿・大黒屋の娘だった。という説があるようです。彼女は14歳で妻籠宿(つまごじゅく)の脇本陣奥谷(わきほんじんおくや)の[屋号]林家に嫁いだとあります。
「初恋」を収めた『若菜集』は藤村の処女詩集として明治30年(1897)8月に刊行されました。
私は、藤村の「初恋」の詩を、味わえば味わうほど、14歳で嫁いでしまった「おゆふさん」であるのはちょっと若すぎてムリがあるのでは?と思っていました。それは、あまりにも、この少女がなまめかしすぎると感じていたからです。そして、この舟木さんのナレーションを聴いてから、私は、このひっかかりの糸口が見えてきたように感じたのです。それは、藤村が明治女学校の教師時代に「愛するようになってしまった」という佐藤輔子の存在でした。
この『初恋』という詩と、モデルになった女性は?ということについては、その2で、もう少し述べてみようと思っています。
 
 
以前のブログでも掲載していますが『若菜集』の中にある「君が心は」という詩歌も、舟木さん歌唱の音源となっています。↓ 舟友さんがアップして下さっています。
 

イメージ 6君が心は  作曲:竹岡信幸
 
君がこゝろは蟋蟀(こおろぎ)の 
風にさそはれ鳴くごとく
朝影清き花草に
惜しき涙をそゝぐらむ
 
それかきならす玉琴の
一つの糸のさはりさへ
君がこゝろにかぎりなき
しらべとこそは
きこゆめれ
 
あゝなどかくは触れやすき
君が優しき心もて
かくばかりなる吾こひに
触れたまはぬぞ
恨みなる
 
 
 
三連目の詩「あゝなどかくは触れやすき 君が優しき心もて かくばかりなる吾こひに 触れたまはぬぞ恨みなる」 ・・・これは片想いの切なさを詠ったものだと思われます。この「君」は『初恋』で詠われている同じ女性をイメージしているのでしょうか?舟木さんが歌っていらっしゃるからこそ余計に気になってしまいます(笑)
 
(その2につづきます)

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