新橋演舞場の12月公演が、毎日新聞webサイトにも紹介されていましたのでご紹介します。
舟木一夫:新作公演、海舟の父「勝小吉」演じる 新橋演舞場で来月
毎日新聞webサイトより (毎日新聞 2015年11月26日 東京夕刊記事)
http://mainichi.jp/shimen/news/20151126dde012200012000c.html
舟木一夫が12月1日から東京・新橋演舞場で催される「舟木一夫特別公演」で新作「気ままにてござ候−巷談(こうだん)・勝小吉−」(斎藤雅文作、金子良次演出)の小吉を演じる。
小吉は後の勝海舟の父で御家人。小(しょう)禄(ろく)の勝家に養子入りしたものの、けんか好きで役職にもつけない。だが剣の達人で女性にはもてる。自由奔放に生きる小吉と勝家の祖母の環(水谷八重子)、観音の弥三郎(林与一)、易者の関川(曽我廼家文童)ら取り巻く人々との日々が描かれる。「小吉は竹を割ったような性格で明るくて屈託がない。斎藤さんの脚本は中身がつまっています」
小吉は後の勝海舟の父で御家人。小(しょう)禄(ろく)の勝家に養子入りしたものの、けんか好きで役職にもつけない。だが剣の達人で女性にはもてる。自由奔放に生きる小吉と勝家の祖母の環(水谷八重子)、観音の弥三郎(林与一)、易者の関川(曽我廼家文童)ら取り巻く人々との日々が描かれる。「小吉は竹を割ったような性格で明るくて屈託がない。斎藤さんの脚本は中身がつまっています」
2部は「シアターコンサート」。数々のヒット曲を歌う。12月12日は舟木の71歳の誕生日。当日と前日の夜の部では「スペシャルイベント」がある。12月23日まで。問い合わせは0570・000・489。【小玉祥子】
勝小吉自伝「夢酔独言」より その3
読んでおきたい日本の名作 勝小吉「夢酔独言」(教育出版)より
~したいことをして死ぬ覚悟
この年夏、男谷から呼びによこしたから、妻へあとのこと、子供のことまでいいおいて、男谷へいったら、あによめ始めみんなが泣いているから、精一郎が部屋へいったら、それから姉がいうには「左衛門太郎殿。おまえはなぜそんなに心得ちがいばかりしなさる。お兄様がこのあいだから世間容子を残らず聞き合わせてごさったが、捨ておけぬとて心配して、今度庭へおりをこしらえておまえを入れるといいなさるから、いろいろみんなが留めたが少しも聞かずして、きのうできあがったからは、晩に呼びにやっておしこめると相談がきまったが、精一郎も留めたがなかなか聞き入れがないからわたしも困っている」といって、おれに「庭へ出てみろ」というから出てみたら、二重かこいにして厳重にこしらえたゆえ、姉にいうには「だんだん兄様がご親切はありがとうございますが、今度はとうしんでもおこしらいなさればいいに。なぜというには、私も今度はいるともはや出すと免しても出はしませぬ。
その訳は、この節は、まず本所で男伊達のようになってきまして、世間も広く、私を知らぬ者は人が馬鹿にするようになりましたから、このごとくになるともはや世の中へは顔を出すことができませぬから、断食をして一日も早く死にます。かようだろうと思ったゆえに、妻へもあとのことをよくよくいいふくめてきました。思し召し次第になりましょう。精一郎さん、大小を渡します」といって渡したら、姉が「このうえは改心しろ」というから、おれが「このうえに改心はできませぬ。気が違いはせぬ」といったら、精一郎が「ごもっともだが、身の上を慎め」というから「慎みようもない。もはや親父が死んだから、頼みもないから、心願もはやくよりやめたゆえ、せめてしたいほどのことをして死のうとおもったゆえに、兄へ世話を掛けて気の毒だから今よりすぐにここにおりましょう」とていたが、精一郎がいうには「必ずおまえには食を断って死ぬだろうと私もおもったゆえ、種々親父が機嫌を見合せて留めたが聞き入れぬゆえ、こうなった」とて案じてくれるから「なんでも兄の心のやすまるが肝要だから、おりへはいるが、おれはよかろうとおもった。先だってから友達がうすうす内通もしてくれたゆえ、はやくより覚悟をしていたから、いっこうに驚かぬ」といったら「なんにしろまず一度お宅へお帰りなされて、妻とも相談しろ」というから、「それには及ばず。先にいうとおり、何もうちのことは気に懸かることはない。息子が十六だからおれはいん居をして早く死んだがましだ。長いきをすると息子がこまるから。息子のことはなにぶん頼む」といったら、そのうちに姉が来て「ひとまずうちへ帰れ」というから、それからうちへもどったら、夜五ツ(八時)時分まで呼びにくるかとまっていたが、いっこう沙汰がないから、その晩は吉原へいって翌日帰った。
それから「兄へただはすまぬから書き付けをだせ」というから、それもしなかった。姉がいろいろ心配をして所寺所山へ祈祷なぞ頼んだということを聞いたから、翌年春、姉へ挨拶安心のため、隠居したが、三十七の年だ。
それから「兄へただはすまぬから書き付けをだせ」というから、それもしなかった。姉がいろいろ心配をして所寺所山へ祈祷なぞ頼んだということを聞いたから、翌年春、姉へ挨拶安心のため、隠居したが、三十七の年だ。
勝小吉 享和2(1802)年~嘉永3(1850)年 (ウィキペディアより)
江戸時代後期の旗本。左衛門太郎惟寅(これとら)と称し、幼名はもと亀松、勝家に養子に入ったのちは小吉。隠居後は夢酔(むすい)。酒はあまり好まず、博打もやらなかったという。その代わり吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好んだ。腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回り、不良旗本として恐れられた。長男は勝海舟。剣客・男谷信友は甥(兄の子・婿養子)。著書『夢酔独言』で自分の奔放な人生を語り、現在も読まれている。いくつかの小説のモデルにもなっている。
旗本・男谷平蔵忠恕(越後国刈羽郡長島村字平沢出身の盲人・米山検校の子)の三男(庶子)として生まれる。文化5年(1808年)、旗本・勝甚三郎[1](41石)の養子となるが、喧嘩好きで学問を嫌い、たびたび問題を起こす。5歳の時に喧嘩をして、相手を石で殴り口を切った。その後父親に下駄で頭を殴られた。7歳の頃、2、30人を相手に1人で喧嘩したが敵わず、悔しいので切腹しようと思って脇差を抜いたが近くにいた米屋に止められた。柔道の仲間に帯で縛られて天井につるされた。悔しいので皆が物を食べようとするとき上から小便をばらまいた。
文化12年(1815年)、江戸を出奔。上方を目指す。護摩の灰(旅人を騙して金品を奪う盗賊)に路銀と服を奪われ無一文になり、乞食をしながらとりあえず伊勢参りをする。旅の途中で病気になるが、乞食仲間や賭場の親分に助けられ、江戸へ帰る。
文政2年(1819年)、所帯を持つ。しかし文政5年(1822年)5月、再び江戸を出奔。道中「水戸の家来だ」と身分を偽り宿屋や人足をだまして旅を続けた。遠州の知り合いの処にしばらく逗留していたが、江戸から甥が迎えに来て、懇願されて7月に江戸へ帰る。
江戸へ帰ると父親に座敷牢に入れられ、そこで21歳から24歳まで過ごしたという。その間、長男の麟太郎(後の海舟)が生まれる。「隠居して3歳になる息子に家督を譲りたい」と願うが、父に「少しは働け」と言われ、就職活動をする。しかし、日頃の行いのせいか役を得る事はできなかった。その後は喧嘩と道場破りをしながら、刀剣の売買や町の顔役のような事をして過ごす。あるとき、あまりの不行跡ゆえに長兄の男谷彦四郎に檻へ押し込められそうになった。小吉も檻に入ったら食を断って死のうと思っていたが、兄嫁や甥の男谷信友が彦四郎を説得してくれて難を逃れた。
天保9年(1838年)、37歳にして隠居。麟太郎へ家督を譲る。
天保14年(1843年)、中風発作の後遺症もあったため鶯谷に庵を結び、以前より静かな生活となる。『平子龍先生遺事』と『夢酔独言』を書く。
嘉永3年(1850年)、49歳で死去。