~「西條八十と舟木一夫」~の完結篇です。資料は、「西條八十」(中公文庫)筒井清忠著から引用、参考とさせていただいています。
筒井氏の著作「西條八十」は全十三章で綴られていますが、その十二章「復興と高度成長の時代に」とテーマづけられた章に、舟木さん歌唱の『花咲く乙女たち』『絶唱』『夕笛』について記されています。
この著作の中でさしてボリュームとしては多くはないものの、八十の原点、原風景ともいえる喪失感の悲哀美をうたった歌手としての舟木さんが八十の晩年を美しく彩ったことが明確にうかがえる文面であると感じました。
筒井忠清著「西條八十」 十二章 復興から高度成長の時代に (中公文庫より抜粋)
~今一つは、舟木一夫のヒット曲を書いたことである。この昭和30日年代から40年代半ばまでは『愛と死をみつめて』の大ヒットに象徴されるように日本の青年文化における純愛ものの最後の大高揚の時代であった。そうした時代の歌手の中でも八十の弟子丘灯至夫作詞の『高校三年生』でデビューした舟木一夫は抒情的・純愛ムードの濃い歌を歌って若い女性たちの間に高い人気を獲得していた。
舟木は最後の純愛・抒情派青春歌謡歌手といえるかもしれない。その舟木の歌の作詞を八十は行い、三つのヒット曲を生んだのである。日本における抒情派歌謡曲の創始者の八十がその最期も看取ることとなるのである。まず第一が『花咲く乙女たち』である。
金子修介は「明るい歌も暗かった舟木一夫」と規定し、この歌も「不特定多数の女性を賛美するというコンセプトだから明るいはず」なのに「よく聴いてみると」「根に暗いものを感じる」といっているが、鋭い指摘といわねばならない。
八十が得意とした女性を花に例える発想で全体が書かれているが「みんなみんなどこへゆく」「みんなみんな今はない」「やがては嫁いでゆくひとかみんなみんな咲いて散る」と青年期以来の女性の若さの喪失感の悲哀美がうたわれているのである。八十は言う「花も乙女もいつまでもそのままでないから余計に美しいんだよ」ついに八十は生涯にこの喪失感の悲哀美をうたい続けた詩人だったといえよう。
四十一年(昭和)には『絶唱』がヒットした。
大江賢次の著名な原作の映画主題歌だった。大地主の息子と山番の娘の身分違いの悲恋をうたいあげたものである。この主題からしても舟木が純愛ものの最後の後継者であったことがうかがえよう。八十はこうして舟木を通してついには「純愛」の「死に水」をとりつつあった。
大江賢次の著名な原作の映画主題歌だった。大地主の息子と山番の娘の身分違いの悲恋をうたいあげたものである。この主題からしても舟木が純愛ものの最後の後継者であったことがうかがえよう。八十はこうして舟木を通してついには「純愛」の「死に水」をとりつつあった。
写真は左から西河克己、大江賢次、西條八十、各氏。
(京都大学時計台前にて)
絶唱 作曲:市川昭介
愛おしい 山鳩は 山こえて どこの空
名さえはかない 淡雪の娘よ
なぜ死んだ ああ 小雪
結ばれて 引き裂かれ 七年を 西東
いのち短く 待つ日は永く
泣きぬれた ああ 小雪
山番の 山小舎に 春が来る 花が咲く
着せて空しい 花嫁衣装
とこしえの ああ 小雪
翌四十二年の『夕笛』は八十の書いた最後のヒット曲であった。こうして、初恋の傷心をうたう地点にもどったところが八十の最後のヒット曲となった地点であった。それを最後の抒情派歌手舟木一夫が歌ったわけである。~
夕笛 作曲:船村徹
ふるさとの 蒼い月夜に
ながれくる 笛の音きいて
きみ泣けば わたしも泣いた
初恋の ゆめのふるさと
ながれくる 笛の音きいて
きみ泣けば わたしも泣いた
初恋の ゆめのふるさと
おさげ髪 きみは十三
春くれば 乙女椿を
きみ摘んで うかべた小川
おもいでは 花のよこがお
春くれば 乙女椿を
きみ摘んで うかべた小川
おもいでは 花のよこがお
ふるさとへ いつの日かえる
屋敷町 ふるいあの町
月の夜を ながれる笛に
きみ泣くや 妻となりても
屋敷町 ふるいあの町
月の夜を ながれる笛に
きみ泣くや 妻となりても
あゝ花も恋も かえらず
ながれゆく きみの夕笛
ながれゆく きみの夕笛
以下は、このテーマで掲載し始めた時には全く思いもしていなかったことが起こってしまいましたので、補足なのですが、これって単なる補足ということではすまされない気がしていますので、掲載しておきます。
舟木さんを探すさんぽ径~奈良篇↓ 萩原中学校校歌 作曲者が森一也氏です。
ところが、筒井清忠著「西條八十」の文中にしばしば、登場する人物がいますが、それがその森一也氏だったのです。一度目に読んだときには、気づかなかったのですが、今回再読していて「森一也」???あれれ、どこかで聞いたような・・・思い出しました。よかったぁ~ッ!
そして、この森一也氏は、コロムビアで仕事をされていたのですから勿論舟木さんはよくそのことを御存じだとは思いますが、私にとっては大発見!でした。下の写真右が森氏、左が八十、中央が島倉千代子さん。
でも、まだこの時には「森一也」というお名前を見てもカンペキにスルーしてました。
ところが、筒井清忠著「西條八十」の文中にしばしば、登場する人物がいますが、それがその森一也氏だったのです。一度目に読んだときには、気づかなかったのですが、今回再読していて「森一也」???あれれ、どこかで聞いたような・・・思い出しました。よかったぁ~ッ!
舟木さんの母校である萩原中学校の校歌を先のブログで御紹介していますが(上記参照)、これまた不思議なことにその作曲者がその森一也氏だったのです。
森氏を間にして、舟木さんと西條八十とが見事に繋がりました。舟木さんと八十の深い縁(えにし)を感ぜずにはいられません。
そして、この森一也氏は、コロムビアで仕事をされていたのですから勿論舟木さんはよくそのことを御存じだとは思いますが、私にとっては大発見!でした。下の写真右が森氏、左が八十、中央が島倉千代子さん。
森一也(ウイキペディアより抜粋)
1915年(大正4)4月8日 - 1998年(平成10)2月1日)は、コロムビア専属の作曲家・音楽評論家。一般には懐メロ解説の第一人者として知られる。愛知県出身。
幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。戦後、雑誌社などを経て、コロムビア専属の作曲家となる。仕事を通じて西條八十と知り合い厚誼を賜り、その良い関係は八十が亡くなるまで続いたという。
西條八十は小説風な回想記「女妖記」の中で、森のことを「名古屋に森一也君という、作曲をやったり、NHKの音楽解説をやったりする才人がいる。おまけにこの人はぼくの書いた物なら、詩であれ、歌であれ、 散文であれ、なんでも辞引のように知っている」と紹介している。
そして、こんなものも見つけました。一宮市立萩原小学校サイト(【1月】 2009-01-20 09:40 up!)
~今年は萩原小学校の校歌が制定されて50周年にあたります。「豊旗雲をあおぎつつ・・・」で始まる校歌は、作詞は佐藤一英氏、作曲は森一也氏でともに萩原出身です。このお二人は周辺の学校の校歌も作られています。特に佐藤一英氏は、数々の詩や童謡などを残され、「大和し美し」はご存知の方も多いと思います。
校歌の2番の最後は「かしこさよ」で終わります。「かしこい」は「かしの森」をたたえた言葉で「かしの木のような人間になってほしい」という願いが込められている言葉です。かしの木はドングリがなる木で食料にもなり、くわ、うす、荷車など私たちの暮らしを支えた大切な道具になった木です。かしの木は日本の文化の原点の大もとになった木です。~
校歌の2番の最後は「かしこさよ」で終わります。「かしこい」は「かしの森」をたたえた言葉で「かしの木のような人間になってほしい」という願いが込められている言葉です。かしの木はドングリがなる木で食料にもなり、くわ、うす、荷車など私たちの暮らしを支えた大切な道具になった木です。かしの木は日本の文化の原点の大もとになった木です。~
一宮市立萩原小学校校歌 佐藤一英 作詞 森一也 作曲
豊旗雲をあおぎつつ
萩原をゆくたのしさよ
この空と地を父母も
むかしの人もしていた
ああ咲く花の美しさ
たなびく雲のかんばしさ
萩原をゆくたのしさよ
この空と地を父母も
むかしの人もしていた
ああ咲く花の美しさ
たなびく雲のかんばしさ
尾張平野のまんなかの
萩原の子のしあわせよ
子のしあわせを父母も
昔の人も知っていた
ああ学ぶ子のすこやかさ
伸びゆく子らのかしこさよ
風光水ことごとく
萩原の子にめぐみあり
陽のもとの子のよろこびを
ふるさとびとは知っている
ああ変わらない安らかさ
清さすがしさかがやかさ
萩原の子にめぐみあり
陽のもとの子のよろこびを
ふるさとびとは知っている
ああ変わらない安らかさ
清さすがしさかがやかさ
なんと、萩原中学校のみではなく萩原小学校の校歌も、萩原中学の校歌と同じく佐藤一英氏と森一也氏のコンビで作られているのです。そして、これまた何のご縁か、「佐藤一英、森一也、舟木一夫・・・」と皆さんお名前に「一」がついてるのに気づいてさらに、ビックリしました(笑)
しかも、萩原小学校の校歌から佐藤一英氏関連のサイトに飛んだら、観音寺に舟木一夫さんが寄贈した仏像の画像が・・・・これって仏さまのお導きだったのでしょうか。本当に舟木さんの周囲には「縁(えにし)」をかんぜずにはいられない「不思議現象」がいっぱいです(笑)
西條八十と舟木さんの深いご縁は、ただの巡り合わせだたのでしょうか?なにか、人の力の及ばない大きな力を感じる私です。さらに八十は野口雨情とも深く関わり、詩壇に登場した頃には、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで名を上げていた北原白秋がその才能に脅威を感じていたということも思い合わせれば、西條八十の詩人としての評価は、まだまだ十分になされれているとは思えません。「西條八十」の著者である筒井清忠氏も、八十の業績の再考と新たな評価を世に問うてこの著作を上梓されたものと思われます。
今、舟木さんがコンサートのステージで、おっしゃっている「日本の名曲」を歌い継いでいくことの大切さを、この「西條八十」を読むことに依って、身を持って痛感させられた想いがしています。
「西條八十と舟木一夫」という生意気なテーマで、掲載を始めたのですが、実に思いがけないところにたどりついてしまったような気がしています。舟木さんは、やはりテレパシーが並外れていらっしゃるという私の妄想は、さらに大きくなるばかりです(笑)
(「西條八十と舟木一夫」完結)